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【異文化交流クイズ】【4-5問題】クララの見た等身大の福沢諭吉とおかしな英語

2021-03-13 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第5回は、現代では歴史の教科書や歴史小説にも登場している人々の、クララ視点からの赤裸々な記録を。意外な人物像が見えてきます。
まず前提条件としてクララの価値観の基準を説明しておきましょう。
彼女の人格形成に一番影響を与えているのは、自身も日本での伝道を志す意味で、夫の来日を後押しした彼女の母アンナ。
もっともアンナは元々伝道を志していたのではなく、それどころか近代の欧米人に時折見られる厭世的思想の持ち主でした。
それが変わるきっかけを作ったのはクララの父のアメリカにあった学校に、日本人として初めて留学してきた富田鉄之助(後の第二代日銀総裁。サードシーズンで紹介した川田小一郎の前任者)との出会い。
アンナから英語を教わる過程で、富田は聖書を読んで欲しいと懇願し、それをきっかけにアンナは伝道を志すことになります。
そして彼女の伝道の意志と日本贔屓は生涯を通じて変わらず、その生涯を日本で終えた後、青山墓地に埋葬されることになったアメリカ人の第一号となります。
こんな筋金入りの母親の影響を受けたためクララの価値観の最上位に来るのは神の教えであり、嫌悪を見せるのは宗教上の戒律違反、そしてその人物が「誠実であるか否か」となってきます。
日記を通じて最も素晴らしい人物、理想の人物として描かれているのは、やはり勝海舟。実際それだけの支援を受けているわけですが海舟に関しては、本当に聖人に準ずるような尊敬の念が日記の端々から伝わってきます、ただ「一点」宗教上の戒律違反についてだけを除けば。そしてそれは後に彼女自身もまた……。
逆にもう、毀誉褒貶が激し過ぎるのが森有礼。このシリーズの最初に紹介したように、来日当初はその経緯から徹底的に罵倒しまくった割に、森家に英語を教えるために何度も通ったり、奥さんや甥っ子の少年とは仲が良かったり、有礼から家の世話をして貰ったり、前回の回答編でも書いたようにクララ一家がイギリスに渡った時には、駐英公使として赴任していた森夫妻が出迎えて歓待したり、と要するに基本的に森有礼は悪い人ではないと判ってはいるのでしょうけれど、有礼は自分一人で処理できない事態に直面すると、責任感も何もなく放り出してしまうところが激しく気に入らなかった模様です。
次に頻繁に登場するのは大鳥圭介。榎本武揚とともに五稜郭に立て籠もり、最後まで明治政府と戦った男として有名ですが、その函館でも土方歳三と対立し、しかも明治政府への降伏を比較的あっさり決断したことで新撰組ファンからは罵倒され(実際主戦派の癖に戦下手)、後に駐清国特命全権公使兼朝鮮公使を兼任して、日清戦争の引き金を引いた側面があるため、更に「別方面」からの攻撃もあったり、と物凄く激動の人生を送った割に現在では歴史マニアくらいしか知られていない人物ですが、クララの日記を読む限り、そんなことは一切感じられません。しょっちゅう娘を連れてクララの家にやってきて、とりわけパーティーやイベント(前回の気球イベント等)がある時は必ず顔を出して大はしゃぎ。かなりの愛妻家でもあったようですし、人間、経歴だけでは全然判らない、という見本そのもののような人物です。
他にも同志社の創設者の新島襄と伝道について語り合ったり、津田梅子の父である津田仙とはしょっちゅうピクニックに行っていたり、陽気で明るい後の陸軍元帥大山巌と楽しく語り合ったり、これはずっと後のことになりますが、遂には天皇陛下との謁見の場に招かれたり、といちいち上げるとキリがないのでここら辺でやめておきますが、明治政府の中枢&当時の伝道関係者&大学設立関係者がこれでもか、というほどに登場し、逆にクララが直接会ったことのない明治政府の高官の方が少ないくらいです。敢えて云えば、伊藤博文、山県有朋などの長州系の人物とは殆ど縁がないくらいでしょうか?
さて、ここからが予告通りの本番。
クララの日記において、福沢諭吉は首尾一貫として『親切であり、立派な人物であり、尊敬すべき人物だ』と繰り返し記されています。
ですが、どうにもユーモアのセンスには欠けていたようで、アメリカの片田舎出身のクララでさえ、あまり面白味のある人物には映らなかったようです。
しかしユーモアと云えば、クララと話している時の福沢自身がユーモアそのものだったり。
以下、クララの書き記した福沢の英語力の一端。
『ミスター桐山イズほんとにカインドマンけれども、ヒイイズ大層ビジイ、この節、イエス』
当時――どころか明治以降の日本で最高の知識人の一人と思われる福沢の英語力がこの程度だと分かると、英語が出来なくても生きる希望さえ湧いてくる気さえしますw。
クララ自身も「福沢先生は英語と日本語をやたらに交ぜて奇妙な話し方をされるので、何を云っておられるのか分かりにくい」とハッキリと書き記しています。
しかし明治も10年以上経過している段階でこの程度の英語力だったということは、幕府の通訳として欧米訪問した際、どうやって現地人とコミュニケーションを取ったのか、激しく疑問に思ってしまう訳ですが。
――きっと上みたいな日本語英語混交言葉で、気合いだけで押し切ったんだろうなあ(笑)。
ちなみに福沢の有名な逸話に「アメリカ訪問の際、初代大統領ワシントンの子孫が、現在ではただの一般庶民であることに驚く」というのがありますが、クララの日記にはその友人として「その当のワシントン直系」の子孫アニー・ワシントンが頻繁に登場し、流石のクララも彼女には敬意を払っていたりします。
日本には明治9年にやってきて、東京女学校で教師をしていた関係で当然福沢とも面識があったようで、不思議な縁と云えば不思議な縁なのでしょう。
さて、そんな福沢に関してから今回のクエスチョン。
クララは福沢を評して『彼には哲学的閃きがあって、下手な○○○○よりも役立つ』などと、本当に尊敬しているんだか、実は含むところがあるのかw、微妙な論評を書き残していますが、この『○○○○』に入る言葉は一体なんでしょう? 
一応漢字で4文字ですが、同様の意味の漢字2文字でも今回は正解、ということで。ヒントとしては、一応ちゃんと「知識人としての」褒め言葉にはなってますw。

