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私の歴史

私は森羅万象、波乱万丈の一生を送っています。これからもそれを繋いで行く事でしょう。

地域社会516 ~ おしどり夫婦の消滅 Ⅱ

2011-03-02 09:52:55 | モグログ

▲ 柴又帝釈天 ▼ 2月10日(日)この日も最高気温1,7度の寒い1日であった。公会堂2階の広間で目覚めた私は階下に降りて線香を上げお握りの朝食を済ませ妹と実家の忠正氏と案内役の人とタキシーを拾い、「柴又帝釈天」。「題経寺」の境内の庭園や寺院を巡り拝観した。1500年を経た南天の床柱、帝釈天の木彫り等見事である。帰路寅さんダンゴを見つけて買う。映画の寅さんブームを体感したのだった。!!!!!

 告別式 ▼ 午後1時から開始され30分後出棺した。棺の中の叔父の顔は安らかであり、天国に待つ最愛の叔母に逢ったのか、穏やかな笑みを浮かべていた様に思える。亨年85才のロートルモダンボーイであった。小雨のなか火葬場へ向かい、再び骨箱に納められて公会堂の、祭壇の叔母の骨壷と仲良く並べられた。この二人の遺骨箱は、2月15日に、故郷の菩提寺の先祖代々の墓地へ埋葬される。会館二階広間で、精進落としが営となまれるが、私は所用あり、焼香をしてから妹と上野駅へ向かう。後始末は遺産相続、叔母の交通事故補償問題があり、49日法要への参加と続く。!!!!!

 叔母の49日忌法要 ▼ 3月22日、北相馬市・原町Ⅸ北新田の泉龍寺に関係者が参集して、石川住職により法要が実施された。墓にも詣でたが、私の生まれ故郷、楢葉町と仙台市のほぼ中間なので、6号国道を往復するときは墓参するのである。ともあれ、私には念願の沖縄ツアーが後ろに控えていた。!!!!!    


地域社会 515 ~ おしどり夫婦の消滅

2011-03-01 11:52:03 | モグログ

 慌ただしく上京 ▼ 2月9日(土)仙台の朝は手足が痺れる程寒い日であった。朝から良く晴れ上った天候ながら、気温はマイナス2、6度。近所の理髪店で散髪サッパリする。身支度を整え仙台駅へ、スパゲテイーの昼食を呑み込み、新幹線の自由席へ、~~何時の日であったのか、私は東京勤務のある日に、突然総武線小岩の叔父宅を訊ね、泊めて貰ったが、部屋が無いからと叔父夫婦のベットの下へ寝かされ驚く。聞きしに勝るオシドリ夫婦ぶりと、子無きを脳裏に浮かべていた。~~小岩駅を降り、上一色町の喪中の叔父の家へ入る。!!!!!

 主のいない家 ▼ 叔母の骨壺の前にいた若い娘の挨拶と話を聞く。この娘は足しげくこの家に出入りして実の娘の様に可愛がられ、叔父が宝くじ百万円に当選し、欲しい乗用車購入の費用にと、七十五万円を貰ったと言う。さらに、叔父は8日午前2時頃床を出てタバコを吸ったが、急に様子が可笑しくなり、「とき子、とき子」と叫び、付き添えの娘が驚いて、119番通報、搬送先の病院で息を引き取ったと言う。奇しくも搬送先の病院も又、とき子叔母が事故後収容された病院であった。因縁づくめの経緯と幸薄きオシドリ夫婦の終末に思わず私は目尻を濡らし、遺体の前で瞑福を祈ったのである。!!!!!

