「自己アセンション実現の会」☆自己無限化・全知全能化☆~最高レベルのアセンデッドマスターへの道~

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【自己アセンション】 R.E.デーヴィス氏の紹介する瞑想法

2012-10-11 07:47:46 | 【自己アセンション】 その他

◎下記の書籍は、いまは絶版になっています。瞑想法は数多くありますが、極めて基本的な原理にもとづき語られています。著者のR.E.デーヴィス氏はヨガナンダの弟子で、クリヤヨガを修められた覚者です。内容は読者に益するものを多く含んでいると思い、掲載することにしました。翻訳は「成長の家」の創始者である谷口雅春氏ですが、固い訳出を文意を損ねずに私が改めました。お役に立てば幸いです。(HS33記)

人間とは何か ~その本質及び環境と運命~ 

  R.E.デーヴィス   谷口雅春訳 日本教文社

第三章 あなたはいかに瞑想すべきか(P40~P52)

瞑想というものは、切実に自分の意識の目醒め(悟境)を深めたいと願う人にとっての最も重要な実修法の一つである。きわめて自然に瞑想にとりかかる人もあるが、世間には心のあり方、または意識の状態を霊的世界へ振り向けるには、何らかの修行方法を用いた方がずっと容易にできると思える人がいる。そこで科学的かつ実際的な、二、三の基本的な修行方法について考えてみたいと思う。

基本となる法則の一つは――「自分の精神を集中するものに自分が成りきる」ということである。もし自分が「究極の実在者」(註・「神」のこと)に精神を集中すれば、自分は究極の実在者と一体になる。したがって私たちは瞑想において、「究極の実在者」に精神を集中する。だからこそ瞑想を修するときには、神以外の一切のものを心から排除して、「究極の実在者」、あるいは「純粋意識」にのみ精神を集中する

私たちが瞑想を行うのは、問題を克服するためでも、お蔭の体験を求めるためでも、また現世の事物をうまく取り扱うためでもない。瞑想は実在を体験することを目的とする。多くの人たちは性急に目的に到達しようとして、りきむために、かえってなかなか目的を達することができない。だから特にここでは、「実在」を悟ることが力説される。瞑想の過程は、たしかに生理学的面と心理学的面がある。この章ではそれらについて考えたい。

私は多年の間、次に述べるような簡単な方法を実修してきて、その経験からそれらの方法が、必ず良き結果を生み、しかもその働きは数学的に精確であるといえる。普通の理解力をもつ人なら、だれにでも実修することができ、実相の悟りに到達したいと願い、あるいは純粋意識を深めたいと望む――その願望の最後の境地にまで、自己の心境を進めることができる。

心と呼吸と生命力とは相互に連絡している。ひとつを支配すれば、他の二つを支配することになる。心が不安な状態にあれば、呼吸も短く急速になり、心が静かになれば、呼吸は緩やかに長くなることは誰も知る通りで、両者の間には一定の関連がある。私たちは呼吸をする場合に起る作用と心の活動とをよく理解して、注意の焦点を正しい方向に向けるようにするならば、自己を思いのままに支配することができる。

実修の順序方法  

1.まず私たちは、心を澄まして静寂の境に入ろうと考える前に、自己の生活の秩序を正しく整えなければならない。というのは、生活の秩序を整え、生命の活動の均衡が保たれてこそ、瞑想法の実修の結果として得られる生活改善のしっかりした基礎が容易に固められるからである。やがて「デモンストレーション」(実証論)の章と「アバンダンス」(豊かなる富の法則)の章とにおいて、あなたの生活の秩序を正しくと整える方法について述べるのでそれを参照してください。

もし私たちが、過去の感情のビデオテープに印象されて、業が不調和なままに存続しているならば、私たちは潜在意識の中の色々なゆがめられた印象を瞑想の中にもち込むことになる。その結果、精神の世界及び霊の世界に、そうした歪められた印象が入り込むことになり、いわゆる「魔境」として体験される。とくに瞑想法の実修に慣れない人々には、往々にしてこの魔境に接して恐怖心を起す例がある。