【異文化交流クイズ】【4-4回答】徳川家達がクララの家までやってきて見学した海軍省主催の「ある実験」とは一体なに?

2021-03-12 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第4回は、明治10年5月23日、徳川宗家を嗣いだ家達がクララの家までやってきて見学した海軍省主催の「ある実験」とは一体なんだったでしょう? という問題でした。
今回の正解は・・・『(軽)気球の上昇試験』でした。風の強くない佐賀県では毎年世界大会が開かれていますね<気球。
これは元々西南戦争において官軍と熊本城内との連絡に使うために海軍兵学校が命じ、日本人のみの手で制作した最初の軍用気球で、水素ガス入り、炭素ガス入り、アルコール入りの三種が実験された模様。当時は錦絵に描かれる程、話題になったようです。手元にその錦絵が載った本がありますけれど、なかなか雄大に描かれてます。
さて、クララと家達のその後をざっと。
この後も頻繁にクララの家に遊びに来ていた徳川家達ですが、同年のうちにイギリスに留学することに。その際にも別れの挨拶をわざわざ云いに来る程の親密振りなのですが、二人の縁はいま暫し続き、後にクララ一家がロンドン経由でアメリカに渡る際に再会を果たし、家達はこの際、森有礼夫妻と共に倫敦郊外のクリスタルパレスでのコンサートにクララ一家を招待したりしています。
5年後に帰国した家達は、華族令の発布と共に最高位の公爵となり、明治23年には貴族院議員、そして明治36年から昭和8年まで、30年にもわたり貴族院議長を務めます。
元旗本らによる開拓事業にも心を砕き、これを支援したこともあって、一族や譜代大名や旧旗本からは「16代さま」と慕われ、議長歴の長さからも、彼が『出来た人物』だったことの傍証となりますが、実は大正最大の疑獄シーメンス事件のゴタゴタの際には、家達さえ首を縦に振れば総理大臣に、という事態まで行ったようです。もっともこれは「徳川一族の総意」として否定され、残念ながら実現しませんでしたけれど。
更に大正10年のワシントン軍縮会議にも全権大使となっていますが、裏読みすると、既に暴走気味だった軍部を抑えるための象徴、という意味あいもあったようです。
この他にも戦前開催予定だった東京五輪招致委員会委員長、国際オリンピック委員会委員、日本赤十字社社長も勤め、それだけのネームバリューと人柄の良さが家達にはあった、ということですね。
・・・13歳の頃には屋敷内で近道をしようとして塀に跨っているところを家臣たちに止められたり、クララの家でベットの上で跳ね回って軋む音を面白がったり、子供用のボンネット――しかもピンクの!――を頭に被って遊んでいたのにw。
歴史上の人物の意外な側面が見られるこのシリーズ、まだまだ続きます。次回は「等身大の福沢諭吉とおかしな英語」ネタを。

