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憲法十七条 国司国造 朝参 遣隋使 聖徳太子 蘇我馬子 古代史探訪

2017-09-08 08:49:09 | 評論
憲法十七条の真実 古代史探訪
~「聖徳太子」はどこまでかかわったのか~


 「憲法十七条」は「聖徳太子」が制定した伝えられる日本最初の成文法。「日本書紀」推古12年(604年)四月条に全文が記され、「皇太子、親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」し、「皇太子」(厩戸皇子)の「真撰」であるとしている。

 「憲法十七条」は近代の憲法や法律と異なり,道徳的規範を述べたもので,当時の朝廷に仕える貴族や官吏に対して、守るべき態度や行為の規範を示した官人服務規定である。
 君・臣・民の上下秩序がさまざまな観点から説かれている。とりわけ、臣のあり方に力点が置かれ、中央豪族の新たな心得を諭し、天皇中心の中央集権体制を確立しようとする意図がみられる。
 記述されている内容は、仏教思想を基調とし、儒家・法家の思想の影響が強い。

「憲法十七条」への疑問
 「憲法十七条」には、多くの疑問点が出されている。
 「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方や、条文にある「国司」名は、7世紀始めには使われていない疑問点などから、実際の制定は後の時代で、「憲法十七条」は日本書紀の「潤色」があるという考えが支配的だ。
制定年については、「日本書紀」では、推古12年(604年)四月としているが、「上宮聖徳法王帝説」では、推古天皇13年(605年)七月とし、「一心戒文」では推古天皇10年(602年)十二月とするなど異説がみられる。
 最大の焦点は、「聖徳太子」の「真撰」かどうかであるが、未だに定説がなく古代史専門家で議論が続いている。

■ 津田左右吉の批判 「憲法十七条」は天武朝の作
 津田左右吉は、第十二条「国司国造」の条文で現れる「国司」は、「改新之詔」以前は存在しないと指摘している。
 「憲法十七条」が制定された当時、地方は、朝廷が、地方豪族に任じた「国造」や「県主」、中央豪族に任じた「伴造」などの諸臣が支配していた。「国」という地方行政区画は、「改新之詔」によって始めて設けられたとした。
 また「上宮聖徳法王帝説」には、「冠位十二階」の記述はあるが、「憲法十七条」の記述はないことから、「憲法十七条」の制定は、日本書紀の「潤色」だとしている。

■ 坂本太郎氏の擁護説
坂本氏は「国司」は、大化の改新以前には存在しなかったと断定できないとしている。
 「憲法十七条」の表現は抽象的な政治原則を記述したもので、史実性があるとした。

■ 家永三郎氏の擁護説
 家永氏は、「憲法十七条」に記されている「国司国造」は、「改新之詔」の「国」の長官としての「国司」とは、同一のものではなく、中央から地方に派遣されるある種の官職があったのではと主張する。
 「憲法十七条」は、氏族制度社会の中で、その枠内で、中央集権的な官僚国家の精神を導入しようとものであるとした。「憲法十七条」は、実在したと考えられる「冠位十二階」とは内容的に整合性があり矛盾はなく、史実性があるとした。

■ 森博達氏の「後世の作」説
森博達氏は、「十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀に成立とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。
森氏は、「『日本書紀』推古紀の文章に見られる誤字・誤記が十七条憲法中に共通して見られる。例えば「少事是輕」は「小事是輕」が正しい表記だが、小の字を少に誤る癖が推古紀に共通してある」と述べ、『日本書紀』編纂時に少なくとも文章は「潤色」されたと考え、聖徳太子の書いた「原本・十七条憲法」は存在したかもしれないが、立証できないので、原状では「後世の作」とするほかないとしている。

■ 「国司国造、百姓に斂めとることなかれ」
「憲法十七条」が制定されたとする7世紀初頭に「国司」は存在していなかったのは明らかである。
 701年、「大宝律令」が制定され、地方官制については、「国・郡・里」などの単位が定められ(国郡里制)、「国」には中央王権から「国司」が派遣され、その国を治めさせる一方、「国司」の下に「郡司」を置いた。「郡司」には、かつての「国造」であった地方豪族が任命され、一定の権限を認めた。
 「大宝律令」以前は、「国」の下にある行政単位の「郡」(こほり)は、「評」(こほり)と表記され、「国司」に当たる職名は、「評督」であった。
 「日本書紀」では、「改新之詔」で、東国に「国司」を派遣したという記述がある。しかし、実際は「総領」や「国宰」であり、「御言持ち(みこと)」と呼ばれる官職で、「みこと」という帝の命を地方に伝える「使者」であった。
 「国」を治めたいわゆる「国司」とはまったく異なる官職だった。
 「憲法十七条」の「潤色」説の根拠となっている。

■ 「群卿百寮、早く朝りて晏く退でよ」
 「憲法十七条」が「真作」といわれる「根拠」とされている。
 600年、隋に遣わされた倭国の使者は、「天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ:あぐら)して坐し、日出れば便(すなは)ち理務を停(とどめて)め、云う、我が弟に委ねんと」とした。
 これを聞いた文帝は、この習慣を改めるように訓示したと「隋書」に記されている。
 第八条は、これを受けて、定めたのであろう。
 「隋書」の記述との整合性がある。
 また日本書紀、舒明八年(636年)七月己丑朔上には、群卿百寮の朝参の遅滞が問題になり、大派王が、蘇我蝦夷に対して群臣や漢人が朝参を怠っているので、今後は、「卯の始め(午前6時)に出仕し、(午前10時)の後に退出すべきだ(「卯の始めに朝りて、巳の後に退でむ」とし、「鐘によって時刻を知らせ、規則を守らせようではないか」と進言、しかし、蘇我蝦夷はこれに従わなかったと記されている。
 「第八条」は、「憲法十七条」の史実性を主張する根拠にされたている。

「憲法十七条」は存在していた
 600年(推古8年)、倭国は遣隋使を派遣し、隋帝に「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏跌して座し、日出ずれば便ち理政を停め、云う、我が弟に委ねん」と倭国の政事の仕組みについて上奏した。これに対し、隋帝は「これ、大いに道理なし」と叱責し、改めるように諭した。
これに衝撃を受けた推古朝は、国政改革を迫られ、急遽、中国に倣って政治制度を整えた。その結果、生まれたのが「十七条憲法」と考えられる。
607年(推古15年)に、第二回遣隋使が派遣されたが、小野妹子は「憲法十七条」を携え、改革の実を上げたことを隋帝に上奏したものと思われる。
聖徳太子の真撰かどうかは別にしても、それが、おそらく「十七条憲法」の原形であろう。

 筆者は「憲法十七条」の全文を「潤色」とすることは適切でないと考える。
 条文の内容からみて、概ね推古朝の遺文として認められ、その原形は推古朝(592~628)に成立したと考えるのが妥当だろう。
 今後の課題として、「日本書紀」に記されている全文の内、「推古朝の遺文」(原型)と「日本書紀」の「潤色」をどのように区別するかが肝要である。

「憲法十七条」を作成したのは蘇我馬子
 当時、推古朝で権勢をふるっていたのは蘇我馬子である。
王権内のすべての国内政治、外交、仏教興隆など重要な施策は、蘇我馬子がすべて掌握していた。日本書紀では、「皇太子・嶋大臣、共に謀りて」、国政改革や外交を担ったとしているが、厩戸皇子が蘇我馬子と肩を並べて、王権内で力を持っていたとは考えられない。
 「日本書紀」の編纂者は、推古朝の業績を蘇我氏に帰したくはなかったといいう意思が明白である。「十七条憲法」は、蘇我馬子と蘇我氏の配下にあった渡来人系の氏族が主導して制定されたと考えるのが自然である。
 「聖徳太子」の役割は、極めて限定的だったと思われる。

 当時、この「十七条憲法」が実際にどれだけ王権内部に浸透したか、極めて疑問が多い。隋や高句麗、新羅、百済に対する倭国のプレゼンスを示すことに大きな役割を果たしたと考えられる。
 しかし、「十七条憲法」は、「改新之詔」から「大宝令」に至る天皇制律令国家の形成にあたって、大きな影響を与えた。


憲法十七条
■ 第一条
(読み下し文)
「一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」
(現代語訳)
「一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ」

■ 第二条
(読み下し文)
「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」
(現代語訳)
「二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか」

■ 第三条
(読み下し文)
「に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん」

(現代訳)
「三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう」

■ 第四条
(読み下し文)
「四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる」

(現代語訳)
「四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ」

■ 第五条
(読み下し文)
「五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く」

(現代語訳)
「五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである」

■ 第六条
(読み下し文)
「六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり」

(現代語訳)
「六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる」

■ 第七条
(読み下し文)
「七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず」

(現代語訳)
「七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった」

■ 第八条
(読み下し文)
「八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事?(もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず」

(現代語訳)
「八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう」

■ 第九条
(読み下し文)
「九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん」

(現代語訳)
「九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう」

■ 第十条
(読み下し文)
「十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え」

(現代語訳)
「十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい」

■ 第十一条
(読み下し文)
「十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし」

(現代語訳)
「十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである」

■ 第十二条
(読み下し文)
「二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや」

(現代語訳)
「二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか」

■ 第十三条
(読み下し文)
「十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得(う)るの日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ」

(現代語訳)
「十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない」

■ 第十四条
(読み下し文)
「十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智(ち)おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん」

