PHP『心に響く・名経営者の言葉』
第4章 努力を忘れない・No.008
「志のあるところに道は拓かれる
求めるところに師は現れる」
鬼塚喜八郎 アシックス創業者(1918~2007)
鬼塚喜ハ郎は鳥取県気高郡明治村(現在の鳥取市松上)に生まれる。
旧姓は坂口。生家は農業を営んでおり、喜ハ郎は三男二女の末子だった。
ちなみに鬼塚姓を名乗るのは、戦死した戦友との約束を果たすための養子縁組
によるもの。 昭和11(1936)年に鳥取一中(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を
卒業すると、陸軍に入隊。終戦は長野県の松代大本営守備隊で迎えた。
昭和21年に神戸の商事会社に就職。そこで飲食店の経営からヤミ商売まで、
ありとあらゆる体験をしたという。社長が会社を私物化していることに我慢ならなくなり、
3年で退社。職探しをしているときに友人から「青少年用の靴を作ってくれるところは
ないだろうか」と相談を持ちかけられたのをきっかけに靴を作り始め、小中学校や
警察に納めるようになった。そして、昭和24年に資本金30万円で鬼塚株式会社を
創業した。最初に開発したスポーツシューズは、タコの吸盤にヒントを得て作った
バスケットシューズである。昭和26年に「オニツカタイガー」というブランド名で発売。
その後もマラソンシューズやバレーボールシューズなどを開発・発売。
次第にオニツカブランドのスポーツシューズが認知され、売上げは仲びていった。
そして、昭和31年のメルボルンオリンピックの日本選手団用トレーニングシューズ
として正式採用されたのを機に、世界に認知されるようになった。
昭和52年には、スポーツウェアのジィティオ、ニットウェアのジェレンクと対等合併し、
総合スポーツ用品メーカーのアシックスとなり社長に就任。
スポーツシューズでは国内首位をゆくようになる。
鬼塚は靴に対してはまったくの素人だった。ましてやスポーツシューズのことなど何も知らなかった。
だが、バスケットシューズの開発を始めると「選手の動きをよく見てみろ」という助言を受けた。
マラソンシューズの開発時には、トップアスリートから「風通しをよくしてほしい」
というリクエストをもらった。
どうすればいいかわからなくても、努力だけは怠ってはならない。
人一倍努力している人を見捨てる人などいないからだ。
阿吽(あうん)
よけいな言葉を挟まなくても相手に伝わる。
言葉は「阿」と口を開いて始まり「吽」と目を閉ざして終わる。
その間によけいな言葉を挟まなくても相手に心が伝わる。
「阿吽の呼吸」と呼ばれるもの。
:気持ちが楽になる禅の言葉より
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