▼ 巨人の渡辺恒雄球団会長さんば、ナベツネと呼ばれています。
「ナベツネ暴言集」なんていうサイトも、たくさんあるんですよね、これが・・・・・。
私も新聞紙やテレビの報道を目にする度に腹を立てたものです。
▼ 「ナベツネの本なんて、読むものか!」という人は多いでしょう
が私は反対に興味がありました。
『わが人生記』というタイトルでしたから、この方がどのような
半生を歩んできたのか、どういうことを考えて発言したのかに、大
変興味がありました。
その人本人から話を聞かなければ真相はわからないと思いますの
で(教師ですから、噂に惑わされず、本人から聞かなければいけな
いと思っていますので)本を手に取ってみたわけです。
▼ 子どもの頃は詩人願望があったそうです。
教師との出会い、教師のほめ方で、子どもが夢をもつということ
がよくわかります。
東京・杉並区の小学校1年生の時、担任の音楽教師・
内田金次郎先生に、作文の宿題を命じられ、私は1編
の童謡を作って提出した。その数日後、授業のはじめ
に、内田先生が黙って黒板に白墨で童謡を書き始めた。
その題名は「ポンポン丸」というのだが、題名の次に
「渡辺恒雄」と書かれた。当時、小さいローソク1本
で、たらいの中を走るモーター・ボートの小玩具があ
って、その遊びの感動と悦びについて韻を踏んで綴っ
た童謡であった。黒板に歌詞を書き終わると内田先生
は、オルガンに座って、自ら作曲したその歌を歌い始
め、全生徒に合唱させた。
それだけのことだが、小1の私にとってはきわめて誇
らしい事件であった。ひそかに私は、自らに詩人の才
があるのではないかと思い始めてしまった。
▼ 今年で80才になる方ですので、小1だと74年も前の話になり
ます。
小学1年の時の担任の先生の名前をフルネームでみなさん、覚え
ていますか?(私は覚えています。今も年賀状をやりとりしていま
すから。でも、小学1年生の時の担任だけです。)
70年以上も前のことを、これだけ鮮明に覚えているということ
はよほど記憶に残るできごとだったからでしょう。教師の影響の大
きさを物語っています。
▼ さて、2004年夏の「たかが選手」騒動についての話です。
「たかが選手」というたった5文字が、この3か月余
りに、あらゆるマスコミに登場した回数は、数えたこ
とはないが、千回、いや一万回にもなっただろう。
この5文字の際限もない反復は、プロ野球界を分裂さ
せ、選手ストを熱狂的に支持させ、「ナベツネ」を、
あたかもサダム・フセインと並ぶ世紀の悪者にするた
めに、絶大な効果をもたらした。
と自らの文で書いています。
▼ 2004年7月8日に、渡辺氏は、都内のホテルで読売の役員と会食
をした後、恒例の取材を受けたそうです。
渡辺氏は、次のように書いています。
日刊スポーツ・S記者「明日、選手会と代表レベルの
意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代
表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー
陣といずれ会いたいと(言っている)」
渡辺「無礼なことをいうな。分をわきまえないといか
んよ。たかが選手が。たかが選手だって立派な選手も
いるけどね。オーナーとね、対等に話をする協約上の
根拠は一つもない」
調べてみると事実は、古田選手は「同僚のヤクルト・
真中選手が『オーナーと話をしたい』と言っているが
?」と記者に聞かれて、「そうですね。でも、それは
無理じゃないですか」と答えただけだった。私がスポ
ーツ記者S君の質問に対し、反発した「古田発言」は
もともと存在せず、虚構にすぎなかったことになる。
「たかが・・・・・」と言ったのは、酩酊していたとはい
え、まことに軽率だったが、すぐ気づいたから「立派
な選手もいるけどね」と追加したのだが、後述する「
はめ取材」を得意とする記者たちに、「たかが選手」
は野獣に食いつかれた獲物の如くむさぼられ、「立派
な選手」はゴミの如く捨てられてしまった。
▼ 私は、これを読んでも、渡辺氏にはあまり好感は持てませんが、
一時の「ひどい悪者」といった感情は無くなりました。
こういう話は水掛け論的なもので、お互いの都合に良い文章に書
き直されているものです。
でも、両者の文を読まなければ、客観的な判断は難しいと思いま
す。
少なくとも、この本を1冊読み終え、「無骨だけど、心は暖かい
人なんじゃないのかな」という印象をもちました。
読書の話になりますが、渡辺氏も少年時代にヘルマン・ヘッセの
『デミアン』に感激したという話には共感しました。(三浦綾子さ
んをはじめとして、この本に感銘を受けた方は多いのです。もちろ
ん、私もその一人です。)
私のHP「すぐできる読み聞かせ・ゲーム・心の話」もご覧に
