過去に生きる者たちへ

昔書いた記事

洋鉄と和鉄の定義及び小林康宏刀匠を持ち上げる軍装マニアHPの如何わしさ

2015年10月20日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 最近入手した日本刀関係の古書に参考になる記事があった。と言ってもごく基本的な知識である。だがネットには軍装マニア氏のHPを始め日本刀に関する嘘や偏った情報が氾濫している。これでは日本刀文化が際限なく退廃してしまう。嘘や偏見に騙されず日本刀を正しく理解するためには基本的な知識を押さえておかねばならない。紹介するのは記事のごく一部なので、興味のある方は是非出典に当たって頂きたい。

 『刀剣美術』1995年10月号 靖国刀匠座談会より引用 鈴木嘉定氏の発言(青字)

鈴木嘉定 鉄というものは、一口で言ってしまえば「鉄」の一言で終わってしまうものですが、これほど怖い素材はないわけですね。鍛錬が施されていない無鍛錬の鉄は全く何の変化も生じませんが、鍛錬の仕方によって様々の変化を生じて来ます。そういう意味では鉄は生き物であると言えるかもしれません。鍛錬によって色々な生かし方ができるわけですし、色々な素質がそこに出てくるわけです。それを様々な呼称によって表していますが、鍛錬に伴って、同時に仕上げていく段階である研磨、これもそのことを熟知していなければ、いくら刀鍛冶が苦労して立派なものを作刀しても、研磨によってそれを生かし得ない、長所を引き出せないということが、ままあるわけですね。ですから鍛錬と研磨は表裏一体であると私は信じております。
 鉄のことを大まかに述べますと、「和鉄」と「洋鉄」という言葉が刀剣界において広く使用されています。そして、刀剣界でいう洋鉄について詳細に見てみますと、ご存知のように鉄鉱石は百パーセント輸入でありますが、その鉄鉱石を使って溶鉱炉で最後の圧延までやってのける一つの製鉄所、これを「溶鉱炉メーカー」を略して「高炉メーカー」と言うわけですね。そこで生産されるものは、いわゆる溶鉱炉から銑を出し、そして高炉に移し、ビレットを作り、それを加熱してアングルとか丸棒とかH鋼だとか、そういったものを圧延していく一貫工程であり、その生産工程から「銑鉄一貫メーカー」とも呼ばれています。
 次に「平炉メーカー」というものがあります。平炉メーカーの素材は何かと言いますとこれはスクラップであります。市中から集めたスクラップ、それを溶解して、いきなりビレットという四角断面の長方形の素材を作り、それを加熱して丸棒なりアングルなりを作っていくのです。これが平炉メーカーであります。同じような工程で作っているものに「電気炉メーカー」というものがあります。この場合は、燃料が電気であるという点が異なります。
 その他に「単純圧延メーカー」、俗に「単圧メーカー」と言っているものがあります。これは平炉メーカーが生産したビレットを購入してきて、丸棒なりアングルなりを作るものです。そして最も単純なものが「伸鉄メーカー」でありまして、これはスクラップの中から肉厚のものを選んで、それを素材として加熱し、丸棒、例えば九ミリ丸棒だとか十三ミリ丸棒だとかの細物鉄筋バーを作っていくんですね。こういったような段階で製鉄の分野でも分かれています。
 これらの各メーカーで生産されているものは一括して「洋鉄」と呼ばれているものですね。それに対して「和鉄」というものは、ご存知の日刀保たたら、かつての靖国たたらから生産された玉鋼を材料として作刀してゆく、これらを呼称するものであります。このような製鉄法の分類があるということと洋鉄・和鉄の相違点を刀剣人も理解しておくことは必要だと思います。


 当ブログ筆者が補足すると、踏鞴(たたら)とは足踏み式の送風機であり、踏鞴を使った製鉄方法が踏鞴製鉄である。踏鞴製鉄によって生産されるのは鋼だけでなく銑鉄や海綿鉄もある。それらを総称して「和鉄」と呼ぶ。踏鞴製鉄によって作られた鋼が和鋼(わはがね)、銑鉄が和銑(わずく)である。和鋼の別称が玉鋼なのである。また踏鞴製鉄によってできる海綿鉄は刀剣の素材として非常に優秀で、古来刀鍛冶に珍重されている。また刀作りの方法に銑卸しというものがあるが、これは和銑を破砕して火床(ほど 鍛冶用の簡単な炉)で溶かし、炭素量を減らして鋼にする工程である。刀鍛冶が玉鋼以外の鉄を使っていると言う場合、海綿鉄や和銑の炭素量を調整して使っているという意味であり、洋鉄を使っているという意味ではない。自家製鉄を行っている刀鍛冶も殆どが踏鞴製鉄である。従って自家製鉄と言っても作刀に使用しているのは玉鋼であり和鉄である。
 因みに上掲記事の定義に従えば、満鉄刀は高炉メーカー乃至平炉メーカー式洋鉄刀昭和刀は伸鉄メーカー式洋鉄刀という事になる。
 ところが自家製鉄でも、小林康宏氏は踏鞴を使わず登り窯による自然通風で製鉄していたようだ(軍装マニアHP・斬鉄剣孤高の刀匠小林康宏http://ohmura-study.net/011.html)。
 軍装マニアHPの文章は軍装マニア氏自身によるものか他の文献からの引用なのか不明である。記事からは小林氏が登り窯による自然通風だけで製鉄していたのかどうかも判然としない。また登り窯で自家製鉄していたとしても、その鉄のみを使って作刀していたのか、他の材料も使っていたのではないか、スエーデン鋼や電解鉄といった既成鋼や日刀保玉鋼も使っていたのではないか、等々、様々な疑問が生じてくる。
 軍装マニア氏は小林康宏氏に取材したのだろうか? 取材していれば当ブログの杉田善昭刀匠に関する記事のように様々な疑問や批判的な見方が出てくるものである。その上で初めて、正しい部分は正しい、良い所は良いと判断できるのだ。
 ところが軍装マニア氏は小林康宏氏の主張を頭から100%正しい事として信じ込み、賞賛している。軍装マニアHPの記事は雑誌か何かのパクリかもしれないが、それにしても気持ち悪い賞賛ぶりである。ここまで来ると新興宗教と言わざるを得ない。
 私は小林康宏氏の作品を見た事がないので詳細には判らないが、軍装マニア氏のHPに写真が載っている(無言の問いかけ・康宏刀作品http://ohmura-study.net/013.html)。
 掲載されている写真を見る限り、あまり上手ではない。否、はっきり言って下手である。先ず全ての作品の姿が共通して悪い。お世辞にもプロの仕事とは言えない。短刀・脇差は間延びしているし、刀は不恰好である。「こんな物、日本刀じゃない」と言いたくなる。地鉄は大肌が出ていたり、逆に無地風になっていたりと、鍛錬の甘さが見て取れる。刃紋は下手としか言いようがない。
 これらの写真を見れば小林康宏氏が鍛刀界で低く評価されていたのは刀鍛冶としての技量が低かったからと言える。材料云々以前の問題なのである。だから斬れ味を強調して商品価値を高めようとしたのだろうが、落ち目の女性タレントがアダルトビデオに出ているのを見るようで痛々しい。
 もっとも小林康宏氏本人にはそんなつもりはなかったかもしれず、軍装マニア氏が一方的に持ち上げているだけかもしれないが、特定の作者と作刀方法を結び付けて、「これこそ日本刀」「玉鋼を使って折り返し鍛錬するのは間違っている」「心鉄を入れるのも間違っている」と断定するのは間違っている。日本刀の世界では古来様々な作刀方法が行われて来たし、今日でも行われているからである。
 ただ明確に言える事が一つある。小林康宏氏の作品は下手だという事である。日本刀ではなく居合刀のレベルである。そんな物を持ち上げて日本刀を語る軍装マニア氏の言説は極めて如何わしい。

 




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天田昭次 『鉄と日本刀』 3 自家製鉄刀の不明朗さ

2015年06月12日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 一、天田作品に対する歪んだ評価

 天田昭次『鉄と日本刀』1 http://blog.goo.ne.jp/ice-k_2011/e/9034dc9be3459f8e8c4632fee721eddb
 天田昭次『鉄と日本刀』2 http://blog.goo.ne.jp/ice-k_2011/e/9994824bda5ad875030700ccfcc51924
の続きである。
 これらの記事を書いた当時、ハンドルネーム渓流詩人という人がブログで天田昭次を持ち上げていた。この人は当ブログを「おバカさん」と侮辱した人物である。誰が「おバカさん」なのかは当ブログを読めば判る事である。
 渓流詩人氏は藁束切りに使う玩具の視点から今日日本刀の材料として広く使われている日刀保玉鋼を否定し、それを使わず自家製鉄を行っている天田昭次を称揚していた。天田が自家製鉄を行っていたのは藁束切りに使う刀を作るためではなく、あくまでも美術工芸品として美しい刀を作るためだった。藁束切りに使う刀を語る渓流詩人氏が美術刀剣を追求する天田を引き合いに出すのは矛盾している。渓流詩人氏は日刀保玉鋼を否定するために天田を持ち上げていたに過ぎなかった。軍装マニア氏と同じやり方だ。
 当然渓流詩人氏は天田の作品について考察する事はしていないし、天田の自家製鉄を考察する事もしていない。それでも日本刀を知らない人が読めば「人間国宝の天田昭次が日刀保玉鋼を使ってないのだから、日刀保玉鋼は悪いのだろう」と思ってしまう。
 更に渓流詩人氏は天田の著書をダヴィンチコードになぞらえるなど荒唐無稽な扱いをしていた。
 天田の著書とは『鉄と日本刀』慶友社2004である。
 この本は作刀技術や製鉄技術の専門書ではなく天田の自叙伝である。鉄作りの暗号が秘められている訳がない。勿論専門家が読めば天田の言葉に「へ~、そうなんだ。で?」と思う部分はあるかもしれない。だが素人の渓流詩人氏には別世界の話だ。だから渓流詩人氏は天田をダヴィンチコードばりに謎めかして持ち上げるしかなかった訳だが、狸(たぬき)が神輿を担ぐようなもので、胡散臭さがプンプンしていた。それでも当時は軍装マニア氏のホームページの影響もあり、渓流詩人氏の胡散臭さに気付かぬ人も多かった。
 そんな時に私が日刀保玉鋼や自家製鉄に関して真面目な考察をしても、軍装マニア氏や渓流詩人氏に影響された一部の人々に曲解される懸念があった。事実、渓流詩人氏は当ブログに見当はずれな批判を向けていた。私は自家製鉄も鍛刀道の一部である以上、日本刀文化として真面目に考察されねばならないと考えている。藁束切りの次元で語られて良いものではない。それゆえ私は以後日刀保玉鋼や自家製鉄の話題には触れなかった。
 日本刀は作者が心血を注いで作る高度な芸術品である。藁束切りの道具ではない。私は武道修行の一部としての試し斬りは否定しない。しかし試し斬りそれ自体が目的となれば最早年寄りの自慰行為でしかない。そんな事に日本刀を使って貰いたくない。それは陶芸の人間国宝や一流作家が作った抹茶茶碗を便器に使うようなものだ。自分の金で買った物なら何に使おうと勝手だろ、という話ではない。作者やその物に関わる人々の心、またそれを大切にする日本の文化を汚す行為である。
 すると今度はそんな年寄りの自慰に擦り寄る爺専ホストみたいなのが出てくる。藁束切り専用の刃物まで作られている。更には椅子の足を斬ったりオモチャの鉄砲弾を斬ったりして性能をアピールすれば、外国人や日本刀を知らない人々はそれが日本刀だと思ってしまう。
 3、4回折り返しただけの刀身に油焼きで刃を付け、オモチャの拵を被せた粗悪な日本刀モドキ。それでも藁束が切れるから喜んで買う人がいるらしい。それが60万円だそうだ。藁束切りの刃物なら日本刀の外見を真似るなと言いたい。刀身に赤や青のペンキでも塗って区別して欲しい。

