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私の歴史

私は森羅万象、波乱万丈の一生を送っています。これからもそれを繋いで行く事でしょう。

年頭雑感

2008-01-04 16:25:01 | 歴史

全国と宮城は 大雪や冬山遭難などの事故に心が痛みます。何時も思うのですが温和な気候 溢れる食材。転勤族は皆仙台定着を好む、ムベなるかな

青葉神社へ初詣で ツララ垂れず 雪掃きせず 血湧き肉踊る テレビ「チュモン」観劇オンリー  結構なオ正月でした。!!

年賀状着信哀れ  19年107枚頂き、 20年3カ日80枚25%減少 ワレツツガ無きも ショック大なり  気分転換を新年会へ託す 

自分一代史編集  日誌18巻を元に1冊に纏めたい年の宿題です。では叉

お目に掛かりましょう。

 


男やもめの現実と夢

2007-09-30 23:50:29 | 歴史

内助の功絶大だった妻が先立ってから7年になる。妻存命の時から、若夫婦とは、勤務時間、嗜好の違いなどで食事洗濯など別々であった。妻の死後その生活態様は変わらなかった。つまり私は「男やもめ」を7年続けてきた。

炊事、洗濯、トイレ清掃、掃き掃除、樹木伐採から落ち葉拾い旧宅周辺は一切私がこなした。私の一日はカレンダーで始まる。予定を見て行動し、出来事は簡潔に書きいれ、日誌へ纏めた。その日誌は、「私の生涯十八巻」へ及ぶ。だから結構忙しいのである。自分史の発刊が想い浮かぶが、大仕事だから弐の足を踏んでいる。

7回忌法要の準備も終えた。お寺、仕出屋、参加ご案内状発送、更に妻を偲ぶ記念アルバムの手作りも揃えた。忍び寄る寒気に気付き、ブルゾンを求めた。気分転換で○○温泉へ湯浴みもした。OB会参加のハガキ回答を郵送した。「閑居して不善を為す」類では無いので嬉しい限りである。


なつかしの仙台展2

2007-03-26 17:13:02 | 歴史
チヨークで描かれた絵? ソウデス洗濯履行を上等兵殿はオッシャルのです、、、
忽ちビンタ、、、オマケに往複対抗ビンタの嵐アラシ、、古兵殿の下着を抱えて洗濯場へ、、、木枯らしピユーピユー泉岳下ろしの冷たいコト 泣きたくなりました

戦地へ出動間近です、、日曜日待ちに待った外出~ソレ一番町へゴー!!!気が付くと帰隊時間切迫 慌てたのナンノ 知恵を廻らし憲兵隊の従兄弟へウナ電!!
仲間と二人の初年兵、憲兵上等兵の従兄弟の後からノコノコ隊内へ、、、点呼中の吾が班長ビックリ仰天、、「ヤアご苦労 所要あり 若干預かりました返します」
「ご苦労さまです」と階級上の吾が軍曹殿。危ないところでした。間もなく
目貼りした軍用列車で大阪へ、、

僅か数人の国防婦人会の打ち振る旗に贈られて、寂しくひそやかに出航、、、溢れる涙 これが祖国の見収めか いつしか山川は航跡の彼方へ霞み去るのでた、、、今生の別れだったのです。  

駆け出しのサラリーマン

2007-03-15 17:11:52 | 歴史
もしも月給が上がったら昭和12年に発表された歌謡曲です。私の就職は翼13年10月。マン画フクチャンが評判でしたよ。人生の並木道も流行って居ましたね。
最初の月給は25円です。
貨物ホームの狭い箱番の中で受付と通知書書きに汗を流しました。カーボンまみれ?馬糞の粉塵まみれで毎晩9時過ぎまで働きました。そうです、今の駅西口のバス乗り場付近ですが、面影ぜんぜん無しですね
馬車、オート三輪,大八車が中心で、木炭トラックはわずかでした。駅前に丹六商店がありましたが、良い荷主さんでしたよ。戦局拡大に連れて職場に男の姿が少なくなります。益々残業増大でした。

日の丸弁当ともんぺ姿 が普通になり、贅沢は敵と見なされました。電力飢饉、1千数百万石の米不足が発生し、米、木炭、マッチなど「足りん足りん」はこのごろの挨拶でした。公会や隣組が設けられ国家総動員体制が執られます。あろう事か私に1銭5厘の召集礼状が届きました。

祝応召の襷と奉公袋 姿で昭和15年12月1日堤町の自宅から榴ヶ岡歩兵第4連隊まで歩き入隊しました。第二乙の私はまさかの思いでした。第七中隊で歩兵の訓練、歩兵銃の扱いの特訓で指を切ッたり、宮城の原で匍匐前進「尻が高い」と殴られ、新兵いじめの始まりでした。踏み切りの店の大福餅がチラちきましたね。以下次号へ

  

理髪学校に学ぶ

2007-02-26 22:19:00 | 歴史
仙台の理髪学校は、東二番町にありました。デッチ奉公が当たり前の当時は珍しい学校卒です。人体解剖生理学、消毒法など実学と共に学び3年後免許を得ました。「嗅いで視て 動く滑車の三つは外 顔聴く 舌咽(頭)迷う副舌下」コレは
頭部の神経の名称です。今でもスラスラですよ

市内T店へ就職、でも2カ月で辞めました。私の反抗心から「炭坑へ行こうかな」
驚いた親父の斡旋で、運送店へ採用。時局は日中戦争拡大へ、徐州、武漢、広州と兵力も拡大し職場の男達は戦場へ駆り出されます。

