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太子信仰 聖徳太子信仰 光明子 聖徳太子伝暦 行信 顕真 慶政 四天王寺

2017-09-06 09:47:24 | 古代史
「太子信仰」の真実
~「太子信仰」はこうして広まった~

 「聖徳太子」の威徳を讃える「太子信仰」は早くから伝説化され,各時代にさまざまな形で、盛んに崇拝されてきた。
 法隆寺釈迦三尊像の光背銘文には、「当に釈像の尺寸王見なるを造るべし」と記され、「釈迦三尊像=太子の姿」としている。光背銘文によれば、釈迦三尊像は太子が薨去した翌年の623年(推古31年)に造れられとしている。
「 日本書紀」(720年)では、「一に十人の訴を聞きたまひて」とか、「片岡遊行説話」など記され、「聖徳太子」を「聖人」化する逸話が記されている。
奈良時代には,聖徳太子を菩薩とみる伝記が出て、その後は、「聖徳太子=救世観音」とする信仰が広がった。また平安時代に入ると,浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生した往生人の第一人者とする信仰が起こった。
 「太子信仰」は、仏教でも神道でもない、日本人固有の「信仰」として、全国各地に幅広く浸透した。

日本書紀の「聖徳太子」伝説
 日本書紀では、「聖徳太子」を聖人化する逸話がたびたび登場する。
「物部守屋討伐における勝利祈願」や「生誕逸話」、「一に十人の訴を聞きたまひて」逸話、「片岡山飢人説話」、「高句麗の僧慧慈」逸話などが現れる。
日本書紀が完成した720年までに、「太子信仰」が各地で広まっていたことがわかる。

■ 「物部守屋討伐における勝利祈願」

 587年(用明2年)、蘇我馬子は、物部守屋討伐に乗り出す。
 日本書紀崇峻天皇即位前紀(587年)によると、討伐軍は、泊瀬部皇子(崇峻天皇)・竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子を先頭に立てて、紀男麻呂、巨勢臣比羅夫、膳臣拕賀夫、葛城臣鳥那羅を加え、「第一軍」とした。第二軍は、群臣だけの軍勢で物部守屋の邸に迫った。
 厩戸皇子はまだ14歳の少年だが、物部守屋討伐軍に参戦した。
 守屋は一族を集めて稲城(稲を積んで作った砦)を築き、守りを固めた。
 軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏軍勢は強盛で、「子弟や奴」を集め戦った。守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。その軍勢は強く士気が高く、館に満ち、野に溢れた。
朝廷軍は、「怯弱くして恐怖りて三廻却還く」(みたびしりぞく)とされ、すっかり怖気づいて、三度の退却を余儀なくされた。
 朝廷軍は、犠牲者も多く出たであろうと思われる。
 これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと、髪を「束髪於額」(ひさごはな)に結い、髪を分けて「角子」(あげまき)にし、「白漆木」(ぬりで)を切って四天王像を作り、額につけて、「今若し我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」と誓願して、先頭に立って進軍した。
 これをきっかに、討伐軍は攻勢に転じ、物部守屋に勝利したと伝えている。
 厩戸皇子は「武神」として描かれ、仏法に帰依した「聖者」としての厩戸皇子のイメージとはまったく違和感のある逸話で、相当、無理をして潤色されたものだろう。仏法の擁護者として、廃仏派を討伐した功績を記したかったと思われる。日本書紀は、太子を称賛し、「太子信仰」を広めるために、こうした逸話を掲載したと考えられる。
 後世に造られた「太子二歳像」(2歳の太子が合掌して「南無仏」と唱えたら掌に仏舎利が現れた)、「太子七歳像・童子形聖徳太子像」(太子は7歳で学問をはじめた)、「太子孝養像」(16歳の太子は、父・用明天皇の病気平癒を願って日夜香炉をささげて病床を見舞った)、「聖徳太子馬上霊像」(物部守屋討伐参戦)などは、「束髪於額」やの髪形をした姿とするなど日本書紀の記述に倣っている。

■ 「生誕逸話」(593年(推古元年)
 「夏四月の庚午の朔己卯に、厩戸豐聰耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて錄攝政らしむ。萬機を以て悉に委ぬ。橘豐日天皇の第二子なり。母の皇后を穴穗部間人皇女と曰す。皇后、懷姙開胎さむとする日に、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。馬官に至りたまひて、乃ち廐の戸に當りて、勞みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壯に及びて、一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く辨へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす。且、内教を高麗の僧慧慈に習ひ、外典を博士覺哿に學びたまふ。並に悉に達りたまひぬ。父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を稱へて、上宮廐戸豐聰耳太子と謂す」
 
「夏の四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみのみこと)を立てて、皇太子とし、摂政として国政のすべてを任せた。太子は用明天皇の第二子で、母はの皇后を穴穗部間人皇女という。皇后は、出産予定日に禁宮中を巡り、諸司を観察した。馬司(うまのつかさ)のところに行った時、厩の戸に当たって、難無く出産した。太子は、生まれてすぐ物をいった。聖人の知恵をもち、成人してからは、一度に十人の訴えを聞いても、間違うことなく、未来のことまで知ることができた。また仏教を高麗(高句麗)の僧慧慈(えじ)に習い、儒教の経典を博士の覺哿(かくが)に学んだ。そして、それをことごとく極めた。父の天皇が可愛がって、宮の南の上殿に住まわせた。そこで、その名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳皇子という」

