ある日の気づき

より早く「鎖国」の弊害から脱するには、どうすべきだったか

節へのリンク
1. とは言え、和辻哲郎著「鎖国」の結論には賛成できない
2. 近代西欧文明の早期受容を妨げた決定的要因
3. もう一つの機会:対ロシア交易

はじめに^

近年、「鎖国」という用語について「含みのある」態度をとることが歴史学会で流行している
らしきフシがある。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66995
「江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった」
という主張は、単なる事実と思われるので、特に問題はない。中国の明/清王朝(+李氏朝鮮)
による「海禁政策」との共通性/類似性に着目して「名前を合わせる」のも、まあいいだろう。
http://www.y-history.net/appendix/wh0801-023.html
「海禁/海禁政策」

しかし、下記のように、以前は明らかに問題があると考えられた政策を「全肯定」する姿勢には
賛同出来かねる。
https://books.j-cast.com/2020/06/29012101.html
「必要にして十分な国際関係は維持」
https://correct-history.hatenablog.com/entry/2020/04/13/232500
「江戸時代の海禁政策(学校教育では鎖国)は、日本を守る政策と言うことができる。 大きな
功績だ。」

もっと以前から「日本独自の文化」が発達したという「肯定的評価」もあったが、「文化的に
他と切り離されていたため*単に他の場所と違う*」事自体に、何か特段に評価すべき価値が
あるという考え方を、筆者は採用しない。

どんな名前で呼ぼうと勝手だが「「鎖国」の政策内容が明治国家での諸問題の原因になった」
という重大な事実は変わらない。なお、江戸幕藩体制は近現代人の感性では恐ろしくなるほど
「思想統制」、「文化統制」、「相互監視」の制度化が*日本史上前例がないほど徹底された*
不条理な社会を実現した。こうした負の側面も「明治国家」に引き継がれたわけだが、何より、
「近代西欧文明受容の阻害要因」であった弊害を無視/棚上げして「評価」する気には、到底
なれない。この点では、筆者は和辻哲郎と同意見である。

1. とは言え、和辻哲郎著「鎖国」の結論には賛成できない^

読書日記:和辻哲郎の「鎖国」」の記事で、同書の結論部分を下記のようにまとめた。後で
引用する都合上、文に番号を振った。

「(1) 当時の為政者は、キリスト教への禁教令を出すべきではなかった。(2) 西欧文明を早期に
受容する方法は、それしかなかった。(3) そうしていても、日本が征服される恐れはなかった。」

しかし、(1)-(3) の妥当性は、疑わしい。(3) の説を述べる歴史家は、けっこう存在している
ようで、当時のスペイン国王の植民地不拡大方針発言、スペインの国力低下、日本の軍事力、
特に鉄砲の生産量などを理由に挙げている。「征服される可能性」は、そう高くなかったとは
言えるかも知れない。しかし、(3)' *日本が征服戦争を仕掛けられた可能性もなかった*かは、
また別の問題だろう。

専制君主が気分次第で*後知恵では不合理だと分かる行動を取り得る*ことは秀吉の朝鮮出兵の
例からも明らか。さらに言えば、江戸時代初期の島原の乱の原因は、板倉氏が当時の将軍である
家光に取り入るためフィリピン侵略を計画し、その準備のため領民に重税を課したことだった
という話もある。例えば、日本での金銀産出状況の情報とかが、*ありがちな誇張も含めて*
伝わった場合、スペインやポルトガルの国王や家臣がどういう行動をとったか、確実な予測など
出来ようはずがない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/島原の乱
「1630年と1637年のフィリピン侵略計画」

(3)' が疑わしいというだけでも (1) は疑わしいのだが、他にも大きな問題がある。
まず、キリスト教が支配的になった地域では、仏教と神道に関連した日本の伝統文化が根こそぎ
破壊された可能性が高い。何しろ、どんな文化遺産であれ、「異教」の産物=悪魔の所産という
のが、当時のキリスト教徒の認識なので、キリスト教の宣教後は世界中どこでも、*例外なく*
発生したことだ。

さらに、和辻哲郎は日本宣教が行われていたキリスト教は*カトリック*だという事実を忘れて
議論しているとしか思えない。例えば、入ってきたであろう思想の例としてモンテーニュに言及
していたが、モンテーニュのエセーは1676年にカトリックの禁書目録に入ったということで、
カトリックを受容していたら入ってこなかった可能性が高い。これは、後年の啓蒙思想にも
当てはまる論点だ。ちなみに、禁書目録は*1966年まで教会法上では有効だった*そうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/禁書目録
https://kotobank.jp/word/禁書目録-54246

