「自己アセンション実現の会」☆自己無限化・全知全能化☆~最高レベルのアセンデッドマスターへの道~

このブログは各自の自己アセンション(自己無限化・全知全能化)に役立てられる情報が集めてあります。

【アセンション活性化会合資料】 第10~12回 2013年7~9月(3/3)

2013-08-12 17:58:27 | アセンション情報実践研究会資料

6.「私は在る」と覚えていなさい  和尚ニュースレター日本語版 2012年08月より

内容は、ブログに投稿したあるものです。

【瞑想法8】 「私は在る」 と覚えていなさい

【引用した理由】 ラムサや他の意識体たちも言っているように、“知っている状態”こそが創造の第一原因です。したがって、「在る」(存在する)という状態を生み出すための手段として、「私は在る」と覚えておくことは、きわめて理に適っているといえます。「知っている」ことが、「在る」という神なる状態を生み出すことについて、ラムサは次のように言っています。

純粋な思考である「第七のレベルの理解」と呼ばれるもの、すなわち「ただ在る」という究極の状態(これはあなた自身があらゆるものの究極の力となっている状態だが)に戻るためには、父が自分の内面に宿っていることを、ただ知るだけでいいのだ。(ラムサホワイトブック 2004.9 .30・改訂初版P232)

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7.「ただ在る」という第四のレベル(バーソロミュー3 P67~72 マホロバアート刊)

*バーソロミューとは、女性チャネラーとテレパシーで交信している意識体につけた名称。

・・・。多くの人はこの三番目のレベル(思考と感情のレベル)にいるしかないと思い込んでいるので、ここにとどまります。このレベルにしかいられないと思い込んではいけません。じつは四番目のレベルに移行することも可能なのです。それを<ただ在る>状態と呼びましよう。これは自分の意識を意識そのものに向ける【注1】というレベルです。
 
どうすればこの四番目のレベルに達することができるのでしょうか。まず最初の三つのレベル(第一は肉体、第二は世界、第三は思考・感情)を深く自覚し、それから「肉体や世界や想念に意識を向けているのは何なのか、誰なのか」と問うことです。【注2】

最初の三つのレベルがそれぞれどのように感じられるかということに、細心の注意を払えば払うほど、この四番目の<ただ在る>ことが自然に感じられ信じられるものになってきます。この集まりが終わる頃までには、<ただ在る>ことという意識のレベルも、肉体や現象界や思考と同じように、現実性をもつた意識のレベルとして考えられるようになってほしいと思います。
 
昨日は、想念や感情の群れを記録してもらいましたが、そのほとんどは第三のレベルでの探求でした。このレベルには実におびただしい数の感情や想念が存在します。第三のレベルの落とし穴は、人の気をまぎらわせて眠りに誘い込んでしまうことです。

<ただ在る>ことへと移行しようとするときに、第三のレベルが誘惑をしかけてきます。そして<ただ在る>ことへ到達する方法を頭で理解しようとしたり、そうなったらどんな気持ちがするだろうかと考えたりします。さらに他にもそのレベルが存在すると主張する者がいるだろうかとか、それについて本を読む時間があるだろうかとか、その体験を深めるのに役立つセミナーをどうやって見つけたらよいか、などと考えたりします。そしてついには第三のレベル特有の刺激的な華やかさに圧倒されて、第四のレベルの可能性がまた薄れてしまうことになります。
 
この第四のレベルを招き入れるには、「そこに到達する方法は自分には思いもおよばない」ということを認めることです。そうしたあとで、<ただ在る>という意識のレベルが実際にあるのかどうかさえも確かではないという気持ちで、一切のこだわりを捨てます。

「この意識とは誰なのか、何なのか、この意識を意識しているのは誰なのか」と問いつづけてください。これは一度やれば終わりというものではありません。何度もくり返しやってください。そこで今日一日を過ごす中で、自分がどのレベルにいるのかをつねに自覚していてください。

泳いでいるときには、人は肉体のレベルを謳歌しているのかもしれません。雑念に邪魔されず、過去や未来を思い悩むこともなく、純粋に肉体そのものになっている時の素晴らしい感覚を忘れないでください。肉体の中にいる幸福感に満たされている時の方が、<ただ在る>という意識の状態に深く入っているのかもしれません。
 