昭和15年12月、私にも赤紙が理髪学校が役立ち衛生兵で入隊。遥か中国の奥地で6年悪戦苦闘転戦します。衛生曹長で無事復員できました。

東仙台から白石へ

2007-01-27 22:39:05 | 歴史
岩手の山猿少年は、昭和7年7月東仙台駅開業時移住。借家は松原街道傍でした。
原町小学校6年転入、身長低く耳を病む少年は、一中二中進学可能なのに、父の許し無く宮城野高小入学。その1年半ばで父の転勤で県南の白石町移住。世界は、満州国成立、国際連盟脱退、ドイツにヒトラー政権誕生など険悪でした。

1万3千石、片倉小十郎を藩祖とした城下町。沢端川、孝子堂、甲冑堂、馬牛沼、菊面石、斎太郎虫、七枚田などなど。青年団に勧められ、白石、宮、遠刈田経由蔵王登山を歩き通しました。昭和10年白石高小2年卒業。父の厳命で仙台市東2番丁の理髪学校へ列車通学します。この年の流行歌「ああそれなのに」皮肉でした。
職業学校を強制されて、私の運命は大きく左右されますが、話は後ほど


岩手の山猿少年時代

2006-12-22 23:13:23 | 歴史
福島県浜通りのT村小学校入学2年の時、宮城県を越えて岩手県南のK駅へ転勤、
私も転校しました。1年2年の複式男女共学、O校長 担任M先生 もう一人女性のT先生です。山叉山、畑と田んぼと砂利道が間を繋ぐ寒村でした。世界恐慌の最中であり、通学仲間は皆 兵古帯わら草履姿 食べるのがヤット 娘の身売り話もありました。

森林の中を自在に駆け巡り、栗拾いグミ摘みあけび採取などなど、冬は田んぼで下駄スケート、斜面では竹スキー滑降 樹木登攀など身体鍛錬は十分でした。本屋も大好き、石見重太郎、猿飛佐助などから中里介山の「大菩薩峠」やら「里見八犬伝」を読み耽り、布団の中の読書で近眼になりました。

昭和7年8月父は仙台市の新駅「東仙台駅」へ転勤、山深い北上の山郷と別れました。当時の東仙台は田舎でした。見渡す限り田畑が続き「東街道」が岩切方面へ伸び、NHK放送塔が文化的でした。歩きながら本を読み、いきなり馬車馬の鼻面に遭遇してビックリ  のどかでしたよ 

私の生涯◇7歳の少年

2006-11-30 21:23:07 | 歴史
私の祖先や父方の祖父との在り様は、前回までの記事で申しあげました。今回からは掲載写真にまつわるお話といたします。御覧下さい、利かん気の、冒険好きな童に見えませんか?この写真を眺めるたびに、私には悲しくも腹立だしい思い出が走馬灯のように浮かんで来るのです。、、、、、

福島県浜通りのO村の農家の離れに、前年の2女出産と夭折、胸を病み悪化して床に臥す生母の姿がありました。小学校入学の晴れ姿を最も待ち望んだその生母は、3月29日心ならずも、遠い遠いあの世へ旅立ちました。

母の無念の思いは、7歳の私とて同じでした。悔しさ、悲しさ、腹立だしさは頂点に達し、私の怒りは、父の職場での、貨物長大列車を双手を挙げて停めた事件へ発展します。

7歳の私4歳の妹は別々に親戚へ預けられ一家離散、やがて父は再婚後K駅転勤し兄妹は引き取られ継母との新所帯になります。ですが馴染めず、父愛用の松の盆栽へ立小便を重ねて枯らしました。7歳の抵抗なのでした。

このK駅から隣接のT駅へ私は列車通学しますが、家族パス用に写されたのが御覧の写真なのでした。めっきり涙脆くなりました。遥かな遠い思い出なのに、この記事をを書いていても目頭がうるむのでした。


遥かなる祖先

2006-11-22 21:56:16 | 歴史
年賀状
私は今年賀状作りに懸命です。ボツボツ欠礼挨拶状も舞い込みます。年々歳々住所録名簿の姓名抹消が増えて悲しい想いです。
私のルーツ
順序が逆でした。御免なさい、遅まきながら「I城跡」を紹介します。
桓武天皇から平良文へ、兄国香と戦い、後年一族は相馬、国分、小高、千田など領するに至るなどなど

卒倒しかねない先祖探し

2006-11-22 21:27:35 | 歴史
自叙伝
私は「私の生涯」なる自叙伝を、 昭和58年から書き連ねて来ました。ワープロパソコンを用い14冊目になります。では生き様の節目を掻い摘んで述べましょう
ルーツ
私は福島県浜通りT村、父方のS祖父の農家の馬小屋で生まれました。先祖は2説あり、S祖父は「米沢藩の藩医の出なり」と。家紋の「二つ引き両」の墓の存在あれば証拠だが未発見。
I城跡
隣のH村には「I城跡}なる小高い城跡あり、姓氏研究家丹羽基二氏説は、桓武平氏、三浦氏の流れを引く由、ともあれ「長屋」と呼ばれた。S祖父は四代目先の妻と四男四女、後妻とは三男四女を設けた、私はこの大所帯の中で育った。
大酒豪誕生
二男Hが本家を継ぎ、三男は分家したが私の父Kである。囲炉裏の横座のS祖父のあぐらの中に孫の私が座り、祖父は焼酎、私は砂糖入れ焼酎を飲まされた。かくして
S祖父仕込みの酒豪が育つた。天井が回ったのは生涯3回のみ!!