https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-469.html
「ローマ・カトリック教会では、トリエント公会議の後に禁書目録の作成の方法を定め、
1564年に規範となるべき禁書目録Index librorum prohibitorum を作成した。」
禁書目録は1948年まで作成され(ただし追加は続き、例えばアンドレ・ジイドは1952年、
サルトルは1959年に禁書目録に追加されている)、1966年6月14日の教理省宣言および同年
11月15日の同省教令まで、教会法としての効力を持ち続けた。禁止される事項は、読むことは
もちろんのこと、出版 、閲読 、保持 、販売 、翻訳 、他人へその存在を教えることなど」
「禁書目録に載ったものだけが禁じられた書ではなく、他にも多くの書物が、自然法および
旧教会法典(1917)の一般規定(第1399条)によって禁じられていた。
 また、1966年の通告には,禁書目録は、教会法的効力を有しないにせよ、自然法が要求して
いるとおりに,信仰と道徳を危険にさらす出版物を避けることを、信徒の良心に教えるという
範囲で、その道徳的影響力を保っているとつけ加えられている。」

https://wikijp.org/wiki/Index_Librorum_Prohibitorum
禁書目録
第20版と最終版は1948年に登場し、インデックスは1966年6月14日に教皇パウロ6世によって
正式に廃止されました。
教皇パウルス4世は、ヨーロッパの知識人の作品を含む、何千もの本のタイトルとブラック
リストに載せられた出版物を禁止する禁止された本の索引を確立しました。

https://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/11/P001-027.pdf
「Essais は、新旧キリスト教徒が示す狂信の愚に愛想を尽かした著者が、両派を名指しで非難
することなしに、どうすれば寛容の道が開けるかを、あの手この手で思案の限りを尽くして書き
綴った大著でもある。」「ローマ教皇庁が彼を疑って Essais を禁書目録に入れたのは著者没後
80年もたってからのことであった(1676)。」

プロテスタントの国であるアメリカの現在でも、下記のような話がある。
https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-465.html

キリスト教、特にカトリックの積極的受容は、むしろ、近代西欧文明受容の*障害*になった
可能性が高い。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/トゥール・ポワティエ間の戦い_影響
「備考
SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利
してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世の暗黒時代は回避され、産業
革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類史
最大の悲劇の一つ」と評している。」
# イスラム側に征服の予定はなかったようだが、キリスト教支配の確立が遅れたり、支配が
# 弱まっていたりすれば、近代文明発展にはプラスに作用した可能性は、けっこうありそう。
https://kotobank.jp/word/トゥール・ポアティエの戦-855450
https://ja.wikipedia.org/wiki/トゥール・ポワティエ間の戦い
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11218613711
http://www.y-history.net/appendix/wh0601-043.html

つまり、当時のキリスト教宣教=カトリック宣教を放置すれば、より早く近代西欧文明の成果が
受容できたという和辻哲郎の著書「鎖国」における見解 (1)-(3) は、はなはだ疑わしい。

2. 近代西欧文明の早期受容を妨げた決定的要因^

秀吉による「バテレン追放令」と江戸幕府の禁教令には、1つ大きな違いがある。そもそも、
キリスト教宣教を秀吉が問題視した契機の一つは、「日本人が奴隷として海外に連れ去られて
いる」事を知ったことだった。秀吉が宣教師に対し「居場所が分かる者は日本に連れ戻せ」と
要求した記録が残っている。つまり、秀吉は「海外に出た日本人の帰国」は当然視していた。
一方、江戸幕府の禁教令では、海外に出た日本人の帰国も禁止されてしまった。このため既に
東南アジアの一部で成立していた日本人社会が孤立し、日本人の海外渡航は不可能になった。

渡海制」により、*正規外交使節以外は海外渡航できなかった*時代は、以前にもあった。
しかし、江戸幕府は、幕末の「開国」に至るまで*外交使節を一度も海外に派遣していない*。
中国や朝鮮に対してすらもである。「出国していた日本人の帰国禁止」と合わせて、日本人が
海外で直接見聞したことや、文物や資料を通じて情報を持ち帰る機会が完全に失われた期間が
200年以上続いてしまうことになった。江戸幕府には「進取の気風」が全く欠如していたと
評する他はない。古代の遣隋使や遣唐使に比べて、渡航のリスクは非常に小さかったはずだ。

通信使を派遣していた朝鮮に日本からも使者を派遣して悪い道理はないし、古代日本が唐との
交渉で実現したように、「朝貢」という形をとらずに清に使者を送ることも「プライドに拘る」
なら、不可能ではなかったろう。何しろ前の王朝である明が滅亡する一因に、秀吉の朝鮮出兵に
際して援軍を送った際の負担が挙げられるので、白村江の戦いで唐に大敗した古代日本と同等
以上の扱いは、清から期待してもよかっただろう。

そして何より、「遣蘭使」という発想が江戸幕府から出てこなかったことが残念でならない。
古代日本の為政者が「遣隋使」、「遣唐使」を送った理由は、古代中国の文化的優位を率直に
認める度量/判断力/冷静さがあったからだ。それと比較すれば、江戸幕府は「夜郎自大」に
陥っていたとしか言いようがない。少なくとも、相手には「こちらに来る能力がある」という
目に見える優位があるにも関わらず、「学ぶべき事がある」という発想が出てこなかったのは
なぜだろう。キリスト教による「精神汚染(笑)」を懸念したというなら、仏教の高僧ないし
学識深い儒者を使者に立てればよかったはずだ。原因をもっと掘り下げてみたい気もするが、
この記事は既に予定より長くなってきたので、別の機会に譲る。