(現代語訳)
「十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない」

■ 第十五条
(読み下し文)
「十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか」

(現代語訳)
「十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである」

■ 第十六条
(読み下し文)
「十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん」

(現代語訳)
「十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか」

■ 第十七条
(読み下し文)
「十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん」

(現代語訳)
「十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう」

(出典 「聖徳太子のこころ」 金治勇大蔵出版、1986年)





2017年9月1日
Copyright (C) 2017 IMSSR



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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
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聖徳太子像 唐本御影 阿佐太子御影 法隆寺 古代史探訪

2017-09-07 14:35:54 | 評論
古代史探訪 唐本御影の真実
~唐本御影は「聖徳太子」を描いた肖像ではない~


「聖徳太子」の最古の肖像画、「唐本御影」
 「唐本御影」は、「聖徳太子」を描いた最古のものと伝えられる肖像画。「聖徳太子二王子像」と呼ばれたり、百済の阿佐太子の前に現れた姿を描いたという「伝説」から「阿佐太子御影」とも呼ばれたりする。
帯刀して立つ「聖徳太子」の脇に描かれている二人の人物は、左が「聖徳太子」の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ 用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が「聖徳太子」の長子である山背大兄王と言われている。
こうした侍童を従えた三尊形式で描かれていることから、明らかに信仰の対象として描かれたものと見なされている。
 「唐本御影」は、眉や目などの筆法から、八世紀の制作とするのが通説である。
 なお「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられたことが明らかになっている。
 「唐本御影」は、「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。当初の伝来等、その由来が明らかでない。


聖徳太子・二王子像(唐本御影) 宮内庁蔵

「唐本御影」は中国渡来の画風」
 衣文に沿って軽い陰影のあるこの画風は、西域から中国に流入した陰影法であり、六朝時代の肖像画に使われていた画風である。
 また、中央に本人、左右に二王子が並ぶ構図は、7世紀に活躍した唐の宮廷画家、閻立本の描いた『帝王図巻』との類似性が指摘されている。
 閻立本『帝王図巻』とは、前漢昭帝から隋煬帝まで13人の帝王を描いた伝閻立本《帝王図巻》(ボストン美術館蔵)で、勧戒の意や尊崇の意をこめたものでもあり,軸物は寺観など別に場所を設けて掲げ礼拝の対象とされた。
 ちなみにボストン美術館蔵の『帝王図巻』は後代の模作である

流転「唐本御影」
明治維新になると、法隆寺を始め全国の仏教寺院は存続の危機にさらされた。
1868年(明治元年)、「神仏分離令」が発布されて、「廃仏毀釈」と呼ばれる仏教排斥運動が起きた。この結果、多くの仏教寺院が破壊され、仏像や寺宝の流出・散逸が相次いだ。
こうした中、1872年(明治4年)、明治政府は文化財保護と博物館建設を目指し、「古器旧物保存令」を出して全国の仏教寺院に調査官を派遣した。法隆寺にも寺宝は、調査官が派遣され、すべての寺宝の台帳を作成した。
当時、幕藩体制の崩壊で、日本の仏教寺院は、寺領や権力者の後ろ盾を一挙に失い、経済的に極度に困窮していた。
聖徳太子ゆかりの寺院である法隆寺も寺領を失って疲弊し、伽藍や寺宝の維持もできなくなっていた。
こうした中、法隆寺は苦渋の決断をする。
1878年(明治11年)、当時の法隆寺住職であった千早定朝は、主要な寺宝、三百余点を「法隆寺献納御物」として皇室に献納する決断をした。
明治政府は、伽藍の修理等の費用として、下賜金、1万円を法隆寺に与えた。当時の1万円は今日の数億円に匹敵する莫大な金額であった。法隆寺はこれによって堂塔の修復や寺院の維持が可能になった。
「献納御物」は、「帝室宝物」となり、東京上野に新設された博物館で保管、展示されることになった。(現東京国立博物館)
しかし、「唐本御影」や「法華義疏」など、特に皇室とゆかりの深い十二点は、「宮内庁のお持ち帰り品」として「御物」として皇室の保有となった。
「唐本御影」もこの中の一つで、「御物」となった。
第2次大戦後はマッカーサーの指令で「法隆寺献納御物」は「法隆寺献納宝物」とし、国有財産として国立博物館に保管されることになったが、「唐本御影」や「法華義疏」など七点は皇室関係のものとして宮内庁の侍従職が、「御物」として保管した。
現在、法隆寺は江戸時代に幽竹法眼が写した模写図(1763年)を所蔵する。

「お札」の象徴 「聖徳太子」
 「唐本御影」の「聖徳太子」の肖像は、戦前から戦後にかけて7回にもわたり紙幣に採用されて、日本のお札の象徴であった。
 初めて登場したのは昭和5年、兌換券百円券で登場した。戦後に日本銀行券に代わっても引き続き百円券に使用された。
戦後、GHQは、国家主義や神道など軍国主義を助長する肖像を通貨や切手に使用することを禁止した。「聖徳太子」は戦時中に忠君愛国の象徴とされたことで、パージ(追放)の方針を示した。これに対し、当時の日銀総裁の一万田尚登氏は、聖徳太子は「(和を以て貴しとなす、さからうことなきをもってむねとなせ」としているとし、平和主義者の代表であるとGHQを説得したという。


日本銀行券 百円札

 昭和25年(1950年)には、千円札で登場し、昭和38年(1963年)に「伊藤博文に交代するまで14年間も使用され、「お札」の象徴は「聖徳太子」となり、「唐本御影」が最も国民に知られた「聖徳太子」の肖像となった。
昭和32年(1957年)には五千円札、昭和33年(1958年)には一万円札に登場し、常に最高額の紙幣は「聖徳太子」だった。
日本銀行券に採用された理由として、①国内外に数多くの業績を残し、国民から敬愛され知名度が高い。②歴史上の事実が実証でき、肖像を描くためのしっかりとした材料がある。という2点が挙げられたという。

疑念を持たれている「唐本御影」
 「唐本御影」は「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。その伝来等由来が明らかでない。
法隆寺の「四十八体仏」など多くの寺宝は、1078年(承暦2年)に橘寺から移されたものと思われので、「唐本御影」もこの時、移管されたとする説や、飛鳥の衰退した寺院から伝わったという説がある。
そこで、古くから、「唐本御影」は、「聖徳太子」を本当に描いたものか、誰がどこで、いつ頃、描いたのか謎に包まれている。

「七大寺巡礼私記」に現れた「唐本御影」
 「唐本御影」が初めて史料に現れるのは、平安時代末期の学者、大江親通が著した「七大寺巡礼私記」である。
 大江親通は、1106年(嘉承元年)と1140年(保延6年)の二回に渡って、南都(奈良)の七大寺を巡礼し、「七大寺日記」と「七大寺巡礼私記」を著している。これらは12世紀の諸大寺の実情を伝えるうえで最も重要な資料とされている。
1140年、法隆寺を訪れた大江親通は、法隆寺東院夢殿の後方にある、当時は「七軒亭」(舎利殿)と呼ばれた建物の「宝蔵」で「唐本御影」見ていた。
 「七大寺巡礼私記」には、「太子の俗形の御影一舗。くだんの御影は唐人の筆跡なり。不思議なり。よくよく拝見すべし」(俗人の姿をされた聖徳太子の肖像画一幅。この肖像画は唐の人が描いたものである。不思議である。心を込めて拝見しなければならない)と記されている。
 「唐本御影」の「唐本」とは、作者が「唐人」の意だと、大江親通は思ったのに違いない。法隆寺の僧侶が大江親通にそう説明したかしれない。
 大江親通は、なぜ「唐人」が太子を描き、またそれが法隆寺にあるのかに釈然としなかったと思われる。「よくよく拝見すべし」としたのは、子細に検討の必要があるという意で、親通の疑念が現れていると思われる。
 なぜ「唐人」が聖徳太子を描き、その肖像を、法隆寺が大切に伝えたのか、大江親通は納得がいかなったと考えられる。
 当時の「太子信仰」の言い伝えの中で造られた「聖徳太子」のイメージとは、冠帯で笏を持った姿は、余りにも違和感があったのであろう。
 「聖徳太子」とはまったく関係ない、平安時代の朝廷に仕えていた王族や貴族を描いたものだろうとの推測も成り立つ。
 一方、「太子信仰」が盛んになった平安時代頃の作で、当時の風俗を基にして「聖徳太子」の肖像を描いたという可能性も残されている。 
 しかし、誰がどこで描いたのはまったく解らないし、その由来も明らかになっていない。つまり「聖徳太子」を描いた肖像かどうか、まったく証拠がないのである。

法隆寺僧顕真が説く「唐本御影」の由来
 鎌倉時代の13世紀半ばに、法隆寺興隆に尽力した、法隆寺僧顕真は「聖徳太子伝私記」を著し、この絵を「唐本御影」と呼んで、その由来についていろいろ説があるとして、そのうち2つを挙げている。
 その一つ目の説は、渡来した「唐人」が、「唐人」の前に聖徳太子が「応現」したものを、2枚描いて、1枚を日本に残し、1枚を本国に持ち帰ったとする。
 もうひとつの説は、顕真と同時期に法隆寺復興に尽力した西山法華山寺慶政による説を引用し、「唐人」ではなく百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとしている。
「阿佐太子」は、597年、百済・聖明王に遣わされて来朝した朝貢使である。
聖明王は、倭国に「仏教公伝」を行った人物で、仏教興隆の祖としている「聖徳太子」に関する逸話にとっては格好の登場人物である。
 「阿佐太子」の名が「太子信仰」に登場するのは、「聖徳太子伝暦」(917年)である。「聖徳太子伝暦」は、平安中期に、流布していた説話や伝説、予言を集大成し、この「伝暦」で太子の伝説化はほぼ完成したとされている。
「伝暦」によると、「二十六歳、百済の阿佐太子が、太子を『救世観音菩薩』として礼拝し、その時に太子の眉間から光を放つ」という逸話が記されている。
 この逸話を元に、「唐本御影」は、百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとする説を顕真が考え出したのであろう。
 以後、「唐本御影」は、「阿佐太子御影」とも呼ばれるようになった。
 「応現」とは「仏・菩薩  が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること」で、顕真は、この絵は渡来人の画家によって描かれたもので、聖徳太子の服装が中国風である理由を「応現」で説明している。

