誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

明治維新によって東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」へ

2017-01-08 21:48:27 | 近代


大戦の敗因を探る、2

明治維新によって東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」へ

1)明治維新の目的

明治維新の目的は、欧米列強からの開国圧力にさらされた幕末において、強固な国家体制(國體)を再構築することにありました。そのためには、諸藩が半独立状態だった徳川幕藩体制を終わらせ、廃藩置県などによって天皇を中心とした中央集権国家を作り上げることが不可欠でした。

ただ、問題はこれだけでは終わらず、皇室、皇統のありかたについても大幅な改革が必要でした。というのは、南北朝の動乱が終って「明徳の和約」がなされたものの、「両統迭立(たすきがけ擁立)」がなされず、以降一貫して「北朝(持明院統)」によって占められて来たからです。

とくに"表の天皇(政体天皇)”は、幕末の孝明天皇に至るまでほぼ北朝系(持明院統)によって占められ、南朝系(大覚寺統)は"裏の天皇(國體天皇)"とされてきました。このため、国学者や水戸学派、吉田松陰らも疑問を持ち、南朝皇統の表舞台への復帰が主張されます(南朝正統論)。

もう一つの皇室、皇統のありかたに関する問題は、国際化に伴う欧州王室連合との王族間通婚への対応です。通婚により、皇統に外国王室の血脈が入ると、白山王朝以来三万年以上続く世界で最も古い皇統と國體が毀損する虞れがありました。

そこで、皇統の万世一系性(血脈又は霊脈としての)と國體(国家としての霊脈)を維持するため二つの皇統を正式に定め、政体(東京)皇統ではなく、國體(京都)皇統をもって王族間通婚に対応することを決めます。

具体的には、幕末の"裏天皇"伏見宮・邦家親王が、子の山階宮・晃親王、中川宮・朝彦親王、岩倉具視らと謀って孝明天皇の崩御を演出、その子・睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠棲し、以降はシャーマンとして國體の安寧を祈りながら外交、金融等を担当する”裏天皇”になり、

一方では長州・大室寅之祐が明治天皇として即位、政府と軍を統帥する"表天皇”となり、南北両統が迭立して「東京皇統」と「京都皇統」が併存する正式な「皇統二元体制」を敷くことを決めます。

そういう意味で、南朝皇統復活(政体化)の目的は、南北朝時代の一時期を除いて鎌倉時代以来幕末まで続いた大陸経由の"後期出戻り日本人"である北朝系(秦・藤原体制=騎馬民族)主導の体制を覆し、"先住居残り日本人"である南朝系(縄文海洋民族+物部氏)を復活させることだったともいえるのです。


2)長州・大室寅之祐は南朝系の人だった

ところで、大室寅之祐の出自ですが、月読歴(真の皇統譜)よると、後醍醐天皇の第一子・護良(もりなが)親王の子・興良(おきなが)親王の後裔である「大室家」というのが山口県熊毛郡田布施村にあって、周防国の守護だった大内氏、さらに毛利氏の各時代を

領主が天下を取った時の”南朝系隠し種”として匿われてきました。一方、同じ田布施にある南朝系鷹司家が代々住職を努める円光寺住職の娘スエが幕末に生まれ、隣家の地家作蔵に嫁ぎ寅之祐が生誕。その後、スエは離縁し大室家に嫁ぎ、子息を正式に「大室寅之祐」とします。

ところで、時代は前後しますが、室町時代に日明貿易で財を成した大内氏(百済系?)に明国や高麗の背景のもと、分離独立を画策する動きが噂されます。これを牽制するため、南朝皇統は護良親王の末裔・興良親王を、

また足利幕府も、"西行法師"こと佐藤義清の後裔・佐藤甚兵衛を、秦・藤原体制に不満を持って諸国に散らばった南朝海人系物部氏の隠れ里「田布施」に派遣、大内氏の野望画策を監視します。

大室寅之祐が護良親王の後裔である話は吉田松陰も記録しており、松蔭が天皇としての英才教育をしていたとしています。また梨本宮守正の娘で李王朝に嫁いだ李方子も「明治帝は南朝の人」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の甥・興光も「北朝の睦仁親王と明治帝は別人だ」と証言しています。

なお、「梨本宮家」といえば、近年、北朝鮮による拉致問題で取り沙汰されている横田めぐみさんの母・横田早紀江さんに繋がる血筋で、方子(まさこ)が李王朝に嫁いだことも含め拉致問題の核心に関わる重要ポイントですが、古代史の謎も含め、大きな背景を持っているので「大東亜戦争の目的」の章で詳述します。
 
3)「後南朝七家」とは

なお、大室寅之助と似た事例はこの他にもあり、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを、各地の雄藩が天下を取ったときに担ぎ上げる"隠し玉"として匿っていました("後南朝七家")。

このうち、愛知県の熊沢宏道は、熊沢家が後醍醐天皇六代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝が正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されました。が、その後具体的は進展は見られず明治天皇の崩御とともに立ち消えになります。
 
また、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。

これを受け、明治44年2月4日、第二次桂内閣は帝国議会において「皇統は南朝をもって正統と為す」との決議を行い、これにより20年にわたる「南北朝正閏論」が決着します。

実は、このような事例は過去にも存在し、継体天皇の他に藤原氏の百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と後光厳天皇など、時の覇者が天皇の即位、譲位を左右しています。

ちなみに、仙台藩に匿われていた小野寺天皇は、幕末の戊辰戦争の際、西軍側に対抗するため"東部皇帝"として「奥羽列藩同盟」に担がれました。その背景には東北地方で産出された豊かな金塊があります。東軍側はこれを元に、欧米列強から銃器を購入しますが、

西軍有利とみた欧米は、あえて射程の短い旧式の銃を売りつけ、しかも代金だけ受け取ってまともに納品することもなかったため、東軍側は無念にも敗退します。


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