3. もう一つの機会:対ロシア交易^

田沼意次は、蝦夷地開発に関連して、対ロシア交易を考えていた。彼の計画が実現していれば
つまり、現実の歴史より80年くらい早くオランダ以外のヨーロッパの国で、*隣国でもある*
ロシアと外交関係を結べていれば、日露戦争から始まるロシアとの不幸な出来事全てが、回避
できていたかも知れない。ちなみに、エカテリーナ二世が作らせた多言語間辞書には日本語の
単語も載っているそうだ。江戸幕府歴代将軍の「夜郎自大」ぶりとの差に、愕然としてしまう。

その後のロシアとの関係でも、「ゴローニン事件」などのいざこざはあったが、いくつか指摘
しておきたいことがある。ロシアは、アメリカのように「砲艦外交」で「開国」を強要したり
しなかった事が一つ。また、清というアジアの国と「ネルチンスク条約」、「キャフタ条約
という*対等な関係を前提とする条約*を結んだ実績があったことにも注意しよう。

「歴史に学べ」とは言われるものの、どの範囲まで、どういう観点で歴史を見るかによって、
得られる教訓は全く変わってくる。「司馬遼太郎史観」の影響からなのか、なぜかイギリスや
アメリカの方がロシアより交渉相手として信用できるかのようなイメージが、流布されている
という印象がある。史実を振り返れば、イギリスが交渉相手として信用できるという考えは、
噴飯ものとしか言いようがない。
- 少なくとも現代視点では、第一次世界大戦の「三枚舌外交」という明白な例がある。
- 現在やっかいな問題がある場所で、過去イギリスがした「悪さ」が原因である事が多い。
「立つ鳥、後を濁さず」の正反対だ。
# ↓アイルランドの諺 (https://twitter.com/Kumi_japonesa/status/1562940538478682112)
https://twitter.com/kinakomochi_215/status/1539167783480569857
「もし朝に2人の隣人同士が争っていれば、それは隣人のどちらか一方が前の晩に
英国人と過ごした事を意味します」この諺は決して古くなりません。
そしてそれは常に真実です。
イギリスは常に平和に暮らす人達を分断し争いの火種を作って儲けてきました。」
https://ameblo.jp/karateman1942/entry-12828480902.html
↑「"もし隣人同士が喧嘩をしたら昨夜イギリス人が訪ねてきたかどうかを調べろ"という
古くからのことわざがある。」↓
https://note.com/ftk2221/n/naa2eb52b55bd
「この80年間、中東で起きていることは全てイギリスによる領土分割の結果である。
イスラエルもまたパレスチナを領土とするイギリスの責任範囲に出現した事を忘れては
ならない。
つまりイギリスの委任統治領となった旧オスマン帝国の領土にそれを作るという決定も
イギリスでなされたのである。」
香港返還の間際に「(統治期間中かけらも配慮を示さなかった)自治/民主化実現」という
口実で、返還後の内政干渉の足掛かりを残そうとした。ミャンマー(「ロヒンギャ問題」)、
インド vsパキスタン ... といった例でも、イギリスが去り際に紛争のタネを蒔いている。
- また、近代ヨーロッパ外交史用語に「不実のアルビオン」というのがある。
+ 昨今のイギリスも、いろいろ怪しい2022年3月にウクライナ側も署名した和平案
  当時の首相ジョンソン自ら潰しに行ったとしか思えない動き(→参考記事)をしていたり、
 シリアでの化学兵器使用偽旗作戦の実行部隊と見られるホワイト・ヘルメットの創設者が
 元イギリス陸軍将校(実は MI6 のオフィサーだったのかも?)だったり ...
+ https://blog.goo.ne.jp/deeplyjapan/e/65d163e69b9b0387bdbbacccfb8fbdb9
「日本にいるとUKは、なんかこう「まだまだ隠然とした力があります」みたいな雰囲気で
  見られるけど、UKの影響力の最大の武器は、嘘と騙しと影の汚い行動(殺人を含む)
  なので、騙されてる向きには強そうに見えるといったものにすぎない。」
そして、アメリカはイギリスの「衣鉢を継いだ」国家だ。
- 「建国」段階から先住民の「インディアン」に対する虐殺や悪辣で誠意のかけらもない
「交渉」を含む迫害の連続(「アメリカ・インディアン悲史」などを参照)。
- 日本も、砲艦外交での「開国」強要+不平等条約押し付けや第二次大戦後の経済問題の
交渉(マイケル・ハドソン解説参照)で「いいようにやられてい{た、る}」。
- その御機嫌を伺ってロシアとの平和条約交渉自体を潰す大愚行を行った現政権が歴史に
学んでいないことは、間違いない。

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