飄評踉踉

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おぼえておきなさい。こんなにいいアニメ、滅多にないんだからね!

2008-10-05 16:17:26 | アニメ
今回のタイトルは、「銀河の妖精」風ということで(笑)。

[Ⅰ] 先日、『マクロスF』が終わりました。今世紀に入って以降、私が2クールの新作TVアニメを1話も欠かさず見たのは、本作が初めてです。最終回がやや駆け足気味だった点は少し残念でしたが(*1)、本作が、過去の『マクロス』シリーズのみならず、戦後の漫画・特撮・アニメの遺産を効果的に引用しながら、新たな物語を提示しようとしていたことは高く評価されるべきだと思います。
[Ⅱ] とはいえ、本作も「マクロス」を冠する作品なので、本作が最も強く意識した作品が初代『マクロス』であることについてはいうまでもありません。初代『マクロス』はオタク第一世代が初めて送り手として制作したアニメとして知られますが、初代『マクロス』も80年代アニメの一つなので、同年代のアニメと同様のテーマを背負っていました。『マクロスF』は、この80年代アニメ特有のテーマに現代的な回答を与えようとしていた節があります。
たとえば、この80年代的テーマの中には、「重力からの解放」があります。換言すれば、これは「空を飛ぶこと」(=空中浮遊)です。本作の主人公も、全編にわたって、空を飛ぶことを志向しています。しかし、本作の主な舞台は宇宙移民船の中なので、彼の望みは「本物の空」「重力のある惑星上の空」を飛ぶことにあります。とすれば、彼の望みは、上記の80年代的な「空を飛ぶ」とは異なることになります。というのも、80年代的な「空を飛ぶ」は重力からの解放を意味したのに対し、この主人公が望んでいるのは重力がある場所への回帰だからです(*2)。 
他方、もう一つの重要な80年代的テーマの中には、「他者性」の問題があります。これは「他者にいかにして自分の意思を伝えるか」とも言い換えられます。80年代であれば、これはテレパシーとして描かれることが多かったです。この点、『マクロスF』では、最終的な敵が、テレパシー的な情報ネットワークを構築して、全宇宙を支配しようとしますが、主人公側はこれを否定するべく戦うわけです。
そもそも、80年代に空中浮遊やテレパシーが広く描かれたのは(*3)、それが人類の革新に直結したからです。『マクロスF』の主人公たちは最終回において、かかる革新を明確に否定し、普通の人間的なコミュニケーションの重要性を説くわけですが、かつてオタク第一世代として「革新」を支持していたはずの河森総監督らが『マクロスF』においてこうした結論を提示したことは大変興味深いです(*4)。
[Ⅲ] さらに、『マクロスF』において、付言しておかなければならないのは、『マクロス』シリーズでは欠かせない三角関係がどう処理されているかという点です。この点、初代『マクロス』での三角関係は、80年代的ラブコメのロボットアニメ的な現れと評されますが、本作では、ヒロインが二人とも歌手なので、むしろ『ガラスの仮面』的なヒロイン間の激突が前面に押し出されていました。この結果、主人公の存在が薄くなってしまうきらいがありました。そうだとしても、最終回ではこの三角関係に決着が着くのだろうと推測されるところですが、結局、主人公は「どちらのヒロインも選ばない!」という結論を採ります(*5)。スタッフ陣がこの結論に至った趣旨としては、二代歌姫のどちらも優れているということを示すことで、多文化主義の重要性を説く点にあったようです。たしかに、現代社会は、唯一絶対のアイドルで語れるほど単純ではないので、かつての「リン・ミンメイ」を描こうとするのは時代錯誤ではあります。ただ、河森監督らが、主人公にあえて決めさせなかったのは、近年流行している「なんちゃって『決断主義』批判」を志向しているようにも感じられました。
[Ⅳ] さて、『マクロスF』は劇場映画化が予定されているようです。お偉いさんたちの商売根性がどうしても見え隠れしてしまうので、『マクロスF』を映画化しても単なるテレビ映画に終わってしまうのではないかという不安がある一方、あのダイナミックな映像と音楽を劇場で堪能したいという希望もあります。TVアニメを映画化する意味もこの30年間で大きく変わりました。とりあえずは、河森総監督らが、TVアニメの映画化についても現代的な地平を開いてくれることを素直に期待したいと思います

(*1)それまで反目しあっていた連中が急に和解したり、ヒロインの難病が急に完治したり…(笑)。たしかに、全25話という枠が短かったという面はあります。あと1話あればなぁ…。
(*2)このことは、上記の宇宙移民船の最終目標である新天地としての別の惑星を目指すという本作全体のテーマとオーバーラップしています。
(*3)この二つが実は通底していることについては、大澤真幸『戦後の思想空間』224頁参照。
(*4)アニメにおいて、普通のコミュニケーションの重要性を説いたケースは、新訳『Ζ』などにも見られます。ただ、新訳『Ζ』は、富野監督による上世代の「罪滅ぼし」的な面が強かったので、『マクロスF』とは同列に語りにくいところがあります。今後は、オタク第一世代のクリエイターとしては河森監督に匹敵する庵野監督が、『マクロスF』を受けて、新『エヴァ』をどう展開していくのかが気になります。
(*5)当初、私は本稿を主人公論で書こうと思いましたが、本作の主人公が最後までこんな感じだったので、どうもうまく書けませんでした。ところで、日本のアニメは、主人公を少年少女に設定し、子供たちの成長を描くというのが一つの定番であります。ここで前提とされているのは、「子供は正しい」ということであり、この点は宮崎駿や富野由悠季にも共通しています(子供には何かが憑依するから?)。上記の新『エヴァ』においても、庵野監督はこの原点に立ち返り、子供の成長を温かく見守るという大人というスタンスをとっているように見受けられます。しかし、本作での主人公ら少年少女の扱われ方を見る限りでは、現在の河森監督は「子供は正しい」とは全く思っていないのではないかと感じられました。というのも、本作後半での陰謀解明に奔走したのは主人公のナイスミドルな上司たちであり、最終決戦における主人公たちの活躍は、これらの大人がそれまでに築いた御膳立ての上で最後の仕上げをしたものにすぎないからです。おそらく、河森監督は、庵野監督のように「子供の成長を見守る」などという気は全くなく、「最近の子供は思考が単純で頼りないから、我々が手本を見せてやる」というつもりで制作にあたったものと思われます。第22話において、事態の複雑さが理解できないために「それが大人の言うことか」と食ってかかる安直な主人公に対し、「俺は大人じゃなくて男だ」と切り返す主人公の上司は、それを象徴しているように感じられます。これも、上記にいう「なんちゃって『決断主義』批判」の現れかもしれません。


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