「サブライムとは何か」「崇高とは何か?」という昨日の問いよりも
私の考えていた問いの中心は、もっぱらこっちだったと言ってもいいです。
「サブライムを求めるべきなのか?」
(少し独りよがりモードになりますので、支離滅裂だなあと思った方は
「アホがなんか言ってる」で無視してください。
しかし、思考などと言うものは大体そんなもんです)
ラスキンが「近代絵画論」を書いたのは1843年、これは日本では天保の改革あたりでして
まだ「明治維新」まではほんの少しあります。
「自然」とそれに対するリスペクトというのは、産業革命前の英国では美の規範でした。
あの島国の人は、もしかしたら我々が考えるよりはずっと、本来は自然信仰に近いものを資質的に持っているんではないのか?
とも思います。
でも、それは「中世以前」だとして、自然を信仰するのは原始的で野蛮だとして、脱却してきた。
(英語での「自然」は、我々が普段使う山だの鳥だの動物だのの、いわゆる「大自然」を超えて
もっと「この世でスポイルされてないベーシックでそのまま、ありのまま」の意味を含んでいると思います)
都会的であることが先進的であり、進歩であり
「そのまま」は努力が足らないものであり
しかし、努力で支配できないものもあると改めて知る。
畏怖。荘厳。そこにおわします「神」
ナチュラルな中に見られる崇高さ
これを「美」としてきたのは確かです。
さて、「サブライム」崇高とは何かを
「世俗とかけ離れた、人間の力でどうにかできるものではない」ものだとして
私が思った「それを求めなければならないのか?」
と言う問いは、これはややネガティヴな「皮肉」です。「求めるの?w」です。
まあ、ぶっちゃけありがたがるのだろうが、本当に誰がいったい、サブライムに涙なんかできるの?
そんな感じでいます。
もしかして、温泉でも行くような感じで
「ゆったりターナーの絵でも眺めて癒されてくださいね〜」なんて言わねばならないんですか?
ラスキンなら頭から湯気出して怒りそうな気がします。
それとも「スピリチュアル」にしますか?
「わ〜パワースポットですね〜」
アホか!
崇高は消費されるものではないでしょう。絶対に。冒涜です。
しかし、もう「商品」でないものなどどこにあるの?
今や、人の名前すら売り出すべき商品ですよ。
我々はもう、それを「美しい」と感じられる時間的余裕を失ってしまっているのではないか?
だとしたら、崇高なる美学がそこにあったにせよ
それは「サブライムセラピー」とか何とかいう陳腐な名前で呼ばれるにすぎないのではないか?
19世紀初頭の詩人らに
その壮大さが、サブライムこそが美であり、必要だった理由は
ブルジョワジー台頭に対する貴族的プライドやライバル心もあって
「金、権力、売名、しがらみ、世間体…そう言った世俗に対する嫌悪感が根底にあって
そういう人間の作る俗世とはかけ離れた部分で、本来なら自分もその一部でよかったはずの魂を見出して
自然を都会の対極の「帰るべき場所」望郷として捉えるからではないのかと思うのです。
しかし、現代において誰にどう、それを「美」だと説明できるのか?
すでに貴族はいません。精神的に気高いものを、庶民は必要としません。
欲しいのは名声や金です。せめてもの寝る時間です。欲しいのは娯楽です。
嫌なことを紛らわすのに必要なのは、酒やディズニーランドやアイドルです。ブランド品です。
アニメやゲームならマトモな方だ。
それでもダメなら診断されて、投薬治療の日々があるのみです。
この時代における私たちは、「どんなに嫌でも、崇高を知りえていても世俗に同化できなければ社会性障害」なのではないでしょうか?
自然への憧憬は「団体ツアー」に置き換えられ
孤独で対峙するはずの場面に「スマホ」を出して自撮り棒で撮って、SNSにアップして「絶景〜ッス!」「いいね!」
…圧倒的に我々には時間が足らず、リアルとは都会の小さな枠のことに過ぎず
「お花見」は花を愛でるものではなく、酒飲んで騒いでゴミ捨てて帰るもの
ロマンを旅することは、PRGゲームのコンテンツ…になりつつあるのではないでしょうか?
だから、ターナーに聞きたかった。
崇高てなんなんですか?
それを見せられ、すごかったところで、そこに行けない。
サブライムなんか求めたら、それこそ逆に生きづらくなるじゃないですか。
あったから何なの?
それを捨て去ることを、この日本では「大人になる」「正論」「正常」と呼ぶではないですか。
首輪に喜んで繋がれることを、安定と呼ぶじゃないですか。
野良犬や野良猫を、迷惑だから処分しろというではないですか。
都会の中でまだ自然により近い、赤ん坊と母親を「迷惑ね〜」て言うじゃないですか。
かつて、詩人バイロンの影響を受け、明治時代の文人、北村透谷が
その崇高さを求めよと書いてますが
彼はキリスト教徒だからなあ。
「じゃあ、キリスト教徒でない私には崇高さは理解不能なのか?」
そうじゃないんだ。
あっけらかんと、崇高を理想に据えるには
あまりにもこの「地」を這いずり回り生きてるもので虚しいわけです。
わからない?なんて聞くなよ
「わからない方が正解」を望まれてるのに。
それはあたかも、鳥がミミズに対して「空はいいぞ」と言ってるようにしか聞こえない!
こちらにおわすミミズはどうやって空の唄を賛美すべきなんですか?