 身重の皇后が宮殿の内外を巡察していたところ、馬屋の戸に当たり、産気づいたが、幸いにも皇后には差障りはなく、無事、その場で出産した。聖徳太子は馬屋の前で生まれた伝説である。「厩戸皇子」の名の謂れとされている。
 この逸話は、イエス・キリストの生誕が連想される。キリスト教の影響があったと考えるむきも多い。
 「新約聖書ルカ伝」では、聖母マリアがベツレヘムの馬屋でキリストを生み、布の帯でくるんで飼い葉桶の中に横たえたという。
中国にキリスト教が伝わったのは、唐の時代、景経として伝来した。
 ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルの大司教、ネストリウスは、異端として追放、その一派はペルシャ・インド・中国へ布教をすすめ、長安には景教の教会も建てられた。
 唐から伝わった景教の影響でこの逸話が生れたのであろう。

 厩戸の意称は「豊聡耳」(とよとみみ)。馬は、「耳がさとく、賢い動物」とされていた。蘇我馬子も「馬」の字を使った。
 当時の馬は貴重な動物で、大切にされていた。徒歩で移動して人々にとっては、馬の速度は神秘的だった。立派な「厩」を持つことは、富と権力の象徴だ

 「ひとたび十人(とたり)の訴えを聞きたまいて、失ち(あやまち)たまはずして能く弁(わきま)へたまう」
 一度に十人の訴えを聞くことができたという有名な逸話である。

■ 「片岡山飢人説話」(613年 推古21年)
 「十二月の庚午の朔に、皇太子、片岡に遊行でます。時に飢者、道の垂に臥せり。仍りて姓名を問ひたまふ。而るに言さず。皇太子、視して飲食与へたまふ。即ち衣裳を脱きたまひて、飢者に覆ひて言はく、「安に臥せれ」とのたまふ。

 辛未(十二月)に、皇太子、使を遣して飢者を視しめたまふ。使者、還り来て曰さく、「飢者、既に死りたり」とまうす。爰に皇太子、大きに悲びたまふ。則ち因りて当の処に葬め埋ましむ。墓固封む。數日之後、皇太子、近く習る者を召して、謂りて曰はく、『先の日に道に臥しし飢者、其れ凡人に非じ。必ず眞人ならむ」とのたまひて、使を遣して視しむ。是に、使者、還り来て曰さく、「墓所に到りて視れば、封め埋みしところ動かず。乃ち開きて見れば、屍骨既に空しくなりたり。唯衣服をのみ疊みて棺の上に置けり』とまうす。是に、皇太子、復使者を返して、其の衣を取らしめたまふ。常の如く且服る。時の人、大きに異びて曰く、「聖の聖を知ること、其れ実なるかな」といふ。逾惶る」

 「推古21年、12月1日。皇太子は片岡(かたおか=現在の奈良県北葛城郡香芝町今泉)に遊行した。その時、飢えた人が道端に伏せていた。姓名を問いかけても何も言わなかった。皇太子は飲食物を与え、衣裳(みけし=衣服)を脱いで飢えた人を覆って、「安らかに、伏せて」と言った。
それで歌を詠んだ。
 「しなてる 片岡山に 飯(いい)に餓(え)て 臥(こや)せる その田人(たひと=旅人)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に餓て 臥せる その田人(あはれ)」
歌の訳(『しなてる』)は「片岡山で食べ物に飢えて倒れている旅人はかわいそう。親もなく、お前は生まれたのか、(『さすたけの』は君の枕詞)仕える君主はいないのか、優しい恋人はいないのか、食べ物に飢えて、倒れている旅人はかわいそうだ」
 翌日、皇太子は使者を派遣して、飢えた人を視察させ、帰って来て言った。
 「飢えたものはすでに死んでいた」
 皇太子は大いに悲しみ、すぐにその場所に葬り、墓(つか)を固く封じた。
 数日後、皇太子はその近くに仕えている人を呼び寄せて言った。
『この前の日に、道に伏せて倒れていた飢えた人は、凡人ではない。必ず真人(ひじり=聖者)だろう』
 使者を派遣して視察させ、帰って来て言った。
 「墓のところに到着して見ると、固めて封じて埋めて動いていなかった。開いてみると、屍骨(かばね)は既に空だった。 ただ衣服を畳んで、棺の上に置いてあった」
皇太子は、また使者を返して、その衣服を取らせ、いつものようにまた衣服を着た。その時代の人はとても不思議がって言った。
 『聖者が聖者を知る。それは真実だな』
 いよいよ皇太子に畏まった」
 「真人」とは、道教の用語で、「仙人」を意味するが、こうした「仙人」逸話が日本書紀に登場するは、太子を実在した「聖人」として記録したかったのであろう。