【異文化交流クイズ】【4-4問題】慶喜の跡を継いだ徳川16代宗家、徳川家達とクララ嬢の奇妙な縁

2021-03-11 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第4回は、慶喜の跡を継いだ徳川16代宗家、徳川家達とクララ嬢の奇妙な縁を。
前回の問題でクララが明治10年の正月に勝家を訪れた際について書きましたが、それを遡ること一週間前の12月25日。ホイットニー家で開かれたクリスマスパーティーには、前年の海舟、福沢諭吉、大鳥圭介らを凌ぐ驚くべき人物がゲストとしてやってきます。
彼の名前は徳川家達。慶喜に代わり、明治の世となってから第16代徳川宗家を継いだ人物であり、後に貴族院議長も勤め、日本史の教科書にもワシントン軍縮会議の全権代表として名前が記されています。
もっとも慶喜の跡継ぎと云っても慶喜の実子ではなく、元は御三卿田安家当主であり、しかも宗家を継いだ明治維新時にはまだ6歳の時。しかもその直後に慶喜と同様に静岡に送られ、しかし廃藩置県のあおりで再び東京へと戻っていきます。
ですのでクララの屋敷にやってきた頃は、満の年齢で云えば弱冠13歳。クララの日記によればこんな感じの登場でした。
『それから今宵の花形、つまり徳川家の若殿が三人の従者を連れて、自家用人力車で静かに入ってこられた。14か15歳だが、非常に威厳のある風采の方で、とても色が黒く、濃い赤みがかった鷲鼻、細い眼、小さい弓形の口をしておられる。背と胸に、聖なる徳川家の紋がついていた。アメリカでは大君と呼ばれている方だ』
勿論他の日本人達は興味はあるので隠れ見たり畏れ多くてなかなかうち解けられないわけですが、その点クララは全く物怖じしません。
『私は将軍と握手をし、脇に座って絵をお見せしたが、畏敬の念など一つも起きなかった。事実、この若殿を護ってあげているような気さえした!』と、殆ど弟扱い。
家達自身もそんなクララが気に入ったのか、翌明治10年2月17日、クララとその母親を赤坂の屋敷に招くことになります。
巷間では明治に入ってすぐの徳川家はかなり困窮していたように描かれていますが、流石は腐っても徳川宗家。長い塀にどっしりした門構え、五十段ばかりの石段、物々しい護衛、立派な部屋。床に敷かれたブリュッセル絨毯。部屋の隅々に置かれた立派な屏風と、最低限の格式は備えていたようです。
しかも屋敷裏には何故かクローケーの競技場があったりしました。クローケーというのはイギリス発祥のスポーツで、ルールとしては「芝生の上で木槌で木製のボールを打ち、鉄の門を通し、相手のボールを追いのけながらゴールのポールにあてる」というもの。一番イメージしやすく云えば、ゲートボールの原型ですね(ゲートボールは日本生まれ)。
クララも家達と一緒に、このクローケーや、ルールが判りませんが「ロト」というゲームで遊ぶのですが、その何れも家達が勝利を収めています。
流石にクララも疑わしく思ったらしく『……どうしていつも勝つのかしら?』というひどく素朴な、しかし「オトナの事情」が判っているんだか、判っていないんだかw感想を書き記しています。・・・こういうのを本当の『忖度』と云うのですよw。
さてそれ以来、しばしばクララの家に来るようになった家達ですが同年の5月23日、クララの家のある木挽町周辺で、海軍省主催の「ある実験」が行われ、それがクララの家の露台から会場の広場がよく見えると云うことで、クララの家に再びやってきます。
随員は海舟、大鳥圭介、大久保三郎(大久保一翁の息子)と、面子だけ見ると殆ど「江戸幕府復活」。しかもそれが「一商学校のお雇い外国人の家」に集まっている、というのだから、この時代の面白さを感ぜずにはいられません。
さて、ここで今回のクエスチョン。岩倉具視や寺島宗則、松方正義まで出席して行われた、この日の「海軍省の実験」とは一体なんだったでしょう?
ヒントとしては、現在同じイベントをやったとしてもそれなりに人が集まる見せ物ですね。実際にスポーツとしても存在していて、日本だとそのメッカは佐賀県でしょうか?

【異文化交流クイズ】【4-3回答】勝家での正月に出された「三方」に載せられていた縁起物は?

