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「いじめ」の加害者と被害者~今を生き抜くために必要な意識~

2013-01-21 08:43:51 | 心理分析
「『いじめ』と言うのをやめて、『犯罪』というべきだ」

美輪明宏さんが、以前テレビでおっしゃっていましたね。学校という枠に入れられているときは、確かにどんなに悪質な行為であっても、いじめは犯罪とは、見なされないというのが、真実です。

双子座の木星期(2012年6月12日~2013年6月26日)に入り
とかく、学校でのいじめ問題が、ピックアップされるようになりました。

結局、学校でのいじめ問題は、終わりのない、現実社会で起こる問題が発端です。人種差別、身分差別、男女差別、職場でのいじめ、家庭内でのいじめ、近所環境でのいじめ、しいては、学校内の先生同士のいじめなど・・・

時代の変化と共に、大人社会で起こる差別やいじめそのものが、陰湿となり、挙句、合法となり、整然と存在し続けているのが、現状となりつつあります。現在の学校のいじめ問題は、それらを背景に、反映されているだけなのです。

「いじめ」と言っても、加害者と被害者は紙一重で、どのラインで区切っていいのか、経験者が年を重ねるごとに、難しくなっているのが、事実のようです。

ただ「区切るのは難しい、どっちも経験したなぁ」と話せる方は、さほど、大きな問題として、取り上げられなかった方ではないでしょうか。

1、本当の被害者は、当時の記憶を失っています。
2、本当の加害者は、被害妄想に取り付かれています。
つまり、社会問題の一環として、いじめを客観視しはじめ、自分の子供に対する影響などを、懸念した上で、過去を遡り始めている傾向があります。

『因果応報』
幸せも不幸も、過去における善悪の結果という、意識が芽生えているのかもしれません。

私自身は、26歳のときに、記憶が蘇りました。
小学生~中学生までの、9年間の記憶です。
記憶は蘇るときに、ある種の反動を伴います。
私は、精神疾患となって、過去との対峙を経験しました。

このきっかけは、被害妄想に取り付かれた加害者からの、謝罪の言葉でした。

今となれば、「なるほどなぁ」と思う経緯。たゆまず進む時間は、被害者と加害者の記憶に、大きな隔たりを生んでいるのです。

1、加害者は、自分の行いが、至極「個人的な恣意」という、当時のグループ意識はなくなり、自己成長の気付きの一環となっています。

2、被害者は、当時の記憶が、「社会からの人格否定」という、学校、社会に対して自己肯定できない、具体的な心理状態として残っています。

ただ、加害者の中でも、育った環境問題や、生まれ持っての素質により、成人になって、人格障害という形で現れていて、社会不適合者となっている場合もあります。

もちろん、被害者の中にも、青年期の段階で、家庭・学校の問題から、自己肯定意識が育たず、成人して、社会的な地位を得た後、精神疾患を患う者も多いです。

過去に起きたいじめ問題に対する、具体的な解決方法は、はっきり言うと、ありません。過去は、決して変えられない「事実」なのです。

1、加害者の方は、自分の記憶にとらわれ、被害意識から自分の利己的な見解から、被害者に対して、謝罪を通して許されるという希望は、捨てることです。自分は社会から守られていた時代に、人の人生を壊すほどの、犯罪を犯したという事実は、変わらないのです。

せめて、この意識だけでも、背負い込む覚悟を持つべきです。加害者が行った行為は、決して取り戻せる時間ではないのです。

決して当時の被害者を、許しを請うために、追いかけてはいけません。新たな憎しみをが、そこには生まれるだけで、苦しみは繰り返されます。せめて、自分の家族、自分の周囲に、その学びを生かす具体的な行為で、その罪悪感を社会に還元することが、重要だと思います。

それでしか、本当の償いには、ならないのです。

そして
2、被害者の方は、過去に学び、未来にその学びを生かすことです。自分がなぜ、自己意識が育つ青年期に、人格を徹底的に、否定されてしまったのか。それだけ、自分は人と違っていたという、現実と向き合う勇気が必要なのです。

人種の違いが当たり前の、アメリカでさえ、例外ではない、人は皆、人と違うことを恐れる環境で、青年期を過ごす中で、差別・区別が生まれることは、避けられない現実です。

私は青年期に「いじめの被害者」となったことで、様々な精神的な気付きを、得る事ができました。言葉にはしなくとも、私の醸し出す雰囲気で、その修羅場をかいくぐってきた、というのが伝わるらしく、多くの相談を頂きます。
自身の経験を通して、その深層心理、経過する時間とともに変化する記憶が、どのように、深く人の成長心理に作用するか、という発見にも繋がりました。

ただ、いじめの被害者の方には、心して欲しい点があります。この経験で、成長期に自己肯定の段階を、クリアーする事ができなかった方が、成人以降に、問題なく社会に適合できる確立は、思った以上に低いという現実です。

青年期に抱えた問題は、成人したばかりの時には、消失している事が多いようです。家庭内で問題を抱える子供が、視力や聴力を低下させ、現実逃避する行為と、同じと考えています。つまり、つらすぎる過去を、自分の中で改竄し、忘却しているのです。

大抵に応じて、いじめの被害者は、個を競う場面で、頭角を現します。平均を求められる学生時代よりも、個々の能力を重視する社会での出発は、想像するよりも、伸び伸びとした開放感を感じる可能性が高いのです。

けれど、問題は社会に出てから、再び発生するのです。一旦社会に入れば、再びチームワークという名の元に、並列を強いられます。学校時代で浮いていた人間は、大抵、その段階でも浮き上がってしまう可能性が高いです。

