飄評踉踉

日々のニュースに寸評を加えていきます。ブログでしか出来ないことはブログで。

母なる証明責任論

2009-12-28 16:22:11 | 映画
西川美和監督「韓国映画は気合いが違う」と完敗宣言

先週、ポン・ジュノ監督の『母なる証明』を観てきました。ポン・ジュノ監督は黒沢清監督をリスペクトしているだけあって、本作の中には『キュア』を初めとする黒沢清作品的な雰囲気を多く感じ取れます。たとえば、主人公の息子がすべてを見透かしているかのように振る舞う姿は、『トウキョウソナタ』に出てくる子供たちを想起させます。すなわち、ポゼッション(憑物)が表現されているということです(*1)。また、本作冒頭の死体の置き方は『叫』を想起させるものがあります。
他方、本作についてはその「後味の悪さ」が指摘されているようですが、本作のストーリー構造にはほとんど過不足がなかったため、私は、それほど後味悪くは感じませんでした。また、主人公がその母性を暴走させていく姿は衝撃的ではあるのですが、それについても、「韓国では親は必ず子供を守るし、親が責められることはない」そうだから(*2)こういう母もいるのだろうというくらいにしか思いませんでした。
むしろ、本作で特筆すべきは、刑事手続における真実発見の困難性が描かれている点です。本作では、結果的に「真実」が明らかになり事件が「解決」するわけですが、本作を観る我々としては、果たしてこれが「真実」なのかという疑念を抱かざるをえません。この疑念は、近代裁判における真実発見が相対的発見にとどまるということに起因するものであり、多くの人が本作の「後味の悪さ」を指摘するのはこの疑念ゆえなのでしょう。しかし、私としてはむしろ、ポン・ジュノ監督が、黒沢清監督のようなオカルトに頼らずに、近代裁判の問題点から生じる「後味の悪さ」のみを切り出して提示したことにかなりの後味の良さを感じるのです。

(*1)「ところどころで子供たちにポゼッションが起こる。子供たち自身は何気なく言っているのですが、何かが憑いていて、憑いているものが子供たちに本質を言わせてしまうんじゃないか、みたいな。」対談黒沢清×宮台真司(キネマ旬報2008年10月上旬号30頁)の宮台発言
(*2)柄谷行人『倫理21』23頁


最新の画像もっと見る

コメントを投稿