■「高句麗の僧慧慈」逸話(621年 推古29年)
「二十九年の春二月の己丑の朔癸巳(二月五日)に、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王、諸臣及び天下の百姓、悉く長老は愛き兒を失へるが如くして、塩酢の味、口に在れども嘗めず。少幼は慈の父母を亡へるが如くして、哭き泣つる声、行路に満てり。乃ち耕す夫は耜を止み、舂く女は杵せず。皆曰く、「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬ。今より以後、誰をか恃まむ」といふ」

 「即位29年春2月5日。半夜(よなか=夜中)に厩戸豊聡耳皇子命が斑鳩宮で亡くなった。この時、諸々の王・諸々の臣と天下(あめのした)の百姓は全員、長老や愛する児を失ったようになって、塩や酢の味が口にあっても分からないほどだった。年少の幼いものは、愛する父母が失ったように、慟哭し泣いた声が行く道に満ちた。耕す夫(農夫)は耜(すき)を止めて、稲をつく女からは杵の音がしなった。皆が言った。
『日と月は輝きを失い、天地はすでに崩れた。今より以後、誰に頼ればいいのか』
 
 続いて、厩戸皇子の師で、高句麗に帰国していた慧慈の逸話になる。
 「是の月に、上宮太子を磯長陵に葬る。是の時に当たりて、高麗の僧慧慈、上宮皇太子薨りませぬと聞きて、大きに悲ぶ。皇太子の爲に、僧を請せて設齋す。仍りて親ら経を説く日に、誓願ひて曰く、『日本国に聖人有す。上宮豊聡耳皇子と曰す。固に天に縱されたり。玄なる聖の德を以て、日本の国に生れませり。三統を苞み貫きて、先聖の宏猷に纂きて、三寶を恭み敬ひて、黎元の厄を救ふ。是実の大聖なり。今太子既に薨りましぬ。我、国異なりと雖も、心断金に在り。其れ独り生くとも、何の益かあらむ。我来年の二月の五日を以て必ず死らむ。因りて上宮太子に淨土に遇ひて、共に衆生を化さむ』といふ。是に、慧慈期りし日に当たりて死る。是を以て、時の人の彼も此も共に言く、「其れ独り上宮太子の聖に非らず。慧慈も聖なりけり」

 「即位29年2月)この月、上宮太子を磯長陵(しながのみささぎ)に葬った。この時に当たって、高麗の僧の慧慈は上宮皇太子が亡くなったと聞いて、大いに悲しんだ。皇太子のために僧に請願して設斎(おがみ)をし、自ら経を説いた日に、誓い願いて言った。
 『日本国に聖人(ひじり)がいました。上宮豊聡耳皇子と言い、まことに天に許されていた。素晴らしいほどの聖人の徳を持ち、日本の国に生まれた。三統(きみのみち=夏殷周の中国の古代の国・伝説的王の禹王・湯王・文王の時代)を追い抜いて、先人の聖人の宏猷(おおいなるのり=広大な計画)を引き継ぎ、三宝(仏・法・僧)を慎み敬い、人民を厄災から救った。これは真実の大聖人である。今、太子はなくなった。私は国が違っていても、心は強く繋がっていて、その友情は金属も断つほどなのである。これから独りで生きていても、何の利益があるというのか。私は来年の2月5日を持って、必ず死ぬ。それで上宮太子と浄土で会い、ともに衆生(しゅうじょう)に生まれ変わろう』
 慧慈は約束した日になって死んだ。その時代の人は誰も彼もが共に言った。
 「上宮太子(聖徳太子)だけが聖人なのではない。慧慈もまた聖人だ」
 こうした記事から、「聖徳太子」を「聖人」とする「太子信仰」が、日本書紀が完成するまでに定着していたと考えられる。

聖徳太子伝説
 「太子信仰」が少しずつ広がるにつれて、様々な逸話が誕生していく。 
皇女が妊娠8ヶ月になると、胎内の子がものを言い始めた。12ヶ月経ってようやく出産したが、誕生の瞬間、産室が赤黄色の光で満たされ、宮殿の上には瑞雲がたなびいた。産湯につかわせると、体からなんともいえぬ芳香が立ち上り、長く消えなかった。
 ちなみに、誕生したばかりの釈迦は、直ちに四方に七歩ずつ歩き、右手を上げて「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられている。
 「聖徳太子」二歳の年の2月15日、釈迦入滅の日に、東を向いて立ち、合掌して「南無仏」と唱えた。この時の姿とする上半身裸で緋の袴をはいた童子像は「南無太子像」と呼ばれ、「太子信仰」の興隆とともに、全国各地で多数造られている。