■ 「聖徳太子伝私記」
 聖徳太子伝に関する秘伝や法隆寺の寺誌を記したものである。別に『聖徳太子伝私記』ともいう。13世紀前半に法隆寺の復興に尽力した僧侶、顕真が上下2巻にまとめ、上巻では師匠隆詮から伝授された法隆寺や聖徳太子伝の秘伝を記し、下巻では聖徳太子の舎人(とねり)「調使麻呂(調子丸)」に関する秘伝と自らが「調使麻呂」直系の子孫であることを述べる。
「調使麻呂(調子丸)は「聖徳太子」の愛馬、甲斐の黒駒を飼養したと伝えられている。「聖徳太子」が馬に乗り、富士山を登ると伝説が残る。
「聖徳太子伝私記」は、顕真自筆の稿本が現存し、中世の太子信仰や法隆寺に関する貴重な史料である。重要文化財で国立博物館に所蔵されている。

「唐本御影」は聖徳太子の肖像か? 
 「唐本御影」で描かれている「聖徳太子」は、冠帯に笏を持ち、束帯(朝服)の姿で描かれ、飛鳥時代の人物を描いたものとは考えられない。
 「笏」は、律令時代の官人が、束帯で儀式に参列するとき威儀を正すために用いたもので、長さ1尺2寸 (約 40cm)細長い板である。右手に持ち、読み上げる言葉を貼り付けておく「カンペ」として役割も果たしたという。
この絵の制作年代は早くとも、律令国家が成立した以降の八世紀頃(奈良時代)と考えられるが、平安時代に制作されたという説や、鎌倉時代の模本とする説も根強く支持されている。
また、当時の絵画の主流は、絹本で、紙本の「唐本御影」は、極めて異質なものである。救世観音の生まれ変わりとまで称された「聖徳太子」を簡素な紙に描くのは、極めて不自然だ。しかも、「聖徳太子」は侍童を従えた三尊形式で描かれ、明らかに信仰の対象として肖像である。
 なお「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられたことが明らかになっている。

広まった聖徳太子虚構説 
 1982年、東京大学史料編纂所長であった今枝愛真氏が「唐本御影」は聖徳太子とは関係の無い肖像ではないかとの説を唱えた。
 唐本影御の掛け軸の絹地の表装の隅に「川原寺」と読める墨痕があり、もともと川原寺にあったものを法隆寺に移し、太子像としたというのがその主張である。
 これをきっかけに、聖徳太子虚構説が広まっていく。
 しかし、今枝説には矛盾点があり、掛け軸というのは巻いたり伸ばしたりするので傷みやすく、「表装替え」を時折、行うのが常識とされている。今枝説では、1200年もの間、「表装替え」をしなかったこととなり現実的でない。
歴史学者、武田佐知子氏によると、武田氏が掛け軸を京都の表具屋に調べてもらったところ、掛け軸は江戸時代中葉以降の、中国製の絹が使用されていたことがわかり、「川原寺」の墨跡は後世の書き込みであるとし、しかも、墨跡は、表装部分に銀糸で書かれた「国家安康」の「康」字の銀糸酸化による黒ずみと判明したとした。
 唐本影御は、元々、法隆寺に保管されていたようである。

 また、武田佐知子氏の「信仰の王権聖徳太子」によると、平城京の長屋王邸の遺構より発掘された「楼閣山水図木簡」に描かれている男性貴族の姿が、唐本御影の聖徳太子の衣装や木簡を持っている姿に似ているという点からも、唐本御影は奈良時代に聖徳太子を想像して描かれたものであろうとされている。

 「唐本御影」は、観音、勢至菩薩の脇仏を伴った阿弥陀如来のように、三尊形式で描かれていることで、この肖像画が信仰の対象であったとされている。8世紀に盛んになった「太子信仰」の結果として、この肖像画が描かれたと武田佐知子氏は考えている。

 歴史学者、大山誠一氏は、『唐本御影』を中国・西安にある永泰、章怀、懿德等の合葬墓の壁画にある男性人物像と比較すると,ありとあらゆる点で酷似しているとしている。
 同時期の絵師が模範本として描いたものが日本国に渡来し,それを元にして後代に日本国内で作成されたものではなかろうか。それゆえ『唐本御影』との名があると解釈すると,非常にわかりやすい。唐から伝来した祖本を手本にした直接の模写本という趣旨に理解することができる。
 中央の人物の左右に立つ者の髪型(みずら)が契丹の遺跡からの発掘品にもある。『唐本御影』の作成時期が8世紀以降だとすれば,矛盾はないとしている。

 大阪歴史博物館学芸員、伊藤純氏によると、「法隆寺は正真正銘、聖徳太子の寺であることの証しとして唐本御影を利用した」としている。
 法隆寺の記録「嘉元記」(1305~64年)によると、1325年、法隆寺領だったという播磨の国の荘園「鵤庄(いかるがのしょう)」を巡る争論の際には 「法隆寺の立場を通すため、幕府を威圧する道具として唐本御影を鎌倉まで持ち出した」。
 江戸時代に入ると、唐本御影は1694年(元禄7年)江戸での出開帳に出された。「それが評判を呼んで閲覧希望が殺到したため、寸分違わぬ精巧な写しが幽竹によって作られたのではないか」。それ以降、唐本御影の原本、または幽竹の写しを参考にしたとみられる肖像が次々に描かれ、芸能の世界でも聖徳太子が登場する演目が作られた。
 「江戸時代、唐本御影に描かれた太子像の絵柄はチラシなどにも使われ、随分活躍したに違いない」としている。

「唐本御影」は「聖徳太子」の肖像ではない
 日本書紀崇峻天皇即位前紀(587年)によると、厩戸皇子はまだ14歳だったが、物部守屋討伐軍に参戦した。討伐軍が、物部守屋軍の激しい抵抗にあい、三度退却したあと、厩戸皇子は、髪を束髪於額(ひさごはな)に結い、髪を分けて角子(あげまき)にし、白漆木(ぬりで)を切って四天王像を作り、額につけて、「今若し我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と誓願して進軍し物部守屋に勝利したとしている。
 太子信仰が盛んになって太子を称賛する目的で、こうした逸話が創作されたのであろう。

 「束髪於額(ひさごばな)」の髪形は、年少の十五歳から十六歳までの間は、髪を額のところで束ね、まげの形が瓢箪の花に似ているので「ひさごばな」と呼ぶとしている。十七歳から十八歳になると髪を耳の上で結ぶ「美豆羅(みずら)」の髪形となるのが慣習である。

 七世紀末から八世紀初頭にかけて太子信仰が盛んになり、各地で太子像が造られる。
 「聖徳太子」「七歳像」や「十二歳像」はいずれも、この逸話に倣い、「束髪於額」の髪形をした童像である。
 奈良時代には、聖徳太子を菩薩とする「太子信仰」登場する。
 その後「聖徳太子伝暦」や「上宮聖徳太子伝補闕記」によって救世観音化身説が唱えられ、聖徳太子=救世観音とする信仰が定着した。
 また平安時代に入ると,浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生した往生人の第一人者とする信仰が起こった。
 「聖徳太子」は、仏門の解脱者であり、救世観音なのである。
 こうした「太子信仰」を踏まえれば、平安朝に制作された「聖徳太子」の肖像は、仏門に帰依して悟りを開いた高僧のような袈裟の姿や観音菩薩像のような姿で描かれるだろう。
 「唐本御影」のように、「笏」を持ち「冠帯」の「聖徳太子」は、「冠位十二階」や「憲法十七条」などの制定に携わるなど、王権内で「現役政治家」として活躍していた姿の肖像である。「太子信仰」からは余りにも異質な肖像であり、「聖徳太子」を描いたものとは、到底考えられない。

 12世紀に「七大寺日記」を著した大江親通は、「唐本御影」を見て「不思議なり」とし、「聖徳太子」の肖像なのか、疑問を持った。
 13世紀半ば、「聖徳太子伝私記」を著した法隆寺の僧、顕真も、この肖像には多くの解釈があり、意義があることも認めた上で、「唐本御影」と呼ばれている理由は、「唐人」が描いたからだとしている。そして、考え抜いた上に、苦し紛れに、「唐人」の前に「応現」した「聖徳太子」を二幅描き、その一つを倭国に留めたという苦し紛れの説明をしている。そして、慶政上人の説として「阿佐太子説」も記している。その真意は、「太子信仰」を広めていた顕真ですら、この肖像を「聖徳太子」の「真影」とすることに、相当な違和感を感じていたことの裏返しだろう。