 お通夜 ▼ 遺体は叔父の家から公会堂へ安置された。二階の奥に礼服箱と荷物を借り置きして、私は遺族代表として参列者に挨拶した。又妹良子と相談、一万二千円の生花を発注した。千鳥叔母の生花のみ届き催促したら、「可愛い名前なので覚えています」と生花店主の言葉に笑いが起きる。私の香典は叔母の葬儀と同じく三万円を包む。やがて福島県の南相馬市原町Ⅸの、石川方丈師が着座された。広い公会堂の広間の暖房は、30分毎に百円のコインを必要とし冷え冷えとし寒い思いをした。遺族と関係者への宴と就寝は、2階で実施した。この席で納骨、49回忌、叔母の交通事故賠償交渉、叔父夫妻の遺産相続の相談が始まる。だが多岐に亘るので時間が足りず、妹良し子が実家の大和田治氏へ中間報告を含めて一任されて就寝した。私は明日以降の筋書きを、まどろみながら眠る。!!!!! 


地域社会514~叔母の急死 Ⅱ

2011-02-28 11:02:48 | モグログ

 通夜の席 ▼ 私の妹は、大阪市から急遽駆けつけて、傷心の叔父を励ましては、来客の応接に当たっていた。子供のいない叔父夫婦が最も可愛がり、身内同然だったからである。亡き叔母の姉ちどり叔母、実家南相馬市・原町Ⅸの武田若夫婦、同市の菩提寺・泉龍寺住職・石川和尚も見事な美髭をしごいて参加された。師は、真言宗豊山派の、福島県布教Ⅸ会長の肩書きがあり、酒と話の好きな人であり、49日法要と納骨までの段取りを、テキパキと遺族を納得させた。さすがである。法話と読経、焼香と進み、叔父から頼まれた遺族代表挨拶は、叔父の頼みもあり、私が述べた。さすがの東京も、2月初めの空気は冷たく参列者は皆身震いしたのだった。!!!!!

▲ 告別式 ▼ 寒い通夜の席を出ると、叔父の手配で都内のホテルへ、埼玉で工務店を経営すると言う叔父の甥の車で、ニューオークラホテルへ直行、605号室に泊る。2月4日朝石川和尚と朝食を撮り車で小岩の会場へ、時間が早いので、叔母の事故死の現場へ行き、橋の阿元の花を活けた場所で、香を焚き冥福を祈る。会場に戻り、棺の蓋を開け生花を遺体の傍らに埋めた。次第が進行し、霊棺車に叔父が位牌を、私は遺影を、千鳥叔母3人が付き添って斎場へ。20ある炉の中の一つに収められた。こうして叔母の弔いをすまし、私は東京を出て帰宅するのだが、私の懸念が後日現実のものとなる。気落ちした叔父を励まして辞去したが、私はマフラーを置き忘れて電話したら、「忘れ物は直ぐ送る、ちどり叔母と甥が一緒に泊ってくれた」と言う返事であった。!!!!!

 叔父の急死 ▼ 2月8日早朝電話が鳴る。不吉な予感は適中した。おしどり夫婦の片方を失い、今度は残された連れ合いが逝ったのである。懸念は事実となった。姪の照子さんから再度、通夜は9日午後七時、告別式は10日午後1時と言う。仙台市内越路の妹には電話で知らせた。皮肉にも午後叔父に依頼した私の忘れものマフラーが、宅急便で届く。その送り主が急死したのだった。従って5日に交わした電話は、叔父の最後の肉声であった。余りの無常さに呆然自失、、、、しばらくは何も手付かずであった。!!!!!

 


地域社会 513 ~叔母の急死 

2011-02-27 13:14:50 | モグログ

 東京の叔母の急死  ▼ 平成3年2月3日午前10時頃、東京都江戸川区の叔父から電話が入った。「妻が朝の散歩に出て、車に刎ねられ、死亡した」と言う、痛ましい知らせであった。午後には告別式の日取りを4日12時からと知らせて来た。私と妹は継母に育てられたが、継母は兄と妹2人の4人兄妹の長姉であり、事故死の妹は東京都水道局勤務の夫と生活し、私も私の妹も、東京在勤の折は唯一の親戚として世話になっていた。子が生まれないので、私ら兄妹は何時も大歓迎された。妹は下宿して、私は労働組合の中央役員常駐の折に、しばしば訪問したが、仲の良い夫婦であった。だから事故死は叔父には驚天動地のショックと推察された。!!!!!

