「自己アセンション実現の会」☆自己無限化・全知全能化☆~最高レベルのアセンデッドマスターへの道~

このブログは各自の自己アセンション(自己無限化・全知全能化)に役立てられる情報が集めてあります。

【資料6】11.10.1 スピリチュアル情報交換会の資料

2011-08-19 18:20:51 | アセンション情報実践研究会資料
スピリチュアル情報活用研究会
資料作成:西久保はるひろ
    
◎前回(7月24日)テーマにした「2013:人類が神を見る日」(徳間書店)のなかで、半田広宣氏がチャネルしたとされる冥王星の存在オコツトによれば、「認識の完全化とは、すべての二元対立を統合する力を持った認識プログラムのようなもの」(P158-159)ということです。このテーマは重要と考えられますので、今後も引き続き焦点を当て扱っていきたく思います。では今回はこのテーマからです。

(テーマ1)なぜ想念実現化までに時間がかかるのか?

(1)現在、「目的」となる理想的な状態が実現していない原因は、スピリチュアル情報によれば大きく2つに分かれているようです。
  
(A)自己制約的・自己否定的な定義づけ(=観念・信念) 、または物事をすぐに実現化させない定義づけが潜在意識の中に依然として存在していて、それらが「理想とする観念」に置き換わっていない。
       ↓
(疑問)もし制限的・否定的な観念が置き換わったら(書き換えられたら)、時間差なく実現化しているはずなのか?その根拠は?
       ↓
(仮説)もしそう信じているなら、自分の不十分さ(実現化していない=「定義づけ」が書き換えられていない)を、常に自覚させられることになるので、理想と現実との狭間で葛藤し続けるのではないか?→「ありのままの自分」に安らぐことができないのでは?
  
(B)現在の地球次元は、内面の定義づけを変えたとしても、すぐに現実化(物質化)するものではなく、時間差がある。またソウル(魂)レベルでの同意・自由意志といったものも関係しているので、観念の書き換えができたとしても、すぐに現実化に結びつくとは限らない。
       ↓ 
(提案)下記の情報を参考に、上記(A)(B)の(一見)対立する見解に統合する解釈ができるのか試みてみよう。もしできるとすれば、それはどういう解釈なのか言語化してみよう。

(2)オーバーソウルの自由意志による選択と現象の現実化との関連について

【「信念」とは?】

○書き換え可能な観念(概念)。「○○は○○である(でない)」と言い表せるもの。

【二つの自由意志】

○皆さんは自分の一般的なテーマを選んで生まれてきます。それをどうやって自分で体験していくか、肯定的に、否定的に体験していくかは自分で選びます。毎瞬毎瞬ですね。それは常にあなたに開かれています。わかりますか?自分の一般的なテーマを選びますが、でもそれをどういうやり方でやるかは、いつも自分で決められます。二種類の自由意志があります。自分の「大いなる自己」(ハイアーセルフ)の自由意志と、自分の肉体の自由意志です。(バシャール1巻P164)

【ハイアーセルフ(大いなる自己)の性質】

○みなさんの「知っている状態」にある自己、大いなる自己、または非物理次元の自己は、常に物理次元における性格の中で探求している様々な考え方をすべて完全に認識していることに気づいてください。みなさんはどのような目的があってか、この物理次元における性格の中で自分自身に制限を課しています。しかしみなさんの「知っている状態」にある大いなる自己は、常にこれらの制限に縛られないところにあるのです。(ニューメタフィジックス ~バシャールと宇宙連合~P26-27)

【オーバーソウルの選択】

○皆さんから見て、すでに決定されていると見えるものは、オーバーソウルのレベルで選択の自由が行使されているだけです。これが物理次元の性格にとっては、神の決定に見えたり、運命と映ったりします。皆さんが体験する大まかなものはオーバーソウルによって決定されているといっていいでしょう。オーバーソウルのレベルで、皆さんがひとつの人格として体験する出来事を創造しているのです。

オーバーソウルが物理次元の性格に体験させようと選択したものを、皆さんは体験します。しかしこれをいかなる方法で体験するかは、物理次元の性格のもつ自由意志によってゆだねられていることが分かったとき、選択の自由というものを使い始めることができます。たとえば、オーバーソウルが自分の成長のために、あなたに廊下を歩かせることに決めたとしましょう。あなたがその廊下を歩くことは決まりました。しかし、どのように歩くか、どれだけの時間を歩くのか、また壁を歩いていくのか、床を歩くのか、天井を歩くのか、飛ぶのか、浮かんでいくのか、後ろ向きに這っていくのか、肯定的にいくのか、否定的にいくのか、ということは、物理次元の性格の自由選択に任されています。でもあなたがその廊下を歩くことには変わりがありません。(バシャールと宇宙連合 ニューメタフィジックスP145)