「太子信仰」の祖 光明子 行信
 「聖徳太子」を信仰の対象としたのは、聖武天皇の皇后、光明子(持統天皇)である。
当時、大地震や疫病が流行し、社会不安が渦巻いていた。光明子は、仏法に救いを求め、全国に国分寺や国分尼寺を建てたり、東大寺を造立したりして、「太子信仰」を興隆した。
 734年(天平6年)は、「太子信仰」の成立にあたって重要な年となった。
 この年、光明子は、四天王寺に食封の増加を授け、僧には布施を施入するとともに法隆寺には幡や薬などの資材を授けた。(「法隆寺伽藍縁起資材帳」)
 二つの寺院に対する措置は、2月22日の太子の忌日に合わせて実施された可能性があり、天平7と8年にも同様の措置がとられた。
 735年(天平7年)、光明子と聖武天皇の娘、阿倍内親王(孝謙天皇)は、「法華経」講読の大法会を盛大に開いた。
「法華経」には、女人が男性に転生することで往生を説く提婆達多品(だいばだつたほん)があり、女性との関わり合いの深い経典で、「太子信仰」の基をなすとされている。
 737年、天然痘が大流行し、藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂、藤原宇合の藤原一族が死亡し、朝廷は大混乱に陥る。光明子は、救いを仏法に求める。

 739年(天平11年)には、斑鳩宮跡に「法隆寺東院」(「夢殿」)が建立された。「法隆寺東院縁起」には、斑鳩宮の光背を嘆いた行信が、八角堂(夢殿)を建てて、太子在世中につくられた救世観音を安置したとしている。
 「夢殿」は法隆寺東院の正堂で、本尊は、「太子等身」と伝える救世観音立像である。「夢殿」の名は,斑鳩宮に同名の建物があり、聖徳太子が経疏(きょうしょ)執筆中に疑問を生じて持仏堂に籠ると、夢に金人(きんじん)が現れて疑義を解いたという伝承による。
 「夢殿」の創建に尽力したのは、法隆寺の僧行信、当時、太子一族滅亡の後、荒廃していた法隆寺の伽藍を修復して再興した。法隆寺の多くの寺宝もこの時期に集められたと思われる。
光明子(持統天皇)や阿倍内親王(孝謙天皇)と中心とする「後宮」が莫大な資金を行信に授けたと思われ、「太子信仰」の興隆に大きな役割を果たした。

 奈良時代には,「聖徳太子」を「菩薩」とみる伝記が現れ、聖徳太子は「観音菩薩の化身」、つまり「観音菩薩の生まれ変わり」という信仰が始まった。
 そして、「夢殿」の造立で、太子等身と伝えられる「救世観音」を安置したことでえ、「聖徳太子」は「救世観音」であるという信仰が根付いていった。
 また奈良時代、法隆寺夢殿や四天王寺聖霊大殿で、「聖徳太子」の命日2月22日に「聖霊会」(しょうりょうえ)が営まれるようになり、「太子信仰」に核と形ができた。「仏舎利」(ブッダ)と「救世観音」(太子)を拝して往生の安心を得るという信仰である。
 「聖徳太子」は、仏法興隆の最大の功労者とされ、「法皇」とか「聖王」と呼ばれ、「本朝(日本)の釈迦」と仰がれた。
 
最澄、空海と「太子信仰」
 8世紀になると、空海や最澄らの高僧による摂津の四天王寺巡錫(錫杖を持って巡行する意 僧が各地をめぐり歩いて教えを広めること)が行われた。
 そして仏教興隆最初の寺院である飛鳥寺や四天王寺、法隆寺など「聖徳太子」ゆかりの寺への参詣が脚光を浴びる。
 とりわけ天台宗の最澄は、法華経を中心にして天台教学の布教を願い、「聖徳太子」を慧思(中国天台宗第二祖)の後身として大いに崇拝し、自らは玄孫であるといた。また真言宗では空海を太子の後身と位置付けている。
 禅宗では、太子が片岡山で有った旅人を達磨の化身として敬うこととなり、片岡山に達磨寺が創建された。 

 現存する最古の聖徳太子伝記、「上宮聖徳太子伝補闕記」(9世紀から10世紀前半に成立)では、「聖徳太子=救世観音」とする信仰を定着させた。

「太子信仰」の集大成 「聖徳太子伝暦」
 平安中期に、流布していた説話や伝説、予言を集大成し、聖徳太子の伝記、「聖徳太子伝暦」(917年)が完成した。この「伝暦」で太子の伝説化はほぼ完成したとされている。
 「穴穂部間人皇女が夢に金色の僧を見て懐胎した」、「厩戸の前で太子を出産した」、「二歳の春に、東に向かって合掌して『南無仏』を唱えた」、「十二歳、太子に対面した日羅が『救世観音』と礼賛した」、「二十四歳、一度に八人(十人)の訴えを聞き分けた」、「二十六歳、百済の阿佐太子が、太子を『救世観音菩薩』として礼拝し、その時に太子の眉間から光を放つ」、「二十七歳、太子は黒駒に乗って富士山に駆け上る」、「四十二歳、大和の片岡山で飢人に出会って紫袍を与えた」などの逸話が記されている。
 「百済の阿佐太子礼拝逸話」は、後に「唐本御影」は、百済の王族出身の画家、「阿佐太子」が、「阿佐太子」前に「応現」した姿を描いたものだとする説の出所となっている。