 二、天田作品の現実

 天田に話を戻そう。
 例えば裸焼やそれに類する焼き入れ方法で作った作品なら一目でそれと判る特徴がある。しかし天田の作品には「これぞ自家製鉄」という際立った特徴がない。天田が自家製鉄で作ったという作品は日刀保玉鋼で作られた他の現代刀匠の作品と比べて特に違った所がない。肝心の地鉄も現代刀の水準を超えたものとは言えない。
 天田以前の人間国宝の作品は明らかに他の現代刀匠とは異なる出来栄えを示していた。新作刀コンクールの展示会場では、姿や地刃の冴えにおいて、明らかに他の出品作より上だった。天田以前の人間国宝も自家製鉄をやっていた。同時に日刀保玉鋼も使っていた。彼らの作品が材料の違いで区別される事はなかった。あくまでも作品の質が問われていた。つまり彼らは特別な材料を使ったから人間国宝になったのではなく、作品が良いから人間国宝になれたのである。しかし天田以後の人間国宝は作品の質において他の現代刀匠より格段に上ではない。むしろ独創的な作風や技法を追求する一部の現代刀匠の作品と比べると影が薄い。
 天田は様々な伝法を試み、それらに合った製鉄方法を研究していた。しかし材料の問題ではなく作品そのものの出来として、相州伝でも備前伝でもそれを専門にやっている刀鍛冶から天田の作品はあまり評価されていなかった。新作刀コンクールの展示会場で天田の作品を指差し、「私はこんな刀は作りたくありませんね」と言った刀鍛冶もいる。刀鍛冶は誰しも自分の作品に信念を持っているから偏見はあるだろう。しかし備前伝や相州伝に限定すれば天田より上手な現代刀匠は少なくない。
 また天田以前の人間国宝は一門の長として多くの弟子を育て、日本刀文化の継承と発展に貢献している。が、天田はそれほど多くの弟子を育てていない。
 そして天田は、どういう原材料を使ってどういう製鉄方法で作った鉄が、具体的にはどの作品になっているか、全く公表していない。自家製鉄が作品とどう関係しているのか不明なのである。これでは自家製鉄と日本刀の関係を科学的に検証するのは不可能である。そもそも自家製鉄は多くの刀鍛冶が行っているありふれた作業であり、天田の自家製鉄だけがどうして人間国宝即ち重要無形文化財の対象となったのか判らない。
 新作刀コンクールで正宗賞を三回取ったら人間国宝という説もある。しかし月山貞一は正宗賞二回で人間国宝になっているし、天田以前に正宗賞を三回取っていた大隈俊平は人間国宝ではなかった。ところが天田が人間国宝に認定されると不思議な事に大隈も人間国宝にされた。天田が三回目の正宗賞を取ったのが1996年(平成8年)で、人間国宝になったのが翌1997年。大隈が三回目の正宗賞を取ったのが1978年(昭和53年)で、人間国宝になったのが天田と同じ1997年。大隈はなんと19年も放置されていたのである! 正宗賞を三回取ったら人間国宝というのは大嘘だ。
 とは言え、天田の作品が真面目に作られた名刀なのは間違いない。
 しかし作品の出来と自家製鉄を結び付ける具体的な証拠がなく、作品の質が自家製鉄に由来するのか、作刀技術に由来するのか判断できない。腕が良いから良い作品ができたと言われればそれまでだ。作品だけから自家製鉄の優秀性を認める事はできない。実際、天田の腕なら日刀保玉鋼を使っても同程度の作品を作る事ができただろう。やはり天田においても作品の質を決定付けているのは材料ではなく、作刀技術、取り分け鍛錬と焼き入れという事になる。




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軍装マニア氏のHPに関して

2015年01月06日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

  軍装マニア氏のHPに関して

 ただ残念な事に日本刀の持つ道徳的意義や刀剣鑑賞そのものを拒絶する人々がいるのも事実だ。
 例えば軍装マニア氏である。HPhttp://ohmura-study.net/index.html
 自分が理解できない事には関わらなければ良いのに、彼は日本刀を語るふりをして日本刀を貶める。日本刀の事を何も知らないのに、現実の日本刀ではなく、現実には存在しない想像上の刀を、これが古刀だ、これが真の日本刀だと主張する。しかも現実に刀を作っている刀鍛冶に対して、お前達の作り方は間違っている、これが正しい日本刀の作り方だ、と説教までする。
 古代から現代まで、どれほど多くの刀鍛冶が刀作りに生涯を懸けた事か。その刀鍛冶に対して素人が刀作りを説教するとは・・・。
 それも当の刀鍛冶や研師や研究者の言説を逆手に取ってだ。
 刀鍛冶や研師や研究者は現実に刀と関わっている。物事に真剣に関われば、当然、疑問や矛盾、試行錯誤も出てくる。当事者にとってその苦悩は生涯を左右するほど深刻なものである。それゆえ通説や現状と異なる意見を口にする事もある。その脈絡を無視して、「天田昭次はこう言っている、永山光幹はこう言っている、真鍋純平はこう言っている、水心子正秀はこう言っている、etc、だから古刀の作り方はこうだ、材料はこうだ、新新刀の作り方は間違っている」と、日本刀に命を懸けた者達の言葉を利用して日本刀を否定するのだ。
 怒りを通り越して気持ち悪くなってくる。

 そもそも軍装マニア氏のHPの中身は全て他の研究者の著書や刀鍛冶や研師の言説の切り貼りである。彼は現実の日本刀と向き合っていないし、現実の刀鍛冶や研師と議論もしていない。本を読んであれこれ想像しただけで、現実の日本刀とそれに関わる人々を批判している。武器としての刀の性能についても、彼が実際に軍刀を使った人を取材した形跡はない。藁束切りや学者の実験では駄目だ。武器と言うなら武器としての本来の使われ方がされた時の刀の性能が論じられねばならない。軍装マニア氏が軍刀に興味を持った歳頃なら戦場経験者がまだ数多く生きていたはずだ。私は中国で20人近く斬り殺した人(軍刀以外での殺害を含めると39人)に武器としての刀の性能を尋ねている。その上で刀について発言しているのである。軍装マニア氏はそのように現実の刀と向き合っているのだろうか? 
 もしそういう経験があるなら日本刀や刀作りについて軽軽(けいけい)な発言はできないはずだ。
 他者の言説を引用するのは悪い事ではない。しかし軍装マニア氏のように発言者の意図やテキストの文脈を無視して、自説の正当化に利用してはならない。
 軍装マニア氏に利用された人々の言葉は、本来は日本刀に対する真剣な気持ちと愛情から発せられたものだった。それが日本刀を貶める言葉として利用されているのだ。言葉全体の意味が無視され、一部分だけが切り取られ、軍装マニア氏の主張の正当化に利用されているのである。
 こんなものは引用ではない。剽窃である。それもこれ程までに他者の言葉や実践者の苦悩を蔑ろにした剽窃は見た事がない。


 手前味噌になるが、古刀期に行われていたと思われる焼入れ方法がどういうもので、現代では誰と誰が実践しているか、初めて公にしたのは当ブログである(「残留応力ゼロの刀」参照)。
 勿論そんな事は20年も前から知っている人は知っていた。しかし刀鍛冶本人も語りたがらない焼き入れ方法をネットで暴露したのは私である。
 私は刀の作り方について素人が語るべきでない事は百も承知していたが、軍装マニア氏のHPの内容が多くの刀鍛冶の名誉を貶め、日本刀に対する不当な評価を広め、それに同調する渓流詩人氏のような人も現れたので、黙っていられなくなったのだ。
 日本刀は軍装マニア氏の空想ではない。現実なのだ。昔も今も刀鍛冶は、その現実の中で一振り一振り命を懸けて刀を作っている。私はそれを言いたかったのだ。

 もし軍装マニア氏が裸焼きや刃側に厚く土を置く焼き入れ方法について知っていたら、嬉々として自分の空想に利用しただろう。
 現実の日本刀についての知識も理解も経験もなく、ただ本を読んだだけで日本刀の作り方を説教できる御仁ならやりそうな事だ。
 軍装マニアさん、あなたの言っている事は机上の空論ですよ。そして真剣に刀と向き合っている者への侮辱ですよ。

 刀作りは焼き入れで全てが決まる。材料の選択も鍛錬方法も刀身の作り込みも、どういう焼き入れをするかで全く違ってくる。焼き入れする際の加熱方法も、炭の炎で炙る方法、炭の中に突っ込む方法、炉をトンネル状に覆う方法、等々、様々である。刀の作り方は焼き入れ方法に規定されるのである。
 古刀はこう作っている、新刀はこう作っているというものではない。どの時代でも様々な作り方が行われているし、同じ作者が違う作り方をする事も普通にある。例えば匂出来を狙うか錵出来を狙うかだけで、材料も鍛錬方法も焼き入れ温度も全く違ってくるのである。極端に言えば刀は一振り一振り全て作り方が違うのだ。
 鍛錬については後日論じるが、軍装マニア氏が言うような(注)鋼を折返して層状にする事が鍛錬の目的ではない。沸かしと鍛打。即ち熱力学的エネルギーによる鋼の分子組成の整序。それが鍛錬の目的である(「鋼の錬金術」「残留応力ゼロの刀」参照)。鋼を折り返すのは、その過程で鋼が延伸するから、短くして鍛錬即ち沸かしと鍛打を継続し易くするためである。
 熱力学的に見れば作刀の原理は古刀も新刀も現代刀も同じだ。違うのはただ作者の技量だけである。
 そのような刀作りの現実を知らないド素人が、古刀の作り方はこうだ、材料はこうだ、新新刀の作り方は間違っている、云々語るとは・・・。
 そんな人物が「軍刀は本物の日本刀」と言うなら、間違いなく軍刀は日本刀ではないのだろう。
 
 軍装マニア氏の考え方は、現実の女性と付き合った事のない男が空想で「現代の女は本物じゃない。本物の女とはこういうものだ。昔の女が本物だ」と言って自分を慰めているに等しい。
 まあその程度なら個人の自由と言える。
 しかし彼のHPには、変質者が自分の思い通りになる女性を求めて現実の女性数人を拉致し、彼女らの身体から自分が気に入った部位を切断して妄想のままに繋ぎ合わせる、そんなグロテスクな意思
 軍装マニア氏のHPに現象しているのは日本刀文化に対する陵辱以外の何物でもないのである。


注 「折り返し鍛錬の目的は鋼を層状にして強くする事である」と言っているのは軍装マニア氏だけである。刀作りの現場でそんな話は聞いた事がない。そのような話が本当に鍛刀界に流布しているなら、なぜ軍装マニア氏はその典拠を示さないのだろうか。あれほど刀鍛冶や研師や研究者の言説を利用して「折り返し鍛錬で鋼が強くなる事はない」と主張している軍装マニア氏が、当の「折り返し鍛錬の目的は鋼を層状にして強くする事である」とされる典拠を提示していないのはなぜか? 
 それは「折り返し鍛錬の目的は鋼を層状にして強くする事である」なんて、専門家は誰も言っていないからだ。
 鍛錬に関する軍装マニア氏の主張の大前提そのものが、日本刀を貶めるためのでっち上げという事である。
 




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日本刀であるための条件 軍刀をどう見るか3

2015年01月04日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 古い刀を軍装拵に入れた物のように、軍刀でも実質的には日本刀である物もある。一方、満鉄刀(興亜一心刀)のように日本刀とは呼べない刃物もある。ここで、ある刃物が日本刀であるための条件を挙げてみよう。難しい理念や制作方法は抜きにして、何をもって日本刀と呼ばれるかの基準は外見である。

