姫路界隈ポタリング

ぴゅんぴゅん丸が自転車こいで、今日は何処の路地へやら

北条五百羅漢の私なりの結論

2012-02-19 13:13:08 | Weblog
私が知る範囲ですが、京都や奈良ならいざ知らず、播磨地方で室町時代以前の石仏群がまとまってある場所は見たことがありません。
加西市では玉野町の石仏群を除けばまずないでしょう。

私のように素人が室町時代の石仏だと判断しても、専門家に言わせればそのほとんどが江戸時代初期以降のもののようです。

人間は少なからず、ロマンを求めて 都合の良いように贔屓目に見たり、事実を装飾したりするものです。

たとえば、北条にある江戸時代初期と思われる石仏があるとして、徳川家光が千姫のために造立した物だ言えば、歴史年表的にはなんら問題はありませんが、常識的に考えて将軍が縁もゆかりもない所に、施主名も紀年名もいれず、質の悪い石材をもちいて下手な石仏を造ることは考えられません。

赤松氏や地元の領主においても同じです。

まず、このような推理は真っ先に消え失せるでしょう。

物事をことさら曲げないで素直に推理しましょう

このようなことを考えながら消去していきますと、当たらなくてもそう遠くない答えが自ずから出てくるものです。


                  結論です

北条の五百羅漢は元和から寛文の約50年間にわたり、北条の村人が先祖供養、無病息災、逆修の満願成就をしようと、石材彫刻の身に覚えのある人(石工ではない)に、亡くなった親兄弟の似顔を刻ませて、面影をしのびお参りに来ていたのでしょう。
そのうち、月日が流れ、忘れ去られ、雨風で倒れたり土や草に埋もれ、長い間人目に触れずに、明治時代になってようやくお寺の復興で周辺整備をした際に発見された、と考えばどうでしょうか。
亡くなった人の面影をしのんで、仏様にお参りし手をあわせるのは人間の自然な行為ですから。
近在に点在する同じような様式の石仏も、同じような人が村人に頼まれて製作したものでしょう。

元和から享保への時の流れで、表情が簡素になっていくのはごく当然の成り行きです。

しかし享保ごろから石材彫刻が、石工が行うようになり、現在のような写実的な表情になっていくのです。


              まとめ

夢やらロマンを各々詮索し、思いをめぐらすのは非常に楽しいことです。
私たちの身近なところの歴史に興味を持ち推理することは興味をそそります。

どんなことでも事実は必ずあります。
私の推理を羅漢様たちは「ぜんぜん違うやん」といって鼻で笑っておられることでしょう。

でもわからないから面白いのです。

わかってしまえば夢もロマンもなくなります。

あなたも身近にある路傍の石仏にも光をあててあげてください。