リオタールに感化されすぎなのかもしれませんが
「ターナーのサブライムを見る以前に、今更誰が本物のロマンを取り戻せるのか?」
そんな疑問でいっぱいでした。
私の考えていた問いの中心は、もっぱらこっちだったと言ってもいいです。
「サブライムを求めるべきなのか?」
(少し独りよがりモードになりますので、支離滅裂だなあと思った方は
「アホがなんか言ってる」で無視してください。
しかし、思考などと言うものは大体そんなもんです)
ラスキンが「近代絵画論」を書いたのは1843年、これは日本では天保の改革あたりでして
まだ「明治維新」まではほんの少しあります。
「自然」とそれに対するリスペクトというのは、産業革命前の英国では美の規範でした。
あの島国の人は、もしかしたら我々が考えるよりはずっと、本来は自然信仰に近いものを資質的に持っているんではないのか?
とも思います。
でも、それは「中世以前」だとして、自然を信仰するのは原始的で野蛮だとして、脱却してきた。
(英語での「自然」は、我々が普段使う山だの鳥だの動物だのの、いわゆる「大自然」を超えて
もっと「この世でスポイルされてないベーシックでそのまま、ありのまま」の意味を含んでいると思います)
都会的であることが先進的であり、進歩であり
「そのまま」は努力が足らないものであり
しかし、努力で支配できないものもあると改めて知る。
畏怖。荘厳。そこにおわします「神」
ナチュラルな中に見られる崇高さ
これを「美」としてきたのは確かです。
さて、「サブライム」崇高とは何かを
「世俗とかけ離れた、人間の力でどうにかできるものではない」ものだとして
私が思った「それを求めなければならないのか?」
と言う問いは、これはややネガティヴな「皮肉」です。「求めるの?w」です。
まあ、ぶっちゃけありがたがるのだろうが、本当に誰がいったい、サブライムに涙なんかできるの?
そんな感じでいます。
もしかして、温泉でも行くような感じで
「ゆったりターナーの絵でも眺めて癒されてくださいね〜」なんて言わねばならないんですか?
ラスキンなら頭から湯気出して怒りそうな気がします。
それとも「スピリチュアル」にしますか?
「わ〜パワースポットですね〜」
アホか!
崇高は消費されるものではないでしょう。絶対に。冒涜です。
しかし、もう「商品」でないものなどどこにあるの?
今や、人の名前すら売り出すべき商品ですよ。
我々はもう、それを「美しい」と感じられる時間的余裕を失ってしまっているのではないか?
だとしたら、崇高なる美学がそこにあったにせよ
それは「サブライムセラピー」とか何とかいう陳腐な名前で呼ばれるにすぎないのではないか?
19世紀初頭の詩人らに
その壮大さが、サブライムこそが美であり、必要だった理由は
ブルジョワジー台頭に対する貴族的プライドやライバル心もあって
「金、権力、売名、しがらみ、世間体…そう言った世俗に対する嫌悪感が根底にあって
そういう人間の作る俗世とはかけ離れた部分で、本来なら自分もその一部でよかったはずの魂を見出して
自然を都会の対極の「帰るべき場所」望郷として捉えるからではないのかと思うのです。
しかし、現代において誰にどう、それを「美」だと説明できるのか?
すでに貴族はいません。精神的に気高いものを、庶民は必要としません。
欲しいのは名声や金です。せめてもの寝る時間です。欲しいのは娯楽です。
嫌なことを紛らわすのに必要なのは、酒やディズニーランドやアイドルです。ブランド品です。
アニメやゲームならマトモな方だ。
それでもダメなら診断されて、投薬治療の日々があるのみです。
この時代における私たちは、「どんなに嫌でも、崇高を知りえていても世俗に同化できなければ社会性障害」なのではないでしょうか?
自然への憧憬は「団体ツアー」に置き換えられ
孤独で対峙するはずの場面に「スマホ」を出して自撮り棒で撮って、SNSにアップして「絶景〜ッス!」「いいね!」
…圧倒的に我々には時間が足らず、リアルとは都会の小さな枠のことに過ぎず
「お花見」は花を愛でるものではなく、酒飲んで騒いでゴミ捨てて帰るもの
ロマンを旅することは、PRGゲームのコンテンツ…になりつつあるのではないでしょうか?
だから、ターナーに聞きたかった。
崇高てなんなんですか?
それを見せられ、すごかったところで、そこに行けない。
サブライムなんか求めたら、それこそ逆に生きづらくなるじゃないですか。
あったから何なの?
それを捨て去ることを、この日本では「大人になる」「正論」「正常」と呼ぶではないですか。
首輪に喜んで繋がれることを、安定と呼ぶじゃないですか。
野良犬や野良猫を、迷惑だから処分しろというではないですか。
都会の中でまだ自然により近い、赤ん坊と母親を「迷惑ね〜」て言うじゃないですか。
かつて、詩人バイロンの影響を受け、明治時代の文人、北村透谷が
その崇高さを求めよと書いてますが
彼はキリスト教徒だからなあ。
「じゃあ、キリスト教徒でない私には崇高さは理解不能なのか?」
そうじゃないんだ。
あっけらかんと、崇高を理想に据えるには
あまりにもこの「地」を這いずり回り生きてるもので虚しいわけです。
わからない?なんて聞くなよ
「わからない方が正解」を望まれてるのに。
それはあたかも、鳥がミミズに対して「空はいいぞ」と言ってるようにしか聞こえない!
こちらにおわすミミズはどうやって空の唄を賛美すべきなんですか?
リオタールに感化されすぎなのかもしれませんが
「ターナーのサブライムを見る以前に、今更誰が本物のロマンを取り戻せるのか?」
そんな疑問でいっぱいでした。