 日本刀とは、片刃の刃物で、反りがあり、刀身にマルテンサイトによる働きを有する刃物である。一般的には鎬造りであり、無反りや平造りの形態も日本刀の条件を満たす刃物の副え物である限りにおいて日本刀に含まれる。平造りの脇差や短刀がそうだ。
 古代の剣や直刀は、いくら見事に作られ刀身にマルテンサイトの働きを有していても、日本刀には分類されない。槍や薙刀も日本刀ではない。現代刀匠が剣や直刀や槍を作っても日本刀とは呼ばない。
 一方、昭和刀や満鉄刀は、いくら反りがあり鎬があり切先があり日本刀の外見を模していても、刀身にマルテンサイトの働きがないので日本刀には分類されない。

 よく業者が「有名な鑑定家が満鉄刀を近江大掾忠広と見誤った」と言うが、初心者時代の私でさえ満鉄刀と近江大掾を間違える事はなかった。読者諸兄も満鉄刀に関するかかる逸話を聞いたらすかさず「有名な鑑定家って誰ですか?」と問い質してみると良い。絶対に答えてくれないだろう。典型的な都市伝説なのである。私はこの都市伝説の出所が知りたくなり、無数の文献を漁ってみた。すると、骨董品や刀剣の買い方のハウツー物に「満鉄刀に肥前刀の銘を入れた粗悪な偽物があるので注意しましょう」とか、日刀保の機関紙に「初心の頃、満鉄刀を近江大掾忠広と間違えた事がありました。恥ずかしい思い出です」といった会員の投稿や座談会記事が散見された。いずれも満鉄刀が近江大掾忠広と見紛う外観をしているという話ではなかった。
 業者が商売に都合良く話を盛り、それが一人歩きしているのである。

 もっとも世の中、軍装マニア氏のように戦前の南満州鉄道株式会社の宣伝を真に受けて満鉄刀を礼賛している人もいる。業者だけを責めても詮無いかもしれない。客が賢くならねばならない。
 満鉄刀も鋼だから焼入れによってマルテンサイトの組織が生じ、その模様を見て取る事はできる。しかしその模様はステンレス製のカスタムナイフに見られるものと同じで、単なるマルテンサイトの組織でしかない。日本刀の景色とは違うのである。従って満鉄刀は日本刀ではない。ニンジャ刀とかコールドスチールといった海外の大型ナイフと同じ類である。
 とは言え近年の刀剣不況にも関わらず、満鉄刀は値上がりしているようである。軍装マニア氏のお陰か。彼も儲けたのだろうか。
 今の刀価なら満鉄刀は保存状態の良い物で7~8万円が妥当だと思われる。満鉄刀は外国製の日本刀を模した刃物よりは高品質なので、その値段なら文句はない。保存状態によっては2~3万円。その場合は研ぎの練習用に良いだろう。満鉄刀なら素人が研いでも私は反対しない。

 次回は日本刀の条件たる外見について、当ブログらしくもっとハードに論じたい。





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興亜一心刀(満鉄刀)と軍装マニア氏の問題点 軍刀をどう見るか2

2014年12月17日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 一口に軍刀と言っても、
1.古い刀を軍装拵に入れた物。例えば東郷平八郎の一文字吉房(大正天皇より下賜)や、支那事変・太平洋戦争で徴兵された民間人が古い刀を軍刀に設えた物。
2.軍装品としての刀を刀鍛冶が日本刀の制作方法で作った物。例えば月山貞一(初代)や宮本包則や堀井俊秀が恩賜の刀として鍛えた物、支那事変・太平洋戦争に出征する兵士のために当時の現代刀匠が鍛えた物や靖国刀の一部。
3.刀鍛冶以外の者が作った物。戦時中の軍刀需要の増大を受け、昨日まで包丁や鎌を作っていた野鍛冶や刑務所の受刑者に作らせた物。靖国刀の一部もそうである。
4.当時の技術で量産した物。鍛造しない昭和刀や日本刀の構造で量産した満鉄刀。
 がある。

 今回論じるのは満鉄刀だ。満鉄刀の正式名称は商品名「興亜一心刀」である。
 量産品でも昭和刀と満鉄刀は全くの別物である。満鉄刀の方が遥かに品質が高い。
 私は満鉄刀とは意外な場所で会っている。仕事でよく行く香港のセントラル地区だ。私が刀に興味を持ち始めた青春時代の事である。
 セントラルの街を散策していて見つけた骨董品店に満鉄刀があった。香港と言えば先ずは偽物と見るのがルールだが、これは本物だった。聞けば店主は日本刀のコレクターだという。当時の私は、満鉄刀は初心者が近江大掾忠広と見誤るという知識は持ってたから、これが満鉄刀かと興味深く見入ったものである。しかし当時の私の目にも流石に忠広には見えなかった。姿や直刃は肥前刀っぽく見えるし、地鉄もつるんとして綺麗ではあるが、日本刀の鉄(かね)ではない。肥前刀の小糠肌や梨地肌に似ているとは言い過ぎだ。よく観れば全く違うのが判る。ただ後に見た河野貞某(名前失念)の居合刀の地鉄は満鉄刀に似ていると感じた。
 因みに洋鋼やステンレスでも焼き入れして磨き上げれば地沸や地景状の働きが現れるものである。鋼を焼き入れすればマルテンサイトの粒子が発生するから当然である。ハンドメイドの高級カスタムナイフにはそうした働きを見て取る事ができる。
 香港の満鉄刀は未使用かと思われるほど保存状態の良い軍刀拵に入っており、刀身も錆一つなかった。値段は30万円(日本円)と言っていた。交渉すればもっと安くなるだろう。当時もっと薄汚い一般的な軍刀が20万円位だったし、高級カスタムナイフなら30万円以上がざらだった。私のポケットにもそこそこのお金があったので心を動かされたものである。しかし日本の通関手続きや登録証の取得が面倒臭いので止めた。当時の私は公私共に非常に忙しかったのである。
 つまり私にとって満鉄刀とは、青春時代の一コマに登場する刀の一つであり、思い出の一部なのである。
 しかし問題は、満鉄刀に関して、偏った歴史観を持つ人や偏った考え方をする人が、極端な主張をしている事である。
 例の軍装マニア氏など、

>興亞一心刀は、新たな日本刀の世界を切り拓く為、満鉄が威信を賭けて取り組んだ壮大な試みであった。
>この刀は、祖国が、そして満鉄が、満洲に描いた夢の証しであり、「紛れもない日本刀」である事を我々に示している。
(同氏HP「興亜一心刀の実態と所見」よりhttp://ohmura-study.net/225.html

 と、熱く語り、その根拠として南満洲鉄道株式会社大連鉄道工場刀剣製作所が発行した書籍『興亜一心』http://ohmura-study.net/221.htmlと昭和14年度(1939)の『満州グラフ』記事「斯くして作られる興亞一心刀」http://ohmura-study.net/223.htmlを引用している。
 『興亜一心』は軍装マニア氏によれば、

>この本がどの様な動機で発行されたのか分からない上に、市販だったのか非売品だったのかも分からない。
>或いは株主総会開催時の“お土産資料”的なものだったのか。
(同氏HP「『興亞一心』について」よりhttp://ohmura-study.net/221.html#1

 との事である。
 つまり『興亜一心』は南満洲鉄道株式会社(以下満鉄)の宣伝パンフ乃至満鉄刀のカタログ的な印刷物なのである。
 自社製品がどれだけ優れているか、科学的な検証結果を基に大々的にPRするのは今日の家電製品や健康食品も同じだし、新車のカタログなど正に軍装マニア氏が紹介する『興亜一心』と同じ構成である。確かに消費者にとって企業側の主張は一つの判断基準になる。しかし企業が自社製品の優秀性をPRするのは当然であるし、当時は企業の宣伝をチェックする公共広告機構もなかった。そのような時代の企業の宣伝に踊らされるのはあまり賢い態度とは言えない。

 またもう一方の『滿洲グラフ』は満鉄の機関紙である。当然満鉄にとって有利な情報やPRしか載せない。人民日報や赤旗のようなもので、一般的な雑誌とは違う。

 参考 拓殖大学図書館滿洲グラフの頁よりhttp://opac.lib.takushoku-u.ac.jp/kyugaichi/htmls/pages/mns_96022010.html:「昭和8年(1933)に南満洲鉄道によって創刊された、満州国宣伝のための雑誌です。満州国や満鉄の美点が多くの写真と共に描かれています。」

 因みに以下は軍装マニア氏のHPに引用されている『滿洲グラフ』記事「斯くして作られる興亞一心刀」の一部である(青字)。

「直徑七寸の巻藁の中心に五分丸の青竹を入れて、これを斜め斬りにやって見た。見事切斷された巻藁に、輕い微笑みを贈ったゞけで、少しの刃こぼれをも感じない興亞一心刀燦(さん)と輝いてゐた。」
「續いての對象にあげられたものは、重量二十六貫、首廻り二尺八寸の豚、厚さ五厘、幅一寸、長さ六寸の軟鐵板を重ねて四枚・・ 何れも興亞一心刀の凝固した名刀の前には何等の障害ともなり得なかった。
「室内の温度が零下四十度に低下して、抜身の刀を一晩その中に放置した。翌日鑄鐵製定盤上でこれが手打試験を實施したのである。太いレールでさへ折れてしまふこの荒テストに、我が興亞一心刀はいさゝかの刃切れ、刃こぼれを見なかったのだ。
「この事實は、大陸に使われる降魔の劍として、絶對的卓越性を實證したものであり、世界に誇示し得る科學滿洲の凱歌でもある。」

 以上http://ohmura-study.net/223.html

 メディアを使った宣伝は今日の工業製品と同じだ。つまり満鉄刀は満鉄が「興亜一心刀」という商品名で売り出した商品なのである。それを踏まえて議論せねばならないのに、軍装マニア氏は満鉄の宣伝に舞い上がってしまい、21世紀の今日になって尚、満鉄の言うがままに、満鉄刀がいかに優れた刃物であるかを力説するのである。
 その興奮は極みに達し、

>この刀は、祖国が、そして満鉄が、満洲に描いた夢の証しであり、「紛れもない日本刀」である事を我々に示している。
(軍装マニア氏「興亞一心刀に思う」http://ohmura-study.net/225.html#4

 と、劇的な決めゼリフで満鉄刀の素晴らしさを讃えている。

 新車のCM顔負けの絶妙なキャッチコピー(煽り文句)である。
 こんな決めゼリフを聞かされたら、誰だって思わず満鉄刀が欲しくなろうというものだ。

 しかし少し冷静に考えてみれば、当時この満鉄刀を手にした兵士達に必要だった物は、こんな愚にもつかない刃物だったのだろうか。こんな刃物を開発する金と技術があるなら、兵士に最新式の自動小銃とまではいかなくても、もっとまともな武器・弾薬を装備させるべきではなかったか。
 
 確かに満鉄(南満州鉄道株式会社 1906)は全く合法的に設立された会社である。しかしその成り立ちからして極めて政治的且つ軍事的であり、株式会社とは言うものの国家戦略・国家戦術を担う国策会社だった。満鉄はアジア開発の拠点であり、軍事的な要衝でもあった。そして満州事変(昭和6年・1931)以後は実質的に関東軍配下の組織となる。ここから満鉄(=関東軍)は国家をも動かす独自組織のようになる。今の言葉で言えば軍産複合体である。軍産複合体とは、徴兵された兵士や現地で戦闘に巻き込まれる人々の犠牲を糧に、権力や財力を肥やして行く組織である。軍産複合体にとっては戦争(事変)が泥沼化すればするほど都合が良いのである。そんな組織が「満洲に描いた夢の証し(軍装マニア氏)」が満鉄刀なら、私はそんな穢れた刃物には触りたくない。