 筆者の結論は、(1)「唐本御影」の製作年代は、八世紀頃である。(2)その頃の「太子信仰」からは、「笏」を持ち「冠帯」の肖像は生まれない、
 以上から、「唐本御影」は「聖徳太子」を描いたものではない。
 「唐本御影」は、唐からの渡来人の画家が、平安時代に朝廷に仕えていた貴族を描いたものであろう。その出来栄えが余りにも素晴らしかったので、法隆寺に伝わり、当時の「太子信仰」の中で、「聖徳太子」の肖像とされるようになったと考えられる。
 「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられるなど、「唐本御影」を「聖徳太子」の「真影」とするために、「潤色」を懸命に行っていたことが窺えるのはその証拠である。

歴史教科書論争 「聖徳太子」か、「厩戸皇子」か?
 歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「生前で用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された。
 2017年4月、「新しい歴史教科書をつくる会」が4月に東京都内で開いた集会で、藤岡信勝副会長は、「聖徳太子をなきものにするのは、日本の自立国家としての歩みを否定すること」と語り、「聖徳太子は中国(隋)に従属せず、対等外交を展開しようとした。十七条憲法で『和』の精神を打ち出した」と述べて、聖徳太子が「日本人の精神の骨格をつくってきた」とし、聖徳太子と「厩戸王」の名を併記しようとした文科省を批判した。
集会には国会議員らの姿もあった。自民党教育再生実行本部長の桜田義孝衆院議員は「聖徳太子の名を変えるとはまかりならん。今までの教育を全部否定されるようなものだ」と語った。
文科省の調べでは、現在出版されている教科書では、小学校はすべて「聖徳太子」と表記され、中学では「聖徳太子(厩戸皇子)」や「厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)」などと表記が分かれている。

 2017年、文部省は10年に一度の指導要領の改訂を行い、歴史の授業では古事記や日本書紀の史料に基づいて学ぶことを明記することにした。これに伴い「聖徳太子」の名が没後の呼称であるとの史実を踏まえて2月に改訂案として、小学校は「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」に改めるという内容を公表した。
 ところが、文科省がパブリックコメントを募ると、反対意見が多く寄せられた。一因と考えられるのが、つくる会がホームページなどでコメントを送るよう呼びかけたことだ。藤岡氏は「4千件以上のコメントが聖徳太子に関するもの」としている。文科省はコメントの詳細を明らかにしていない。

 文科省幹部によると、寄せられた意見には「小学校と中学校で呼び方が違うと教えづらい」との教員からの声もあったという。パブリックコメントを経て、結果的に、小中学校とも「聖徳太子」の表記に戻った。
ただ、中学校については「古事記や日本書紀で『厩戸皇子』などと表記され、後に『聖徳太子』と称されるようになったことに触れる」とのくだりが残った。

 「聖徳太子」の呼称が現れたのは8世紀中ごろ医以降で、推古天皇の下で政治改革や中国・朝鮮半島の外交関係、仏教興隆を推進した皇子は、「厩戸皇子」だという史実が明らかになっている。信仰の対象としての「聖徳太子」と史実の「厩戸皇子」は峻別して理解しなければならい。
初の女帝である推古天皇の王位継承者として大王を補佐し、国政に参加したのは「厩戸皇子」である。
未だに「神話」と「歴史」を分けることができない日本人の感性はあまりにも残念である。

 いずれにしても「唐本御影」は、未だに、一体、誰を描いたものか、いつ、どこで、誰が作者か、決着はついておらず、現在は歴史教科書などで「唐本御影」を掲載する場合は「伝聖徳太子像」と記している。




(参考文献)

「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993年
「蘇我氏の古代史 ~謎の一族はなぜ滅びたか~」 武光誠 平凡社 2008年
「蘇我氏と大和王権」 古代史研究選書 加藤謙吉 吉川弘文館 1983年 
「秦氏とその民~渡来氏族の実像~」 加藤謙吉 白水社
「日本史なかの蘇我氏」 梅原毅 歴史読本 KADOKAWA 2016年 
「壬申の乱」 直木 孝次郎  塙選書 1961年
「古代史再検証 聖徳太子とは何か 別冊宝島」宝島社 2016年
「信仰の王権 聖徳太子」 武田佐和子 中央新書 1993年
「聖徳太子の歴史を読む 編著者 上田正昭 千田稔 文英堂 2008年  
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年



2017年7月31日
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廣谷  徹
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天寿国繍帳 刺繍銘 亀の甲羅 橘大郎女 古代史探訪

2017-09-07 07:49:21 | 評論
天寿国繍帳の真実 古代史探訪

国宝 天寿国繍帳(部分)
飛鳥時代・7世紀 奈良・中宮寺蔵


 現存する最古の刺繍である天寿国繍帳は、飛鳥時代に制作された旧繍帳と、鎌倉時代にこれを模造した新繍帳の遺(のこ)りのよい部分を、江戸時代(天保年間)に貼り混ぜて1面の繍帳にしたものである。
 このことから正式な国宝の登録名は「天寿国繍帳残闕」されている。
 意外なことに、鮮やかな色彩のほうが旧繍帳である。
 制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの「帳」2枚を横につなげたものであったと推定されるが、さまざまな断片をつなぎ合わせて制作された現存する「繍帳」は、縦88.8センチメートル、横82.7センチメートルの「額装仕立て」となっている。
 この繍帳には亀の甲羅に4文字の刺繍銘があり、「刺繍」には「部間人公」「干時多至」「皇前曰啓」「仏是真玩」、「断片」には「利令者椋」の四字五組の銘文が残る。当初は100匹の亀の甲羅に刺繍されていたとされ、その400文字の全文が『上宮聖徳法王定説』に記され、この繍帳作成の由来がわかる
それによると、推古30年(622)に聖徳太子薨去に際し、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、推古天皇に願い出て、太子往生の姿を偲び、往生した天寿国の有様を刺繍によって表したものとしている。「天寿国」とは、阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すものとされている。
 下絵を描いたのは椋部秦久麻(くらべのはたのくま)を総監督に、東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)の渡来系の3人の画師で、宮中に仕えた采女たちが刺繍したとしている。  
中国六朝風の人物表現や文様がみられ、飛鳥時代の絵画としても貴重である。
製作された後は、しばらく本堂にて保管されてきたと思われるが、鎌倉時代に中宮寺を再興した尼僧・信如によって法隆寺境内の蔵から発見されたという記録があるので、鎌倉期まで法隆寺の蔵で眠っていたことが判明している。
 現在、中宮寺本堂に安置されているものは複製品で、実物は奈良国立博物館に寄託されている。


天寿国繍帳の銘文
 『上宮聖徳法王帝説』に記されている銘文は、一部に誤脱があるが、飯田瑞穂氏(中央大大学名誉教授)の考証によって400字の文章に復元されている。

(読み下し文 後半部分)
 「歳(ほし)は辛巳に在(やど)る十二月廿一癸酉日入(にちにゅう)、孔部間人(あなほべのはしひと)母王崩ず。明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩ず。時に多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)、悲哀嘆息し、天皇の前に畏み白(もう)して曰く、之を啓(もう)すは恐(かしこ)しと雖も懐う心止使(とど)め難し。我が大皇と母王と期するが如く従遊(しょうゆう)す。痛酷比(たぐ)ひ无(な)し。我が大王の告(の)る所、世間は虚假(こけ)、唯だ仏のみ是れ真なり、と。其の法を玩味するに、謂(おも)えらく、我が大王は応(まさ)に天寿国の中に生まるるべし、と。而るに彼の国の形、眼に看叵(みがた)き所なり。悕(ねがは)くは図像に因り、大王往生之状(さま)を観むと欲す。天皇之を聞き、悽然として告(の)りて曰く、一の我が子有り、啓(もう)す所誠に以て然りと為す、と。諸(もろもろ)の采女等に勅し、繍帷二張(ぬいもののとばりふたはり)を造る。画(えが)く者は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)、令(うなが)す者は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)なり」

(現代語訳)
 「辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳を作らせた。画者(図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)である」
(出典 Wikipedia)




2017年9月1日
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廣谷  徹
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太子信仰 聖徳太子信仰 光明子 聖徳太子伝暦 行信 顕真 慶政 四天王寺

2017-09-06 09:47:24 | 古代史
「太子信仰」の真実
~「太子信仰」はこうして広まった~

 「聖徳太子」の威徳を讃える「太子信仰」は早くから伝説化され,各時代にさまざまな形で、盛んに崇拝されてきた。
 法隆寺釈迦三尊像の光背銘文には、「当に釈像の尺寸王見なるを造るべし」と記され、「釈迦三尊像=太子の姿」としている。光背銘文によれば、釈迦三尊像は太子が薨去した翌年の623年(推古31年)に造れられとしている。
「 日本書紀」(720年)では、「一に十人の訴を聞きたまひて」とか、「片岡遊行説話」など記され、「聖徳太子」を「聖人」化する逸話が記されている。
奈良時代には,聖徳太子を菩薩とみる伝記が出て、その後は、「聖徳太子=救世観音」とする信仰が広がった。また平安時代に入ると,浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生した往生人の第一人者とする信仰が起こった。
 「太子信仰」は、仏教でも神道でもない、日本人固有の「信仰」として、全国各地に幅広く浸透した。

日本書紀の「聖徳太子」伝説
 日本書紀では、「聖徳太子」を聖人化する逸話がたびたび登場する。
「物部守屋討伐における勝利祈願」や「生誕逸話」、「一に十人の訴を聞きたまひて」逸話、「片岡山飢人説話」、「高句麗の僧慧慈」逸話などが現れる。
日本書紀が完成した720年までに、「太子信仰」が各地で広まっていたことがわかる。

