goo blog サービス終了のお知らせ 

空想のねじ

好奇心のおもむくままに、チャレンジしたこと、行動したこと、感じたこと、思ったことを綴っていこうと思います。

素戔嗚尊を巡る旅〜素盞雄神社 続編〜

2020-02-23 21:00:00 | 神社・仏閣巡り



素盞雄神社の続きです。

素盞雄神社は日光街道を千住大橋方面へ向かい、途中の細い道を左に入って数メートル先に正面の入り口があり、南向きにお社は建っています。

境内は、正面の鳥居の他に左右にも鳥居があって、3カ所から入ることができます。参拝して境内をウロウロしていると、左側の鳥居から入ってお社の前で一礼し、そのまま右にある鳥居から出て行く人が多いように思いました。右側の鳥居は日光街道沿いにあるので、通り抜けるときにご挨拶…という感じでしょうか。日光街道沿いの入り口からは、車のお祓いができるようになっていました。
  ✳︎              ✳︎             ✳︎              ✳︎            
ところで素盞雄神社の御由緒はとても興味深いのです。

◎御由緒(以下HPより)
当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩がありました。黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て丁重にお祀りし、当社が御創建されました。』

とあります。疫病に対するご加護があるのですね。

御由緒に書かれている瑞光石が祀られているお社。紙垂の下に見える岩が瑞光石です。

瑞光石とはどんな石なのか、興味がわきますね。ネットで瑞光石を調べてみると、長崎市の長崎山清水寺の光る岩も慶順僧都によって瑞光石と名付けられたという記述がありました。素盞雄神社では、奇石と表現されていましたが、光る岩というのもまた不思議な話ですね。どこか宇宙的にも思えます。

瑞光石の祀られているお社の後ろには富士塚がありました。


裏側から見た富士塚。今は中に入ることができませんでした。

“蘇民将来子孫也”を唱えれば疫病から護られる!?

「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいしそんなり)」という言葉は、ふりかかる悪疫災厄から御祭神・素戔嗚尊にお護りいただく唱え言葉。その由来がまた興味深いのです。

『遠い遠い神代の昔、スサノオノミコトが遥か遠くの南の海に妻問いにでかけたときのことです。

陽はすでにとっぷりと暮れ、旅に疲れ果てたスサノオノミコトは蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞いました。裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服も汚れたその姿を見て、怪しみ惜しんで貸しませんでしたが、家も小さく貧しい生活をしていた兄の蘇民将来は、粟柄を座とし、粟の飯で精一杯のもてなしをしました。そして歳月がたち・・・。

再びその地を訪れたスサノオノミコトは兄に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)で作った小さな輪を腰につけていなさい。きっとそれから逃れ、子孫は永く栄えるでしょう。」と伝え帰りました。その後、突然二人の住んでいる村に疫病が流行りましたが、不思議なことに茅の輪をつけていた兄の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまいました。それ以来、村人は疫病が流行ると「蘇民将来子孫也」と口々に唱え、茅の輪を腰につけ疫病から免れるようになったということです。』

昔話に出てくるようなお話ですね。茅の輪の由来が素戔嗚尊にあると聞いてはいましたが、腰につけていた茅の輪が由来だったのですね。それに、疫病とは今ならインフルエンザやコロナウィルス。私も唱えてみようかな☺️

4月8日には疫病祭が行なわれていて桃の御守りが授与されているそうです。このお守りは4月1から8日のみ授与と書かれていました。桃は、伊邪那岐命が黄泉の国の追手から桃の実を投げて助かったとの記述があり、災厄を祓う果物として登場しています。

天降諏訪面?
 
 『除疫の神宝、千住天王飛鳥権現時代の御霊代と考えられ、天文十年大雨の折に諏訪の地より得た木彫の面で、悪疫流行のときには氏子町内の除疫を祈願する『諏訪面巡行』が行われていました。また、天降とは雨降りの意味を持ち農耕の神を表していました。』
ということも書かれていました。こちらも気になります。というのも、「諏訪」という名前があるからです。なぜ諏訪の木なのでしょうね。長野県の諏訪が関係あるのかなあ。

境内の空気を堪能した後、東側の鳥居を出て千住大橋方面に向かうバスに乗り込み、次は大川氷川神社に向かいました。