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「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 10

2013年03月10日 | 厚生年金基金
   第6章 凍結した死に体

 (1)「厚生年金基金は死に体!」
イ.凍結通知
厚生省は、平成11年9月30日付局長通知「厚生年金基金の財政運営等の特例について」という前代未聞の文書を都道府県知事に通知、その写しが都道府県知事から各基金に通知されました。
この通知で、厚生年金本体保険料率の変更されるまでの間、基金財政は平成11年9月30日で凍結の事態となり、ということは俗に言う<基金は死に体>であることを一方的に宣言(?)しました、というより、万策尽きお手上げの敗北宣言、或いはモラトリアムで執行猶予を宣したということでしょうか。基金サイドにとっては平成9年12月25日付の5.3.3.2規制撤廃に次ぐ、相反する意味で驚愕させられる文書となりました。この度の文書は代行制度故に基金は代行の金縛りにあっている事態を図らずも改めて明らかにしてしまいました。このように、基金は、一方的に宣言されてしまうのですから、30年余も経過していて、未だ独立法人の態をなし得ていないわけです。とは言え、この事態をプラス思考で考えれば、執行猶予中に、代行を切り離してもいい時期になってきているのではないでしょうか。


かっての『ゆりかごから墓場まで』の理念は、いま「最小限のセーフティ・ネット
(安全網)」に変わっている。働く人の割合が減っているのですから、自分で自分
の安全網を作らないといけないのです。

ロンドン大学年金研究所D.ブレーク所長
朝日新聞「社会保障が変わる」1999.11.7


ロ.凍結した死に体
厚生省は、この通知で厚生年金保険料が改定されまでの間、免除保険料率の改定が行えないので基金の財政逼迫の度合いが増すのを回避するため、基金を9月30日付けで当面の対策として冷凍庫入りにしたのです。それでなくても、政府のゼロ金利政策や5.5%の頑なな政策に拠り財政悪化を招いて既に<死に体>と化している基金を、凍結するということはミイラ化させようという魂胆なのでしょうか。まさか、そこまで頑ななではありますまい。
しかし、このミイラには幸い5.3.3.2規制撤廃というカンフル剤が既に打たれているので、人の手を借りずとも自ら冷凍庫を蹴破って再生するかも知れないのです。それには当然、リスクをとって果敢に挑む人と効率市場が組成されていなければという前提条件はつきますが。
私が思うに、西洋哲学の傾向としては、独自性を強調するあまり、個人の自律性
や自己中心主義の方向に行きすぎる嫌いがある。東洋思想にはその逆の傾向があり、
連帯を強調しすぎて、大海に水滴が飲み込まれるように、より大きなものへの完全
な没入の方向に走りがちだ。哲学的にバランスを取り、精神的な力を得るために必
要なのは、これら二つのニーズのあいだでダイナミックな調和を保つことである。

T.モリス『アリストテレスがGMを経営したら』
―新しいビジネス・マインドの探求


それでは、<厚生年金基金のミイラ化>という事態は、何を象徴しているのでしょうか。
行政サイドからと企業サイドから考えて見ましょう。
 一口で断言すれば、それは日本の社会全般にわたる戦後方式の機能不全ということ、それを証明しているのが超低金利でしょう。行政サイドにすれば、政治を巻き込んでの戦後官僚体制、つまり統制・計画経済の手法が手詰まりになったということ。企業サイドでは培われてきました日本型資本主義(本来の株主がいない資本主義の作り出した数々のインフラストラクチュアの束、持ち合い、含み益経営、ゼネラリストの法人代表、三種の神器等)の統治能力が効かなくなってしまったということ。この両者に共通している考え方のスタイルは演繹的思考法式、ちなみにマルクスやケインズのよう、あるいは欧州大陸的なと言うか、始めに理念有りき、という思考スタイルです。いずれにしろ、嵌まり込んだこのドロ沼から抜け出すのは大変なことです。その大変さは、全面的な解決策、官僚の好きな「抜本策」、ゼネラリトの改善計画、天才のひらめき等々では効果が期待出来ない点にあります。それは、持ち合いではないですが、<持ち寄る>ということでしか達成されないような<或るもの>なのでしょう。