「絵伝」の成立 
 平安後期以降、「聖徳太子伝暦」をもとに、多くの「絵伝・絵巻」や「彫像・画像、和讃」が全国各地で制作され、「太子信仰」を盛んにした。
 四天王寺では、8世紀に寺僧が「聖徳太子伝暦」を基に太子の事績を描いた「説話画」を製作し、「絵解き」(えとき)を行ったという記録が残されている。「聖徳太子絵伝太子伝」の登場である。
法隆寺では、1069年(延久元年)東院に「絵殿」が建立され、「聖徳太子絵伝太子伝」と太子童子形像を祀った。
 「聖徳太子絵伝太子伝」は、聖徳太子の伝記を絵画化した「説話画」で、絵殿の堂宇三方の壁面五間に描かれた障子絵である。鎌倉時代以降に数多く描かれる太子絵伝のうち、製作時期の判明するものとしては最も古い「絵伝」である。 
1069年(延久元年)、摂津国の絵師秦致貞 (はたのちてい) の作とされ、太子の伝記を約七十の場面の逸話にして,壮大な山水を背景に寺院や寝殿などを配して絵を構成しながら太子の事績を描いた。
 これらは917年(延喜17年)に藤原兼輔が撰した「聖徳太子伝暦」に拠って描かれ、絵とともに色紙形題銘が付けられている。「聖徳太子絵伝太子伝」の特徴は太子の事績を四季によって分別し、春夏秋冬を四面に描き分けている点にある。
 唐代の大画面仏教説話画に源流をもつ、11世紀の貴重な作品である。
 法隆寺で祀られていた当時は、作品の状態が悪く保全のために外され、1788(天明8年)年には二曲五隻の屏風に改装された。
 1878(明治11年)年、「法隆寺献納御物」として皇室に献上され、戦後、「法隆寺献納宝物」となり、皇室から国立博物館に移管された。1968(昭和43年)年から1972(昭和47年)年にかけて、屏風から現在の10面の額装に改められた。現在は東京国立博物館所蔵の国宝である。
 法隆寺では、この「絵伝」をもとに「絵解き」が盛んに催され、「太子信仰」興隆の中心的な役割を果たした

 一方、四天王寺の聖霊院絵殿には、遠江法橋筆(1323年 元亨3年)や狩野山楽筆(1623年 元和9年)の「絵伝」が残されている。
 また、橘寺には、「聖徳太子伝暦」を典拠にして、聖徳太子の入胎から薨去に至る出来事を大和絵の手法を用いて描いた「絹本著色太子絵伝」が所蔵されている。土佐光信の筆と伝える八幅の屏風に描かれている「絵伝」で、おそらくは鎌倉時代の南都絵所系の製作になるものと思われる
 筆法・彩色共に優れ、当時の「太子信仰」が窺える貴重な資料だ。

 また鶴林寺(かくりんじ)の「絹本著色聖徳太子絵伝 8幅」( 鎌倉時代)も知られている。鎌倉後期から室町前期にかけての絵で、作者不詳。
 富士山に登山した黒駒に乗馬した「聖徳太子」描かれている。
 この「絵伝」は、2002年に韓国人犯行グループによって盗難に遭い、その翌年には取り戻されたが、損傷していたため、5年の歳月と5000万円を掛けて修復が行われた。

「太子信仰」の聖地となった四天王寺
 1007年、難波の四天王寺で、四天王寺の僧侶、慈運が、金堂内に安置されていた六重塔の中から、「四天王寺御手印縁起」を発見したと伝えられている。これが、四天王寺が「太子信仰」の中心寺社となるきっかけとなる。
 「四天王寺御手印縁起」は、「「根本本」とも称され、その奥書には「乙卯歳月正月八日」(595年 推古3年)に『皇太子仏子勝鬘』(聖徳太子)が自ら著し、金堂内に収めたと記されている。『皇太子仏子勝鬘』(聖徳太子)の朱色の手形が20か所以上も紙に押されているとした。
 実際は、太子自身が著したものではなく、1007年に四天王の僧が作成したもの見られている。手形も太子のものではない。
「四天王寺縁起」には「ここに敬田院、施薬院、療病院の四箇院を建立し、四天王寺とする。ここはかつて釈迦が説法をした地であり、私(聖徳太子)はその時釈迦を供養する長者の身であった。かつて百済にあった時は、救世観音などを倭に送り、『勝鬘経義疏』や『法華義疏』を作った。私は没しても生まれ変わり続けているのであり、これからも仏法を広め人々を救済するであろう。四天王寺の西門は『極楽土の東門』に相当し、宝塔と金堂は『極楽浄土東門の中心』とし、四天王寺を参拝して寄進を行えば極楽浄土に往生することができる」と記されている。
 この「四天王寺縁起」により、以前から広がっていた「太子信仰」と浄土信仰が結びつき、四天王寺は「太子信仰」の聖地となった。
 四天王寺には、天皇や有力者をはじめ様々な階層の人が数多く訪れ、こぞって寄進するようになりなった。人々は四天王寺の西門で、西門の先にあるとされた極楽浄土への往生を願った。四天王寺は、「太子信仰」の寺院として不動の地位を築き上げた。
 その後、法然をはじめとする浄土教の上人や時宗の一遍、律宗の叡尊など多くの僧が四天王寺を訪れ、困窮者に粥などを施し布教を行った。