2.次に私たちは、生命とはいかなるものであるか、それはいかにして向上しゆくものか、その性質についてある程度の理解をもっておかなければならない。この理解が得られていると、私たちは落ちついた平和な人生観を持つようになり、その結果、悟りが深まってゆくにつれ、忍耐、冷静、着実というようなお蔭を得ることができる。その人のパーソナルな生活が、簡素で秩序ある生活となることこそ、人格が円満に発達した印となるものである。

3.さて瞑想法の実修にとりかかる。まず第一に考慮すべきことは、体を正しい姿勢に整えることである。私たちは自己の実相さえ自覚されていれば、体の姿勢など問題にする必要はないというのは間違ではないが、瞑想を実修しはじめる初歩の段階においては、背骨をまっすぐにし、全身の筋肉の力を抜いて凝りをなくし、正しい姿勢をとることは大いに利点がある。実修に入るときには、静かな落ついた、温度に変動のない、平和な雰囲気の場所で実修するがよい。仰臥した方が、充分に体の力を抜くことができるから、瞑想により適していると思っている人もいる。その場合、ただ問題となるのは、おおよそ人は眠るときに仰臥するので、体が横になっていると、連想によって潜在意識の暗示に感応して、そのまま眠ってしまうか、夢想状態に押し流されてしまう可能性があることである。

瞑想を行う際にとるべき正しい「心の姿勢」は何かといえば、「われこの瞑想によって宇宙大生命と一体になる」という期待をもつことである。私たちは所期の目的をもって瞑想の実修にとりかかる。その目的とは実相の悟りを深めることであるから、その悟りの結果の体験が得られることを期待するのは当然のことである。とはいうものの、これは私たちが何らかの体験を、是非とも得なければならぬと力むのではなく、単に最少限、新たな体験に対して門が開かれることを期待するに他ならない。私たちは、心を鎮めて静坐するとき、まず心の中のあらゆる後悔の念、自責、恐怖、心配その他すべての感情を放ち去らなければならない。また私たちは、この短い時間に、「永遠の実在者」を、この現在の中にありながら意識し、その意識をますます深め、心中に去来する妄想、幻影が自然に解放される結果を得れば満足しなければならない。

実修の妨げとして主として問題になることを言えば、ひろく世間を騒がした事件、騒音、いろいろの感情及びそれらから連想されて心に飛び込んでくる、いろいろの思想並びに観念である。外界の騒音で身心に落ちつかない動揺が起るならば、これを意志の働きで克服しようとする傾向が人にはあるものである。こうして意志の働きで克服しようとするならば、注意が動揺に対して向けられるのであるから、心の落ちつかない状態が解きほぐされるというよりは、かえってますますそれが肉体に投影されるようになる。私たちは雑念にとらわれず、「純粋意識」に深く入っていくにしたがって、私たちの精神の動揺は自然に静まってくる。

4.瞑想を実修する次の一歩は、私たちの注意力を、物質世界、あるいは三次元世界から、実相の世界に振り向けることである。とくに私たちにこうした経験のない場合、いったいどのようにそれをなすべきだろうか。意識というものは、生命力の自由な流れにともなって生ずるのであり、生命力は注意力の流れる方向に向って流れるものなのである。そうであるなら、もしも私たちが振り向ける注意力の方向を決めることができるならば、生命力の流れる方向も決まり、どのレべルの事物を認めるかの認識作用も調整されると結論することができる。この結論が妥当であるということは、私たちが瞑想を実際に実修しはじめると容易に分かるのである。生命力と注意力がこの三次元世界につながる方向に流れるならば、私たちの認識作用も三次元世界を認識するものとなるのは明かである。では、私たちが生命力と注意力の流れを外部の世界から引き戻し、さらに内部の世界へ導き入れることを実修するならば、私たちは内部の世界を意識できるようになる。したがって実修にあたり、まず注意力の流れをどの方向に誘導するかが関心の問題となる。

