<よっし先生の書道つぶや記>①
アマチュアのくせに、分かったような書道薀蓄(ウンチク)をつぶやく<よっし先生>、さてその行く末や如何に…
【032】
◆文字表現を基盤とした書道文化(芸術)では、このようなオーラを持つ作品は作りやすいでしょう。特に精神性を重要視する東洋芸術なのですから。
意志伝達手段である文字を表現することで、文字=語句内容からうける意味合いの雰囲気を万人が受け止めることが出来ます。それを作者がどのように表現しているかが鑑賞されるのです。
【031】
◆このような作品から発散されるオーラは、技術的な優劣に左右されずに、むしろ作者の精神性から発揮されるもののようです。歴史に残るような芸術作品でなくても、技術的には不充分でも、人に感動を与えるような(自分自身で満足できる)オーラを持った作品を作りたいものです。
【030】
◆芸術作品全般に共通することですが、いい作品・優れた作品というものは、鑑賞する人に対して感動を与えるだけでなく、ある種の心の安らぎを与えるのです。
表現技術的に優れることは勿論ですが、心に響くような感銘を与えなければなりません。むしろ技術的に優れていることよりも、感銘を与えるような作品から発散されるオーラの如きものが重要なのです。
【029】
◆東洋文化(芸術)=書作品については、「書道の先生よりお寺の和尚さんのほうが、一般的にいい書作品を作る」と故・河田一臼先生が言われていたのは、上達を求める書道家に較べて、和尚さん達は悟りの心(境地)を求めているからだと思います。それが線表現に現れるのです。
【028】
◆美意識つまり美的感性は制作表現者固有のものであり、制作者の感性によって表現されるものなのです。
文字表現による呼吸(息使い)が見てとれる作品は爽快感があります……単なる上達を求めたものとは違います。
このあたりの感覚が、西洋にはない東洋文化(芸術)の特性だと思うのですが。
【027】
◆河田一臼創作の運筆理論「基本八十一本」の概要は<こちら>から見れます。しかしこの難解な?内容からだけでは、真相を窺い知ることは難しいでしょう。
要は、運筆の入筆・送筆・終筆ともに、半球方向の全てが選択可能であり、限定されるものではないということです。指導者といえども、制作表現者に美意識をおしつけてはならないのです。
【026】
◆何千本もの毛から成る「筆」を使うことで、千変万化の表現が可能になるのです。
故河田一臼先生は、「基本八十一本」という運筆理論において、三次元的な球(半球)の原理を用いて自由で制約のない運筆を提唱しました。
「基本八十一本」の中には、速度も入っているから、四次元といえます。
【025】
◆書道文化はもともと、精神性の高次元を狙っているのです。文字が素材となっているので、提出文書とか記録・保存文書とかは特に読み取れることが必須条件であります。
その中で特に運筆性・構成力に優れて突出しているものが古典法帖になって後世の我々に示されています。これには「筆」という筆記用具の果たす役割がいかに大きいかを知らねばなりません。
【024】
◆芸術には、高次なものとか低次なものとかは関係ありません。技術的には低次元であっても優れた芸術はたくさんあります。
芸術は技術よりもむしろ精神性の高いものが好まれます。
【023】
◆臨書をして素晴しい筆法技術を表現披露することは修練の成果を見てもらう意味あることです。
しかし、あくまでも「習い事」の成果であり、芸術性とは何の関係もありません。精神性の高次元なものとかを吸収する側面的役割はありますが、あくまでも側面なのです。
それを追求していったからといって、芸術性が向上するわけではないのです。
【022】
◆書道文化=イコール=文字文化なのですから、文字の意味合いを無視しての書道文化はありえないのです。
抽象的書道(芸術?)は、書道とはいわずに、墨象・・とか何とか<別名>をつけるべきです。
【021】
◆書道文化を芸術として確立するのには、古典文字の模倣などは「習い事」の一分野であり、上達しよう(上手な字を書こう)などという気持ちを捨てることです。
文字(語句)を書く時は、まづその語句の意味合い等を自分なりに咀嚼して、その雰囲気を表現することを第一義としなければいけません。
文字を表現する書道文化は、文字文化に立脚していることを忘れてはいけません。
【020】
◆書道を東洋が生んだ芸術分野として確立させるのには何が必要なのでしょう。