 急遽支度に奔走 ▼ 私は妹宅へ電話した。夫君から「妻は沖縄旅行中」であり、二度目の電話は、旅行先の妹から「只今は大阪、直ぐ帰える」と聞き、私は預金引き出し、香典、供物、喪服や下着の準備を整え、特急やまびこで上京、上野駅~秋葉原~小岩に至り、新中川の歩道橋を渡り、大和田宅へ、。隣家の控え室に荷物を置いて、葬儀場に行き、傷心の大和田叔父に逢い、悔やみを述べ慰めた。!!!!!

 痛ましい事故 ▼ 2日の朝、日課の早朝散歩の帰りが遅いと、案じた叔父は、事故現場に至り、叔母の履物、着衣を見せられ、妻のとき子のものと確認、場所は、千葉街道の小岩大橋の右岸阿元の歩道から横断中に、下り車線を時速八十から百キロ近い乗用車に刎ね飛ばされ、身体は橋の中央方面へ16メートル先に落下、頭部を割り、即死状態で病院へ運ばれた。運転手は悪質なりと逮捕され、小岩署に留置されたと説明してくれた。その叔父の頬はゲッソリしており、正視に耐え得なかった。オシドリ夫婦と視ていただけに、哀れであった。慰める術もない。!!!!!

 

 

 


地域社会512

2011-02-26 13:17:10 | モグログ

▲ 町内会役員 ▼ 平成3年々頭の私は、勾当台会館で開催の、台原地区新年会への出席した。町内会総務を担当して最後の仕事であり、次期会長予定の佐藤氏や、山崎民生委員が同行した。会場には増子さんや、山尾さんなどの隣接町内会長の姿があった。私は、この新年から、老人クラブや、集会所建設とその運営へと関わって行くのである。この席に、煙草屋の親爺の姿が見え無い、後日質したら忘れたと言う。ともあれ、湾岸戦争が火を噴き”””イラクからスカットミサイルが二晩に亘り打ち込まれ、長期化が予想され””””テレビに釘付けになる世相であった。!!!!!!

▲ 桜会メンバー日本海へ ▼ 頭の禿げた悪童と言われ兼ねない4名が、路線バスを乗り継いでのツアーとなった。1月23日(火)広瀬通バス停へ集合だが、待ち人来らずタキシーを拾い、待たせた人物は先に集合場所で涼しい顔でお迎えの有様???トイレ付きの路線バスは仙台~鶴岡庄内交通モールへ、車内で、持参のワンカップを飲み、サンドイッチを食べた。乗り換えて温海温泉へ。ここの温泉地は大火に見舞われたが、目的の富咲旅館は類焼を免れたとは、渓流釣りの名手オッサンの話しである。階下の熱めの湯に入る。含食塩硫化水素泉であり、切り傷に特効有りと言う。!!!!!

▲ 庄内美人の接待 ▼ 湯上りに持参のウエスキーのお湯割りで飲み出し、焼酎のお湯割りが加わり、ジャッパ汁と言う鱈が特に旨い。この味を忘れかねて、後日この地へ遠出する一因となる。栄子と呼ぶこの家の姐さんが、美人の上に懸命の接待振りであった。この姐さんに鱈の宅急便を依頼した。翌日は品の良い宿の女将から囲炉裏で煎茶の接待を受け、再び路線バスを乗り継ぎ帰宅した。帰宅は午後6時すぎであった。!!!!!

 


地域社会611~花山の茸狩り

2011-02-25 13:59:23 | モグログ

 花山の茸狩り ▼ 私の妻は、友人2人と組み20日から読売ツアーに参加、九州観光に出掛けた。私は桜会のメンバーと合計4名で栗駒山麓へ茸狩りへ、マイカー2台で出発。オッサンの車は昨日車上荒しに逢い、窓1枚破損していて、今朝のヒーターを掛ける寒さには気の毒であった。鳴子温泉への道路を辿り、池月から右折~R457~R398~花山(栗原市)から坂のカーブと勾配の急な道を進む。この道路脇の大木の樹幹には、一見見事な茸が密生して壮観だが、これは「月夜茸」と呼ぶ毒茸である。私達2台の車は、左折して山奥の懐へ分け入った。時計は2時間後の10時ころであった。!!!!!