この問題は、たいがいの人間が肉体を固形的な存在であり、宇宙を固形的な存在であるという信仰にしっかりとつながっているだけに、かえって興味深い問題のひとつとなる。人間は現在持っている信仰、及び一般の常識をなかなか棄てきらないものであり、したがって新しい信仰、及び新しい認識をなかなか受け入れようとしない――これが主なるひっかかりの一つであるということを見出す。私たち人間がこの世の常識をどの程度棄てることができるか、つまり「物質は心の影である」という真理をどの程度悟れるかにしたがって人間は自由になる。すべての事は、「肉体」という奴隷的存在となるか、「魂」という主人公的存在となるか、ということに繋がっている。

人間がこの世界に生を享けてきたというのも、それはこの世の事物が彼を虜にしたからにほかならない。このような事実が起る理由は何かと言えば、それは簡単である。すなわち人間は、自分自身に悦楽を与えてくれるものは自分自身の外なる事物であると考え、このため人間が外部の事物に依存するようになるからである。そうした人間に、その悦楽の根源とされている外部の事物との接触を断ち切るように求めることは、むしろ不可能というべき要求なのである。そうした人間の心は、この執着の世界での生存のほか、私たちの生存はないと考えるように条件づけられているので、現在経験している以外の「境地」を考えることはできないのである。従っての生活様式を破壊するかもしれない何物かが現れると恐怖心が起こるのである。

深い瞑想の「境」に達するならば、新しい世界が心の眼前にひらかれて来る。新しい世界の観点に立つとき、人はいずれも同胞の観念を持つ。私たちが瞑想を正しく行うならば、新たなる直観的洞察が法則にかなって出て来る。注意力が生命力を誘導し、それに伴って悟りが成就するという法則を思い出して下さい。

さて、それでは、あなたの注意力を前頭部(眉間)に集中して下さい。しかもゆるやかな気持で注意を眉間に集中しながら体の緊張を解きほぐす。こうするとき緊張が解かれた、りきみのない体から生命力は解放され、五官のチャンネルを去って眉間のこの部分へ流れて行く。そのため感覚はこの肉体の世界から切り離され、意識は自動的に現世と異なる一層微妙な霊的世界へと誘導されてゆく。とき折り、二、三度深い呼吸をし、上下の唇の間を細めてフーと静かな溜息のように息をはき出すことが体の力みを解きほぐし、緊張感を解放するにたいへん役立つことがある。この呼吸法によって、直面する感情の縛りをほどいて心を無心にすることができる。

5.絶え間なく注意を内部に集中していると、私たちの心はこの世界を蕩尽して(去って)、ある一点に到達する。そこで私たちは心が内部に集約して、自分の注意を欲する方向に振り向けることができる状態となる。私たちの意識は、心の世界に入って、もはやこの三次元世界の制約によって束縛されることがなくなる。そして私たちは、現象以前の精妙な自然の力、様々な電気的流れや、想念の形を見ることができ。この霊的直観によって物質的な相が幻であることを知る。このようにして人間は新生し第二の誕生を迎へ、そして天国、あるいは様々なエネルギーの世界、ずっと精妙な様々な力の世界を理解することができる。こうした状態に入るとき、私たちは肉体的知覚の背後に貫き入って、宇宙創造作用の原子の振動を知覚することができ、従って自分の生命が宇宙の本質なるものの波長に合うようになる。

それは今思い出してみれば、私がまだこの瞑想法の実修をはじめた初期の頃のことであった。ある瞑想法の実修会で、瞑想をはじめてから一、二時間も経過した頃、突然自分がある霊境に達したことに気がついた。つまり私は肉体であると同時に、容易に自己が霊的存在であるという意識に入ることもできる。私は自分の全身を内側から見ることができたが、それは光明燦然として内部から輝く光体として見える。つまりすべての器官が光の中に懸垂しているのだった。私はこのような霊的意識に到達して、エーテル体、幽体、霊体等の内面的活動をも知ることができるのだった。これが私の霊魂が肉体から離脱しながら、しかもより一層鋭敏な力があることを自覚したひとつの経験であった。         