                ロッキィーズ物語

・コーチ達

テーラーのN部長、広告の旭通のOさん、梱包会社役員のKさん、ミネベアのM
さん、三菱電機のFさん、それに私は年金の仕事等々、その他Yさん、Sさんと、
10人ほどの様々なタイプのコーチ達がチームに集ってきた。皆、自分の子供がチ
ームに入ったのでコーチを引き受けることになった人ばかりである。野球歴も、硬
式の高校野球から私のように田舎の中学野球だけ、中には経験なしのコーチもいる。
監督はOさん、Kさん、Mさんで交互に行い、Fさんはスコアラー専任、私はマ
ネージャーという役まわり。これが、最後のチームでは皆ところを得てチーム力が
高まったのだから、不思議なこと、十八年目の優勝というのは時に起るものだ。


ハ.解凍後の再生イメージ
小手先の改善に留まり、従前を引きズルか、まったく新しいものとして再生するのか、今後の興論・議論に待つところが大きいですと考えられますが、財政運営の弾力化、給付設計の弾力化もさることながら、基金の独立法人としての地位を確立・担保したいものです。
厚生省と厚生年金基金連合会と基金と内外金融機関等との協力のもとに基金に蓄積された、蓄積されつつある基金制度のインフラ(財政診断手法、受託者責任、受給権保護、時価評価基準、受託者責任、支払保証制度、資産運用ノウハウ等々)は、問題含みの経過的な成果とは言え日本に唯一確立されたものであり、今後の日本の年金文化、資産運用文化の中心足りえるものですと考えられるし、現行法体系の歪を組み替えるときの基盤足りえるものでしょう。


しかし、客観的に見れば、平均寿命の伸長や、サラリーマン化、核家族化に伴っ
てもはや年金のない時代に逆戻りし、老後を私的貯蓄や子供に見てもらうことは不
可能ですから、年金制度という人間の知恵が生み出したシステムを守っていく他は
ないのです。

矢野朝水「年金改正ざっくばらん」1999/10


この基盤のうえに、政府の金融ビッグ・バンンの指針を生かし「公的年金はスリム化していかなければなりません。これは大方のコンセンサスですし、日本の置かれた状況を見るとその方向しかありません。」(厚生年金基金連合会発行「企業年金」2000/2月号―インタビュー矢野朝水厚生省年金局長に聞く)のかもしれません。日本人の老後生活も、アメリカのように<家族→制度→個人>(フィデリティプレゼンテーション)という方向へ動き出しているのでしょうか。
年金局長は、未だ従来型の制度論者なのでしょうか? そんなことはないでしょう。同じ「制度」とは言え、その運営方法により、つまり官僚主導の制度と民間中心の制度運営では様相を異にして来るでありましょう。物事は多分一義的ということはなく、多義的なことが現実の姿なのでしょう。官の役目と民の役目が複雑に絡み合い効率的に密着融合した一つの有機体、それが制度の本来の有り様なのでしょう。例えば、大枠だけが官の領分で、その内部は全面的に民のテリトリーというような融合体、これは単なる観念論ではなく現実の規範なのではないでしょうか。局長発言のように公的年金のスリム化が必然であれば、その先にあるのは<民間の力>、あるいはフィデリティ言うように<個人>ということになりはしませんでしょうか。それらを取り込んだ制度ということでしょうか。


すなわち、ヴィクセルは、総需要と総供給のあいだの不均衡は、物価水準に代表
される名目価格にたいしてたんに一時的ではない「累積的」な影響を与えることを
発見したのである。均衡からの乖離は、それがどのように僅かなものであろうとも、
均衡からさらに遠くへと乖離してしまうような不均衡の累積過程を生み出してしま
うというのである。

岩井克人『不均衡動学の理論』


しかし、今となっては共産主義社会のような「大きな政府」のハイコスト・ハイリスクは許容されることではないでしょう。「小さな政府」が時代のニーズです。そこから、公的年金制度も必然的に必要最低限の「小さな年金」となるのでしょう。


日本の金融システムに関わる問題点は、当局が金融は重要な産業に資金を配分するという「産業金融」の歴史的経験から「金融は制度である」と錯覚したことによる点が極めて大きい。……。
そしてバブル崩壊まで構造的レント(規制による超過利潤)を享受してきた。そこで発生した リスクも、会計制度や税金等を通じて国民に移転してきた。そのことが金融技術の遅れをもたらし、リスク概念を踏まえたビジネスの発想を弱くし、株式持ち合いを含むリレーション中心のビジネスとなった。
その結果、リスク管理技術の遅れ、スペシャリスト育成の遅れをもたらした。資本の効率的利用や貯蓄投資の最適意思決定に関する「金融の機能」についての政策的視点が欠如していたのである。その結果バブル景気を招き、大量の資本を無駄にしてしまった。