他人と関わっているときに、自分の中で何が起きているのかに注意を払ってください。自分の中にあるパターンや感情や思考の群れが頭をもち上げてくるでしょう。何か出来事が起きるのは第三のレベルです。今まで人が生きる活力を得たり、生きている実感を味わったりしてきたのは、この第三のレベルでした。けれどもそれは長続きしません。

ただ在る>ことから得る活力は永続します。そのパワーは永遠です。<ただ在る>ことが与えてくれる力とは、喜びと幸福の状態にいられることです。そしてその状態を生むのは、第三のレベルで起こっていることを鋭敏な意識で観察し、まったくバカげたことでさえも、あるがままに完全に受け入れる態度です。自分の精神体や感情体を浄化しようとする必要はもうありません。そのかわりにこのレベルを離れて、<ただ在る>という第四のレベルにするりと静かに入っていこうと決心するだけでいいのです。

ここで話していることは、人は多くの選択肢を持っているという一例にすぎないのだ、ということを理解してください。どのレベルにいるにしても、人は意識の持つ大いなる光に気づく能力を持っています。神には人間にとって第一、第二、第三のレベルが長いあいだ続くとわかっているので、そうした能力を贈り物として人の中に入れたのです。

ところで、<ただ在る>というレベルは常に存在します。たとえあなたの人生が、どんなにつらく厳しく悩み多きものであつても、どんな時にも<ただ在る>ことは可能です。人生があなたに微笑みかけ、あなたをほめたたえ応援してくれなければ第四のレベルにいられない、というわけではありません。人が第三のレベルで何をするかという問題は、私にとってはどうでもいいことです。第三の意識状態には、人を永遠に魅了し続けるだけのものがあります。第三の意識はそれ自体を栄養として生きつづけますが、人を広大無辺さ”の中に高く押し上げる力は持っていません

この世のものとも思われない素晴らしい恋をしていても、夜の闇のなかで目覚めて、胸の奥にひそむ孤独感に気づくことがあるでしょう。昨日の宿題の目的に観察する目を持ってもらいたい、ということがありました。第三の意識レベルの様々な状況の中に置かれていても、内なる平安の場所に達することができるという感覚を持ってもらいたいということでした。何か今までと違うものがあったと報告した人が何人かいましたが、それが何なのかというのは、はっきりつかめなかったようです。気づきの練習を続けてください。私たちの共同作業の目的は、〈それ〉が何なのかを発見することです。

ただ在る>ことのレベルに移行するためには、それが常に存在するものだということを思い出せばいいのです。心の中でそう言うだけでも、時空を超えた魔法の力が働いて、人をその領域に連れていってくれます。小手先のトリックを使ってそこに行こうとしてもダメです。いろいろなトリックを試したあげくあきらめて、「ダメだ、できない」と人は最後に言います。すると突然できるのです。そこでまた前にやってうまくいったと思える方法をくり返してみます。ところがうまくいきません。そしてまた、「ダメだ、できない」と言います。するとまた突然できるのです。

努力と努力の間隙に、<ただ在る>ことが起きます。ですからやってみてください。エゴの欲するままに、あらゆる方法を試してみましょう。そして疲れたら休んでじっとしているのです。努力をやめた時にそれは現われます。神は努力の中にあり、そして神は努力をしないことの中にもあります。求めることの中にあり、見つけることの中にもあります。

それなのです。第三のレベルにすべり落ちてもかまいません。ただそこにすべり落ちる自分を見ていてください。第三レベルで崇高なことを考えることと、邪悪なことを考えることとの間には、どんな違いもありません。崇高なことを考えている時には、自分がちょっと偉くなったような気がしたり、邪悪なことを考えている時にはちょっと後ろめたく感じたりするかもしれません。けれどもどちらも第三のレベルでのことであり、どちらも一つの意識状態であるという事実に変わりはありません。

