goo blog サービス終了のお知らせ 

私の歴史

私は森羅万象、波乱万丈の一生を送っています。これからもそれを繋いで行く事でしょう。

ゲリラの寝首掻き・対戦車特攻◇生死のはざ間10

2006-05-04 21:01:01 | 歴史
駐屯地は 亜熱帯標高千メートルに近い カルスト性の連なる岩山群

至る所に鍾乳洞が口を開け  は痩せて物資に乏しい貧しい土地

ゲリラ化した少数民族が  夜な夜な兵舎を襲って  寝首掻く

昭和20年春先に ビルマのインパール作戦大敗し  雲南超えて

米シャーマン40t戦車襲撃情報受く  急遽私は特攻班長トカヤ

蛸壷掘って爆雷抱え  戦車を見たら 体当たり 衛生兵ですよ私は

転進命令で実行せずにすみました  やれやれ 人使いの荒い軍でした




栄養失調と細菌性赤痢 ◇ 生死のはざ間 9

2006-04-20 21:40:34 | 歴史
毒蛇ハブを免れた昭和19年の夏 K陽攻城戦へ20万の友軍の総攻撃 熾烈な
陣地戦の末占領したが 私は粘血便に気付く細菌性赤痢と判明
遥かに後方の T市軍病院へ後送 入院の破目となる

軍病院とは名ばかり あばら家にアンペラ囲いの病室 薄い天井粥一日に一杯
薬は粉末木炭粉一包ノミ 毎朝死亡患者を外へ搬出 病室班長の私は奮起一番
歩ける兵に 塩 飯盒 マッチを 持参させ敵機襲来の合間を縫ってクローバー
を摘み 即席スープを満喫 効果抜群 治癒退院続出

私の退院時 内地からの初年兵200名引率 前線追求を命ぜられた 年配の
オッサン兵を苦労を重ねて 遥かなるK省G市の師団司令部へ 辛い苦しい行軍
の連続 地上から突こつと茸状に立つ山々のG市到着新兵引渡し完了
掲載写真は K省G市を囲む山々
 


 

毒蛇青ハブに噛まれる ◇ 生死のはざ間 8

2006-04-16 21:53:09 | 歴史
昭和19年4月から 大陸縦断作戦(省桂作戦)開始  峻険な山岳を突破

迂回南下進撃  毎晩40キロ行軍の連続 執拗なロッキードP38の

爆撃地上掃射  落下傘爆弾  危険一杯でした

米、医薬品欠乏で一時駐留の時  芋畑発見 蔓を掴んだ途端 左指に

激痛 葉陰にチラリ青ハブ  血を吸っては吐き吐き 軍医は麻酔せず

メスで切開瀉血 過マン酸カリ擦り付けて行軍  3日目肩まで晴れ  

上がりでストップ  辛くもハブ毒蛇死を免れました。 

パラチフス罹患・地獄を覗く ◇ 生死のはざ間 7

2006-04-12 16:19:43 | 歴史
昭和18年夏、 揚子江左岸「S市」の野戦病院勤務は、 赤紙召集以来3年目
衛生伍長でした。
各隊付き衛生初年兵の教育訓練を命ぜられ、教育隊助教兼内務班長となり
寝食を共にし、日夜新兵訓練に明け暮れました。その頃グアム島等南方の
玉砕の島派遣要員該当者だったとは、後日知りました。

新兵訓練無事終了の気の緩みか ?「パラチブス」罹患 連日高熱を発し
夢うつつの境を彷徨しました。高温多湿 悪疫横行の環境下 友軍諸隊か
ら伝染性疾患多発 死亡患者続出 私は夢遊のさなかから生還

{写真は 新兵訓練で引率した S市公園}  

重囲下に身を震わす ◇ 生死のはざ間6

2006-04-11 15:19:36 | 歴史
昭和16年4月、私は赤紙応召以来5ヶ月、揚子江上流の「K省A嶺」へ
さらに「S嶺二半部病院」へ派遣され、辛苦辛苦多々有的でした。

我が軍は兵力の大半を裂き、南部方面へ出動させ、大掃討作戦を展開中でした。
手薄になった留守部隊に対して、敵は四方ハ方から、雲霞のごとき大軍で攻め寄
せ猛烈な集中砲火を浴びせ、友軍各拠点は孤立苦戦し、旅団、師団司令部も危な
く存亡の危機を迎えました。
私の「S嶺二半部病院」は,普段の衛兵勤務体制がやっと
見かねた友軍は、病院入り口三叉路へ、重機のトーチカを構えました。
ナントナント、敵はここを避けて、他へ侵攻、S嶺の将兵は無傷でした。  {S嶺のショーハイと私}、