刈屋武昭『金融工学とは何か』―「リスク」から考える


 要するに、「制度」は戦艦大和の鈍重さ、「閉じた系」を創り出してしまうので、社会の変化・進展に取り残されることになるのでしょう。或いは、「制度」は「機能」に進化するのかもしれません。政府なり企業はハイコストを負担できずハイリスクを放出せざるを得ないのですから、「制度としての年金」から「機能としての年金」への経路が敷かれることになるのでしょう。「制度」は最終受益者のニーズにカストマイズドするためには、何が提供できるのか、「機能」を問われるようになるのでしょう。


もともと証券会社はそのような情報を持っているのですが、特定のお客様にしか
出さないのです。そのことが、証券不祥事の温床になったと私は考えています。
しかし我々はそうではなくて、情報はインターネットで公平に出していこうと考
えました。インターネットというのは、開かれた世界なのです。分析は投資家に任
せます。そのための素材をどんどん提供するということです。……・。我
々は何も加工しません。もちろんネガティブなマイナスの情報も、そのまま出して
います。(依田太)

杉山勝行『インターネットで稼ぐ!』



                ロッキィーズ物語

・渓流地での合宿

毎年、8月の第一金曜・土曜・日曜日はロッキィーズ恒例の野球合宿、伊豆の渓
流地での野球漬け。少年が2、30人、コーチ達が5、6人、お母さん方が2、3
人のバスを仕立ててのキャンプ。母親と離れて寝るのは初めての経験で、少年たち
は毎度興奮。お母さん方も興奮。
とは言え、宿からの山道を歩いて浄連の滝めぐり、キャンプ場でのマスの手掴み、
少年たちの手足をコーチが掴んで川へ放り投げての遊泳、堰下の滝打たれの座禅、
早朝の山道の散歩等々、3日間の衣食住一緒の生活を通じてチームは一丸となる。



 (2)基金問題のインパクト
イ.積立不足か、コントリュービューション・ホリディか
2000年の今年は、日本の経済・社会、とくに年金問題、更にその中でも厚生年金基金に関係する方面でエキサィティングなことが多発し、或いは驚天動地な改革が起きるのではないでしょうか、おもしろくなるぞ! と、新年を迎えて考えたものです。
平成11年度の厚生年金基金の資産運用は、大半の基金で30年来の2ケタのハイリターン(欧米の基金では長年2ケタの実績がある)となり、積立不足故の代行返上の悲鳴はか細くなり、一転して現行日本では規制されているコントリュービーション・ホリディ(掛金拠出の中断)の規制撤廃が緊急な課題として浮上してきています。このような資産運用の好調さは、一に日本の株式市場の好調さに拠るが、平成9年12月に実施された5.3.3.2規制の撤廃も効果絶大でした。この点では、厚生省の<遅延した英断>ではありますが、規制撤廃に喝采を送りたいものです。

何がユニバースかといったら、単一の原理に支配された世界じゃなくて、じつは
さまざまな差異性がインタラクトする世界だということで、そういう場においてし
かヒューマニティはありえないと思う。

岩井克人『資本主義を語る』


今後は、規制撤廃の効果をフルに活用できる場面に変わったのですから、残る問題は為替の安定と外貨建て資産の運用さえ効率的に行える業者さえ確保(マネージャー・セレクション)出来れば、継続的に或る程度の収益は稼げるようになってきました。この好調さがしばらく持続してくれれば積立不足金の問題は無くなるでありましょうし、コントリュービューション・ホリディ等も法律改正が現実のものになるでありましょう。更に一段進むと、大半の確定給付型の厚生年金基金で母体企業の株主資本より基金の年金積立金の方が大きくなるという事態も現実になるでありましょう。ドラッカーの言う「見えざる革命」が日本でも愈々本格化しつつあるということでしょう。そうした場合、積み上がる資本は何を求めるようになるでしょうか。


……委員会(SEC企業買収諮問委員会)は表現をいっそう徹底させた。「企
業買収……が行われることは認められるべきである。この理由により、当委員会
は政府が企業買収についてその促進、抑制、あるいは功罪の判定を行うべきではな
いと信ずる」
こうして生まれたのが、企業買収についての基本的に道徳を排除した経済イデオ
ロギーで、ウォール街の一部の有力金融業者が明文化し、ウォール街の企業がその
政治力と金融力にかけて守ろうとした考えだった。その中心原則は、何が正しくて
何が間違いか、企業買収は是か否かは誰にもわからないという見解だった。