 そもそも満鉄の夢など日本刀とは全く関係ない。

 満鉄刀の実態は、日本刀の持つ「武の心」とか「武士道精神」といったシンボリックなイメージを利用して国民を戦争に狩り出した、シンボル操作のツールであったと考えられる。
 何が「大陸に使われる降魔の劍」(『満州グラフ』)だ。日本にいるそこら辺の若者やオジサンを戦地に送り込み、今だに他国民から非難される捕虜や丸腰の人間の虐殺を行わせた鬼畜の剣ではないか。
 それを21世紀の今日になっても今だに「紛れもない日本刀」と宣伝し続ける軍装マニア氏の良識は極めて疑わしい。しかも「この刀は、祖国が、そして満鉄が、満洲に描いた夢の証し」と言うに及んでは狂気の沙汰と言うしかない。
 軍装マニア氏が当ブログを読む機会があれば、一刻も早くとは言わない、せめて生きている内に狂気から目覚めてくれる事を望む。

 古来、日本人は桜を好んだ。桜は日本の国花である。
 風雪に耐え、最後に鮮やかに咲いて散る。
 それは生を寿ぐ日本人の心性に通じている。
 人生には様々な事が起きる。辛い事もあれば悲しい事もある。
 しかし最後は桜花のように、明るく、暖かく、咲いて散る。
 そしてこの世は次の世代に受け継がれる。

 それゆえ桜花は生命を寿ぐ画題として刀装具にも好んで用いられた。
 ところが満州事変以後、短期間で散る桜花のイメージがプロパガンダに利用され、戦地で敵兵諸共、桜吹雪のように散って死ぬ事が美徳かのようにシンボル操作された。そのせいで今でも桜花を人命軽視の象徴と信じている人は多い。
 
 日本刀はプロパガンダの道具ではない。

 私は『興亜一心』や『満州グラフ』の内容が嘘だと言っているのではない。性能PRは多分本当なのだろう。
 だから何だと言うのか?
 満鉄刀は日本刀とは無関係な刃物である。なぜ日本刀を引き合いに出すのか。
 刃物として、軍刀として、抜群の性能を持つなら、それをアピールすれば良いだけだろう。なぜ事あるごとに日本刀と結び付けるのか? この方が問題である。
 日本刀を引き合いに出すのは、満鉄=関東軍こそが日本の歴史を背負っているというイメージを国民に刷り込むためだったのではないか?
 日本刀の持つシンボリックなイメージを利用して国民を戦争に狩り出したのではないか?
 日本刀の威を借りて日本刀を貶め、独善的なプロパガンダを遂行する。このような満鉄刀の宣伝手法はそっくりそのまま軍装マニア氏にも当て嵌まる。
 彼は本当に日本人なのだろうか?


 補足
 日本刀でなくとも刀は持つ者と深い繋がりを持つ。当ブログで以前紹介した人物のように、戦時中に使っていた自らの軍刀を戦後のGHQの刀剣没収から隠し通し、90歳過ぎてなお自分の愛刀として傍らに置いていた人もいる。だから私は軍刀に深い愛着を抱き、大切にしている人々を決して否定する者ではない。否、その心情には敬意を持っている。
 問題は軍装マニアの主張が、そのように軍刀と関わる人々の崇高な心情を踏み躙り、日本人の尊厳を冒涜している事にあるのである。




 
 

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カントの美的判断に基づく刀剣鑑賞の論理 軍刀をどう見るか1 

2014年12月13日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 銃器を製造していた左行秀や鉄砲鍛冶出身の繁慶が、まさか刀を銃砲に勝る武器などとは思っていなかっただろう。当然彼らの作刀理念は刀を単なる武器ではなく、芸術品として作る事であったはずだ。日本において刀は優れた武器だから貴ばれたのではなく、優れた芸術品だから貴ばれたのである。そうした刀は世界でも日本にしかなく、それゆえ「日本刀」と呼ばれる。
 日本刀の良し悪しの基準は用を超えた鑑賞の次元で決定される。だから日本刀の美を工芸品的な「用の美」と言うのは当たっていない。

 日本刀の鑑賞はカントの言う美的判断に近いものだ。否、美的判断と同じと言える。カントは美的判断という言葉を主に自然に対する人間側の判断という意味に使っており、人間だけが自然の中に美を認識できるとする。動物は自然の美を認識できない。美的判断は人間特有の能力であり、その能力が人間特有の文化や倫理に結び付く。人間が自然の美しさを認識する事で、真なるもの、善なるものへの洞察力が涵養され、文化・文明が発展するというのだ。美が人間の人間たる所以の道徳性と結び付いているというのは注目すべき考え方である。
 かかる美の認識は、感覚器官で対象を直感する事と、かかる直感を概念化する事という二重構造を持っている。つまり対象を感覚的に受容しつつ(要するに知覚する事である)、知性的に概念化し、かかる概念に基づいて改めて対象を能動的に感覚(知覚)し直す。これによって感覚の中に単なる知覚ではない概念的な感覚が生じる。それが美の認識、美的判断だ。つまり美は判断者が対象へ分け入って行く「経験」でもあるのだ。そのように経験される美は個人的な体験であり主観であるから、言語化すれば人それぞれ異なった表現になり易い。しかしそれが美しいという感覚は多くの人々に共有可能である。
 
 刀剣鑑賞が正に美的判断である。

 刀剣鑑賞においてはどういう刀が名刀かの定義は古来より決められており、刀の見所、見極め方も古来より定まっている。具体的には刀剣入門書を読んで貰いたい。それらは刀剣鑑賞の掟とされている。愛刀家は掟に従ってある刀を名刀か否か、判断するのである。当然その判断は鑑賞者が掟をどれだけ理解しているかという知識(悟性概念)に左右される。しかし単に掟を知っていれば刀剣鑑賞が成立するのではない。知識だけでは判断できないその刀の品格とか作者の製作意図といった領域をも認識できねばならないのである。刀の品格など言葉で定義できるものではないから感性的に認識する、即ち直感的に判断するしかない。感性で捉えたもの、直感を概念に置き換えねばならないのだ。
 カントにおいては感覚(感性)と概念(悟性)の総合が認識であり経験であるとされており、人間は自然や文化を美的に感覚し美的に概念化する、即ち人間は自然や文化を美的に「経験」する存在なのだ。更に人間は経験から学び、経験を積み重ねる事で成長して行く存在であり、動物のように自然の一部として存在しているのではない。経験に基づく人間的成長が、美の経験に導かれているという所に、カント哲学(『判断力批判』)の真骨頂がある。
 美の経験が優れて人間的な経験となり、人間を人間的に成長させ、道徳的にするという考え方である。
 それは「精神一到何事か成らざん」とか「為せば成る」といった東洋的精神主義とは次元を異にする思想と言える。「真・善・美」の理念(イデア)を追求する古代ギリシア以来の哲学的命題への回答と言える思想なのである。

 刀剣鑑賞も全く同じ。

 刀剣鑑賞とは刀を美的に経験する事、即ち美的判断に他ならない。そして刀に対する美的判断は鑑賞者の道徳性をも陶冶するのである。お望みならその道徳性を武士道と呼んでも構わないが、武士道を飲み込んだもっと大きな道徳性である。
 刀の持つ強さ、美しさ、崇高さを感じれば、人はそれに負けない「善き人」になろうと思うものだ。当然、刀を鑑賞する者の知性と意欲が高ければ高いほど、刀に対する美的判断も精妙になり、人格に及ぼす作用も大きくなる。
 だから鑑賞者は刀から美を読み取る能動的な意志を持っていなければ意味がないし、鑑賞者の人間性が低いと名刀も名刀とは見えず、却って下等な刀――行秀の言う賎刀――を良い刀と見做しかねない。「直胤は大偽物」とのたまう渓流詩人氏のブログはその最たるものであるし、町井勲氏は刀剣鑑賞が鑑賞者の見識に左右されるという私の話をお花畑呼ばわりした。彼らが推奨する刀がどんな物で、彼らの人間性がどういう物かを知れば、誰の言っている事が正しいか判るだろう。

 またカントにおいては美的判断という人間特有の経験の仕方が、文化・文明の礎となり、歴史を発展させ、人間を道徳的にしているとされている。

 刀剣鑑賞も全く同じである。

 多くの愛刀家は刀剣鑑賞を単なる物品鑑定(時代や位列や価格の区分け)ではなく、刀と語り合う緊張しつつも楽しい時間として経験しているものである。刀を観る事で気持ちが引き締まり、一方で心が安らぐとでも言うような、不思議な感慨に浸る。正に刀を「経験」しているのである。そこから刀に照らし合わせて自分自身を省み、更なる成長の糧とする。実際、刀から力を与えられた経験は愛刀家なら誰にでもあるはずだ。
 つまり刀剣鑑賞とは人類の文化的成長過程を集約したものなのである。
 従って、刀を単なる切れ味、それも命がけの真剣勝負ではなくお遊びで藁束を切った時の切れ味でしか経験できない者は動物と同じと言える。渓流詩人氏などそんなレベルでブログまで書いているし、町井氏など差し詰め「馬の耳に念仏」にすら届かぬ「馬以下の段階」にあるのではないか。

 カントの美的判断の要諦は「美」が人間を成長させるという事に尽きる。
 従って、カントが美的判断で論じる美と全く同じ日本刀の美は、軍装マニア氏(HPhttp://ohmura-study.net/index.html)が言うように、

>刀への畏敬の念、辟邪の願い、守護の祈りは日本刀の根本である武器性能に端を発している。
>刀身の美は基本性能を支える鋼材や造り込みの刀身の裡(うち)から滲(にじ)み出て来るものである。

というものではない。

 そうではなく、日本刀の美は作者や愛刀家の人格と道徳性に由来しているのである。

 行秀や繁慶が刀を鉄砲以上に威力ある兵器だと思って作っていた訳がないし、軍装品として作っていた訳でもない。増してや丸腰の人間や無抵抗の人間を虐殺する道具として作ったのではない。彼らはあくまでも鉄砲では不可能な「美」の表現手段として刀を鍛えていたのである。当然そこには刀を武器ではなく「美しいもの」として求める我が国の文化的土壌があった。
 古来刀に美を追求する我々日本人は、実にカントより遥か以前に西洋哲学の真髄を掴み取り、実践していたのである。