2021-03-10 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第3回はクララ嬢の勝家訪問記からの出題で「勝家での正月に出された「三方」に載せられていた縁起物とは何だったでしょうか?」という問題でした。
選択肢に挙げた干し魚、串柿、伊勢エビ、だいだい、かち栗は全て三方に載せられることがある物ばかり。
串柿(干し柿)は「幸福をしっかりとり込む」、伊勢えびは「腰が曲がるほど長寿を願う」、だいだいは「家系が代々繁栄する」等々の意味合いで、つまり「縁起物」ばかりですね。
そもそも正月の三方のメインである鏡餅自体が、一般的には「生命力をもたらすもの」という意味合いの縁起物てあり、それを新年にあたり神様への供え物とする、というのがこの儀式の肝です。
民俗学「系」の本や漫画を読むと「鏡餅の姿は、蜷局を巻く蛇であり、これは古代では蛇が生命力の象徴だったためだ」と断言していますが、実際はこれは「異説」みたいな扱いのようです。
で、横道に逸れましたが、様々な縁起物が乗る「三方」ですが、勝家の「三方」に乗っていたのは……『干し魚』でした。
ただ寡聞にして「干し魚」を縁起物にする地域は知らないのですけれど・・・クララが見た干した魚とは一体なんだったんでしょう? 
さて本題に戻りますが。
クララの克明な日記のお陰で、明治10年前後の勝家の客観的な様子が今日でもよく分かるわけですが、知識としては知っていても実際読んでみると不思議なのは勝家の気前の良さ。
この正月のプレゼントはささやかなものですが、ホイットニー家の来日当初、それこそ「一面識もない時点」でポンと商法講習所の設立に大金を寄付したり、後には屋敷の邸宅内に家まで提供し等々トータルすれば最低でも数百円単位で援助しているのです。当時の金額の数百円ですから半端な額ではありません。
元々「海舟は零落した幕臣がやってくると金を融通していた」というエピソードでも有名ですし、江戸幕府の記録を編纂し、歴史学的に見ると後世に多大な貢献しているわけですが、これらの資金源は何処だったのか? 海軍卿の給料や明治政府の顧問料、ましてや書代や著述料がそれほど高額だったとは思えないですのですが・・・と昔このクイズを元のブログで出題した当時は分からなかったのですが、各種資料を総合するとどうやら静岡の徳川宗家から一定額が海舟にわたっており、海舟経由で元の幕臣たちに融通されていたようです。
「徳川宗家から旧の幕臣たちに資金を融通している」などと知られれば、明治政府から睨まれることは必至だったので海舟経由で渡していたのでしょう。

【異文化交流クイズ】【4-3問題】クララの勝海舟邸訪問記録から分かる明治の勝家の実態

2021-03-09 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第3回は、クララの勝家訪問記をメインに。
明治9年11月3日。この日は明治天皇の誕生日と云うことで祝日。その祝日を利用してクララは勝家を訪れますが、その前に手土産を買うべくまず銀座に向かいます。
銀座に建ち並ぶ建物のどの窓からも日の丸の旗が林立し、とても華やいだ光景であることが記されています。明治も9年になると、ごく自然に天皇誕生日を祝うようになっているのがこの記述だけでも分かります。
この日、クララを出迎えたのは逸子と海舟の妻のたみ。
たみ夫人は海舟メインの歴史小説や時代劇だと「気っ風のいいおかみさん」風に描かれることが通例ですが(元は芸者というのは創作)、クララの日記を読んでいても実に江戸っ子らしい、さっぱりした、かつユーモアのセンスもあった人物だと判ります。
この日もクララが被ってきた赤い花と黒のビロードの帽子を被って、おちゃらけたりしていますし、この他にもチラリと垣間見えるエピソードからも「なるほど、こういった人でなければ幕末維新期、命を狙われ続けた海舟の奥さんなんて勤まらなかったのだろう」と思わず納得させられます。
さてこの日のメインイベントは「クララとお逸の服交換」。クララがお逸の着物を、お逸がクララの洋服を着て一日を過ごす、と云うもので、女の子は洋の東西、時代の先後を問わずに、この手のイベントが大好きだったということが分かります。
お逸は特に楽しんだ様子でクララが帯を結ぶにも「これが京都風」「これが長崎風」と解説まで付いてきます。
この日の昼食は貝の吸い物、魚、海草、西洋わさびと御飯、と云うごくありふれたものでしたが、現在と違っているのは「一人分の食事がめいめい小さな丸い盆」に載せられている点。これは勝家だからと云うわけではなく、江戸の庶民も同じでした。つまり卓袱台に、全員分の食事のオカズを盛って、という現在の一般的な食事方法は明治中盤以降の習慣だったりするわけです。
食後は現在も細々とながら生き残っている「扇落とし」を。意外と雅なルールがあることも解説され、目から鱗だったりもします。その後は羽子板遊びなども続き(途中からたみ夫人が乱入し、素晴らしい腕前を披露したりするのがお茶目)、今では正月限定の珍しい遊びも、まだまだこの頃にはごく普通の日常の遊びだったことが判ります。
この後は夕食も一緒に食べ、雨のような挨拶と手土産を持たされて帰宅、とごくごく平凡ながらも楽しい一日が描かれています。
こういう「ごく当たり前の日常の一コマ」というのは、当時の日本人としては取り立てて記録して保存するものでもなかったため、かえって外国人の、しかもアメリカ少女の日常の視点からの記録は非常に貴重なものです。
そんな具合でクララは勝家に出入りするようになったのですが、翌明治10年の正月、勝家を訪れた際の記録も残されています。
母親と新年の挨拶に訪れたクララに、海舟は銀の香水箱や水晶のペンダントなどを贈られたりしていますが、この時クララは「三方」が飾られるのを目撃しています。
神様へのお供え物、という意味あいのこの風習も戦前はごく普通でしたが、現在はめっきり少なくなりました。残っていても鏡餅を据えるくらいでしょう。
さて、ここで今回のクエスチョン。
「三方」には縁起物を載せるのが一般的ですが、地域によってバラバラだったりもします。さてこの勝家の場合、一体何が三方に載っていたでしょうか? 
次の中からお選びください。
1.干し魚。2.串柿。3.伊勢エビ。4.だいだい。5.かち栗。