■ 「物部守屋討伐における勝利祈願」

 587年(用明2年)、蘇我馬子は、物部守屋討伐に乗り出す。
 日本書紀崇峻天皇即位前紀(587年)によると、討伐軍は、泊瀬部皇子(崇峻天皇)・竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子を先頭に立てて、紀男麻呂、巨勢臣比羅夫、膳臣拕賀夫、葛城臣鳥那羅を加え、「第一軍」とした。第二軍は、群臣だけの軍勢で物部守屋の邸に迫った。
 厩戸皇子はまだ14歳の少年だが、物部守屋討伐軍に参戦した。
 守屋は一族を集めて稲城(稲を積んで作った砦)を築き、守りを固めた。
 軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏軍勢は強盛で、「子弟や奴」を集め戦った。守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。その軍勢は強く士気が高く、館に満ち、野に溢れた。
朝廷軍は、「怯弱くして恐怖りて三廻却還く」(みたびしりぞく)とされ、すっかり怖気づいて、三度の退却を余儀なくされた。
 朝廷軍は、犠牲者も多く出たであろうと思われる。
 これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと、髪を「束髪於額」(ひさごはな)に結い、髪を分けて「角子」(あげまき)にし、「白漆木」(ぬりで)を切って四天王像を作り、額につけて、「今若し我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と誓願して、先頭に立って進軍した。
 これをきっかに、討伐軍は攻勢に転じ、物部守屋に勝利したと伝えている。
 厩戸皇子は「武神」として描かれ、仏法に帰依した「聖者」としての厩戸皇子のイメージとはまったく違和感のある逸話で、相当、無理をして潤色されたものだろう。仏法の擁護者として、廃仏派を討伐した功績を記したかったと思われる。日本書紀は、太子を称賛し、「太子信仰」を広めるために、こうした逸話を掲載したと考えられる。
 後世に造られた「太子二歳像」(2歳の太子が合掌して「南無仏」と唱えたら掌に仏舎利が現れた)、「太子七歳像・童子形聖徳太子像」(太子は7歳で学問をはじめた)、「太子孝養像」(16歳の太子は、父・用明天皇の病気平癒を願って日夜香炉をささげて病床を見舞った)、「聖徳太子馬上霊像」(物部守屋討伐参戦)などは、「束髪於額」やの髪形をした姿とするなど日本書紀の記述に倣っている。

■ 「生誕逸話」(593年(推古元年)
 「夏四月の庚午の朔己卯に、厩戸豐聰耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて錄攝政らしむ。萬機を以て悉に委ぬ。橘豐日天皇の第二子なり。母の皇后を穴穗部間人皇女と曰す。皇后、懷姙開胎さむとする日に、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。馬官に至りたまひて、乃ち廐の戸に當りて、勞みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壯に及びて、一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く辨へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす。且、内教を高麗の僧慧慈に習ひ、外典を博士覺哿に學びたまふ。並に悉に達りたまひぬ。父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を稱へて、上宮廐戸豐聰耳太子と謂す」
 
「夏の四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみのみこと)を立てて、皇太子とし、摂政として国政のすべてを任せた。太子は用明天皇の第二子で、母はの皇后を穴穗部間人皇女という。皇后は、出産予定日に禁宮中を巡り、諸司を観察した。馬司(うまのつかさ)のところに行った時、厩の戸に当たって、難無く出産した。太子は、生まれてすぐ物をいった。聖人の知恵をもち、成人してからは、一度に十人の訴えを聞いても、間違うことなく、未来のことまで知ることができた。また仏教を高麗(高句麗)の僧慧慈(えじ)に習い、儒教の経典を博士の覺哿(かくが)に学んだ。そして、それをことごとく極めた。父の天皇が可愛がって、宮の南の上殿に住まわせた。そこで、その名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳皇子という」

 身重の皇后が宮殿の内外を巡察していたところ、馬屋の戸に当たり、産気づいたが、幸いにも皇后には差障りはなく、無事、その場で出産した。聖徳太子は馬屋の前で生まれた伝説である。「厩戸皇子」の名の謂れとされている。
 この逸話は、イエス・キリストの生誕が連想される。キリスト教の影響があったと考えるむきも多い。
 「新約聖書ルカ伝」では、聖母マリアがベツレヘムの馬屋でキリストを生み、布の帯でくるんで飼い葉桶の中に横たえたという。
中国にキリスト教が伝わったのは、唐の時代、景経として伝来した。
 ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルの大司教、ネストリウスは、異端として追放、その一派はペルシャ・インド・中国へ布教をすすめ、長安には景教の教会も建てられた。
 唐から伝わった景教の影響でこの逸話が生れたのであろう。

 厩戸の意称は「豊聡耳」(とよとみみ)。馬は、「耳がさとく、賢い動物」とされていた。蘇我馬子も「馬」の字を使った。
 当時の馬は貴重な動物で、大切にされていた。徒歩で移動して人々にとっては、馬の速度は神秘的だった。立派な「厩」を持つことは、富と権力の象徴だ

 「ひとたび十人(とたり)の訴えを聞きたまいて、失ち(あやまち)たまはずして能く弁(わきま)へたまう」
 一度に十人の訴えを聞くことができたという有名な逸話である。

■ 「片岡山飢人説話」(613年 推古21年)
 「十二月の庚午の朔に、皇太子、片岡に遊行でます。時に飢者、道の垂に臥せり。仍りて姓名を問ひたまふ。而るに言さず。皇太子、視して飲食与へたまふ。即ち衣裳を脱きたまひて、飢者に覆ひて言はく、「安に臥せれ」とのたまふ。

 辛未(十二月)に、皇太子、使を遣して飢者を視しめたまふ。使者、還り来て曰さく、「飢者、既に死りたり」とまうす。爰に皇太子、大きに悲びたまふ。則ち因りて当の処に葬め埋ましむ。墓固封む。數日之後、皇太子、近く習る者を召して、謂りて曰はく、『先の日に道に臥しし飢者、其れ凡人に非じ。必ず眞人ならむ」とのたまひて、使を遣して視しむ。是に、使者、還り来て曰さく、「墓所に到りて視れば、封め埋みしところ動かず。乃ち開きて見れば、屍骨既に空しくなりたり。唯衣服をのみ疊みて棺の上に置けり』とまうす。是に、皇太子、復使者を返して、其の衣を取らしめたまふ。常の如く且服る。時の人、大きに異びて曰く、「聖の聖を知ること、其れ実なるかな」といふ。逾惶る」

 「推古21年、12月1日。皇太子は片岡(かたおか=現在の奈良県北葛城郡香芝町今泉)に遊行した。その時、飢えた人が道端に伏せていた。姓名を問いかけても何も言わなかった。皇太子は飲食物を与え、衣裳(みけし=衣服)を脱いで飢えた人を覆って、「安らかに、伏せて」と言った。
それで歌を詠んだ。
 「しなてる 片岡山に 飯(いい)に餓(え)て 臥(こや)せる その田人(たひと=旅人)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に餓て 臥せる その田人(あはれ)」
歌の訳(『しなてる』)は「片岡山で食べ物に飢えて倒れている旅人はかわいそう。親もなく、お前は生まれたのか、(『さすたけの』は君の枕詞)仕える君主はいないのか、優しい恋人はいないのか、食べ物に飢えて、倒れている旅人はかわいそうだ」
 翌日、皇太子は使者を派遣して、飢えた人を視察させ、帰って来て言った。
 「飢えたものはすでに死んでいた」
 皇太子は大いに悲しみ、すぐにその場所に葬り、墓(つか)を固く封じた。
 数日後、皇太子はその近くに仕えている人を呼び寄せて言った。
『この前の日に、道に伏せて倒れていた飢えた人は、凡人ではない。必ず真人(ひじり=聖者)だろう』
 使者を派遣して視察させ、帰って来て言った。
 「墓のところに到着して見ると、固めて封じて埋めて動いていなかった。開いてみると、屍骨(かばね)は既に空だった。 ただ衣服を畳んで、棺の上に置いてあった」
皇太子は、また使者を返して、その衣服を取らせ、いつものようにまた衣服を着た。その時代の人はとても不思議がって言った。
 『聖者が聖者を知る。それは真実だな』
 いよいよ皇太子に畏まった」
 「真人」とは、道教の用語で、「仙人」を意味するが、こうした「仙人」逸話が日本書紀に登場するは、太子を実在した「聖人」として記録したかったのであろう。

■「高句麗の僧慧慈」逸話(621年 推古29年)
「二十九年の春二月の己丑の朔癸巳(二月五日)に、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王、諸臣及び天下の百姓、悉く長老は愛き兒を失へるが如くして、塩酢の味、口に在れども嘗めず。少幼は慈の父母を亡へるが如くして、哭き泣つる声、行路に満てり。乃ち耕す夫は耜を止み、舂く女は杵せず。皆曰く、「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬ。今より以後、誰をか恃まむ」といふ」

 「即位29年春2月5日。半夜(よなか=夜中)に厩戸豊聡耳皇子命が斑鳩宮で亡くなった。この時、諸々の王・諸々の臣と天下(あめのした)の百姓は全員、長老や愛する児を失ったようになって、塩や酢の味が口にあっても分からないほどだった。年少の幼いものは、愛する父母が失ったように、慟哭し泣いた声が行く道に満ちた。耕す夫(農夫)は耜(すき)を止めて、稲をつく女からは杵の音がしなった。皆が言った。
『日と月は輝きを失い、天地はすでに崩れた。今より以後、誰に頼ればいいのか』
 
