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憲法十七条 国司国造 朝参 遣隋使 聖徳太子 蘇我馬子 古代史探訪

2017-09-08 08:49:09 | 評論
憲法十七条の真実 古代史探訪
~「聖徳太子」はどこまでかかわったのか~


 「憲法十七条」は「聖徳太子」が制定した伝えられる日本最初の成文法。「日本書紀」推古12年(604年)四月条に全文が記され、「皇太子、親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」し、「皇太子」(厩戸皇子)の「真撰」であるとしている。

 「憲法十七条」は近代の憲法や法律と異なり,道徳的規範を述べたもので,当時の朝廷に仕える貴族や官吏に対して、守るべき態度や行為の規範を示した官人服務規定である。
 君・臣・民の上下秩序がさまざまな観点から説かれている。とりわけ、臣のあり方に力点が置かれ、中央豪族の新たな心得を諭し、天皇中心の中央集権体制を確立しようとする意図がみられる。
 記述されている内容は、仏教思想を基調とし、儒家・法家の思想の影響が強い。

「憲法十七条」への疑問
 「憲法十七条」には、多くの疑問点が出されている。
 「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方や、条文にある「国司」名は、7世紀始めには使われていない疑問点などから、実際の制定は後の時代で、「憲法十七条」は日本書紀の「潤色」があるという考えが支配的だ。
制定年については、「日本書紀」では、推古12年(604年)四月としているが、「上宮聖徳法王帝説」では、推古天皇13年(605年)七月とし、「一心戒文」では推古天皇10年(602年)十二月とするなど異説がみられる。
 最大の焦点は、「聖徳太子」の「真撰」かどうかであるが、未だに定説がなく古代史専門家で議論が続いている。

■ 津田左右吉の批判 「憲法十七条」は天武朝の作
 津田左右吉は、第十二条「国司国造」の条文で現れる「国司」は、「改新之詔」以前は存在しないと指摘している。
 「憲法十七条」が制定された当時、地方は、朝廷が、地方豪族に任じた「国造」や「県主」、中央豪族に任じた「伴造」などの諸臣が支配していた。「国」という地方行政区画は、「改新之詔」によって始めて設けられたとした。
 また「上宮聖徳法王帝説」には、「冠位十二階」の記述はあるが、「憲法十七条」の記述はないことから、「憲法十七条」の制定は、日本書紀の「潤色」だとしている。

■ 坂本太郎氏の擁護説
坂本氏は「国司」は、大化の改新以前には存在しなかったと断定できないとしている。
 「憲法十七条」の表現は抽象的な政治原則を記述したもので、史実性があるとした。

■ 家永三郎氏の擁護説
 家永氏は、「憲法十七条」に記されている「国司国造」は、「改新之詔」の「国」の長官としての「国司」とは、同一のものではなく、中央から地方に派遣されるある種の官職があったのではと主張する。
 「憲法十七条」は、氏族制度社会の中で、その枠内で、中央集権的な官僚国家の精神を導入しようとものであるとした。「憲法十七条」は、実在したと考えられる「冠位十二階」とは内容的に整合性があり矛盾はなく、史実性があるとした。

■ 森博達氏の「後世の作」説
森博達氏は、「十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀に成立とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。
森氏は、「『日本書紀』推古紀の文章に見られる誤字・誤記が十七条憲法中に共通して見られる。例えば「少事是輕」は「小事是輕」が正しい表記だが、小の字を少に誤る癖が推古紀に共通してある」と述べ、『日本書紀』編纂時に少なくとも文章は「潤色」されたと考え、聖徳太子の書いた「原本・十七条憲法」は存在したかもしれないが、立証できないので、原状では「後世の作」とするほかないとしている。

■ 「国司国造、百姓に斂めとることなかれ」
「憲法十七条」が制定されたとする7世紀初頭に「国司」は存在していなかったのは明らかである。
 701年、「大宝律令」が制定され、地方官制については、「国・郡・里」などの単位が定められ(国郡里制)、「国」には中央王権から「国司」が派遣され、その国を治めさせる一方、「国司」の下に「郡司」を置いた。「郡司」には、かつての「国造」であった地方豪族が任命され、一定の権限を認めた。
 「大宝律令」以前は、「国」の下にある行政単位の「郡」(こほり)は、「評」(こほり)と表記され、「国司」に当たる職名は、「評督」であった。
 「日本書紀」では、「改新之詔」で、東国に「国司」を派遣したという記述がある。しかし、実際は「総領」や「国宰」であり、「御言持ち(みこと)」と呼ばれる官職で、「みこと」という帝の命を地方に伝える「使者」であった。
 「国」を治めたいわゆる「国司」とはまったく異なる官職だった。
 「憲法十七条」の「潤色」説の根拠となっている。