 その上で明治時代以後の日本陸海軍の軍刀をどう見るべきか。 

 本日は「軍刀は日本刀ではない」との命題を提起するに止め、後日その命題の真偽、反証可能性を議論したい。







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従軍慰安婦問題に酷似する軍装マニアHPの主張

2014年08月20日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 杉田善昭刀匠の裸焼きにせよ、松田次泰刀匠の焼き刃土を刃先に置く焼き入れにせよ、古刀期の焼き入れ方法は現代刀における最先端の技法でもある。最先端と言っても、当ブログで紹介したそれらの技法は現代刀の世界では20年以上も前に解明され、実践されていた。私は21世紀以後、公私共に多忙になり、日本刀の研究に割ける時間が無くなってしまった。だから作刀方法に関する当ブログの情報は全て20年以上前のものである。現在ではもっと進んだ作刀方法が確立され、実践されているに違いない。
 例えば20年前の時点で、沸かしや鍛練にガスバーナーを使う方法を模索する刀鍛冶がいた。平安・鎌倉時代の古名刀の超絶的な地鉄の謎は鍛練過程における熱処理の仕方にあるのでは、と考えての事だ。ガスバーナーを使うと灼熱した鋼の中に更に微妙な温度差を作り出す事ができる。当然それは鉄の姿に反映される。その関係性が判ればガスバーナーを使わなくても同じ熱処理が可能になるだろう。
 先日引用した平成26年新作刀コンクールに関する日刀保の記事の中で、上林恒平氏が審査員講評として、「仮に今ここに長光や正宗が来ることができたら、今の材料で長光、正宗を作ると思います。また逆に、私達が古い時代に行くことができればやはり今の材料でかなりのものができるはずです。」「現代刀は、ここ何年かで大きく変わる予感がします」と言っているのは、このような現代刀匠の実力を指しているのである。
 21世紀になりインターネットが普及し、私はそうした現代刀匠の情報がネットで発信されると思っていた。それにより愛刀家の知識は一気に上がるはずだった。事実、あれほど世事に疎い杉田善昭刀匠でさえネットで情報発信を試みるなど、多くの刀匠や研ぎ師がネットの活用に意欲的だった。杉田氏の活動には松葉國正刀匠も加わっていたと記憶している。ところが彼らの意に反して、ネットでは日本刀に関する嘘が垂れ流され、一流の刀匠や一流の研ぎ師の発言の方が嘘吐き呼ばわりされるようになってしまった。そして一流の刀匠や一流の研ぎ師より、職人気取りで虚言を弄する素人騙しの悪党が受け入れられた(2011年4月3日「剣恒光(片山重恒))。町井某はその最たるものである。日本刀の世界は悪徳商人の天下になってしまった。私も愛刀家の一人として虚偽を正そうとしたが、多勢に無勢で、ネットでは嘘吐き呼ばわりされた。
 先日の日刀保の記事http://www.touken.or.jp/pdf/h26_new_meitou_gaiyou.pdfにある松葉刀匠の言葉、「日本刀は、人類の生み出し得た美術品の中でも際立って美しいと、今も深く信じてはいる。同時に日本刀という存在にまとわりつく偏見や禍々しい誤解にあまりにも多く遭遇し、刀鍛冶としての矜持は大きく損なわれた。そして、この国の美意識が今まさに消えようとしているのではないかという、じりじりとした焦りをも感じ続けている」とは、上記の経験を指していると思われる。悪党が大きな顔をし、本物が貶められ、真実を口にすれば嘘吐き呼ばわりされる。まるで中国である。

 このように日本刀文化を支える現代刀匠や愛刀家の発言を頭から虚妄なものと決め付ける「偏見や禍々しい誤解」には、実は発信元があったのである。
 軍装マニアのHPhttp://ohmura-study.net/index.htmlである。

 たかがマニアのHPと侮るなかれ。
 ここに書いてある内容が、今日多くの人々が持つ日本刀に関する間違った認識の根拠となっているのだから。
 例えばインターネットの質問サイトで日本刀に関する質問があると、大抵はこのHPの内容に基づく回答がなされる。「もっと詳しく知りたければ」と、このHPを勧める回答者もいる。
 しかしその中身たるや日本刀とは程遠いものなのである。
 日本刀を軍装品や藁束切りの玩具として規定し、伝統的な日本刀製作技術そのものを否定しているのだ。それも既存の文献から文脈を無視して都合の良い文章だけを切り貼りし、元の筆者が言っている事とは全く違う意味にしたり、検証不可能な大昔の情報を持ち出したりしてである。

 例えばこれだ。

>千代鶴さんは明治三十三年の刀剣会(後の中央刀剣会)に刀を出品した。
>当日、公開会を傍聴に行ったところ、鑑定員の間で次のような遣り取りがあった。
>本阿弥琳雅・・・「備前伝の作風だが、新作刀のようじゃないところがあります」
>松平頼平子爵・「あたしの考えでは、これは無銘の古刀に今の人が銘を切ったもので、出品者が我々の鑑定力を試されたように思いますな」と最後に言った。
>「そういう物なら、この作は出品作として記録には留めない事にしょう」と誰かが言い足し、千代鶴の新作刀の合評はそれで終わった。
>千代鶴さんは後年、楠瀬日年先生に、刀工の家に生まれながら刀を鍛(う)たぬ所以を尋ねられ、上記逸事を物語った後、「あたしはこの時以来、刀を鍛っておりません」と締めくくったという。(白崎秀雄著「千代鶴是秀」より)
引用元 日本刀の考察020「砂上の楼閣」千代鶴是秀の刀http://ohmura-study.net/020.html

 と、検証不可能な明治三十三年(何と1900年!)の話を持ち出し、

>千代鶴さんが50年も前に生まれていれば、間違いなく幕末の名刀匠になっていたと天田刀匠が評した人である。これは、刀剣界の愚かしさと空しさに対する千代鶴さんの無言の反抗であったと云える。

 と言う。そして天田昭次著『鉄と日本刀』慶友社から次のような引用をしている。

>天田刀匠が戦後鉋(かんな)などの刃物を作っている時、浅草の刃物店で目を見張る小刀を見つけた。それが千代鶴是秀の作だった。
>早速、伝(つて)を頼って教えを乞う為に訪問し、是秀作の鉋で宮内庁御用の大工が削った10メートルも繋がっている鉋屑を見せられた。天田刀匠は言葉を失い、「単なる刃物鍛冶では無い。名匠だと直感した」と述べている。
>思い切って鋼の事を尋ねたら「私のは大体、大正頃」との答えだったという。
>白崎秀雄著「千代鶴是秀」には、千代鶴や従兄の石堂秀一が使った鋼は英国のワーランデッド・スチール社製やトーマスとある。
>木屋の加藤俊男さんが千代鶴さんに聞いた話として「スウェーデンです。鋼屋の河合さんから炭素量1/100の物を目安にもらった。明治三十年代のある年の出来が良かったので有り金はたいて買い、残り少なくなったが今も使っている」と載っている。
>上記のように、刀匠達は自らの信念に基づき、鋼材の固定観念には囚われず、より良い日本刀を目指して全ゆる可能性に挑戦していた。
引用元 日本刀の考察5「南蛮鉄・洋鉄考」千代鶴是秀が使った鋼http://ohmura-study.net/005.html

 まるで千代鶴是秀が刀鍛冶として英国のワーランデッド・スチール社製の鋼やトーマス、スウェーデン鋼で刀を作っており、明治三十三年の刀剣会で古刀と間違われたかのような引用の仕方である。そして千代鶴が後の人間国宝・天田昭次をも感服させた名人刀鍛冶であるかのような引用をしている。
 ここで軍装マニア氏はわざと引用していないが、天田が浅草の刃物店で見かけた「目を見張る小刀」とは、日本刀の拵えに使う小柄用の小刀ではなく、「鉈豆形の切り出し」(天田昭次著『鉄と日本刀』慶友社 P.254)である。その切り出しに魚子(ななこ)が施してあり、天田は「まるで美術品だ」と感服したのである(同上)。魚子とは拵の縁頭に施される数の子状の微細な彫刻で、その作成には気の遠くなるような労力と時間が必要だ。一説には一日に7×7個しか彫る事ができず、そこから魚の卵に似た見た目との語呂合わせでナナコと呼ばれるようになったとも言われる。江戸時代には魚子だけを彫る職人「魚子師」がいた。そんなものが単なる切り出しナイフに施してあったから天田は驚いたのである。
 この箇所の軍装マニア氏の引用は極めて意図的な編集が加えられている。
 確かに天田の著書『鉄と日本刀』には、天田が千代鶴の鉋で削った鉋屑が10メートル繋がっているのを見て驚いた事が書かれている。だがそれはあくまでも鉋の話だ。日本刀とは関係ない。千代鶴が英国のワーランデッド・スチール社製やトーマス、スウェーデン鋼で切れ味抜群の鉋を作っていたからといって、それと日本刀を結び付けるのは無理がある。日本刀と鉋とでは刃物としての目的も使われ方も全く違う。凡そどんな刃物もその用途によって形態や材料が違うのは当然だ。切り出しには切り出しの、鉋には鉋の、包丁には包丁の、鉈には鉈の、髭剃りには髭剃りの、各々の用途に適った材料が使われるはずだ。千代鶴の鉋の材料がどうして日本刀の材料に結び付くのか。理解に苦しむ引用である。 

 軍装マニア氏は更に、

>「日本刀は砂鉄製錬の玉鋼から造られる」と殆どの刀剣書に書かれている。これは明治以降の刀剣界が創り上げた寓話に過ぎない。
>人力鍛錬しなければ使えない半完品の粗鉄(例えば玉鋼等)と、最早、鍛錬の必要が無い精錬された洋鋼を、鍛接の可否で比較する事自体が全くの筋違いである。
>それよりも、鍛錬という原始的精錬手法を唯一と妄信していることこそが問題であって、その為に意味不明の珍説・奇説が生まれた。
>刀剣界は「玉鋼至上神話」を創り上げる為に、臆面もなく、こうした珍説・奇説を平然と流し続けてきた。
>和鋼でしか日本刀は造れないとの主張は、刀剣界の詭弁である。

 と極論し、返す刀で南蛮鉄を称揚する。

>「江戸中期(元禄四年=1691)、天秤鞴(ふいご)の登場で、和鋼が安く市場に出廻り、南蛮鉄の品質が悪いから駆逐された」との説を見かけるが、これは無知からくる曲解である。
>寛永十年(1633)の鎖国令で鉄の輸入が止まった。以降、南蛮鉄を消費し続け、丁度この頃、国内在庫が尽き果てた。その為に、刀は和鋼でしか造れなくなった。
>これは正秀の「剣工秘伝志」でも明らかである。鎖国がなければ、その後の新々刀の地鉄は違った様相になっていた可能性が高い。
>南蛮鉄が刀に不向きなら、国内在庫が底を尽くまで新刀に使われ続けた説明がつかない。

 これが軍装マニア氏の主張だ。

 私は長年日本刀の世界に生きているが、「玉鋼至上神話」なんて聞いた事がない。軍装マニア氏が言う「日本刀は砂鉄製錬の玉鋼から造られる」とは文字通りの事実である。それがなぜ「明治以降の刀剣界が創り上げた寓話」になるのか。軍装マニア氏の主張こそ「意味不明の珍説・奇説」ではないのか。
 確かに「玉鋼」という名称が普及したのは明治以後である。しかし「玉鋼」に相当する鋼は中世、あるいは古代から存在している。踏鞴製鉄によって作られた鋼が「玉鋼」である。日本では室町時代中頃から踏鞴による製鉄が盛んになり、その方法で作られた鋼が今日「玉鋼」と呼ばれているに過ぎない。「玉鋼」が特に踏鞴製鉄で作られた鋼を指すのは、踏鞴製鉄では鋼だけでなく銑鉄やケラも出来るからだ。踏鞴製鉄は砂鉄から直接鋼を作る直接製鋼に適しており、我が国では室町時代中頃から踏鞴による鋼の生産が盛んになった。砂鉄から直接鋼を作る分、銑鉄の炭素量を下げるズク下げや錬鉄の炭素量を上げる浸炭などの手間が掛からず、鋼の大量生産に向いている。踏鞴製鉄の普及は戦乱によって武器に使う鋼の需要が増加したからだと考える研究者もいる。踏鞴製鉄あるいはそれに類した製鉄方法は、神話ではなく技術として、古代からある製鉄方法の一種なのである。
(参考「明治大学佐野ゼミナール「技術の歴史」http://www.sanosemi.com/htst/History_of_Technology/lecture01.htm
 「製鉄技術史1」http://www.sanosemi.com/htst/History_of_Technology/History_of_Iron_19990324.html#03
 「玉鋼至上神話」も何も、日本の刀鍛冶が日本で生産された材料を使うのは技術史的に言って当然だろう。それのどこが変なのか? 日本の刀鍛冶が日本で生産された鋼を使う。そんな当たり前の話が神話と思える軍装マニア氏は、どこの国の人なのか?
 また慶長以後、南蛮鉄(ウーツ鋼=インド製の鋼)で刀を制作する事が流行したのは歴史的事実だが、それは南蛮鉄が刀の材料として優れていたからではなく、舶来品の南蛮鉄で作った刀が珍重されたからである。
 「流行した」というのは「普及した」という意味ではない。今日でも刀鍛冶が普段使わない材料で刀を作ったり、変わった作業を行った場合、その旨を中心に切り付ける習慣がある。管見でも現代刀に「○○の山野に眠る古鉄を以って之を造る」とか「アフリカ喜望峰の砂鉄を以って之を造る」とか「アントニオ猪木氏と共に之を鍛える」等々の銘文を見た事がある。堀井俊秀作の「戦艦三笠砲鋼を以って之を作る」と銘した短刀は有名だ。江戸時代初中期を中心に「以南蛮鉄作之」と特筆した作品があるのは、当時刀の材料として国産の玉鋼が普及しており、南蛮鉄を使うのが稀少だった事を意味している。当時の刀は武器ではなくステータスシンボルとして作られていた。そのため南蛮鉄を使うのは武器としての優秀性を求めてではなく、作品のステータスを上げるため、悪く言えば商品価値を上げるためだった。「玉鋼至上神話」どころか、玉鋼は刀の材料としての優秀性とは関係なく、ありふれた有り難味のない材料だったのである。
 日本刀の世界に「玉鋼至上神話」など無い。軍装マニア氏の捏造である。ありもしない「従軍慰安婦強制連行」と同じだ。