D.A.バイス/S.コル『ウォール街から来た男』


ロ.<人様のお金>が要請する効率市場
<人様のお金>を効率的に運用したいという基金の希望はシンプルです。不幸なことにこのシンプルさを達成することが従来拒まれていたのです。そこで、基金が要請しますというより、<人様のお金>が要請する効率市場をどう確保・確立して行くかが問われることになりましょう。始めに、過去に何度か行われた市場操作(PKO)に代表される大蔵省・通産省の産業資本移転は日本経済にとって無用になっているという認識が必要、今になっては余計なお世話ですし機能しなくなっているということは白日の下に晒されています。


厚生省が1970年代前半に社会保障制度を拡大したとき、将来の給付は実質経
済成長率を使って予想したが、社会保障基金からの収益率には国債の名目利回りを
使った。このため物価の変動が加味されず、必要な社会保険料が過小に推定されて
しまい、その後何回となく保険料を引き上げざるを得なくなった。
これは経済学的思考のうち足し算ができなかった好例で、厚生省に経済学をきち
んと習得した人がいれば避けられた間違いだ。

林文夫「磨こう 経済学的な思考力」
2000/3/31・日本経済新聞:経済教室


次に、企業サイドには日本独特の資本主義(本来の株主がいない法人資本主義)の改造が必要、とはいえこれは現在、<平成の黒船>である国際会計基準への対応で海外から強要されてはいますが。この対応である含み益経営のキャッシュ・フロー経営化、株式持ち合いの解消、退職金の後払い賃金説の導入、EVA等の企業評価指標による株式価値算定等々の大波が各企業を襲っていますが、これは逆に言えば、これらの種々な手法の逆の手法で大幅な市場操作(PKO)を産業資本配分の大義で政治・司法を巻き込んで大蔵省・通産省は行ってきたということです。これが日本の統制・計画経済、日本型資本主義の実態であったのでしょう。そこには、資本の論理を全面的に制御・懐柔しようというマルクス主義的なロジックが仕掛けられていたということでしょう。ここでは、<人様のお金>という個人の金は国家目的に、更に日本独特な企業経営の文脈(For the Kaisha)に没収されていたのです。この意味では、日本は崩壊しましたソ連以上に成功しました(?)共産主義国でしたのでしょう。国の復興、礎の確立をなし得て、世界一の債権国、つまりストックの積み上げを果たしたのですから世界で唯一共産主義の成功例ということです。その点では、中国にすら勝っているでありましょう。しかし、成功しました共産主義とは言え、孤立したこの世界は現実に立ち行かなくなっているのです。
次に、行政サイドの規制の網、特に5.3.3.2規制に代表される資産運用に対するそれは失われた損失を考えると気の遠くなる程であります。幸い、最近これはほとんど撤廃されました。さらに、資産運用機関にはお上の方を向くことなくエンド・ユーザーに向いた質の高いサービスの提供を負託されるでありましょう。敵対的な「契約」的経営から負託に応じる「信認」的経営への移行を期待したいものです。そこでは、一定限度以上の株式取得により持ち合い株を滞留させ流動性を阻害するなどということは考えられません。基金は、そういう手段になる恐れのある資金を信託銀行や生命保険会社へ資産運用とは言え提供してはなりません。基金は、委託先が無くなってしまいますなどというぬるま湯感覚を脱却し新しい運用機関を探すことになりましょう。お任せ運用の無責任体質はこういうところに本質的な問題を秘匿しているのです。それこそ、基金の受託者責任を果たせなくなるのではないでしょうか。そういう運用機関が残存するのであれば、それこそ議決権行使の対象でしょう、あるいはそういう運用機関は使うに足りないということでありましょう。そのような運用機関の解約、撤退、シェアの削減、限定使用等々、基金の選別が始まっています。つまり、効率市場を阻害する運用機関に資金委託するなどということは考えられなくなってきているのです。そのような運用機関をターゲットにした基金の戦略というのが現実に動き始めていますが、個々の基金の力は未だ運用機関にとっては脅威とまでは認識されていないようです。
要するに、<人様のお金>が市場の流動性を確保しつつ効率市場を達成するという至難なことを日本市場へ強制することになります。政府も行政も市場も<人様のお金>をエンド・ユーザーとしました高品質のサービスの提供が求められるということです。それをなし得ないのであれば、<人様のお金>のパワーが政府・行政・市場にレッド・カードを突き付けることになりましょう。


機能的金融(対立概念は制度的金融)は、金融商品を媒介にして世界の中でのリ
スクの最適配分をするだけでなく、その最適性が十分でないときには新しい商品の
発生や制度の変更を促す。これを不完備制度の完備化プロセスとみる。ベンチャー
企業の資本市場である「マザーズ」「日本ナスダック」創設などもこのプロセスの
例であると見る。

刈屋武昭『金融工学とは何か』―「リスク」から考える


ハ.受託者責任が再構築する
受託者責任の理念が<人様のお金>のパワーを担保するインフラストラクチャーとして、時間がかかるかも知れませんが行政手法や市場整備や金融機関経営にインパクトを与え、強いては日本の経済・社会インフラストラクチャーの再構築を推進するエンジンとなるでしょう。


ロッキィーズ物語

・走れ、走れ!