 続いて、厩戸皇子の師で、高句麗に帰国していた慧慈の逸話になる。
 「是の月に、上宮太子を磯長陵に葬る。是の時に当たりて、高麗の僧慧慈、上宮皇太子薨りませぬと聞きて、大きに悲ぶ。皇太子の爲に、僧を請せて設齋す。仍りて親ら経を説く日に、誓願ひて曰く、『日本国に聖人有す。上宮豊聡耳皇子と曰す。固に天に縱されたり。玄なる聖の德を以て、日本の国に生れませり。三統を苞み貫きて、先聖の宏猷に纂きて、三寶を恭み敬ひて、黎元の厄を救ふ。是実の大聖なり。今太子既に薨りましぬ。我、国異なりと雖も、心断金に在り。其れ独り生くとも、何の益かあらむ。我来年の二月の五日を以て必ず死らむ。因りて上宮太子に淨土に遇ひて、共に衆生を化さむ』といふ。是に、慧慈期りし日に当たりて死る。是を以て、時の人の彼も此も共に言く、「其れ独り上宮太子の聖に非らず。慧慈も聖なりけり」

 「即位29年2月)この月、上宮太子を磯長陵(しながのみささぎ)に葬った。この時に当たって、高麗の僧の慧慈は上宮皇太子が亡くなったと聞いて、大いに悲しんだ。皇太子のために僧に請願して設斎(おがみ)をし、自ら経を説いた日に、誓い願いて言った。
 『日本国に聖人(ひじり)がいました。上宮豊聡耳皇子と言い、まことに天に許されていた。素晴らしいほどの聖人の徳を持ち、日本の国に生まれた。三統(きみのみち=夏殷周の中国の古代の国・伝説的王の禹王・湯王・文王の時代)を追い抜いて、先人の聖人の宏猷(おおいなるのり=広大な計画)を引き継ぎ、三宝(仏・法・僧)を慎み敬い、人民を厄災から救った。これは真実の大聖人である。今、太子はなくなった。私は国が違っていても、心は強く繋がっていて、その友情は金属も断つほどなのである。これから独りで生きていても、何の利益があるというのか。私は来年の2月5日を持って、必ず死ぬ。それで上宮太子と浄土で会い、ともに衆生(しゅうじょう)に生まれ変わろう』
 慧慈は約束した日になって死んだ。その時代の人は誰も彼もが共に言った。
 「上宮太子(聖徳太子)だけが聖人なのではない。慧慈もまた聖人だ」
 こうした記事から、「聖徳太子」を「聖人」とする「太子信仰」が、日本書紀が完成するまでに定着していたと考えられる。

聖徳太子伝説
 「太子信仰」が少しずつ広がるにつれて、様々な逸話が誕生していく。 
皇女が妊娠8ヶ月になると、胎内の子がものを言い始めた。12ヶ月経ってようやく出産したが、誕生の瞬間、産室が赤黄色の光で満たされ、宮殿の上には瑞雲がたなびいた。産湯につかわせると、体からなんともいえぬ芳香が立ち上り、長く消えなかった。
 ちなみに、誕生したばかりの釈迦は、直ちに四方に七歩ずつ歩き、右手を上げて「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられている。
 「聖徳太子」二歳の年の2月15日、釈迦入滅の日に、東を向いて立ち、合掌して「南無仏」と唱えた。この時の姿とする上半身裸で緋の袴をはいた童子像は「南無太子像」と呼ばれ、「太子信仰」の興隆とともに、全国各地で多数造られている。

「太子信仰」の祖 光明子 行信
 「聖徳太子」を信仰の対象としたのは、聖武天皇の皇后、光明子(持統天皇)である。
当時、大地震や疫病が流行し、社会不安が渦巻いていた。光明子は、仏法に救いを求め、全国に国分寺や国分尼寺を建てたり、東大寺を造立したりして、「太子信仰」を興隆した。
 734年(天平6年)は、「太子信仰」の成立にあたって重要な年となった。
 この年、光明子は、四天王寺に食封の増加を授け、僧には布施を施入するとともに法隆寺には幡や薬などの資材を授けた。(「法隆寺伽藍縁起資材帳」)
 二つの寺院に対する措置は、2月22日の太子の忌日に合わせて実施された可能性があり、天平7と8年にも同様の措置がとられた。
 735年(天平7年)、光明子と聖武天皇の娘、阿倍内親王(孝謙天皇)は、「法華経」講読の大法会を盛大に開いた。
「法華経」には、女人が男性に転生することで往生を説く提婆達多品(だいばだつたほん)があり、女性との関わり合いの深い経典で、「太子信仰」の基をなすとされている。
 737年、天然痘が大流行し、藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂、藤原宇合の藤原一族が死亡し、朝廷は大混乱に陥る。光明子は、救いを仏法に求める。

 739年(天平11年)には、斑鳩宮跡に「法隆寺東院」(「夢殿」)が建立された。「法隆寺東院縁起」には、斑鳩宮の光背を嘆いた行信が、八角堂(夢殿)を建てて、太子在世中につくられた救世観音を安置したとしている。
 「夢殿」は法隆寺東院の正堂で、本尊は、「太子等身」と伝える救世観音立像である。「夢殿」の名は,斑鳩宮に同名の建物があり、聖徳太子が経疏(きょうしょ)執筆中に疑問を生じて持仏堂に籠ると、夢に金人(きんじん)が現れて疑義を解いたという伝承による。
 「夢殿」の創建に尽力したのは、法隆寺の僧行信、当時、太子一族滅亡の後、荒廃していた法隆寺の伽藍を修復して再興した。法隆寺の多くの寺宝もこの時期に集められたと思われる。
光明子(持統天皇)や阿倍内親王(孝謙天皇)と中心とする「後宮」が莫大な資金を行信に授けたと思われ、「太子信仰」の興隆に大きな役割を果たした。

 奈良時代には,「聖徳太子」を「菩薩」とみる伝記が現れ、聖徳太子は「観音菩薩の化身」、つまり「観音菩薩の生まれ変わり」という信仰が始まった。
 そして、「夢殿」の造立で、太子等身と伝えられる「救世観音」を安置したことでえ、「聖徳太子」は「救世観音」であるという信仰が根付いていった。
 また奈良時代、法隆寺夢殿や四天王寺聖霊大殿で、「聖徳太子」の命日2月22日に「聖霊会」(しょうりょうえ)が営まれるようになり、「太子信仰」に核と形ができた。「仏舎利」(ブッダ)と「救世観音」(太子)を拝して往生の安心を得るという信仰である。
 「聖徳太子」は、仏法興隆の最大の功労者とされ、「法皇」とか「聖王」と呼ばれ、「本朝(日本)の釈迦」と仰がれた。
 
最澄、空海と「太子信仰」
 8世紀になると、空海や最澄らの高僧による摂津の四天王寺巡錫(錫杖を持って巡行する意 僧が各地をめぐり歩いて教えを広めること)が行われた。
 そして仏教興隆最初の寺院である飛鳥寺や四天王寺、法隆寺など「聖徳太子」ゆかりの寺への参詣が脚光を浴びる。
 とりわけ天台宗の最澄は、法華経を中心にして天台教学の布教を願い、「聖徳太子」を慧思(中国天台宗第二祖)の後身として大いに崇拝し、自らは玄孫であるといた。また真言宗では空海を太子の後身と位置付けている。
 禅宗では、太子が片岡山で有った旅人を達磨の化身として敬うこととなり、片岡山に達磨寺が創建された。 

 現存する最古の聖徳太子伝記、「上宮聖徳太子伝補闕記」(9世紀から10世紀前半に成立)では、「聖徳太子=救世観音」とする信仰を定着させた。

「太子信仰」の集大成 「聖徳太子伝暦」
 平安中期に、流布していた説話や伝説、予言を集大成し、聖徳太子の伝記、「聖徳太子伝暦」(917年)が完成した。この「伝暦」で太子の伝説化はほぼ完成したとされている。
 「穴穂部間人皇女が夢に金色の僧を見て懐胎した」、「厩戸の前で太子を出産した」、「二歳の春に、東に向かって合掌して『南無仏』を唱えた」、「十二歳、太子に対面した日羅が『救世観音』と礼賛した」、「二十四歳、一度に八人(十人)の訴えを聞き分けた」、「二十六歳、百済の阿佐太子が、太子を『救世観音菩薩』として礼拝し、その時に太子の眉間から光を放つ」、「二十七歳、太子は黒駒に乗って富士山に駆け上る」、「四十二歳、大和の片岡山で飢人に出会って紫袍を与えた」などの逸話が記されている。
 「百済の阿佐太子礼拝逸話」は、後に「唐本御影」は、百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとする説の出所となっている。