○魂が表に現れ、パーソナリティーに挑戦するようになり、自らのプログラムをその人間に押し付けてくるようになると、パーソナリティーの戦いが起こる。魂は自らの宿主のマインドを創り直そうとしており、それができれば魂は仕事を成し遂げたことになる。こうして一生ひどく思い悩み続ける人間が生まれる。彼らが思い悩んでいるのは、未来の世代のために、彼らの魂が宿主の考え方を「創り直す」ことにしたからだ。( ラムサ メイキング・コンタクト~人生における魂の旅と目的~P62 ~63)             

○古い脳(小脳)はあなたの脳の究極の支配者であり、最終的にはあなたのマインドの支配者となる。このエネルギー(注;クンダリニーエネルギー)が上昇するのを許可するのは古い脳だが、古い脳の観点から見て、あなたが十分に誠実で、その望みを実現することが、この人生の本来の目的に役立つ場合にのみ、エネルギーの上昇を許可する。(ラムサのCD 脳の構造と機能より)

○古い脳はある事柄については、あなたに現実化させない。なぜならこの人生であなたという人間を選んだのは理由があるからであり、その特定の理由、その特定の体験がやってくるのを待っているからだ。(ラムサのCD 脳の構造と機能より)
     
(テーマ2)カルマはあるのか?「毎瞬の自由選択による創造」との関連はどうなのか?
       ↓
(提案)カルマの定義を明確にして「自由意志の選択への影響」という側面から考えてみよう。

●カルマについて(1) ヒマラヤ聖者の生活探究3巻第17章「因果の超克・キリスト誕生の歴史」P249~250より 《注》ここでいう「因果」の原語は「Karuma」です。

・・・。わたしはあなたたちに告げる、迷う必要はない、天国はすでにここにある、ここを各人が天国にすると意志さえすれば。人は神のお召しに耳を傾けることを拒むから、死んではまた生まれ変わって試練や苦悩多き人生に戻ってくるのです。

そして又、いくどもいくども死の門をくぐって、ようやく最後に教訓――即ち、絶対的な霊的知覚という岩の上にこそ、全人類という家族の家は建てられるのだという教訓――を学び取る。そのような人々には、死も存在しないし、死を繰り返すこともない。故に因果(カルマ)の法則は存在しない。因果とは結局、不調和〔老・病・苦・死など〕の実現を目的とする報復に他ならない。

報復に代えるのに自我放棄を以てせよ。そうすれば因果の動因は矯正される。なぜなら、因果はそれを発現させようと決めてかかってくる人たちの思いの中にのみ存在するからである。原因をとり除くか、それを一層高い状態で取って代えれば、低い状態は消える。かくして、あなたたちは自分の体のヴァイヴレイションを、因果を招く状態よりも昇華させたことになる。

そうしない限り、死んだところで因果は決してなくなりもしないし、破壊もされず、消えもしない、かえって死によって因果が加わり、幾層倍にも増大し、結局、各個人個人の上に大浪のうねりの如くに積み重ねられてゆくだけです。死と生とを放下した瞬間に、これらの因縁因果から解放される。かくして二つとも消えたのである。消えたのであれば、それは忘れ去られてしまうだけである。

カルマについて(2)・・「バシャール」より引用。

○あなたの出したものが、あなたが受け取るものです。それがただひとつのカルマ的な法則です。与えたものを受け取る。(1巻P35 )

○カルマというのは単に「調整されなくてはならない動的な力」という意味です。バランスをとる方法はいろいろとあります。ひとつの人生の中で自分がネガティヴ(否定的)なことをすれば、次の生ではまったく同じことが起きなくてはならないという考えの人がいますが、あなた方にとって、いままでは確かにそういうことが真実でしたけれど、そうである必要はありません。
 
たとえば、ひとつの生の中で殺人をします。次の生で殺されることになったとします。しかし、別な方法でこのカルマのエネルギーのバランスをとることができます。たとえば、ひとつの生の中で人を殺したとします。次の生で殺される必要はありません。たとえば殺人を犯そうとする人を助けて、その人が殺人をしないように防ぐこともできます。そうすると同じバランスが作られます。カルマというのは、単にあなたの存在すべてが結合した体験なのです。
 