あわや水死か◇生死のはざ間NO5

2006-03-29 13:33:50 | 歴史
国道と鉄道線路の間に、 西へ流れる小川がありました。 日差しの暑い時
ザンブリ 飛び込み 水泳です。 水田へ引く堰付近には、 大きな輪の渦あり
不覚にも巻き込まれ、 底へ猛烈に引き込まれ、モガキモガイても 浮上できず、アップ アップ 最早絶望かと思われたとたん 堰の木枠に手が振れて危なく命拾い 九死に一生を得ました。
このときの中耳炎が慢性化し、治癒せず、今も身内同然です

断崖墜落事故◇生死のはざ間4

2006-03-21 16:11:45 | 歴史
一次世界大戦が終わりを告げ、 大恐慌の嵐が吹き荒れ, 原敬首相が暗殺される
暗い世相の時代  多額の借金を抱える父は、 「木戸駅」から260キロ離れた
大船渡線「小梨駅」へ転勤します。

昭和3年9月から約5年、 少年は、鉄道官舎、丘陵と森林、清田小学校と山猿まがいで育ちます。 掲載写真の「石碑」付近には、官舎に隣接して60メートルの
断崖があり、  頂上の「山神社」目掛けて登攀開始、 途中足を滑らしてゴロゴロと転落  血にまみれ、息も絶えダえの瀕死の重傷を負えました。

77年後の平成16年2月末, 清田小学校を訪ねました。トンネル脇の旧校舎は既に無く、 親子4人の住まいした官舎は消滅   跡地は広く拡張整備され立派な校舎になりました。浦島太郎の心境でした。 

桐の木から墜落◇生死のはざ間3の3

2006-02-27 16:19:15 | 歴史
木戸村(現楢葉町)の借家は、郵便局の隣の間借りでした。
新しい継母は21歳、昭和2年12月末から一緒に暮らし
ました。

最近まで生みの母親の肌の温みを知る兄妹は、馴染めない
どころか反感を抱きます。兄は父の「松盆栽」を小便攻撃
して枯らしました。

兄に劣らず負けん気の妹は「何時も甘やかすから」と陰口を
叩く郵便局のおばさんに、「馬の糞」を投げつけ、懲らしめ
に、暗い倉に閉じ込められました。

癇癪玉を破裂させた兄は、西裏の畑に伸びる「桐の木」に
よじ登り、枝先の花を取ろうとして,地面に落下、失神、
気がつけば既に夜であり、家には無言まま戻ったのでした。

4月から小学校1年生、通学は貨物列車、中間には「木戸
川」が流れていました。この列車通学を繰り返す中で、命
に関わる台風襲来に遭遇した事件は,既に申し述べました。
「掲載写真は木戸川・2006年1月9日」

鉄橋上の恐怖◇生死のはざ間3の2

2006-02-20 15:46:38 | 歴史
1927年3月末、少年は龍田村井出(現楢葉町)伯母の家で
暮らしていました。

父は同年12月初め、再婚後「木戸駅」へ転勤、借家へ2人の
子を呼び集めました。新しい所帯誕生です。

生母の温もりを忘れない子らは、継母に馴染めず父への反抗を
強め抵抗します。父手植えの「松」は 哀れ立小便攻撃を受け
枯れ果てました。

ピッカピッカの1年生は、木戸駅から貨物列車車掌車に便乗通学
です。 龍田駅までの中ほどに「木戸川鉄橋」があります。

台風襲来の最中!鉄橋上で列車は停車、 横殴りの烈風!逆巻く
眼下の狂乱怒涛の大奔流! 太い流木が橋桁に激突して揺れ動き
長い汽笛は助けを呼ぶ様でした。 恐ろしい経験です。



故郷の山川◇生死のはざ間3の1

2006-02-15 16:15:42 | 歴史
 6歳の少年は、生まれ故郷の「福島県双葉郡龍田村井出(現楢葉町)」の伯母の家に預けられました。4月から龍田小学校入学です。学校裏に「井出川」、其の上流に「上繁岡」猪狩の本家があり、父と少年が生まれ育ちました。
(掲載写真は1938年1月18歳の時撮影)

 長屋と呼ばれた旧家には、戸主の祖父、二代の祖母、七男八女の子の大所帯でした。祖先は、米沢藩の医者の説もあれど,家紋は「二つ引き両」。「三つ引き両」「五三桐」などから、桓武平氏,三浦氏の流れと言う「丹羽基二氏」の説を取りたい。

 楢葉町の南隣「広野町」には、文明6年頃、磐城藩の配下たる「猪狩筑後守隆清」が「高倉山」に城館を置いたこと、「林蔵寺」に一族の墓が存在します。、