 1335年(建武2年)、後醍醐天皇によって、「四天王寺縁起」が書写され、「後醍醐天皇宸翰本」と呼ばれる。奥書部分には、天皇の2つの朱色の手形が押され今も鮮やかに残っている。
建武2年は、「建武の新政」が行われた時期であり、「建武の新政」が円滑に進むよう、四天王寺に祈願したと思われる。

平安貴族の「太子信仰」
 平安貴族の間に、「太子信仰」は根強く浸透し、当時の日記類に色濃く反映されている。
 1023年(治安3年)、藤原道長は四天王寺参詣を行ったと「御堂関白期」に記している。藤原道長は、大和の長谷寺僧の夢に出てきた太子が弘法大師に生まれ変わり、さらに藤原道長になって現生に具現したという風聞を知っていたとされている。

 平安時代に入ると、浄土教の布教とともに「聖徳太子」を極楽に往生した「往生人」の第一人者とする信仰が起こった。
浄土真宗の祖である親鸞は、「聖徳太子」を「和国の教主」と讃えて、「聖徳太子」を讃える歌、「太子和讃」を数多く著した。
 「皇太子聖徳奉讃」、『皇太子聖徳奉讃』、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』などである。「太子和讃」の中で、親鸞は「聖徳太子」から阿弥陀如来の誓願を授かり、「聖徳太子」を「日本の仏教の祖」とし、「救世観音菩薩」の「化身」だとして崇拝した。
また寺院の本堂には太子孝養画像(十六歳像)を懸けるようになった。親鸞が「聖徳太子」の遺徳を大いに奉賛したことで、 「太子信仰」は全国的に広まった。

慶政上人の法隆寺復興
 法隆寺舎利殿は、夢殿の後方にある建物で、平安時代末期の学者、大江親通が著した「七大寺巡礼私記」では「七間亭」と称され、東の二間が宝蔵、西の三間が絵殿、中間の二間が馬道と拝殿になっていて、「唐本御影」は宝蔵にあった。宋の留学から帰朝し、法隆寺の復興に尽力した慶政上人は、1220年(承久2年)、この堂を「舎利殿」として再建した。その後小休止し、1230年から法隆寺東院全体の修復に乗り出し、夢殿や礼堂、回廊などの伽藍の修復や、太子御影や曼荼羅の制作、五重塔の塑像群の修復、「法華義疏」の補修などを行った。
 この法隆寺再興作業の一環として、「唐本御影」の表装替えを実施している。
 「聖徳太子伝私記」の裏書に、「唐本御影」を絹で裏書し、表を錦に替え、表装替えを行ったと記されている。
 「舎利殿:造立にあわせて、「舎利殿」に安置する宝物を修復したと思われ、「法華義疏」の補修や「唐本御影」の表装替えが行われたのであろう。
 作業は、京都で行われ、「法華義疏」や「唐本御影」は京都に運ばれた。

唐本御影」は「聖徳太子」の「真影」に
 1238年(嘉禎4年)、鎌倉四代将軍藤原頼経(九条)は上洛し、法隆寺の「聖徳太子」にちなむ寺宝拝観を望み、法隆寺に対して寺宝を京に運ぶように命じた。
 法隆寺寺宝の「出開帳」(でかいちょう)である。
 法隆寺に将軍の書状をしたため意向を伝えたのは、慶政上人であった。
 「出開帳」に共された寺宝には、太子二歳に時に掌手から現れたとされる仏舎利を始め、すべてが対象とされるというかつてない大規模であった。
 道中の水難を恐れて、一度だけ渡し舟を使ったのを除いて、すべて陸路で運んだ。寺宝に同行する「舎利預」には、法隆寺五師の中から三人が任じられたが、その一人、融源の代理として顕真が加わっていた。
 慶政上人と融源との密接な関係が背景にあったと思われる。
 寺宝の宿所は法性寺、将軍頼経は一族を連れて、宿所で寺宝を拝観したが、四時間もかかった。
 翌日は、後白川法王の娘、宣陽院の六条邸、北白川女院、土御門天皇の皇后など京の女院家や貴族の邸を回り、お布施を集めた。
 「出開帳」は、寺が布教をすると共に、資金集めが大きな目的なのである。
 さらに翌日には、近衛家の猪熊御所に入り、天皇から摂政・関白を任じられていた近衛家実、兼経親子は荘重な儀式を営んで寺宝を迎えたとされる。
 近衛邸で、「唐本御影」を拝謁した兼経は、「この太子像は決して他の国像ではない。日本人の装束は、昔はこうだった」と言ったと、顕真は「聖徳太子伝私記」で記している。 
 そして、冠をかぶり、太刀を帯してさらに笏を持つこの立像は太子の真実の御影だとし、二人の童子は太子の二人の皇子と説明している。
 兼経が、「この太子像は決して他の国像ではない」といったとしていること自体、極めて不自然で、やはり「唐本御影」を見た人は強い違和感を抱いた裏返しに違いない。
 慶政上人が行った法隆寺再興は、1230年から1240年の十年間に集中しているが、この期間は、鎌倉四代将軍頼経の父で摂政の九条道家が「太子信仰」に傾倒した時期に一致しているという。慶政上人は、道家に戒を授け、病気平癒の祈祷を行い、子の教実の死に際して弔いの作法を務めている。
 慶政上人の法隆寺再興に対して、財力の支援をしたのは、九条家だった。