「絵伝」の成立 
 平安後期以降、「聖徳太子伝暦」をもとに、多くの「絵伝・絵巻」や「彫像・画像、和讃」が全国各地で制作され、「太子信仰」を盛んにした。
 四天王寺では、8世紀に寺僧が「聖徳太子伝暦」を基に太子の事績を描いた「説話画」を製作し、「絵解き」(えとき)を行ったという記録が残されている。「聖徳太子絵伝太子伝」の登場である。
法隆寺では、1069年(延久元年)東院に「絵殿」が建立され、「聖徳太子絵伝太子伝」と太子童子形像を祀った。
 「聖徳太子絵伝太子伝」は、聖徳太子の伝記を絵画化した「説話画」で、絵殿の堂宇三方の壁面五間に描かれた障子絵である。鎌倉時代以降に数多く描かれる太子絵伝のうち、製作時期の判明するものとしては最も古い「絵伝」である。 
1069年(延久元年)、摂津国の絵師秦致貞 (はたのちてい) の作とされ、太子の伝記を約七十の場面の逸話にして,壮大な山水を背景に寺院や寝殿などを配して絵を構成しながら太子の事績を描いた。
 これらは917年(延喜17年)に藤原兼輔が撰した「聖徳太子伝暦」に拠って描かれ、絵とともに色紙形題銘が付けられている。「聖徳太子絵伝太子伝」の特徴は太子の事績を四季によって分別し、春夏秋冬を四面に描き分けている点にある。
 唐代の大画面仏教説話画に源流をもつ、11世紀の貴重な作品である。
 法隆寺で祀られていた当時は、作品の状態が悪く保全のために外され、1788(天明8年)年には二曲五隻の屏風に改装された。
 1878(明治11年)年、「法隆寺献納御物」として皇室に献上され、戦後、「法隆寺献納宝物」となり、皇室から国立博物館に移管された。1968(昭和43年)年から1972(昭和47年)年にかけて、屏風から現在の10面の額装に改められた。現在は東京国立博物館所蔵の国宝である。
 法隆寺では、この「絵伝」をもとに「絵解き」が盛んに催され、「太子信仰」興隆の中心的な役割を果たした

 一方、四天王寺の聖霊院絵殿には、遠江法橋筆(1323年 元亨3年)や狩野山楽筆(1623年 元和9年)の「絵伝」が残されている。
 また、橘寺には、「聖徳太子伝暦」を典拠にして、聖徳太子の入胎から薨去に至る出来事を大和絵の手法を用いて描いた「絹本著色太子絵伝」が所蔵されている。土佐光信の筆と伝える八幅の屏風に描かれている「絵伝」で、おそらくは鎌倉時代の南都絵所系の製作になるものと思われる
 筆法・彩色共に優れ、当時の「太子信仰」が窺える貴重な資料だ。

 また鶴林寺(かくりんじ)の「絹本著色聖徳太子絵伝 8幅」( 鎌倉時代)も知られている。鎌倉後期から室町前期にかけての絵で、作者不詳。
 富士山に登山した黒駒に乗馬した「聖徳太子」描かれている。
 この「絵伝」は、2002年に韓国人犯行グループによって盗難に遭い、その翌年には取り戻されたが、損傷していたため、5年の歳月と5000万円を掛けて修復が行われた。

「太子信仰」の聖地となった四天王寺
 1007年、難波の四天王寺で、四天王寺の僧侶、慈運が、金堂内に安置されていた六重塔の中から、「四天王寺御手印縁起」を発見したと伝えられている。これが、四天王寺が「太子信仰」の中心寺社となるきっかけとなる。
 「四天王寺御手印縁起」は、「「根本本」とも称され、その奥書には「乙卯歳月正月八日」(595年 推古3年)に『皇太子仏子勝鬘』(聖徳太子)が自ら著し、金堂内に収めたと記されている。『皇太子仏子勝鬘』(聖徳太子)の朱色の手形が20か所以上も紙に押されているとした。
 実際は、太子自身が著したものではなく、1007年に四天王の僧が作成したもの見られている。手形も太子のものではない。
「四天王寺縁起」には「ここに敬田院、施薬院、療病院の四箇院を建立し、四天王寺とする。ここはかつて釈迦が説法をした地であり、私(聖徳太子)はその時釈迦を供養する長者の身であった。かつて百済にあった時は、救世観音などを倭に送り、『勝鬘経義疏』や『法華義疏』を作った。私は没しても生まれ変わり続けているのであり、これからも仏法を広め人々を救済するであろう。四天王寺の西門は『極楽土の東門』に相当し、宝塔と金堂は『極楽浄土東門の中心』とし、四天王寺を参拝して寄進を行えば極楽浄土に往生することができる」と記されている。
 この「四天王寺縁起」により、以前から広がっていた「太子信仰」と浄土信仰が結びつき、四天王寺は「太子信仰」の聖地となった。
 四天王寺には、天皇や有力者をはじめ様々な階層の人が数多く訪れ、こぞって寄進するようになりなった。人々は四天王寺の西門で、西門の先にあるとされた極楽浄土への往生を願った。四天王寺は、「太子信仰」の寺院として不動の地位を築き上げた。
 その後、法然をはじめとする浄土教の上人や時宗の一遍、律宗の叡尊など多くの僧が四天王寺を訪れ、困窮者に粥などを施し布教を行った。

 1335年(建武2年)、後醍醐天皇によって、「四天王寺縁起」が書写され、「後醍醐天皇宸翰本」と呼ばれる。奥書部分には、天皇の2つの朱色の手形が押され今も鮮やかに残っている。
建武2年は、「建武の新政」が行われた時期であり、「建武の新政」が円滑に進むよう、四天王寺に祈願したと思われる。

平安貴族の「太子信仰」
 平安貴族の間に、「太子信仰」は根強く浸透し、当時の日記類に色濃く反映されている。
 1023年(治安3年)、藤原道長は四天王寺参詣を行ったと「御堂関白期」に記している。藤原道長は、大和の長谷寺僧の夢に出てきた太子が弘法大師に生まれ変わり、さらに藤原道長になって現生に具現したという風聞を知っていたとされている。

 平安時代に入ると、浄土教の布教とともに「聖徳太子」を極楽に往生した「往生人」の第一人者とする信仰が起こった。
浄土真宗の祖である親鸞は、「聖徳太子」を「和国の教主」と讃えて、「聖徳太子」を讃える歌、「太子和讃」を数多く著した。
 「皇太子聖徳奉讃」、『皇太子聖徳奉讃』、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』などである。「太子和讃」の中で、親鸞は「聖徳太子」から阿弥陀如来の誓願を授かり、「聖徳太子」を「日本の仏教の祖」とし、「救世観音菩薩」の「化身」だとして崇拝した。
また寺院の本堂には太子孝養画像(十六歳像)を懸けるようになった。親鸞が「聖徳太子」の遺徳を大いに奉賛したことで、 「太子信仰」は全国的に広まった。

慶政上人の法隆寺復興
 法隆寺舎利殿は、夢殿の後方にある建物で、平安時代末期の学者、大江親通が著した「七大寺巡礼私記」では「七間亭」と称され、東の二間が宝蔵、西の三間が絵殿、中間の二間が馬道と拝殿になっていて、「唐本御影」は宝蔵にあった。宋の留学から帰朝し、法隆寺の復興に尽力した慶政上人は、1220年(承久2年)、この堂を「舎利殿」として再建した。その後小休止し、1230年から法隆寺東院全体の修復に乗り出し、夢殿や礼堂、回廊などの伽藍の修復や、太子御影や曼荼羅の制作、五重塔の塑像群の修復、「法華義疏」の補修などを行った。
 この法隆寺再興作業の一環として、「唐本御影」の表装替えを実施している。
 「聖徳太子伝私記」の裏書に、「唐本御影」を絹で裏書し、表を錦に替え、表装替えを行ったと記されている。
 「舎利殿:造立にあわせて、「舎利殿」に安置する宝物を修復したと思われ、「法華義疏」の補修や「唐本御影」の表装替えが行われたのであろう。
 作業は、京都で行われ、「法華義疏」や「唐本御影」は京都に運ばれた。

唐本御影」は「聖徳太子」の「真影」に
 1238年(嘉禎4年)、鎌倉四代将軍藤原頼経(九条)は上洛し、法隆寺の「聖徳太子」にちなむ寺宝拝観を望み、法隆寺に対して寺宝を京に運ぶように命じた。
 法隆寺寺宝の「出開帳」(でかいちょう)である。
 法隆寺に将軍の書状をしたため意向を伝えたのは、慶政上人であった。
 「出開帳」に共された寺宝には、太子二歳に時に掌手から現れたとされる仏舎利を始め、すべてが対象とされるというかつてない大規模であった。
 道中の水難を恐れて、一度だけ渡し舟を使ったのを除いて、すべて陸路で運んだ。寺宝に同行する「舎利預」には、法隆寺五師の中から三人が任じられたが、その一人、融源の代理として顕真が加わっていた。
 慶政上人と融源との密接な関係が背景にあったと思われる。
 寺宝の宿所は法性寺、将軍頼経は一族を連れて、宿所で寺宝を拝観したが、四時間もかかった。
 翌日は、後白川法王の娘、宣陽院の六条邸、北白川女院、土御門天皇の皇后など京の女院家や貴族の邸を回り、お布施を集めた。
 「出開帳」は、寺が布教をすると共に、資金集めが大きな目的なのである。
 さらに翌日には、近衛家の猪熊御所に入り、天皇から摂政・関白を任じられていた近衛家実、兼経親子は荘重な儀式を営んで寺宝を迎えたとされる。
 近衛邸で、「唐本御影」を拝謁した兼経は、「この太子像は決して他の国像ではない。日本人の装束は、昔はこうだった」と言ったと、顕真は「聖徳太子伝私記」で記している。 
 そして、冠をかぶり、太刀を帯してさらに笏を持つこの立像は太子の真実の御影だとし、二人の童子は太子の二人の皇子と説明している。
 兼経が、「この太子像は決して他の国像ではない」といったとしていること自体、極めて不自然で、やはり「唐本御影」を見た人は強い違和感を抱いた裏返しに違いない。
 慶政上人が行った法隆寺再興は、1230年から1240年の十年間に集中しているが、この期間は、鎌倉四代将軍頼経の父で摂政の九条道家が「太子信仰」に傾倒した時期に一致しているという。慶政上人は、道家に戒を授け、病気平癒の祈祷を行い、子の教実の死に際して弔いの作法を務めている。
 慶政上人の法隆寺再興に対して、財力の支援をしたのは、九条家だった。