自分の周波数を変えるためには、そして自分を高い存在にさせて進化させるには、すべての体験のバランスを取る必要があります。このカルマというのは、あなたの鎖となるようなものでは決してありません。逆説的なのですが、真実はこのようなものです。
 
自分が体験している真実というものすべては「自分が創り出している」ということに気が付けば、もうカルマ的結びつきという考えを信じる必要はないわけです。自分が選ぶ、あるいは選ばない自由があるということに気づくと、それがあなたのカルマを切ることになります。つまりそういう自由があることにと気づく時、否定的な行動をする必要が何もなくなるわけです。( 中略)

あなたが地上の人に教える時は、「ひとりひとりが、すべてのパワーを持っている」ということを教えてください。他人も自分も傷つけることなく、必要なものを全部創造できるということです。一人一人自分の欲しいものは全部創ることができます。それによりネガティブなもの、カルマ的なものも切れてしまいます。(バシャール・1巻:旧版P21 ~22 新書版P30 ~33)

カルマについて(3)・・「ラムサホワイトブック」(P186~189 改訂初版2004.9.30 )より引用。( 注)文中に「マスター」とあるのは、ラムサがラムサの学校の生徒を「マスター」と呼ぶため。

ラムサ:あなたに知ってほしいこと、そして、すべての者に理解してほしいのは、あなた方が「カルマ」と呼んでいるものは、神の法ではないということだ。つまりカルマとは、それを信じている者たちの法なのだ。残念ながら、この教義を信じている者は大勢いて、彼らは「完璧さ」と呼ばれる架空の理解を達成するために懸命に格闘している。

そして彼らは、自分が人生でどんなことをしようと、その代償を支払うために次の人生にもどって来なければならないと信じ込んでいる。自分の身に起こることはどんなことであれ、「カルマの成就」のせいにしてしまう。だがマスターよ、人生の説明としては、これはきわめて不十分なものだ。人生はこの説明をはるかに超えたものである。

カルマの法則は確かにひとつの現実だが、それはその法則を信じる者たちにとってだけ現実なのだ。法として存在するのは、あなたが自分の王国の中で有効だとしたものだけだ。真に法を与える者は、それぞれの至高の存在である。というのも、それぞれの存在が真実を受け容れる自我をもっているからだ。そしてその人間がどんなものを真実と呼ぼうと、つまり自分の存在の中でどんなものを法として創造しようと、それはその通りになる。

したがって、多くの人間が「バランスと完璧さの法則」を自分たちのために法として据えてきたのは、信念や変質した理解を通してなのだ。もしあなたがカルマを信じることを選ぶなら、まちがいなくあなたは、自分自身が創造したその法に支配されることになる。というのも、あなたはその信念に力を与えることになるからだ。そうすれば、もちろんそれはあなたの人生の中で有効になる。そうするとまちがいなくあなたは、この天界での前の人生にしたことを取り消したり、称賛したりするために、何度も繰り返しここに戻ってくることになるだろう。

私はカルマ、あるいは完璧さといったものを認めない。なぜなら私は、それらを制限とみなしており、喜びを与えるものとはみなしてはいないからだ。カルマという制限を通して、完璧さを得ようと奮闘している者たちは、彼らが求めているものを得ることは決してない。(中略)

もしあなたがカルマの教えを受け容れることを望むならば、それは自分の体験のためにあなたが行う選択であり、創造なのだ。だがマスターよ、あなたは制限された力と因果応報という幻を自分で創り出してしまったのだということに気づいてほしい。カルマと呼ばれるものを受け容れるならば、あなたはそうなってしまう運命にある。つまり自分自身の制限された考え方の囚人となってしまうのだ。

マスターよ、あなたは自由な魂と聖霊である。あなたは自分の望むどんな真実であろうと、どんな現実であろうと、どんな幻であろうと、それを選んだ瞬間に創造し体験できるのだ。そして、自分が望むいかなる瞬間においても、あなたはその夢を創造し直すこともできる。というのも、あなたはそれをする無限の力をもっているからだ。

カルマは存在しないが、欲求は存在する。そして欲求はとても移り気だ。欲求はそれが望むどの瞬間でも、何でもできるし、何にでもなることができる。そして何かになっている最中に心変わりすることもある。マスターよ、殺人や事故や強盗のようなものは、罰として起こるわけではない。つまりそれらは以前のあなたがやったことに対する報いではないのだ。それらは、あなたによって思い巡らされた体験であり、その結果として、あなたによって創造されたのだ。それらは永遠のものでもなければ、永遠に続く状況でもない。したがってより大きな理解の中では、それらは恐ろしいことではない。振り返ってみれば、それらは偉大な師なのだ。