「自己肯定能力」の経験が不十分で、社会の中で自分の個性を調和させ為の、バランスのとり方が、わからないのです。この点は、誰しも成長段階でありえる疾患、と思われるかもしれないのですが、「いじめの被害経験者」は、この点が人の倍は、欠如していて、これは生涯を通じて大きな課題となります。

社会に出るまでは、社会で必要な人材となるべく、死に物狂いで能力を高め、人と違うことで培われた根性が功を奏し、非常に打たれ強いのも特徴です。そして、社会の一員として一旦築いた安定を、維持してゆこうと考えたときに、本質の問題点が表層化してくるのです。

集団心理というものがあり、ある一定の集団が生まれたとき、その中の1人がまとめ役となり、1人が問題の対象となります。これは、その役者が引退すれば、新たに人選が行われ、永遠のサイクル、まとめ役(加害者)と、問題の対象(被害者)は、配属され続けます。

このときに、問題の対象(被害者)となる人の70%は、その経験者です。

社会に出てこそ、本当の素質が、試されるものかもしれません。仲間はずれを恐れて、永遠に被害者でいるのか。それとも孤独を受け入れて、「自己肯定能力」を自ら育て、本当の意味での自己実現を目指すのか。

私の観察したところ、「いじめの被害者」の、社会的な役目は大きいと感じます。思春期に自己否定の中で、育った人間ほど、屈折した強さを持つものはいないのです。

ただ、青年期の頃に刻まれた「自己否定」の意識は、自分の想像を超えて、人生の試練の度に、目の前に大きな障害となって、立ちはだかります。自分の敵は、自分…という、レベルではない、巨大な魔物となって現れるのです。

これを、乗り越えるほどの、自己実現を掴み取るか、取らないか。
この結果次第で、当時のいじめの被害者は、

1、自己実現を成功させ、人が抱える本当の痛みがわかる、器の広い人間になれるか。

2、自己否定という自身が作った、巨大な魔物に怯えながら生きる、精神疾患者として、生き続けるか。

大きな分かれ目が、遠い未来でなく、人生の岐路に、確実に選択肢として、目の前に現れるのです。

青年期に「自己肯定能力」を、学校や、家庭から正常に育てられた子供は、極限のときにこそ、自分を信じるという、潜在意識を発揮します。割合としては、自己否定を経験する確立が少ない人間ほど、いじめの加害者と、なっている可能性が高いのも現実です。

彼らの人生は、紆余曲折あれど、多くの場面で救いの手が用意されます。彼らは、成長期の中で「愛を受け取る」という能力を、育てることに成功したからです。

そんな彼らに、いじめの被害者の過去は、想像は難しくないものの、本当に共感することは、決して無理な話なのです。

いじめの被害者であった方たちは、過去の苦しみが巨大な魔物となって、何度も何度も、恐怖に襲われます。そんな方は大勢いて、機会が許すときに、私は彼らに使える事があります。

「加害者は、何をしても、幸せになる方法を知っています。けれど、頂点には立てません。頂点の孤独に打ち勝てる人は、本当の恐怖と、本当の痛みがわかる人です。

被害者は、人生の成功者にも、人生の敗北者にもなれる人です。その素質があるから、思春期に大きな試練を、与えていただけたのです。

その経験から学び、生かし、還元すれば、大きな成功は必ず手に入ります。その経験を卑屈に思い、自分も他人も否定し、社会を疎ましく思えば、間違いなく、社会の敗北者にも、犯罪者にもなれるでしょう。

加害者は幸せになり可能性が70~80%、
被害者は生涯、挙動不審で生きる可能性が50~60%。
悔しいですが、実際そうなる可能性が高いのが、現実なのです。」と。

私は26歳の時に、小学生~中学生の記憶が蘇り、過去と対峙する機会に恵まれました。

子供時代は、特別な能力が発揮される、と言われますが、私自身も、透視・透聴能力や、目の前の電球を壊すなど、いじめに対する恐怖から、エスパーに近い能力を、発揮したと記憶しています。

私が知る術のなかった影の情報が、青年期の私の記憶に多く残っていて、残念ながら、だからこそ、知らなくてもいい事実までも見抜いてしまっていたようで、より人間不審に拍車がかかってしまいました。

ただひとつの救いは、影で私を助けようと奔走してくださった、先生たちの存在も、私の当時の能力によって、見抜いていたことです。

最後の最後まで、自分の中に信じられる可能性を、決して失わないために、向き合わなくてはいけないのは、孤独と、自分を信じる心だと、私は思います。

いじめの被害者となった人は、必ず特別な能力を発揮できるはずです。悲しい話、この能力は良い方向だけでなく、悪い方向へも発揮されます。この特別な能力で、人を呪い殺すことも、決して難しくはありません。

思春期の経験は、人生の核を作ります。孤独な経験の中で、向き合えた自分の本当の弱さと苦しみの中でこそ、発揮した特別な能力を、思い出してください。そして、その能力を、未来の自己実現に生かし、社会に還元してゆけると信じること。

社会の造語である「勝ち組」「負け組」は、青年期の延長線上で決まります。
この理論を踏まえず実在するのは、「奇跡」なのかもしれません。

孤独に向き合い、当時の苦しい時代を切り抜けてくれた、思春期の自分は永遠に、心の中に居続けます。それを開放できるのは、周囲の価値観の中にある「勝ち組」となることではありません。誰かの物差しではなく、本当の意味での自己実現と向き合う事が重要です。

小さなものかもしれません。
人と違うかもしれません。

自分らしい幸せを見つける、それを実現化させられた人だけが、自分を誇りに思える、尊い生き方を勝ち得た人なのだと思います。