なって下さい。
「ナベツネ暴言集」なんていうサイトも、たくさんあるんですよね、これが・・・・・。
私も新聞紙やテレビの報道を目にする度に腹を立てたものです。
▼ 「ナベツネの本なんて、読むものか!」という人は多いでしょう
が私は反対に興味がありました。
『わが人生記』というタイトルでしたから、この方がどのような
半生を歩んできたのか、どういうことを考えて発言したのかに、大
変興味がありました。
その人本人から話を聞かなければ真相はわからないと思いますの
で(教師ですから、噂に惑わされず、本人から聞かなければいけな
いと思っていますので)本を手に取ってみたわけです。
▼ 子どもの頃は詩人願望があったそうです。
教師との出会い、教師のほめ方で、子どもが夢をもつということ
がよくわかります。
東京・杉並区の小学校1年生の時、担任の音楽教師・
内田金次郎先生に、作文の宿題を命じられ、私は1編
の童謡を作って提出した。その数日後、授業のはじめ
に、内田先生が黙って黒板に白墨で童謡を書き始めた。
その題名は「ポンポン丸」というのだが、題名の次に
「渡辺恒雄」と書かれた。当時、小さいローソク1本
で、たらいの中を走るモーター・ボートの小玩具があ
って、その遊びの感動と悦びについて韻を踏んで綴っ
た童謡であった。黒板に歌詞を書き終わると内田先生
は、オルガンに座って、自ら作曲したその歌を歌い始
め、全生徒に合唱させた。
それだけのことだが、小1の私にとってはきわめて誇
らしい事件であった。ひそかに私は、自らに詩人の才
があるのではないかと思い始めてしまった。
▼ 今年で80才になる方ですので、小1だと74年も前の話になり
ます。
小学1年の時の担任の先生の名前をフルネームでみなさん、覚え
ていますか?(私は覚えています。今も年賀状をやりとりしていま
すから。でも、小学1年生の時の担任だけです。)
70年以上も前のことを、これだけ鮮明に覚えているということ
はよほど記憶に残るできごとだったからでしょう。教師の影響の大
きさを物語っています。
▼ さて、2004年夏の「たかが選手」騒動についての話です。
「たかが選手」というたった5文字が、この3か月余
りに、あらゆるマスコミに登場した回数は、数えたこ
とはないが、千回、いや一万回にもなっただろう。
この5文字の際限もない反復は、プロ野球界を分裂さ
せ、選手ストを熱狂的に支持させ、「ナベツネ」を、
あたかもサダム・フセインと並ぶ世紀の悪者にするた
めに、絶大な効果をもたらした。
と自らの文で書いています。
▼ 2004年7月8日に、渡辺氏は、都内のホテルで読売の役員と会食
をした後、恒例の取材を受けたそうです。
渡辺氏は、次のように書いています。
日刊スポーツ・S記者「明日、選手会と代表レベルの
意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代
表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー
陣といずれ会いたいと(言っている)」
渡辺「無礼なことをいうな。分をわきまえないといか
んよ。たかが選手が。たかが選手だって立派な選手も
いるけどね。オーナーとね、対等に話をする協約上の
根拠は一つもない」
調べてみると事実は、古田選手は「同僚のヤクルト・
真中選手が『オーナーと話をしたい』と言っているが
?」と記者に聞かれて、「そうですね。でも、それは
無理じゃないですか」と答えただけだった。私がスポ
ーツ記者S君の質問に対し、反発した「古田発言」は
もともと存在せず、虚構にすぎなかったことになる。
「たかが・・・・・」と言ったのは、酩酊していたとはい
え、まことに軽率だったが、すぐ気づいたから「立派
な選手もいるけどね」と追加したのだが、後述する「
はめ取材」を得意とする記者たちに、「たかが選手」
は野獣に食いつかれた獲物の如くむさぼられ、「立派
な選手」はゴミの如く捨てられてしまった。
▼ 私は、これを読んでも、渡辺氏にはあまり好感は持てませんが、
一時の「ひどい悪者」といった感情は無くなりました。
こういう話は水掛け論的なもので、お互いの都合に良い文章に書
き直されているものです。
でも、両者の文を読まなければ、客観的な判断は難しいと思いま
す。
少なくとも、この本を1冊読み終え、「無骨だけど、心は暖かい
人なんじゃないのかな」という印象をもちました。
読書の話になりますが、渡辺氏も少年時代にヘルマン・ヘッセの
『デミアン』に感激したという話には共感しました。(三浦綾子さ
んをはじめとして、この本に感銘を受けた方は多いのです。もちろ
ん、私もその一人です。)
私のHP「すぐできる読み聞かせ・ゲーム・心の話」もご覧に
なって下さい。