 深山幽谷を分け入る ▼ 第一回目のアタックを試みた。身の丈程ある笹を掻き分け掻き分けよじ上り、枯れた巨木の陰などは睨みつけて探す。オッサンと私が先行し、密生した枯れ木の中に「さわもだし」を発見、足の悪い煙草屋の親爺を呼ぶ、がさがさ掻き分け現れたのは身体の大きい山崎通称ヤマサンであり、お呼びで無いのに、大きな手でゴッソリ掻き取った。仁義を弁えて欲しいものである。再び林道を降り、私は「栗もだし」を見つけて採取した。マイカーー2台は更に南へ進み、右手の急斜面を登る。!!!!!

 ぜんまいの集落を発見 ▼ 車は更に西へ下る。下車して右手の急斜面をよじ上り、二つの稜線を超えると、見渡す限りのゼンマイの大群落を発見した。だが、折角の発見も、春の山菜採りに訪れる機会無く、私には幻の宝庫として眠っている。午後1時に分岐点へ戻り、昼食を食べた。帰路の道路脇には、更に乗用車の列で満杯であった。紅葉は、猛暑のせいか、今一つ色が冴えないのだった。帰路花山御番所近くの木造2階建ての佐藤旅館を訪れ宿泊した。平成2年最後の大仕事であった。!!!!!


地域社会610 ~ 阿武隈の茸狩り 

2011-02-24 11:24:51 | モグログ

▲ 浜通りの茸狩り ▼ 平成2年の秋色を増す時期を迎え、耳寄りな誘いを受けた。福島県浜通り広野町大越家から茸狩りの誘いであった。9月29日(土)空は天井が抜ける程に青く晴れ上がっていた。残暑厳しくクーラーを作動させ6号国道を南下、相馬市で昼食休憩したのみ、大越家に着くと、ロンと呼ぶ子猫が飛び撥ねていた。夕暮れ時刻に、大越親子と私は釣り道具持参で海岸へ向かう。カンテラの灯を頼りに「いしもち」釣りに挑戦した。テトラポット越しの1時間の奮闘も無駄骨に終わった。買い求めた刺身で夕食の宴となる。!!!!!

▲ 川内村の山奥 ▼ お握り持参で7時頃川内村の山奥へ車を走らせた。松林の一画に駐車したら、いわき市から来た女性達と逢う。一緒に探し廻り、「初茸」、「網茸」採取に熱中した。正午近く雨がパラつくころ、川内村を後に広野町の山中に分け入り、大越夫婦は見事な「一本シメジ」を収穫した。台風は鹿島灘沖を通過して、翌日も晴天であり、伸哉に五千円を小遣いに挙げ、逆に新米を土産に貰い辞去した。帰路亘理町で食べた「はらこ飯」は、評判通りの美味しさだった。!!!!!

 広野町へ ▼ 今回は自家の「イチジク」一箱、と市販の蒲鉾を土産に、浜通りへ出掛けた。里帰り同然であった。妻の実家、妻の姉の家、山田岡の伯母の家、に寄り挨拶し、線香を焚き、大越家に着く。またぞろ男3人で夜釣りに出掛け、カンテラを灯しての夜釣りだったが、僅か「いしもち」2尾に終わる。3人の釣り糸がからみ合い、引き千切ってのご帰還であった。3日目の山歩きは大収穫!!!!「赤初茸」、「ばっぱ茸」、「栗茸」、「むらさき茸」など10袋の大猟であり、まんぞくして下山した。翌々日の11月5日辞去し、帰路富岡町の叔母の家に寄り、小遣いを上げて一人所帯の苦労をねぎらうも思わず涙が滲む。!!!!!