 引用された千代鶴是秀(1874-1957)について。
 千代鶴が鉋作りに輸入品の鉄材を使っていたのは良いとして、刀を作った時もそれらの材料を使ったのだろうか。普通に考えれば刀を作る時は誰だって刀の材料、即ち玉鋼を使うはずだ。天田昭次の著書『鉄と日本刀』慶友社 P.254以下「千代鶴是秀さん 一度だけの出会い」によれば、「千代鶴さんも若い頃は玉鋼を使っていたとのことでした。」(同書 P.256)とある。天田が千代鶴に会ったのが1950年(同上)だから、千代鶴が引用エピソードの刀を打った明治33年(1900年)は26歳。十分「若い頃」と言って良いだろう。引用エピソードの古刀に間違われたという千代鶴の刀は玉鋼で作られていたと考えて間違いない。
 ところで千代鶴が作った刀は現存するのであろうか? 引用エピソードの刀でなくても良い。千代鶴是秀作の刀が現存していれば刀鍛冶としての千代鶴の技量が判断できる。そこから軍装マニア氏の引用エピソードについて、ある程度の考証が可能になる。しかし千代鶴作の刀が存在するとは聞いた事がない。従って刀鍛冶としての千代鶴の実力も引用エピソードの真相も不明としか言いようがないのである。
 更には、こう言ってしまえば身も蓋もないが、そもそも引用されているエピソードが事実かどうかも判らない。
 そもそも1950年に天田昭次が千代鶴に会いに行ったのは、刀鍛冶としての千代鶴に感銘を受けたからではなく、天田自身戦後の刀を作れない時期に鉋を作っており、鉋作りの職人としての千代鶴に注目したからである。天田は刀作りを教えて貰うためではなく、鉋作りを教えて貰うために千代鶴に会いに行ったのである。「私も下手ながら鉋をやっています。ぜひ教えて頂きたいと思って伺いました。」と言って(同書 P.255)。その上で天田は「刀の話はしませんでした」と言っている(同書 P.256)。
 それをどう捻じ曲げたら軍装マニア氏のように、

>上記のように、刀匠達は自らの信念に基づき、鋼材の固定観念には囚われず、より良い日本刀を目指して全ゆる可能性に挑戦していた。http://ohmura-study.net/005.html

 となるのか。
 前提となる事実や文献・史料が捻じ曲げられていては健全な議論は不可能である。

 このように軍装マニア氏のHPは、刀剣関係の書籍から片言節句や都合の良い文章だけを取り出し、それらを意図的に編集して予め用意された結論に結び付ける。そこに論理的な検証や事実関係の調査は一切ない。そして子供じみた空想に基づく自分が欲しい軍装品としての刀を偶像化し、それに合わない現実の方を否定するのである。現実を否定してありもしない珍説・奇説・虚偽を日本刀に押し付けるのだ。更にはその責任が日本刀や愛刀家や刀鍛冶にあるとすると主張するのである。これほど日本刀の姿を捻じ曲げているHPはない。こんなものは悪質な捏造である。
 しかし日本刀を知らない人が軍装マニア氏のHPを見たら、日本刀とはなんと下らない文化なのかと思ってしまうだろう。
 近年、新作刀コンクールへの出品者が激減しているのは、刀鍛冶を志す若者が減った事も大きな理由である。日本刀に強い関心があり、刀鍛冶になりたいと思っている若者が軍装マニアのHPを見たら、確実に日本刀が嫌いになる。軍装マニアのHPは、論理的には全く破綻しているが、プロパガンダとしては非常に成功している。このHPによって近年の日本刀文化が急速に衰退したのは確実である。

 日本刀に興味がある人、これから日本刀を勉強したい人は先ずは一般的な解説書を読むべきである。当ブログを含め、ネットには偏った情報が多い。そんな中、誰にでも安心してお勧めできる日本刀サイトがこれだ。

 おさるの日本刀豆知識 http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/index.htm

  軍装マニア氏と同じテーマを扱いつつ、反対意見も引用、提示して、極めて公正な内容となっている。
 軍装マニア氏の偏った日本刀観に対する是正が全て含まれているのである。
 その正確かつ広範な内容は、私など及ぶべくもない。本格的な日本刀論、日本刀HPである。当ブログを読んだ方は是非「おさるの日本刀豆知識」を、日本刀に興味を持つ人々に広めて頂きたい。
 特に「日本刀の材料」・南蛮鉄の項目では、「新刀期の助広など一部の刀工が南蛮鉄を使った作刀を残していることから、全ての日本刀が輸入鉄を使用して作られたというような、極端で誤解を招く記述をしているホームページもあるらしく、注意が必要です。」と言っている。溜飲が下がる思いである。
 しかもこの人は2006年に両目を失明しているそうである。私なら失明したら刀を思い出す事さえ辛いだろう。その状態でよくこれほど立派なHPを制作できたものだ。本当に頭が下がる。
 恐らくこの人の人生は日本刀と共にあるのだろう。日本刀から人生を学んだのだろう。それゆえ失明という困難に立ち向かう事ができたのだろう。そして自分に力を与えてくれた日本刀を、より多くの人に知って貰いたいと願っているのだろう。
 このHPこそ、日本刀精神そのものである。
 このような日本刀の持つ精神的威力こそが、日本刀を武器としてしか見れない軍装マニア氏には絶対に理解できない、日本文化の精髄なのである。

 軍装マニア氏が言う「玉鋼至上神話」は「従軍慰安婦強制連行」同様でっち上げである。
 そこに引用されている千代鶴是秀や天田昭次の言葉は意図的に捻じ曲げられ、従軍慰安婦強制連行の証拠とされる吉田清治証言、黄錦周証言と同じような形で使われている。千代鶴も天田も自分の言葉がまさかこんな不本意な形で利用されるとは思いもしなかっただろう。
 この他、軍装マニア氏のHPに引用されている日本刀関係の史料は全て、特定の結論=日本刀を否定する事だけを目的として歪められ利用されている。
 この手口は従軍慰安婦問題捏造と全く同じである。
 日本刀を語る振りをして日本刀を否定する。日本刀を否定する事で、日本の歴史、日本の文化、日本人の魂を否定する。
 極めて悪質かつ巧妙なやり方だ。
 日本人の誇りを否定する偽装日本人の活動は、こんな所でも行われているのである。

 







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古刀期の焼入れ方法と残留応力ゼロの刀

2013年11月04日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 物事には多面性がある。単細胞な人は物事の多面性を一面的にしか理解できない。
 刀の強度が材料のみに規定されると思い込むとそれ以外の発想ができなくなり、玉鋼より電解鉄の方が良い、それよりそこら辺の鉄屑を溶かした方が良いと、まるで北朝鮮国営放送のようにブログで延々と同じ主張を繰り返す。猿がマスを覚えると死ぬまでカキ続けるというが、そういう人は幼稚な主張を死ぬまでカキ続けるに違いない。
 因みに同一条件で制作すれば、玉鋼で作った刀の方が電解鉄で作った刀より強度が上である(京都大学エネルギー科学研究科)。

 今日、自家製鋼に取り組んでいる刀鍛冶は、強度ではなく美しさを追求している者が殆どである。美しさの追求とは無関係にただ単に電解鉄やそこら辺の屑鉄を使っている者は、その方が玉鋼より安上がりだからだろう。安っぽい拵えに入った打ち下ろし数十万円の居合い刀に玉鋼など使えないからだ。玉鋼は1kg8千円。一振りにつき最低10kgの玉鋼が必要になる。それに炭が十数俵。日本刀制作に使う炭は高価で、炭代が一振り当たり十数万円もかかる。その他諸費用を合わせると、一振りに付き、材料費が30万円は必要になる。自家製鋼だとその3倍位のコストがかかる。それに研ぎ、白鞘、ハバキ等の代金が加わえれば、作品がそれ相当の金額になるのは止むを得ない。新品で数十万円程度の居合い刀では、安くて粗悪な鉄と炭を使わなければ割が合わない。勿論心鉄を入れるなんて手間のかかる事はしない。そんな下手物をさも名刀みたいに言う人は、商売が絡んでいるのかもしれない。

(注 極端に脆い現代刀は玉鋼を使っていない粗悪品か、玉鋼に混ぜ鉄をした物である。混ぜ鉄は玉鋼の節約や鍛え肌を強調するために行われるが、大抵は鉄滓と同じ悪影響を及ぼし、鋼内に電位差を生じさせる。これによって刀身が脆くなるのである。榎本貞吉の刀は畳を掠っただけで切っ先が大きく欠ける事で有名だったが、鍛え肌を強調するために混ぜ鉄をしていた。新新刀期の直胤が荒試しに弱かったのも混ぜ鉄が原因である。そのように何事にも理由がある。原因も究明せず、現代刀は悪い、直胤は大偽物、「斬鉄剣(商品名)」が本物、と扇情的に宣伝する輩は非常に胡散臭い。)

 力学的には、刀身が折れるという現象は、刀身内部の応力によるものと理解される。

 応力とは作用反作用に基づく動力学的概念で、外的エネルギーに対して物体内部に生じるエネルギーの事である。
 刀で堅い物に打ち込むと、物打ちではなく刀身の下部が折れる事がある。それは材質が原因ではなく、刀身下部に応力が集中するからである。例えばうどんを長く伸ばして乾燥させたものを地面から水平に持ち上げると自重でポキッと折れる。その時うどんは手で持っている付近で折れるだろう。なぜならうどん内部に生じた応力が手元に集中するからである。刀が腰で折れるのは、それと同じ原理である。
 現代では刀の応力は簡単に測定できる。工学的な装置がなくても大体の応力分布は検査用の塗料で判る。それで自分の刀のウィークポイントを予め知る事ができるし、様々な方向から刀に力が加わった時の応力分布の変化を調べる事もできる。業者の悪質な宣伝に騙されず、自分の刀は自分の目で判断すべきである。