 一方、近衛兼経は、慶政の唱える「阿佐太子の前に応現した太子は百済服を着ていた」とする説を否定し、「太子が着ていたのは異国の服ではなく、日本の古代の服である」と主張した。以後、「唐本御影」の作者は「阿佐太子」、着用していたのは「日本の古代の服」とされ、「唐本御影」に対する違和感は払拭され、「聖徳太子」の真像として疑問を持つ者は消えていく。
 そして、「冠帯」で「笏」を持つ姿が、「聖徳太子」の象徴となった。

「調子丸」の末裔を称した顕真
 「太子信仰」は盛んになったが、その中心寺院は、四天王寺であり、法隆寺は寺勢を盛り返したもの遠く及ばなかった。
四天王寺は、1007年に、「四天王寺御手印縁起」を、金堂内に安置されていた六重塔の中から発見したとする。 「縁起」の奥書には「乙卯歳月正月八日」(595年 推古3年)に「皇太子仏子勝鬘」(聖徳太子)が自ら著し、金堂内に収めたと記され、「皇太子仏子勝鬘」(聖徳太子)の朱色の手形が20か所以上も紙に押されているとした。
また「縁起」では、四天王寺の西門は『極楽土の東門』に相当し、参拝して寄進を行えば極楽浄土に往生することができる」と記されている。
こうして以前から広がっていた「太子信仰」と浄土信仰が結びつき、四天王寺は「太子信仰」の聖地となった。
これに対して、法隆寺は、寺宝は豊富に所蔵しているのもの、「聖徳太子」ゆかりの寺を掲げ、「太子信仰」を集める決め手は欠いていた。
こうした中で、顕真は、自らを「聖徳太子」の舎人で、「太子」の愛馬、甲斐の黒駒を飼養したと伝えられる「調子丸」の子孫であると主張し始めた。
そして「調子丸」は、当初はとされていたが、百済・聖明王の宰相の子で、「進調史」と共に来朝し、「聖徳太子」に仕えたとしている。
「聖徳太子伝歴」に記されている「阿佐太子」が「進調史」として百済から来朝したという記事(595年)を模したものであろう。
この逸話は、1238年(嘉禎4年)、京都「出開帳」の際、「舎利預」として上洛した時に備えたものと考えられている。「唐本御影」は「阿佐太子」の作とする説を補完し、「御影」は「聖徳太子」の「真影」と信じさせることに成功した。
顕真は、「調子丸二十八代の孫」(西大寺台座の銘文)とされるなど、「調子丸」の末裔となることで、法隆寺の中で、確固たる地位を確保した。1216年、後嵯峨上皇が、法隆寺に行啓した際には、顕真は、先達となって一行を金堂に案内したという。
こうして、法隆寺は、「唐本御影伝説」と「調子丸伝説」を広め、「太子信仰」の中心寺社として、四天王寺に追いつくことに成功した。

「唐本御影」の威力発揮 鵤荘問題
 1325年(正中2年)、「聖徳太子」の「真影」として認められた「唐本御影」がその権威を発揮した。
 606年(推古14年)、「聖徳太子」は推古天皇に勝鬘経と法華経を講経して、播磨国鵤荘の水田百町を賜った。しかし、建長年間、鵤荘の下司を殺害した罪で、鎌倉幕府に接収されてしまった。
 法隆寺は、二人の僧を鎌倉に派遣して寺領回復を陳情した。この時、鎌倉幕府を威圧するために、「唐本御影」を始め、太子の手皮を押したとされている至宝、梵網経や箭などの太子ゆかりの品を携えていた。
 七年間という長期に及んだ滞在の結果、鵤荘は法隆寺に全面的に戻された。
 ちなみに、1303年には、鵤荘の下司が、斑鳩寺の僧侶の私財を圧迫したとして、京都六波羅に訴え出たが、その際は、寺僧三十人を伴わせ「聖霊院御影」を上洛させた。この時の訴えは成功しなかった。
 この時期に、「唐本御影」は、「聖徳太子」の「真影」と幅広く認知されたいたことがわかる

「太子講」の興隆
室町時代の終わり頃から、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。
これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により「太子講」は盛んに営まれるようになった。
なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。
一方、武将たちからも聖徳太子が物部守屋討伐で先頭に立って戦い、勝利を
もたらしたことから、武運長久を祈願するようになった。
こうした「太子信仰」の興隆に中で、四天王寺は「四天王寺御手印縁起」の発見以来、「太子信仰」の中心的地位を確かなものとし、法隆寺は、太子が胎内より持ち来た舎利に対する信仰、叡福寺は、太子の墓所としての信仰と集め、「太子信仰」の拠点となった。

