【ナマコブシ】

ポケモンサンムーンに登場する、ナマコのポケモンである。
当初は愛らしさから、育てたいと思った人も多かろうが
こいつはレベルを上げようが、技マシンを拾おうが買おうが
一向に攻撃わざを覚えない。
戦わないポリシーを貫く、ガンジー並の頑固さを有するゆえに
バトルツリーなどもっての他だ。
おそらく、やれ個体値が〜やれ種族値が〜とステータスにこだわり
ルザミーネのように惰弱は切り捨てよという精神ならば、外野中の外野
永遠にアウトサイダーなのである。
テキストではぶし…ぶし、と鳴く。(音はブギャブギャブギャッ)
武士がどうしたというのだ。お前は戦えないではないか。
たまに「なかみぃ」と鳴くのもいる。中身…
中身は、ピンチの時に飛び出す。
内臓を出す…それも「瀕死」に際してだ。
そうか。瀕死の場合は切腹か。どうりで武士である。
だがそんな美学を
リゾート地を訪れる異国のセレブ様が理解するわけがない。
ナマコブシはキモいと、今日も海岸の美観の為に、バイトの手によって
ただ捕まっては海に放り投げられる。
なぜナマコブシは観光客に疎まれるのか?
海に生きる者には海のルールや価値観がある。
この世の全てが、一部の人間が決めた美のルールに従っていなければならないのではない。
進化というものの中に神を見るなら、生きるための多様性こそが神の所業。
フラクタルや黄金分割という一定の法則性を見出せば、それを美とも言うことはできるが
多種多様な生命は、ただそうあるだけで充分美だと言ってはいけないのだろうか。
深海魚は確かに我々にはキモいが、逆にあいつらから見たら
二足歩行の人間はキモいにちがいないのだが。
普段たっぷりと、人間の決めた価値基準で生き、アローラを「開発」して
そのルール領域を広げていく、そんな観光客セレブには
ナマコブシをありのまま受け入れることはできないのだろう。
人の決める美はルールを持つがゆえに不寛容なのだ。
ナマコブシの悲劇は
あれが海の生き物だから起きるのではない。
海から目的も方角も無く陸にさまよい這い出てくる、これに尽きる。
奴らはおそらく、どこまでが海でどこまでが陸なのかわかってはいまい。
そもそも自然界に「ここからは陸ですので入らないでください」という規則は無い。
かくして悠久の海と、刹那の陸の彼岸を奴らはウロウロする。
そして迷惑がられ、海に投げられ「退治」される。
海岸線という「線引き」は波によってでなく
あくまで人によって、ナマコブシ側に許可を得ないまま作られている。
この世にまったく戦わない単独の武士がいるとする。
そんな存在は美だの有益か否かだの
そういう価値観で判断されるならば、ほぼ無意味であるにちがいない。
その無意味さの美学はかなりダダイズム的である。
だが、アローラの住民はそのような
戦わない武士を愛しておられるように見受けられる。
全てが数値に置き換えられ、生物ですら社会的に有益かどうかで判断される
そんな傲慢さに一矢報いるかのように
ナマコブシはただありのまま、習性のまま
存在しているのだろう。
努力値も個体値も無関係な彼岸に。

ポケモンサンムーンに登場する、ナマコのポケモンである。
当初は愛らしさから、育てたいと思った人も多かろうが
こいつはレベルを上げようが、技マシンを拾おうが買おうが
一向に攻撃わざを覚えない。
戦わないポリシーを貫く、ガンジー並の頑固さを有するゆえに
バトルツリーなどもっての他だ。
おそらく、やれ個体値が〜やれ種族値が〜とステータスにこだわり
ルザミーネのように惰弱は切り捨てよという精神ならば、外野中の外野
永遠にアウトサイダーなのである。
テキストではぶし…ぶし、と鳴く。(音はブギャブギャブギャッ)
武士がどうしたというのだ。お前は戦えないではないか。
たまに「なかみぃ」と鳴くのもいる。中身…
中身は、ピンチの時に飛び出す。
内臓を出す…それも「瀕死」に際してだ。
そうか。瀕死の場合は切腹か。どうりで武士である。
だがそんな美学を
リゾート地を訪れる異国のセレブ様が理解するわけがない。
ナマコブシはキモいと、今日も海岸の美観の為に、バイトの手によって
ただ捕まっては海に放り投げられる。
なぜナマコブシは観光客に疎まれるのか?
海に生きる者には海のルールや価値観がある。
この世の全てが、一部の人間が決めた美のルールに従っていなければならないのではない。
進化というものの中に神を見るなら、生きるための多様性こそが神の所業。
フラクタルや黄金分割という一定の法則性を見出せば、それを美とも言うことはできるが
多種多様な生命は、ただそうあるだけで充分美だと言ってはいけないのだろうか。
深海魚は確かに我々にはキモいが、逆にあいつらから見たら
二足歩行の人間はキモいにちがいないのだが。
普段たっぷりと、人間の決めた価値基準で生き、アローラを「開発」して
そのルール領域を広げていく、そんな観光客セレブには
ナマコブシをありのまま受け入れることはできないのだろう。
人の決める美はルールを持つがゆえに不寛容なのだ。
ナマコブシの悲劇は
あれが海の生き物だから起きるのではない。
海から目的も方角も無く陸にさまよい這い出てくる、これに尽きる。
奴らはおそらく、どこまでが海でどこまでが陸なのかわかってはいまい。
そもそも自然界に「ここからは陸ですので入らないでください」という規則は無い。
かくして悠久の海と、刹那の陸の彼岸を奴らはウロウロする。
そして迷惑がられ、海に投げられ「退治」される。
海岸線という「線引き」は波によってでなく
あくまで人によって、ナマコブシ側に許可を得ないまま作られている。
この世にまったく戦わない単独の武士がいるとする。
そんな存在は美だの有益か否かだの
そういう価値観で判断されるならば、ほぼ無意味であるにちがいない。
その無意味さの美学はかなりダダイズム的である。
だが、アローラの住民はそのような
戦わない武士を愛しておられるように見受けられる。
全てが数値に置き換えられ、生物ですら社会的に有益かどうかで判断される
そんな傲慢さに一矢報いるかのように
ナマコブシはただありのまま、習性のまま
存在しているのだろう。
努力値も個体値も無関係な彼岸に。