 日本刀の歴史は強度追求の歴史ではなく、刀身内部の応力減殺の歴史なのである。

 刀の素材的な強度は鋼という物質によって限界付けられており、いくら弄っても大して変化しない。そんな事より刀身内部の応力を減殺する方が刀の折損防止に効果的なのである。刀身内部の応力は、皮鉄と心鉄や刃鉄と棟鉄の組み合わせ、焼き入れ方法、波紋の構成によっていくらでも調整できる。
 そうして開発された方法が、硬度(炭素量)の異なる鉄の組み合わせである。
 刃鉄、心鉄、皮鉄、棟鉄を組み合わせる本三枚や四方詰めは、異なる硬度の複合体として刀身内部の応力を減殺する。甲伏せは飛行機のモノコック構造のように応力を分散させる。
 また、樋はハニカム構造に通じている。
 昔、『刀剣美術』誌に、樋の有無による刀身強度の違いを数学的に検証した論文が掲載されていた。それによると、「樋は刀身強度を低下させるが、刀身の重量が同じなら樋のある刀の方が表面積が大きいので強度がある。例えば同じ重量なら、棟を大きく削いだ菱型状の刀身より、樋を掻いた刀身の方が強度がある」、といった結論だったと記憶している。しかしこれはあくまでも机上の計算による静力学的な見解だ。
 焼入れした後で樋を掻いた刀ならこの論文の計算結果に近づくかもしれないが、火造りの段階で樋を造形した刀ならこの論文の結論とは異なってくるだろう。
 焼き入れ前に造形した樋は、動力学的に刀身内部の応力を減殺する最良の構造だと思われる。どこかの研究室で是非検証して欲しいものである。その場合、今日単なる飾りと思われている二筋樋や添え樋にも、応力減殺上の積極的な意味が見出されるだろう。
 但し焼き入れした後に樋を掻くのは前出の論文が指摘する通りの結果になると思うので感心しない。これもどこかの研究室で検証して貰いたい。

 さらに興味深いのは、人間には物体内部の応力を感じ取る力があるらしい事である。

 神社仏閣の虹梁には彫刻や装飾が施されている。虹梁の装飾は建物が大型化するに伴って発生した。建築工学的には、建物が大型化すれば建築素材に生じる応力も増大する。社寺の虹梁はそこで発生している応力をなぞるように描かれているのである。
 これは、高所にある巨大な物体を下から見上げると人は不安を感じるから、その不安感を減殺するために装飾が施されるようになった、と解釈されているが、その装飾が梁の内部の応力分布と一致している所が興味深い。つまり、人間は梁に生じた応力を直感的に感じ取るから不安になる、だから応力に合わせて装飾を施す事で心理的な安心感を得ている、という事なのである。
 同じ事が刀の刃紋にも言えるだろう。
 直刀時代には直刃しかなかったのに、刀に反りが付くと乱れ刃が焼かれるようになった。最初は静謐な直刃より乱れ刃の方が馬上から斬り下す太刀の躍動感に相応しいという装飾的な意味合いだったのだろう。しかし焼き刃が構成する硬度の波が実際に刀身内部の応力減殺に有効だったから、以後乱れた刃紋の美が追求されるようになったと考えられる。また映りは明らかに応力減殺のために焼かれたものである。
 
 そこから古刀の焼き入れ方法についての推理が可能だ。

 日本刀は精神的にも技術的にも直刀を踏まえて誕生した。ところが今日一般的に行われている焼入れ方法では、直刀を作るのは難しいのである。なぜなら焼き入れによってどうしても反りが生じてしまうからだ。だから現代刀匠は直刀を作る時、火造りの段階で内反りに作り込んでおき、焼きが入ったら直刀になるようにしている。だが古代の直刀がそんな作り方をしていたとは思えない。技術史的には先ず直刀が作られ、次に反りのある刀が誕生している。つまり直刀時代の焼き入れ方法では反りが生じていなかったと考えられるのである。

 これは刀身内部の応力の観点からも極めて重要である。

 刀身を先天的に弱くする最大の要因は、焼き入れのエネルギーの残留応力である。これは焼き入れのエネルギーに対する反作用ではなく、焼入れで刀身に反りが付く事で生じる鋼の分子間結合のストレスである。この残留応力が分子レベルで刀身に負荷を掛けており、その刀が存在する限り付いて回る。
 今日一般的に行われている焼き入れ方法だと、焼入れで生じる反りは定寸で1cm位。それでも焼き入れ時や焼き入れ後に刃切れが起きる事がある。焼き入れ後の刃切れは厄介で、焼入れの翌日発生する事もあれば研ぎ上げた後で発生する事もある。これは刀身の焼入れ残留応力によるものである。つまり今日一般的に行われている焼入れ方法で作られた刀は、使用で生じる応力だけでなく、先天的な残留応力をも余分に持っているのである。そのような作り方で平安・鎌倉時代の反りの深い太刀を写すと、火造りの段階で付ける反りの残留応力も加わって、焼き入れ後の刀身にはかなり残留応力が存在するだろう。実用には適さないかもしれない。因みに裸焼きだと3cm/定寸もの反りが生じるので、刀身内部の残留応力は極めて強いと考えれる。

 現代より遥かに粗悪な鋼を使っていた古刀期の刀鍛冶が、かなり強靭な刀身を作り得たのはなぜか。
 それは古刀期の刀鍛冶が直刀譲りの焼入れで、反りが付かない方法を行っていたからだろう。
 それなら焼入れによる残留応力ゼロなので、極めて強靭な刀身になる。
 恐らくその方法は今日一般的に行われている焼き入れ方法とは全く異なり、刀身の刃側に土を厚く置き、地や棟に行くに従って土を薄く置いて、焼き入れしていたはずだ。古刀に多く見られる映りはこの方法で意図的に焼かれたと考えられる。実際、この方法で焼入れしている現代刀匠(松田次泰氏等)の作品は古刀っぽく見えるから、古刀の焼き入れ方法は残留応力ゼロの、反りが付かないやり方で間違いないと思われる。

付記 上記の考え方は、動力学的な作用反作用の概念の枠内での、一面的な見方に過ぎない。反りが付かない焼き入れ方法には、動力学的な残留応力ゼロ以上の、もっと積極的な作用がある。熱力学的に見れば、刀身が折れたり曲がったりするのは基より、外的な力に対して刀身内部に応力が生じる事自体が、刀身エントロピーの増大と見做せる。反りが付かない焼き入れ方法で鋼を刀身へと相転移させたエネルギーは、動力学的な残留応力としてはゼロのように見えるが、実は刀身というシステムのエントロピー増大を鋼分子のレベルから抑制するエネルギーに転化しているのである。
 エネルギーは必ず何らかの仕事をする。今日一般的に行われている作り方だと、焼き入れのエネルギーは刀身に対してネガティブな残留応力として作用し続ける。一方、反りが付かない焼き入れ方法だと、焼き入れのエネルギーは刀身の形態を分子レベルから維持するエネルギーになるのである。だから曲がった刀身が一晩寝かせておくと元に戻るという現象もあり得ない事ではではないだろう。


 関連記事 2013年10月7日「鋼の錬金術 杉田善昭刀匠の想い出・番外編」http://blog.goo.ne.jp/ice-k_2011/e/0ca4df28d55667605337f91c5a253265


 参考文献

・「日本刀の焼入れ条件と材料が刃文と残留応力に及ぼす影響 : シミュレーションと実験結果」 京都大学エネルギー科学研究科

・「人間が好むデザイン」 日比野治雄 『人間科学の可能性』放送大学教育振興会2003 






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天田昭次 『鉄と日本刀』 2

2013年10月27日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 天田は1959年の『刀剣美術』に掲載された久我春(くが はじめ)の論文、「鍛刀用の砂鉄とチタニウム」「刀剣の地肌について」に注目した。そこで久我を訪ね、直接話を聞き、様々な実験試料、研究資料を見せて貰う(『鉄と日本刀』P.163-171)。
 久我の説は、

1、チタンは炭素との親和力が強く、炭化鉄の形成を妨げ、鋼(フェライト)の炭素を除去し、鉄との間で強靭な合金を形成していることが判った。ゆえにチタンを鋼に添加すれば抗張力と靭性が増す。

2、科学の力をもってようやく解明できた事実を、1000年前の刀鍛冶が当然のように取り入れ、無比の利刀を作り上げていることにはただ驚嘆するばかりであり、当に神業と言う外ない。

3、平安時代中期以前の製鉄は火力が弱いため鉄もチタンも完全には溶解せず、チタンが鉄滓として鋼内に残っている。それらは鍛錬によって除去されるが、一部のチタンは炭素と結合して鋼(フェライト)結晶中に溶解し、炭化チタンとして鋼を形成する。

4、鎌倉・南北朝時代はチタン鋼として最も理想的である。適量のチタンが鋼に溶解し、余剰のチタンが炭化チタンとなって刀の切れ味と強さを実現している。

5、室町時代以後は製鉄技術が発達し、純粋な鋼が得られるようになったが、その製鉄法ではチタンが鉄滓として排除されてしまう。

6、その結果として刀身が弱くなった欠陥を補うためか、心鉄を組み合わせるようになった。心鉄は化学的に重大な難点がある。日本刀はチタン鋼なるがゆえに強靭であるのに、心鉄を入れると鋼中にごく僅か残存しているチタンまでが心鉄に移行し、チタンの支配力が完全に打ち消され、ただの鋼に変質してしまうからだ。それによって日本刀はセメンタイト(硬いが脆い鋼)が跳梁する所となり、もはや特殊鋼の機能は失われてしまう。

 そして天田に大和古社寺に残存していたという平安時代から室町時代までの古刀をピクリン酸に浸した資料を見せた。そこには黒く錆びた地鉄の中に白銀色の筋が浮いているのが確認できた。この筋こそチタンが炭素を吸収してできた炭化鉄である―。天田はそう確信した(P.167)。
 
 この箇所は本書の山場であり、純粋に美を追い求める刀鍛冶の素直な驚きが伝わって来ると共に、著者の終生の目標が明確化される極めて感動的な場面である。 
 ところが刀の切れ味にのみ取り憑かれた試し斬りマニアにとっては違うようだ。ここで一気に妄想のテンションが上がってしまうのである。彼らには本書の感動的な場面も、チタンの呻き声さながら、病んだ心に妖しく響くのだろう(チタンはギリシア神話のタイタン。ゼウスとの戦いに敗れ地底の暗黒世界に幽閉された。この世に強い恨みを抱いている)。
 天田は切れ味の追求ではなく、あくまでも美術工芸品としての美しさの追求のために久我の説に注目したのである。切れ味に関してはチタナイジングを紹介している。チタライジングとは、金属をチタンでメッキし、250℃で2時間加熱して金属内部にチタンを浸透させる技術である。日本刀にこれを行うと鋼の水準を超えた強度と切れ味になるという(P.169-170)。
 試し斬りマニアはこれをやれば良いのである。勿論そんなものは日本刀とは言えない。だが彼らには相応しい玩具である。彼らの幼稚な願望を十二分に満たしてくれるだろう。またそれによって世間一般の人々の目にも、日本刀を文化・芸術として愛する多くの愛刀家と、日本刀を自慰行為の道具として用いる一部のマニアが差別化される。

 天田が紹介している久我の論文は入手困難なため、私は未だ読んでいない。ゆえにあるいは見当外れかもしれないが、素朴な疑問点が幾つかある。

・天田は本書の別の箇所で古代釘の成分分析表を掲載している。チタン含有量は、法隆寺の釘で、建立当初の釘が0.025%、中世の釘が0.036%、慶長の釘がの0.015%である。現代の電解鉄が0.001%、玉鋼が0.002~0.010%位<注1>のチタンを含有しているから、法隆寺の釘のチタン含有量は電解鉄と玉鋼よりは多いものの、久我が言うような炭化チタン鋼を形成できるほどの量と言える数値であるかは不明である。その上、久我が研究に使用した古刀の分析結果が示されていない。肝心の古刀の成分データがないのである。これでは古刀に多量のチタンが含有されているという久我の主張を鵜呑みにすることはできない。