( テーマ3)「創造性」と「ありのままの自分を許すこと」の関係・・「ニューメタフィジックス(新しい形而上学)~世界を創る意識の力学:バシャールと宇宙連合~」より引用

創造性
重ねて言いますが、皆さんの創造性は、このように皆さんから分離したものではありません。創造性はどのような次元においても、単なる道具ではないのです。単なる才能でもありません。創造性はまさに皆さんの本質そのものなのです。皆さんは創造物であると同時に、創造主でもあるのです。どのような現実においても、皆さんが創造していない状態はあり得ないことを知っていてください。皆さんが成すことすべてが創造なのです。

このように創造は(それ自体の内に創造可能なすべての創造物が含まれているという意味で)完結しているといえます。それにも関わらず、さらに新しいものも創造できるのです。なぜなら、この「新たなものを創り出せる」ということ自体、創造の中にすでに含まれているひとつの概念だからです。「新たなものを創造できる」ということは、単に皆さんの中にすでに創造性があることであり、皆さん自身が創造性そのものであるということです。それと同時に、皆さんの存在の完全性を表現しているのです。

皆さんが自分自身の完全性のどの部分を探究したいにせよ、それは自分自身を創造する行為、創造を創造する行為、そして創造性を拡張する行為となります。このように創造はすでに完結しているにも関わらず、終わることなく続いていくのです。

「(物事が)起きることを許す」、これが皆さんと皆さん自身である宇宙を創造性で満たす要素となります。創造的になるために何かをしなければならないとか、自分に無理に強いる必要はありません。一歩下がって客観的に見れば、「自分に何かを強いる」行為自体が、芸術的で創造的なアイデアであり発明だということが分かるでしょう。

自分自身に何かを無理にさせなければならないという概念すら、それ自体がとても創造的だといえます。このように皆さんは常に創造し続けているのです。(P103-104)

ただ存在する
可能な限り意識的に感じるままの自分になることを許すこと自体が、他のすべての人にとっても自動的に奉仕となります。皆さんは「ただ存在する」だけで、そのユニークな物理次元化した性格を通して自分というものを表現することにより、たんに自らが「自分自身の道」となることができます。すなわち、他人の尺度で計った自分ではなく、「真実の自分」に忠実で、ありのままの自分をただ受け入れ、自由に表現することにより、周りの人々すべてに対しても、最も偉大な奉仕ができるのです。

皆さんの文明全体を多くの面をもつ水晶にたとえれば、その時はじめて、その中のあなたである面を完全に表現することができるのです。可能な限りの表現に満ちた「面」になることによって、その他のすべての面(実はこれらもあなた自身なのですが)に対しても、真実をより明確に反映する鏡となることを許していることになります。

あなたは「完全な自己」を体験し、周りの人々はあなたという、もうひとつの面を知ることができます。これにより他のすべての面とつながっている自分を見、そして体験することができます。もうこれからは、自分が他の面とつながっていないと感じて孤独になったり、非難されていると感じてひとり引きこもらなくてもいいのです。この孤独な状態は、ちょうどひとつの水晶でありながら、それぞれの面が隙間をもっていて互いに触れ合っていないようなものです。

自由で創造的な表現ができるようになると、ひとつの完全な表現力をもった面となることを自らに許すだけでなく、(これができれば、皆さんの社会のすべての知的側面を自動的にサポートすることができるのですが)、あなた自身も完全な多面的水晶そのものとなることができます。あなたの統合が進めば進むほど、他の面があなたの中にも反映されるからです、そしてその多面性の中に、あなた自身の多次元的な完全性のすべての気づきが含まれているのです。

このようにして、ホログラフィー的に見れば、皆さんひとりひとりは、創造の中のすべての面の完全性そのものなのです。その水晶全体が皆さん自身であると同時に、皆さんはひとつの面であり、全体であり、そして同時に他のすべての面に向かって光を反射します。皆さんを含むすべての面が、様々な反映やアイデアを無限に引き出す鏡となることができるのです。創造性と創造は常に前進しています。それには始まりも終わりもありません。終わりのない球体の水晶のようなものです。常に内に、そして外に向けて反射を続けているのです。無限に、そして永遠に。(P106-107)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【資料5】神の定義・スピリ... | トップ | シェルダン・ナイドルからの... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。