 一方、近衛兼経は、慶政の唱える「阿佐太子の前に応現した太子は百済服を着ていた」とする説を否定し、「太子が着ていたのは異国の服ではなく、日本の古代の服である」と主張した。以後、「唐本御影」の作者は「阿佐太子」、着用していたのは「日本の古代の服」とされ、「唐本御影」に対する違和感は払拭され、「聖徳太子」の真像として疑問を持つ者は消えていく。
 そして、「冠帯」で「笏」を持つ姿が、「聖徳太子」の象徴となった。

「調子丸」の末裔を称した顕真
 「太子信仰」は盛んになったが、その中心寺院は、四天王寺であり、法隆寺は寺勢を盛り返したもの遠く及ばなかった。
四天王寺は、1007年に、「四天王寺御手印縁起」を、金堂内に安置されていた六重塔の中から発見したとする。 「縁起」の奥書には「乙卯歳月正月八日」(595年 推古3年)に「皇太子仏子勝鬘」(聖徳太子)が自ら著し、金堂内に収めたと記され、「皇太子仏子勝鬘」(聖徳太子)の朱色の手形が20か所以上も紙に押されているとした。
また「縁起」では、四天王寺の西門は『極楽土の東門』に相当し、参拝して寄進を行えば極楽浄土に往生することができる」と記されている。
こうして以前から広がっていた「太子信仰」と浄土信仰が結びつき、四天王寺は「太子信仰」の聖地となった。
これに対して、法隆寺は、寺宝は豊富に所蔵しているのもの、「聖徳太子」ゆかりの寺を掲げ、「太子信仰」を集める決め手は欠いていた。
こうした中で、顕真は、自らを「聖徳太子」の舎人で、「太子」の愛馬、甲斐の黒駒を飼養したと伝えられる「調子丸」の子孫であると主張し始めた。
そして「調子丸」は、当初はとされていたが、百済・聖明王の宰相の子で、「進調史」と共に来朝し、「聖徳太子」に仕えたとしている。
「聖徳太子伝歴」に記されている「阿佐太子」が「進調史」として百済から来朝したという記事(595年)を模したものであろう。
この逸話は、1238年(嘉禎4年)、京都「出開帳」の際、「舎利預」として上洛した時に備えたものと考えられている。「唐本御影」は「阿佐太子」の作とする説を補完し、「御影」は「聖徳太子」の「真影」と信じさせることに成功した。
顕真は、「調子丸二十八代の孫」(西大寺台座の銘文)とされるなど、「調子丸」の末裔となることで、法隆寺の中で、確固たる地位を確保した。1216年、後嵯峨上皇が、法隆寺に行啓した際には、顕真は、先達となって一行を金堂に案内したという。
こうして、法隆寺は、「唐本御影伝説」と「調子丸伝説」を広め、「太子信仰」の中心寺社として、四天王寺に追いつくことに成功した。

「唐本御影」の威力発揮 鵤荘問題
 1325年(正中2年)、「聖徳太子」の「真影」として認められた「唐本御影」がその権威を発揮した。
 606年(推古14年)、「聖徳太子」は推古天皇に勝鬘経と法華経を講経して、播磨国鵤荘の水田百町を賜った。しかし、建長年間、鵤荘の下司を殺害した罪で、鎌倉幕府に接収されてしまった。
 法隆寺は、二人の僧を鎌倉に派遣して寺領回復を陳情した。この時、鎌倉幕府を威圧するために、「唐本御影」を始め、太子の手皮を押したとされている至宝、梵網経や箭などの太子ゆかりの品を携えていた。
 七年間という長期に及んだ滞在の結果、鵤荘は法隆寺に全面的に戻された。
 ちなみに、1303年には、鵤荘の下司が、斑鳩寺の僧侶の私財を圧迫したとして、京都六波羅に訴え出たが、その際は、寺僧三十人を伴わせ「聖霊院御影」を上洛させた。この時の訴えは成功しなかった。
 この時期に、「唐本御影」は、「聖徳太子」の「真影」と幅広く認知されたいたことがわかる

「太子講」の興隆
室町時代の終わり頃から、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。
これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により「太子講」は盛んに営まれるようになった。
なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。
一方、武将たちからも聖徳太子が物部守屋討伐で先頭に立って戦い、勝利を
もたらしたことから、武運長久を祈願するようになった。
こうした「太子信仰」の興隆に中で、四天王寺は「四天王寺御手印縁起」の発見以来、「太子信仰」の中心的地位を確かなものとし、法隆寺は、太子が胎内より持ち来た舎利に対する信仰、叡福寺は、太子の墓所としての信仰と集め、「太子信仰」の拠点となった。

「江戸時代に批判にさらされた聖徳太子
 江戸時代に入ると、儒学者や国学者から太子は痛烈に批判をされる。
 太子は、日本古来の神道を軽視したことや、蘇我馬子による崇峻天皇暗殺を傍観したことなどで、非難中傷の矢面に立たされた。
 近世儒学の基礎を築いた林羅山は、「(馬子)崇峻を弑す。太子何ぞ馬を党して賊(馬子)を討たざるや。太子は宗室なり。すでに守屋の悪を掲げて稲城の役(物部守屋との戦い)を発す。守屋未だ嘗て君を弑せざるなり。その悪、其の罪何くにかある」とした。
 また大阪の儒学者、中井履軒は「弑逆王子の建てられし寺などは、是を拝みなば、わが身に汚れのつくべきことにこそ」と痛烈に批判した。
 法隆寺でも、国学者、平田篤胤の影響を受け、寺を去り、廃寺廃仏を支持する若い僧が現れた。

「太子信仰」の復権
 こうした状況から法隆寺が立ち直りを見せたのは、明治初年になって、法隆寺の寺宝に対する評価が高まり、貴重な宝物が伝えられていた
ことが明らかになったのがきっかけである。
 大正七年(1918年)、「聖徳太子」の遺徳が復権するできごとがあった。
 「聖徳太子」誕生一千三百年を記念して「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」が設立された。
 当時の経済界の重鎮、渋沢栄一は、若いころ国学を学んだことから、「予は水戸学派なり、聖徳太子は嫌いなり」としていたが、「奉賛会」の協力は拒否していたが、東京帝国大学教授の黒板勝美氏は、国史の立場から太子の偉業を説き、国学者の見解は誤りだと、渋沢栄一を説得した。
 これに対し、渋沢栄一は、初めて太子の真面目を理解したとして、「奉賛会」への協力を表明した。
 こうして、大正十年の「聖徳太子一千三百年御忌」の準備が整ったとされている。
 「奉賛会」の設立で、江戸時代の「聖徳太子」への批判論が一掃され、太子の威信は回復したとされる。
 そして、昭和五年(1930年)、「聖徳太子」の肖像が初めて百円紙幣に登場する。その紙幣には、「聖徳太子」の肖像とともに、法隆寺西院伽藍の全景と夢殿が描かれ、「聖徳太子」と法隆寺一色の紙幣となった。

 第二次世界大戦の敗戦で、国粋主義の強い人物の肖像は、GHQで排除されることになった。
 「聖徳太子」の肖像も追放寸前になったが、時の日銀総裁、一万田尚登は、太子は平和主義者で、「和」を標榜する文化人だったと主張し、紙幣からの追放を免れた。
 「和なるを以って貴となす」、「聖徳太子」は「和」の提唱者とする新たな「太子観」が形成された。
 しかし、戦前は第三条の「詔を承わりては必ず謹め。君をは天とす。臣は則ち地たり」が、「聖徳太子」の代表的な言葉とされていた。
 また「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」の趣意書の中でも「和」の文字は見当たらない。
 「和なるを以って貴となす」が「聖徳太子」の象徴となるのは戦後だった。

最高裁大法廷の壁画
 1950年、京都在住の日本画家、堂本印象は、最高裁判所大法廷壁画の製作の依頼を受け、三面の「聖徳太子絵伝」を描く。
 正面に「聖徳太子御巡国の図」、右に「間人皇后御慈愛の図」、左に「聖徳太子憲法御制定の図」(聖徳太子憲法御宣布)の構成である。
 堂本印象は、戦前から大徳寺、仁和寺、東寺、四天王寺などで、襖絵、壁画を手がけていた。
 最高裁の新庁舎の建設で、「聖徳太子絵伝」は、大法廷から最高裁図書館に移転し、現在は公開停止中である。


(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993年
「蘇我氏の古代史 ~謎の一族はなぜ滅びたか~」 武光誠 平凡社 2008年
「蘇我氏と大和王権」 古代史研究選書 加藤謙吉 吉川弘文館 1983年 
「秦氏とその民~渡来氏族の実像~」 加藤謙吉 白水社
「日本史なかの蘇我氏」 梅原毅 歴史読本 KADOKAWA 2016年 
「壬申の乱」 直木 孝次郎  塙選書 1961年
「古代史再検証 聖徳太子とは何か 別冊宝島」宝島社 2016年
「信仰の王権 聖徳太子」 武田佐和子 中央新書 1993年
「聖徳太子の歴史を読む 編著者 上田正昭 千田稔 文英堂 2008年  
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年





2017年9月1日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
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