私たちは、自己が「意識の点」であると自覚するとき、はじめて自分の本体が「霊」として存在する事を知り、自己の存在を知るのに肉体はいらないものだということを悟る。私たちが肉体を必要とするのは、私たちがいろいろの階層の世界に働きかけるためなのである。けれども、私たちが自分の本性―実相を自覚するためには肉体はいらないのである。

6.次の実修段階は精神集中である。いままでは注意の方向を外部から内部に振り向けてきた。既に私たちは外部の刺激を遠離したのであるから、精神集中を一点に向って行う準備が整った。注意を一点にふりむけること、これを精神集中というのである。たえず注意を一定の方向に振り向けるということは必ずしも努力を意味しないが、実修を重ねることが必要である。人間は精神集中を行うことによって悟りの過程を速めることができる。そして短期間の間にいっそう深い悟りに入ることができる。注意がいろいろ異なった方面に分散するならば、生命力は分散して浪費される。注意を一定の方向にふりむけ、生命力を正しく方向ずけることがあらゆる縛りを解放する秘訣である。

7.さて、私たちは精神集中の用意ができると、いつでも容易に瞑想に入ることができる。瞑想とは「究極の実在者」と一体になろうという気持で、「実相」に対して注意を集中することである。したがって「何に注意を集中するか」が大問題となってくるのも当然である。そこで私たちの念願する「究極の実在者」を経験した人々の話を総合するならば、そこに何かしら共通の基本線を見出す。つまりこの「究極の実在者」は「光」または「祝福」または「遍在」、全知全能、愛(全ての生命との交流)、あるいは、ただ正等覚として現われるということである。私たちが、たゆまず瞑想の実修を続けるならば、だんだん超在意識の領域に到達し、潜在意識の制約をうけることが少なくなり、やがて我々は現象世界を超越する。そして実相を観るのは眼を開くだけの問題となる。

8.瞑想をたゆまず実修するならば、人は意識の光耀ともいうべき境地に入って、大生命の超在意識の海原に融けこんで法悦に浸る境に入ることができる。こうして無限の存在の中へ融合して解脱を得る状態の実現こそ、人生の目的の完成である。こうした内部世界の直観は、最初はパッとひらめくように来るのであるが、次にはやや長期間にわたって時々それが訪れて来るようになり、やがて日常の持続した経験となる。たとえ私たちがその後に三次元世界の経験に戻っても、この内面的な目覚めはけっして失われることなく、それはたゆまず生命の活動を内部より指導し鼓舞し続ける。「無限なるもの」と融合する状態は、初期には実修時間の長短によってその程度が異なる。というのは、私たちはなんといっても、地上的制約をもつ人格としての経験に、より多くなじんでいるため、またもとのこの世的な生活の型に戻ってしまうからである。けれども瞑想の実修をとおして、私たちは永遠に自己の生活を「神の子」の自覚のもとに打ち建て得るようになる。

私たちがこの新しき自覚のもとに生活を打ち建てるようになるとき、肉体は自動的に調整される。心は清く澄み、人間は決意を新たにし得て働く。空間にある肉体として現れている人間は、実相を自覚した魂によって作動するのであるから、この新たな自覚にともなって内部から催す事を素直に行っていけばよいのである。彼はすべてを包容する、それ故何ものをも素直に受けるのである。あなたがすべてを包容し、一切のものを素直に受けるようになるとき、あなたは宇宙的な広々とした偏りのない見地に立つのである。

瞑想の最後的段階  

深き瞑想に入ってから緊張をさらにゆるめて、あらゆる物質的な形と環境とを超え、「無限の実在者」に融合して自らを無限に拡大するのである。あなた自身を「形なきもの」と観ぜよ。またいかなる種族にも、信条にも、信仰にもつながりのないあなた自身を瞑想せよ。ついであなた自身を、あなたをとりまく空間の中に、さらには無限にまで拡大せよ。この観によってあなたの意識の目醒めは拡大する。やがて実修が終ると、再びあなたは肉体的意識を取り戻し、この空間にこの位置にある肉体としての自分に立ち戻るのである。

 


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