限りなくやさしい慈愛に満ちた観察者であってください。歯を食いしばってがんばったりしないように。自分がまたも、今までと同じ心のドラマを演じていることが分かっても、「またこんな状態から抜け出られなくなるのはイヤだ。第四のレベルに行くにはどうしたらいいのだろう」などと嘆いたりしないでください。これは頭での思考です。ただ笑いとばして、そのあと心の雑音を止めるのです。その方法が分からないとあなたは言いますが、それは嘘です。あなた方は私のような〈おしゃべり風〉の話を聞いているでしょう?私がしようとしていることは、多くの選択の機会を示して、人々は選択することができるのだという点に気づいてもらうことです。いかに選択するかではなく、選択することができるのだということがわかったなら、それで私たちの目的は達成されます。・・・

【注1】「自分の意識を意識そのものに向ける」の「意識」という訳語ですが、元のconsciousnessは、辞書には「意識」の他に「自覚」「気づくこと」という意味があります。ですからこの文脈では、「気づき」が適切な訳語といえると思います。

「意識を意識そのものに向ける」といった場合、「“意識状態”を意識する(自覚する)」というふうに理解される場合が多いでしょう。ですが、話は第四の意識レベルである、「ただ在る」状態の時の「意識の在り方」についてです。ですから、「自分の“気づき”を、“気づき”そのものに向ける」と訳す方が誤解がなくてよいと思われます。

数行下の「肉体や世界や想念に意識を向けているのは何なのか、誰なのか」を読めば、意識を意識そのものに向ける」の「意識」の意味が「気づき」だと分かるかもしれません。が、必ずしも皆がそう理解できるとも限りません。単に内面に向かい、意識状態に気づく」というふうに理解されてしまう可能性が大きいです。この点、要注意です。

「気づき(意識)に対して、気づく(意識する)」ことの重要性は、次の和尚の記事で明らかです。

【観照14】 二つの目撃者の原則を理解する

この内容からも、「自分の“気づき”を、“気づき”そのものに向ける」という訳語が適切であるといえるのではないでしょうか。

【注2】この言葉「肉体や世界や想念に意識を向けているのは何なのか、誰なのか」と問うことですが、同じ意味のことをインドの覚者ラマナ・マハルシは、「どうすれば心は静かになるのでしょうか?」の質問に対して次のように答えています。

○「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を

 破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。

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8.ラムサの「ただ在る」についての教え    ~ラムサホワイトブック2004.9.30改訂版より~  

在る」という状態でいることは、自己表現の中で最も偉大なものなのだ。「在る」ということだ。存在よ、重要なことはあなたが「在る」ということなのだ。それだけが重要なことなのである。(P176)

「在る」という状態、すなわち神の状態。(P188)

あなたが幸せで喜びにあふれ、自分自身を愛し、「ただ在る」ことを自分に許す瞬間をより多く過ごせば過ごすほど、あなたはすべての生命のもつ神の力へと近づいていく。(P200)

「ただ在る」ことの喜びが、無限の「知っている状態」の力となることができるのである。(P303)

「ただ在る」状態でいるのを自分に許し、あなたの存在の内なる促し、内なるフィーリングに耳を澄ませば、あなたの驚くべき自己をさらに偉大な叡智と永遠の喜びへと拡大していくために最も必要としていることを、あなたはいつも体験していることになるのだ。(P207)

あなたが「ただ在る」とき、あなたはすべてのものの「在る」という状態と整合状態にある。その整合状態を通して、あなたは自分の望むどんなものでも手に入れることができるのだ。そしてそうするためにあなたがすべきことは、「ただ在る」ことの他には何もない。あなたの存在の神が、あなたの考えていること、望んでいることを何でも引き寄せ、あなたのところにそれがやって来るのである。(P288)

神が「在る」のと同じように、自分も「在る」というのは、在るがままの自分でいるということなのだ。あなたが単に「在る」という状態でいるとき、あなたは果てしない状態、無限の状態となっており、創造的で自由なのだ。あなたはどんなものでも許す者であり、動きであり、平安であり、喜びである。あなたは純粋なエネルギーであり、パワフルな指向性であり、すべてのフィーリングであり、すべての思考なのだ。

自分の存在のすべて、自分の呼吸すべてをかけて自分自身になり、自分自身を愛し、自分の美徳が人生の中に入ってくるのを許すこと。これが神が在るのと同じように在るということである。

ただ単に自分自身に対して、あるがままでいることを許すのだ。つまり「在る」という状態でいることだ。あなたが「ただ在る」とき、あなたは全てである。神になるということは、「私は在る」ということなのだ。(P146)


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