文字の描写を素材とした書道文化を確立させるためには、筆の特性を発揮させた千変万化の表現が出来て、しかも万人が納得する表現の楽しみが得られなければなりません。
何も難しいことはないのです。墨液のついた筆を台紙である紙の上に置くことから始まるのです。
【019】
◆古来からの基本的な運筆手段として「永字八方」があります。確かに間架結構を構成して、夫々の点線画を美しく見せる早道を示しています。
しかし芸術的な新鮮感覚などとは無関係の文字運筆の指針を示したものと言えるでしょう。文字を上達させる習い事のお手本であります。
【018】
◆人間個々の美意識は千差万別なのです。筆を持った子供に、最大公約数的な美形の運筆方法を最初に教え込むと、書道(習字)に対する固定観念が植え付けられてしまいます。
「一」の字を表現するのにも、あらゆる方向~あらゆる手段により起筆=送筆=終筆をすることにより、千変万化の「一」の字が表現できることを教えることから始めます。
【017】
◆私達が包丁を持って料理をする時に、構える包丁の角度は幾分の個人的差異はあれ、似たようなものです。これが自然体なのです。
美意識の基本は<自然体>なのです。筆を持って「一」の字を表現する時も、この自然体が基本になっています。
しかし、起筆・終筆において押える(筆圧をかける)動作を加えたり、美しい構成美(形)を表現するための運筆技法を指導するのは、真の美を追求する邪魔物であります。
【016】
◆もう一つ忘れてはならない要素があります。それは筆(及び墨液)を用いるということです。極めて多数の毛を有する毛筆を使うことにより、千変万化の運筆表現が可能になるのです。
外形的外観的には変らないようでも、夫々の点・線表現は千差万別に異なっているのです。書道文化を毛筆文化と言い換えてもいい位です。
【015】
◆私の考えでは、<真の書道芸術>とは、墨液と筆を用具とした極めて精神性の高い東洋的文字表現芸術だと思います。
「精神性が高い」とはどういうことなのか?・・・文字を素材としているために、筆順による空間での精神性が表れるからです。このことが他の芸術とは大きく異なる点です。
即ち、間の取り方とか空間での息遣いなどにより表現者の精神性が表れるのです。
【014】
◆書道文化を芸術分野のひとつとして確立させるためには何が必要なのか?・・構成美を追求して、ほぼ完成させた古典文字表現の時代は済んだといっていいでしょう。
だからと言って、戦後において発生した前衛書道とか、最近注目されている~~書道とかが書道芸術であるともいえないようです。
では何が真の書道芸術なのだろうか?
【013】
◆人間個人の力は微々たるものですが、眼に見えない思考力たるや膨大な力を有しています。これこそ我々人類の文明・文化の源泉なのです。
書道(文化・芸術?)は文字文明に端を発しています。これは紛れもない事実です。従って象形文字に源を発して構成美を完成させた文字文化そのものが書道文化といえます。
【012】
◆<よっし先生>が思うのには大自然の遠大な力に較べれば、人間個人の力なんて微々たるものです。「いきましょ、いきましょとする筆」に任せたほうが何倍も楽で自然なのです。
ではどうやって「筆にいきましょ、いきましょ」させるのか……これが問題です……でもいくら考えても結論は出ないのです。要は、上手に書こう~描写しようという気持ちを捨ててあるがままの自然体になることではないでしょうか。
【011】
◆活字やパソコンなどが急激に発達した現代において、書道を東洋の芸術分野として残したいならば、古典の優れた文字表現の模倣ではいけないのです。
深遠にして、奥の深い墨液による表現の源泉は何かを探求することが重要なのです。そのためにはどうすべきか・・・難しいことはないのです。大自然の遠大な力を信じて、墨液のついた筆を雅仙紙の上に置くことにより始まるのです。故河田一臼先生に言わせると「筆がいきましょ、いきましょ」と言うのです。
【010】2012.09.12=
◆<よっし先生>の恩師であった書家・河田一臼先生は上手下手よりも自由性を大切にされ、それを実現するために古来の運筆理論「永字八方」を幾何学的に進化させた運筆理論「基本八十一本」を創作されました。「基本八十一本」の概要説明は<こちら>をご覧下さい。
【009】
