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私の歴史

私は森羅万象、波乱万丈の一生を送っています。これからもそれを繋いで行く事でしょう。

貨物列車に轢死か?◇生死のはざ間2

2006-02-02 15:49:20 | 歴史
 生母の死に納得できない少年は、憤懣やるかたなく鬱憤を父の職場へ向けました
「原ノ町駅・場内信号機」付近でした。下りの長大貨物列車が駅構内目指し進入して来ました。その進行方向の線路上に、両手を拡げて「トウセンボ!!」ビックリ仰天した機関手は、非常制動を掛け、非常警笛を甲高く吹鳴します。
 煙突から真っ黒な煙を天に吐き上げ、大動輪の隙間から猛烈な水蒸気を噴き出し
間断なく喚く警笛、幸いにも少年の寸前で列車が停止し、辛うじて命を救われました。怖いもの知らずとはこのことでしょうか?
 少年つまり私は、母の葬儀そこそこに、伯母の家に引き取られ一家離散します。父は母の死後9カ月で転勤を命ぜられます。腕白で無茶すぎた少年は、父の転勤先でまた一緒になります。新しい危険と新しい母に逢う運命が待っていました。

生母逝く◇生死のはざ間1

2006-02-02 14:11:32 | 歴史
 青空高く聳える200メートルの長波無線塔。
その真下に 私達一家4人のささやかな暮らしがありました。
勤続9年の鉄道員の父、結婚10年の母、6歳の腕白長男と3歳の兄妹です。
1927年(昭和2年)3月半ば、福島県浜通り大甕村(現南相馬市)の借家には
産後の肥立ち悪く、また5カ月の2女他界のシヨツクで重態の母が臥せっていました
 母の命で、痰壷を抱え庭へ降りる少年の背中へ、痛いほどの母の視線を感じました。余命いくばくも無いと知る母は、夫や愛児を残して先立つ悲しさ、無念さを篭めていたのだと後日悟りました。私の記憶は、痰壷を抱えたことと無線塔だけで、母の面影は知らないのです。悔しいかな写真1枚遺されていないのです。
 当時の無線塔と四方へ伸びる空中線は、風も無いのに、ピユーピユーと響き渡るのでした。私にはあたかも、母の嘆きの悲鳴のごとく聞こえました。その無線塔すら今は存在せず、4号国道脇に、ミニチア無線塔が建立され、行き来する人達へ昔の姿を教えているのです。