・一定の条件下ではチタンと炭素は結合可能だが、自然界においては殆どのチタンは酸素と結合している。製鉄過程でチタンと炭素を結合させるのは現代の高温の溶鉱炉でも無理。増してやそこで鉄とチタンの特殊合金ができるなどあり得ない。それが古代の低温の炉で生成されたと考えるのはあまりにも非現実的。造るとしたら、最初から炭素と結合したチタンを自然界で発見するか、鋼の炭素とチタンを特殊技術で結合させるしかない。

・チタンを他の金属に浸透させる特殊技術がチタナイジングだが、天田は「(チタナイジングで)チタンを人為的に注入したのでは、古刀の地鉄は得られない。これは一に製鉄に関わる問題であり、酸化チタン(TiO2)という介在物をいかに残していくか、それ以外にないと、確信しました。」と言っている(P.170-171)。しかし酸化チタンなら、あくまでもただの鉄滓に過ぎないのではないか。

・チタナイジングにおいては150℃から250℃という低温でチタンが炭素鋼に浸透するという(P.169)。しかしその場合のチタンは工業的に精製されたチタンである。自然状態の酸化チタンではない。天田は酸化チタンを鉄滓の形で鋼に残しておけば、鍛錬の熱によって炭素とチタンが結合すると考えたようだが、既に酸素と結合している酸化チタンが鋼の中で炭素と結合することは不可能である。久我は「チタンは炭素との親和力が強い」と言ったそうだが、鋼内におけるチタンと他の元素との結合のし易さは、酸素、窒素、硫黄、炭素の順である<注2>。既に酸素と結合しているチタンが鋼内で炭素と結合することはない。そして炭素と結合しなければチタンは酸化チタンという単なる鉄滓に過ぎず、美術的な面では瑕欠点となるし、実用面では脆さにつながる。

 これらの疑問が生じたのは、久我の主張の要点が、上記3、「鉄滓として鋼内に残ったチタンが炭素と結合して鋼(フェライト)結晶中に溶解し、炭化チタンとして鋼を形成する」ことだからである。これを根拠に上記4~6の推理が展開され、一部のマニアの妄想に拍車が掛かった。しかし前述の通り、鉄滓として鋼内に残ったチタン(=酸化チタン)が炭素と結合して炭化チタンになることは通常の製鉄過程や鍛錬過程ではあり得ない。仮にそんな奇跡が起きたとしても、鉱物として鋼の中に固定されているはずの炭化チタンが固体状態の刀身の中で上記6のように皮鉄から心鉄に移行することなど物理的に不可能である。上記4~6の推理は非現実的な空想と言わざるを得ない。


 そして天田が納得してしまった久我の研究資料の古刀に関して。
 ピクリン酸で浮き上がった白銀色の筋が果たして「チタンが炭素を吸収してできた炭化鉄(P.167)」と言えるのかどうか。
 ピクリン酸は爆薬の材料で強酸性である。アンモニア、カリウム、ニッケル、コバルト、銅、カドミウム、金などの確認にも使われる。濃度にもよるが、天田が見た白銀色の筋はチタン以外の金属だった可能性が大きいのではないか。
 
 かように本書のチタンに関する記述は眉唾なのである。

 とまれ天田の自家製鉄は見方を変えると非常に注目すべき点がある。
 例えば久我に触発されてチタン含有量の多い鉄の製造にチャレンジし、チタン含有量の少ない出雲の真砂鉄からチタン含有量0.34%の鉄を作り出したケースである(P.196)。
 これはチタン云々とは別に、炉内で液状化した鉄の表面張力が製鉄に及ぼす影響の問題であり、美術工芸品としての日本刀のみならず、製鉄産業における小型炉の利点が確認される可能性を秘めている。そして「鉄と日本刀」という命題において、天田が行き着いた反射炉が良いのか、それともやはりタタラの方が良いのか、という問題が、改めて提起されるだろう。そこから古刀の地鉄の特有性も見えてくるだろうし、日刀保タタラの問題点も浮上してくるだろう。
(続く)


注1 京都大学エネルギー科学研究科「日本刀の焼入れ条件と材料が刃文と残留応力に及ぼす影響 : シミュレーションと実験結果」掲載資料ではチタン含有量、電解鉄0.001%、玉鋼0.002%。「伝統的鍛錬工程における日本刀材料の炭素量変化」『鉄と鋼』Vol. 93(2007)掲載資料では玉鋼のチタン含有量0.003~0.010%。 
注2 「鋼中の硫化チタンの形態」 斎藤利生 『鉄と鋼』Vol. 47 (1961)

参考文献
・「金属チタンの精錬と加工」 高尾 善一郎 草道 英武 『鉄と鋼』Vol. 41 (1955)
・「古代釘の冶金学的調査」 堀川 一男 梅沢 義信 『鉄と鋼』Vol. 48 (1962)
・「鋼中の硫化チタンの形態」 斎藤利生 『鉄と鋼』Vol. 47 (1961)
・「日本刀の焼入れ条件と材料が刃文と残留応力に及ぼす影響 : シミュレーションと実験結果」 京都大学エネルギー科学研究科
・「伝統的鍛錬工程における日本刀材料の炭素量変化」 佐々木直彦 桃野正 『鉄と鋼』Vol. 93(2007)
・「真砂砂鉄と赤目砂鉄の分類--たたら製鉄実験から明らかになったチタン鉄鉱の役割 」 久保善博 久保田邦親 ―『たたら研究』第50号 
・ブリタニカ国際百科事典
 




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天田昭次 『鉄と日本刀』 1

2013年10月23日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 天田昭次著『鉄と日本刀』慶友社2004は、著者が自らの試行錯誤を回想しつつ古代・中世の製鉄方法を推理し、現在の自分に結び付けて行くという形式で書かれており、日本刀に興味がない者でも楽しく読める本である。それゆえ一般読者にもそこそこ売れたと思われるが、実際に自家製鋼を行っている刀鍛冶からは一笑に付されている本である。本書を公平に評すれば、天田昭次のロードムービーと言えよう。年老いて尚夢を追い求める老鍛冶天田の姿に、読者はほのぼのとした感動を味わう・・・。それが本書の正しい読み方だ。
 ところが奇怪なことに、そうした和み系のはずの本書が、一部マニアの妄想を煽ってしまったようなのだ。曰く、日本刀の真の材料は鋼(玉鋼)ではなく銑鉄か錬鉄である。曰く、日刀保玉鋼はダメである。曰く、皮鉄に心鉄を組み合わせると刀身が弱くなる。更には、屑鉄を溶かして作った「斬鉄剣」こそが本物である、と粗雑な試し切り刀をHPで宣伝する者まで現れる始末だ。
 天田の結論ははっきりしている。

 「中世には、錬鉄も鋼も銑もあり、それらの加工を経て供給される製品もあって、選択肢は大きく広がっていたわけです。そのほか、地域ごとの特色ある地鉄もあったでしょう。古刀は想像以上に変化に富んだ素材の中から、これはと思うものを選んで作っていたことが確実になってきました。」本書P.80

 である。

 元が錬鉄であろうが銑鉄であろうが、延いては砂鉄であろうが鉄鉱石であろうが、日本刀の材料の段階では全て鋼になっている。その鋼になるまでの道程を天田自身が旅してみた。それが本書の内容である。

 ところで本書では鋼のことをしばしば「(けら)」と表記している。とは、日本古来の製鉄法であるケラ押しまたはタタラ吹きでできる鋼の粗製品で、鋼とスラグの集合体である(広辞苑より)。だからという言葉は本来あまり良い表現ではないが、天田は鋼に含まれる不純物こそが古刀の地鉄に表れる働きと密接な関係があると信じており、敢えてという言葉を使っているのである。

 以下が本書の目次である。

一章 「鉄」と日本刀

 日本刀はなぜ貴ばれたか
・小学校に見る日本刀 ・日本刀の四つの価値 ・今、なぜ日本刀か

 鉄文化の始まり
・鉄の発見と伝播 ・鉄生産の開始時期 ・戦略物資としての鉄 ・わが国の製鉄の発展過程

 古代鉄の不思議
・法隆寺の鉄釘 ・古い鉄ほど純度が高い ・沸かしが利く和鉄 ・朽ち果てぬ鉄とは ・侮れぬ近世の職人技

 日本刀の起源
・玉鋼は最高の鉄 ・古刀は銑卸しか ・銑押しは後世の技術 ・中世は銑である ・見えてきた中世の「鉄」 ・新々刀の主材料は玉鋼

  出土した古代の鉄塊
 ・判明した大炭の樹種 ・鉄塊は遺失物か、放棄物か ・古代鉄を鍛える ・製製か、精製か

二章 「鉄」を求めて

 幻の講和記念刀
・栗原師の最後の仕事 ・初めての作品を鍛える

 桶谷博士「日本刀のこと」の波紋
・日本刀に神秘はないか ・分析から名刀は生まれない

 なぜ自家製鉄か
・理想理念を明らかにせよ ・目標に徹し切る ・やれどもやれども光明なく

 作刀界の材料問題
・鑪の火は消えて ・自家製鋼時代 ・日本刀の「新素材」の可能性 ・「日刀保たたら」への期待

 出雲に「鉄」を探る
・『古来の砂鉄精錬法』に導かれて ・最後の大鍛冶屋大工 ・左下法を伝授される

 木炭銑から学んだこと
・鳥上木炭銑工場を訪ねる ・東西の銑鉄処理法 ・わが国に炒鋼法はあったか

 砂鉄か、鉄鉱石か
・砂鉄にこだわる ・鉄鉱石の種類と性質 ・特異な鉄鉱石 餅鉄 

 陸中に「銑」を求めて
・野鍛冶も使った和銑 ・鋳物の里 軽米を訪ねる

 古刀の地鉄とチタン
・神秘のカギはチタンにあり ・各期の作風とチタンの有無 ・刀とチタナイジング

 未知の鑪に挑む
・二つの特殊な遺構 ・壮大な古代製鉄実験 ・秘法マンダラ製鉄

 自然通風による製鉄実験
・高まる鑪製鉄への関心 ・先駆けとなった自然通風実験 ・自然通風でも鉄はできる

 「鉄」に聴く
・鉄生成のメカニズム ・切れ味も優れた玉鋼 ・さまざまな鉄の探求 ・低温製鉄による生成物 ・昭和平成を画する名作を

三章以下省略

 映画かアニメにでもして貰いたい内容である。

 鉄と日本刀という視点で見ると、本書の内容は概ね、

1、日本刀の材料の鋼には直接製鋼で作ったものと銑鉄の炭素量を下げて鋼にしたものがある。古刀期は銑鉄の炭素量を下げて鋼にしていた。もしかすると錬鉄の炭素量を上げて鋼にした場合もあったかもしれない。
2、武器としての日本刀ならタタラ製鋼による玉鋼が最高の材料である。
3、しかし美術工芸品としての日本刀なら古刀期の製鋼技術に倣った方が良い。
4、銑鉄の炭素量を下げる方法は、銑鉄を細長い板状にしたものを熱してハンマーで叩く左下法と、炉で溶かして脱炭する銑卸しの方法がある。
5、銑卸しの場合、著者が発見した最適の方法は反射炉式の精錬方式。
6、銑、鋼、いずれも鉄以外の不純物が適量混ざっていることが重要であり、特にチタンが古名刀再現の鍵を握っている。

 この6、のチタンに関する記述が専門家からは失笑を買い、一部マニアの妄想を掻き立てたのである。(続く)

 


 


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