「江戸時代に批判にさらされた聖徳太子
 江戸時代に入ると、儒学者や国学者から太子は痛烈に批判をされる。
 太子は、日本古来の神道を軽視したことや、蘇我馬子による崇峻天皇暗殺を傍観したことなどで、非難中傷の矢面に立たされた。
 近世儒学の基礎を築いた林羅山は、「(馬子)崇峻を弑す。太子何ぞ馬を党して賊(馬子)を討たざるや。太子は宗室なり。すでに守屋の悪を掲げて稲城の役(物部守屋との戦い)を発す。守屋未だ嘗て君を弑せざるなり。その悪、其の罪何くにかある」とした。
 また大阪の儒学者、中井履軒は「弑逆王子の建てられし寺などは、是を拝みなば、わが身に汚れのつくべきことにこそ」と痛烈に批判した。
 法隆寺でも、国学者、平田篤胤の影響を受け、寺を去り、廃寺廃仏を支持する若い僧が現れた。

「太子信仰」の復権
 こうした状況から法隆寺が立ち直りを見せたのは、明治初年になって、法隆寺の寺宝に対する評価が高まり、貴重な宝物が伝えられていた
ことが明らかになったのがきっかけである。
 大正七年(1918年)、「聖徳太子」の遺徳が復権するできごとがあった。
 「聖徳太子」誕生一千三百年を記念して「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」が設立された。
 当時の経済界の重鎮、渋沢栄一は、若いころ国学を学んだことから、「予は水戸学派なり、聖徳太子は嫌いなり」としていたが、「奉賛会」の協力は拒否していたが、東京帝国大学教授の黒板勝美氏は、国史の立場から太子の偉業を説き、国学者の見解は誤りだと、渋沢栄一を説得した。
 これに対し、渋沢栄一は、初めて太子の真面目を理解したとして、「奉賛会」への協力を表明した。
 こうして、大正十年の「聖徳太子一千三百年御忌」の準備が整ったとされている。
 「奉賛会」の設立で、江戸時代の「聖徳太子」への批判論が一掃され、太子の威信は回復したとされる。
 そして、昭和五年(1930年)、「聖徳太子」の肖像が初めて百円紙幣に登場する。その紙幣には、「聖徳太子」の肖像とともに、法隆寺西院伽藍の全景と夢殿が描かれ、「聖徳太子」と法隆寺一色の紙幣となった。

 第二次世界大戦の敗戦で、国粋主義の強い人物の肖像は、GHQで排除されることになった。
 「聖徳太子」の肖像も追放寸前になったが、時の日銀総裁、一万田尚登は、太子は平和主義者で、「和」を標榜する文化人だったと主張し、紙幣からの追放を免れた。
 「和なるを以って貴となす」、「聖徳太子」は「和」の提唱者とする新たな「太子観」が形成された。
 しかし、戦前は第三条の「詔を承わりては必ず謹め。君をは天とす。臣は則ち地たり」が、「聖徳太子」の代表的な言葉とされていた。
 また「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」の趣意書の中でも「和」の文字は見当たらない。
 「和なるを以って貴となす」が「聖徳太子」の象徴となるのは戦後だった。

最高裁大法廷の壁画
 1950年、京都在住の日本画家、堂本印象は、最高裁判所大法廷壁画の製作の依頼を受け、三面の「聖徳太子絵伝」を描く。
 正面に「聖徳太子御巡国の図」、右に「間人皇后御慈愛の図」、左に「聖徳太子憲法御制定の図」(聖徳太子憲法御宣布)の構成である。
 堂本印象は、戦前から大徳寺、仁和寺、東寺、四天王寺などで、襖絵、壁画を手がけていた。
 最高裁の新庁舎の建設で、「聖徳太子絵伝」は、大法廷から最高裁図書館に移転し、現在は公開停止中である。


(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「大化改新 ―六四五年六月の宮廷革命」 遠山美都男 中公新書 1993年
「蘇我氏の古代史 ~謎の一族はなぜ滅びたか~」 武光誠 平凡社 2008年
「蘇我氏と大和王権」 古代史研究選書 加藤謙吉 吉川弘文館 1983年 
「秦氏とその民~渡来氏族の実像~」 加藤謙吉 白水社
「日本史なかの蘇我氏」 梅原毅 歴史読本 KADOKAWA 2016年 
「壬申の乱」 直木 孝次郎  塙選書 1961年
「古代史再検証 聖徳太子とは何か 別冊宝島」宝島社 2016年
「信仰の王権 聖徳太子」 武田佐和子 中央新書 1993年
「聖徳太子の歴史を読む 編著者 上田正昭 千田稔 文英堂 2008年  
「日本史年表」 歴史学研究会編 岩波書店 1993年





2017年9月1日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
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