ピッチャー育成のKコーチの指導法はシンプルに、ただ「走れ、走れ!」だけで、
中々ボールを握らせない。
4年生のとき、グランドに現れた大柄な少年Mは、落ちているボールが拾えない
ほど太っていたが、Kコーチの英才教育で6年生の時には、<豹のような走り>を
するピッチャーに成長した。

<人様のお金>は、過去30年にわたって日本独特の資本主義によって日の目を見ることもなく、企業から島流しにされた厚生年金基金事務所にひっそりと積立不足を抱えながら蓄積されてきました。おいおい積み上がってきたその資産は、再々企業からは<自分たちの金>扱いされてきましたし、それに抵抗する基金関係者の意識を会社人間は異端視してきましたのが現実です。この間の基金関係者の状況を何と言ったらよいのでしょう。これに関して、基金業務ⅠA型の運営についてではありますが、或る大企業基金の事務長が最近Eメールで次のように書いてきました。実務経験者として筆者もまったく同感です。

「10年間孤独状態の中で情報の収集を行い正確な事業運営を行い
加入員・受給者に対して生活の「安心」をバックアップすること
の困難さは経験した者以外は分かりません。」

「孤独」というのか、企業と基金の世界観の違い、<自分たちの金>と<人様のお金>の対立の背景に、共産主義と自由主義のそれ、大陸法と英米法のそれなどという総論的なフレーム・ワークは別にしても、圧倒的な企業論理席巻の戦後日本の土壌で基金関係者が押し込められた事実は最近まで続いてきました。 統制・計画的共産主義と化した戦後の日本資本主義には<人様のお金>の存在できる領域はなく、わずかに企業とは別世界の基金事務所で様々なリスクに晒されつつ細々と生きながらえるしか出来なかったのです。
しかし、時代は動くもの。強固な形態を誇ってきました日本の資本主義も一応の達成を果たしたところで、内部から崩壊するに至ったのであり、それはこの度の国際会計基準により決定的になり、崩壊の度合いを一層早めている段階にあると言えるでしょう。その典型的な現象が、2000年3月期、積立不足が60兆円と言われる退職給付債務計上のために赤字決算会社の続出という事態を招いていることに現れています。(平成12年3月22日・日経金融新聞・スクランブル・磯山友幸) 
 これらの背後にある時代の趨勢は、「フロー成長重視の産業社会からストック・マネジメント重視の年金社会への移行」(井手正介)という時代の大きな変化の波でしょう。そこでのキイタームは下記のように図式化出来るでありましょう。




とはいえ、これらは完全に二分したものとして考えるべきではなく、融合競合した状態として考えるべきものでしょうし、時代の要請はその中にこそ次の時代を切り開くエネルギーを創り出そうとするのです。一方のみの力学の場合、それは例えば裁量行政で示されました視野狭窄の直線論理のようなものであり、経験不足な童子のような振る舞いであるということになりましょう。時代の状況は、価値の多様化に伴い、様々なムーブメントが複雑に乱れ飛び、2、3年で配置転換するゼネラリストには対応出来ない様態、つまり、なかなか落着しないアメーバー状の動乱なのです。当面の効率は求めようもなく、短期の評価は成立しえません。切磋琢磨の試行錯誤が時代の要請であり、むしろ効率というものは本来じっくり総合的に発揮されてこそその本質を明らかにするのでしょう。
このような多様・多面的な編成替えの時代になって、<人様のお金>を担保するインフラストラクチャーとして「受託者責任」の概念が大きな力となるでしょうし、それが日本社会のフレーム・ワークを再構築することになることを先に述べましたが、これを更に担保するのが、法理概念としての「契約」から「契約ー信認」をべースとする法理への変更ですと主張する論者(T.フランケル、岩井克人、樋口範雄等)が現れてきています。この日本において、新しい市民社会の構築に向けて議論が始まったばかりです。

ある人間関係が、現実の社会において、自己責任原理ではなく、社会的にみて有
益な依存関係として把握した方がよいとの法制策的判断が行われると、従来は契約
法理で規律していた関係が信認法に服するようになる。

樋口範雄『フィデュシャリー[信認]の時代』



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