 

 


コロリ観音参拝

2011-02-23 14:22:44 | モグログ

私は縁があって山形県置賜地方の「コロリ観音」参拝の機会に恵まれた。詳細記事は別の機会に申し述べたい。この写真は米沢市郊外の通称「コロリ観音」のぜんけいである。上杉家の居城の家老の話直江兼続がNHK大河ドラマで有名になる以前に、私は3月に訪れた。笹野一刀彫で有名な「笹野観音」を、あえてコロリ観音と呼び、私はマイカーで訪れた折に撮影した。本堂は葺き変え工事中であった。{ 笹野観音本堂}~


地域社会509~出羽三山詣で Ⅳ

2011-02-23 10:22:15 | モグログ

 加茂水族舘 ▼ 出羽三山詣での旅も最終日の、27日を迎えた。バスは宿を9時に出ると海岸道路を南下、「加茂水族館」に至り、館内では「あしかのショウー」を見た。展示品などには余り興味を示さなかったが、後日(平成22年)に至って、加茂水族館が一躍脚光を浴びた。下村修博士がノーベル化学賞を授賞され、ここの「クラゲ」が博士の有機合成化学の基礎になったからである。博士の受賞を機会にこの水族館の入場者も急増したと言う。目出度し~目出度し~!!!!!

▲ 羽黒山・三神合祭殿 ▼ 山岳信仰のメッカ羽黒山の広大な境内に至り、鬱蒼と立ち並ぶ杉の木立の参道を経て、「三神合祭殿」に至り参拝した。休憩所で休憩後バスは北側の最上川に沿う国道47号を走り、左岸の「草薙温泉」の滝沢屋に着き下車した。ここは最上川舟下りの下船場だが、滝沢屋の広間から、対岸の「白糸の滝」や、舟下りの舟が眺められた。酒とビール付きの昼食を頂く。料理も酒も旨かった。!!!!!

 帰路に就く ▼ バスは新庄市~13号国道~山形空港付近に至り、正伝坊の片倉先達に別れ、彼の労をねぎらう。国道48号を経て、仙台市内の台原バス停付近で講の一行と別れた。この折の私は70才であり、この羽黒山~月山詣では、更に後日マイカーで参拝している。ともあれ得難い経験に感謝するのみ。!!!!!


地域社会508~出羽三山詣で Ⅲ

2011-02-22 13:46:42 | モグログ

▲ 注蓮寺 ▼ 国道112号に出て西進した先で右折すると、「注連寺」があった。370年前に再興された本堂には、「鉄門海上人」の即身仏が有名である。本堂に安置された、この「即身仏」を前にして、御祈祷を受け、この寺の大黒さん(夫人)から、立て板に水の如き名調子の説明をうけた。又この寺では、小説「月山」の作家「森敦」が、ここに籠って書きあげたが、惜しくも作者は昨年逝去されたと言う。作者が朝晩仰ぎ見たと言う本堂横手の杉木立を逍遥してから、バスに乗り込む。!!!!!

▲ 善 宝 寺 ▼ バスは国道を西進して鶴岡市街地に入り、「善寶寺」に到着した。妻は、以前には水墨教室に通っていた折に、曹洞宗三大霊場の一つと言われた「善寶寺」を訪れた由。立派な寺院であり、境内も広く、テレビ放送以後には、「人魚」の棲む池が有名となり、この日も大勢の見物客が訪れていた。直射日光の厳しく照り付ける暑い午後であった。日陰が欲しい観光団であった。!!!!!

▲ 湯の浜温泉・恵比寿屋望海楼 ▼ 日本海に並行する道路両側の畑には、メロンが見え隠れしていた。約20軒の温泉街に進む、「恵比寿屋ホテル・望海楼」の401号室へ8名が、妻は408号へ。早速旅装を解き大浴場に浸かる。宴会は3階の広間だが、私の左隣の男性は、酷く銘酊し、失敬にも私に凭れ掛かり、不作法な言葉を吐き続け、私が気色ばむと、見兼ねた妻の友人蓮が、私の膳を移してくれて、私の怒りの暴発を未然に防いでくれて、事無きを得た。この不作法な男を知る幹事役の配置の失態であった。?????