◆書道は墨液を使っての文字文化です。最近では様々な色彩用具などを駆使して新しい芸術性を表現しようと工夫されていますが、あくまでも書道とは濃淡の差異などはあっても墨液を使った文字表現文化なのです。そこに東洋文化の深遠にして、奥の深い文化があるのです。
【008】
◆古典の優れた文字表現者は、このような馬鹿げた審査基準などのない自由な世界で文字バランスの向上を研鑽していたのです。目的は書記官的記録とか、権力者への上奏文作成など様々であったでしょうが、先生の真似事でなく自分の感性を大切にしていたと思われます。筆の特性を研究して、日夜研鑽努力していたのだと思われます。
【007】
◆バランス構成の優れた阿吽の呼吸を表現した古典の文字を鑑賞したり、これらの文字作品を学び(習う)ことは確かに有意義です。しかしこれらを学ぶことで運筆の巾(広さ)を制約し、狭くしているのです。バランスのとれた美しい文字を表現するためには、こうでなければいけないと指導者が制約しているのです。
その制約された基準に合致するものが称賛され、審査で高い得点を得るのです。さきに形式ありきだから、このようなことになるのです。
【006】
◆<よっし先生>が思う書道の芸術(アート)性は、運筆の変幻性だと思っています。上手下手(上達)を目的とする書道は単なる「習い事」でしかありません。
「習い事」をすること自体は悪いことではありませんが、それが向上したからといって芸術性の向上とは何の関係もないのです。
上手な字を書くね、と褒められたい人や、バランスのとれた字を書くことで収益を得たい場合は「習い事」をすればいいのですが、書道文化=芸術性を得たいならば「習い事」ではだめです。
「習い事」で運筆の基本を身につけて~その延長線上に書道文化があるというのは妄想でしかありません。ここのところがプロの先生方もカン違いされているのではないかとも思われます。
【005】
◆<よっし先生>は一介のサラリーマンでしたが、高校時代の恩師であった岡山の書家先生=河田一臼先生(2000年没)をとても尊敬しています。
河田一臼先生の影響で書(墨作品)にとても興味を持っており、今では故人となった河田一臼先生をホームページやブログでWEB紹介しています。
【004】
◆<よっし先生>の子供の頃の愛称は「つん」であり、仕事仲間等からの愛称名は「よっさん」でありました。最近ではWEB友人の<サリー>さんから呼称された<よっし先生>の呼び名がとても気に入っています。
これからは自称<よっし先生>で、わかったような書道薀蓄を述べてみようと思っています。
【003】
◆賞状書きなどでは特にバランスのとれた文字表現でないと、貰った人は喜びません。だからと言って活字印刷の賞状を貰っても味気なくて嬉しくないでしょう。やはり手書き感覚の賞状でないといけません。
このような賞状書きの場合は、芸術感覚よりも寧ろバランス感覚の優れた書表現をする人が重宝されます。
【002】
◆<よっし先生>はアマチュアのくせに自分が一端の書道人だと思っているのです。書道を真の芸術とするには、今現在の書道世界ではダメだろうと考えています。
上手下手の基準は夫々の形やバランスであり文字を表現するのには基本的なものですが、古典の筆法表現によってほぼ完成されているにも拘わらずそればかりを追求しているように思えるからです。
【001】2012.09.03=スタート
◆アマチュア書道愛好家(ふざん:布山)こと<よっし先生>の一口日記です(時々サムネイル写真付)。~始まり始まり~
<よっし先生>は、もうすぐ古希を迎えるお爺さんです。脳出血を患って杖をつく障害者ですが、リハビリによって軽四の愛車を運転できるようになった元気一杯のズッコケ老人であります。
最新の画像[もっと見る]
- トップページ 3年前
- トップページ 3年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
- 湯郷一泊旅行・大平山 4年前
とっても難しいホームなのかしらと思いきや
この場所は ほんわかして、
書の芸術性、堅苦しくなく書かれていて
ホッとしました。
鎌倉へよく行くのですが、
やぐらに浮かび上がる 梵字 何かを見て、
たまに、可愛いとかオシャレ
なんて 感じるのですが(笑)
人それぞれ、感性も違うわけですから、
自分が楽しんで 自由に っていうところが
見ている側にも 伝わると 書道って、楽しい世界なのでしょうね。