■ 「群卿百寮、早く朝りて晏く退でよ」
 「憲法十七条」が「真作」といわれる「根拠」とされている。
 600年、隋に遣わされた倭国の使者は、「天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ:あぐら)して坐し、日出れば便(すなは)ち理務を停(とどめて)め、云う、我が弟に委ねんと」とした。
 これを聞いた文帝は、この習慣を改めるように訓示したと「隋書」に記されている。
 第八条は、これを受けて、定めたのであろう。
 「隋書」の記述との整合性がある。
 また日本書紀、舒明八年(636年)七月己丑朔上には、群卿百寮の朝参の遅滞が問題になり、大派王が、蘇我蝦夷に対して群臣や漢人が朝参を怠っているので、今後は、「卯の始め(午前6時)に出仕し、(午前10時)の後に退出すべきだ(「卯の始めに朝りて、巳の後に退でむ」とし、「鐘によって時刻を知らせ、規則を守らせようではないか」と進言、しかし、蘇我蝦夷はこれに従わなかったと記されている。
 「第八条」は、「憲法十七条」の史実性を主張する根拠にされたている。

「憲法十七条」は存在していた
 600年(推古8年)、倭国は遣隋使を派遣し、隋帝に「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏跌して座し、日出ずれば便ち理政を停め、云う、我が弟に委ねん」と倭国の政事の仕組みについて上奏した。これに対し、隋帝は「これ、大いに道理なし」と叱責し、改めるように諭した。
これに衝撃を受けた推古朝は、国政改革を迫られ、急遽、中国に倣って政治制度を整えた。その結果、生まれたのが「十七条憲法」と考えられる。
607年(推古15年)に、第二回遣隋使が派遣されたが、小野妹子は「憲法十七条」を携え、改革の実を上げたことを隋帝に上奏したものと思われる。
聖徳太子の真撰かどうかは別にしても、それが、おそらく「十七条憲法」の原形であろう。

 筆者は「憲法十七条」の全文を「潤色」とすることは適切でないと考える。
 条文の内容からみて、概ね推古朝の遺文として認められ、その原形は推古朝(592~628)に成立したと考えるのが妥当だろう。
 今後の課題として、「日本書紀」に記されている全文の内、「推古朝の遺文」(原型)と「日本書紀」の「潤色」をどのように区別するかが肝要である。

「憲法十七条」を作成したのは蘇我馬子
 当時、推古朝で権勢をふるっていたのは蘇我馬子である。
王権内のすべての国内政治、外交、仏教興隆など重要な施策は、蘇我馬子がすべて掌握していた。日本書紀では、「皇太子・嶋大臣、共に謀りて」、国政改革や外交を担ったとしているが、厩戸皇子が蘇我馬子と肩を並べて、王権内で力を持っていたとは考えられない。
 「日本書紀」の編纂者は、推古朝の業績を蘇我氏に帰したくはなかったといいう意思が明白である。「十七条憲法」は、蘇我馬子と蘇我氏の配下にあった渡来人系の氏族が主導して制定されたと考えるのが自然である。
 「聖徳太子」の役割は、極めて限定的だったと思われる。

 当時、この「十七条憲法」が実際にどれだけ王権内部に浸透したか、極めて疑問が多い。隋や高句麗、新羅、百済に対する倭国のプレゼンスを示すことに大きな役割を果たしたと考えられる。
 しかし、「十七条憲法」は、「改新之詔」から「大宝令」に至る天皇制律令国家の形成にあたって、大きな影響を与えた。


憲法十七条
■ 第一条
(読み下し文)
「一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」
(現代語訳)
「一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ」

■ 第二条
(読み下し文)
「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」
(現代語訳)
「二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか」

■ 第三条
(読み下し文)
「に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん」

(現代訳)
「三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう」

■ 第四条
(読み下し文)
「四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる」

(現代語訳)
「四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ」

■ 第五条
(読み下し文)
「五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く」

(現代語訳)
「五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである」

■ 第六条
(読み下し文)
「六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり」

(現代語訳)
「六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる」

■ 第七条
(読み下し文)
「七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず」

(現代語訳)
「七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった」

■ 第八条
(読み下し文)
「八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事?(もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず」

(現代語訳)
「八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう」

■ 第九条
(読み下し文)
「九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん」

(現代語訳)
「九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう」

■ 第十条
(読み下し文)
「十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え」

(現代語訳)
「十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい」

■ 第十一条
(読み下し文)
「十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし」

(現代語訳)
「十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである」

■ 第十二条
(読み下し文)
「二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや」

(現代語訳)
「二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか」

■ 第十三条
(読み下し文)
「十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得(う)るの日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ」

(現代語訳)
「十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない」

■ 第十四条
(読み下し文)
「十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智(ち)おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん」

(現代語訳)
「十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない」

■ 第十五条
(読み下し文)
「十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか」

(現代語訳)
「十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである」

■ 第十六条
(読み下し文)
「十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん」

(現代語訳)
「十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか」

■ 第十七条
(読み下し文)
「十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん」

(現代語訳)
「十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう」

(出典 「聖徳太子のこころ」 金治勇大蔵出版、1986年)





2017年9月1日
Copyright (C) 2017 IMSSR



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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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1 コメント

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