【異文化交流クイズ】【4-2回答】クララが勝家のお嬢さん達に『kittens(子猫)』と名付け興に入った理由は?

2021-03-08 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第2回は「クララは勝家のお嬢さん達に『kittens(子猫)』と名付け興に入っていますが、この愛称は如何なる由来のものでしょうか?」という問題でした。
今回の回答は・・・『勝とcatsをかけた』でした。
まず『kittens』という単語自体に「おてんば娘、気まぐれ娘」という意味があるわけですが、クララがこの呼び名を思いついた理由は、苗字が「勝」→発音は「カッツ」→同音の英単語が「cats」→勝家の娘だから「子cats」→『kittens(子猫)』という流れになるわけです。
クララは作家志望だったことが日記の随所に出てきますので、こうした文字遊びも当初は好きだった模様です。
次回はクララの勝家訪問の様子を。

【異文化交流クイズ】【4-2問題】言葉の壁を越えた百合チックwな友情

2021-03-07 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、フォースシーズン「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第2回。今回は言葉の壁を越えた百合チックwな友情をクローズアップ。
前回説明した通り、勝海舟の援助で辛うじて父の職を確保したホイットニー家。
ちなみに海舟はクララ達の来日3年前の明治5年に静岡から帰京し、氷川町四番地の通称「氷川屋敷」に住むようになっていました(ちなみにクララ一家来日当時は53歳とまだまだ若い年齢)。この氷川屋敷に通うようになったクララは勝家の人々と急速に親しくなっていきます。
海舟の妻たみ、既に他家に嫁に行っていた長女ゆめ、次女孝子、アナポリス海軍兵学校に留学していた小鹿などですが、とりわけ彼女の人生に大きく関わってくるのは三女で、クララと同い年であり、無二の親友となる逸子、そして海舟の三男で四歳年下の梅太郎です。但しこの梅太郎、正妻たみの子ではなく、海舟の長崎時代の愛人であり、早逝した「くま」との子供であり、クララが梅太郎から直接この事実を知らされるのは、ずっと後のことです。
クララは初対面の時から逸子には好意を持ったようで日記には次のように記しています。
『末のお嬢さん(逸子)は本当に綺麗で、18歳と云うがとても若く見える(注.数え年なので実はクララと同じ16歳な上に誕生日も近いと判明)。真っ黒な眼、やや上を向いた鼻、半月形の眉、赤い唇、真珠のような歯、そして薔薇色の丸顔にお化粧をしていた』
あっという間に親友となったクララと逸子ですが、二人が初めて出会った頃から既に逸子には複数の縁談の話(主に旧大名家から)が舞い込んでいたのですがクララはそれに対してこんなことを書いています。
『雄々しい侍が誰も、お逸と結婚しに現れることのないように望むのみである』
『結婚などはしていけない! もしできたらアメリカに連れて帰りたい!』
この逸子自身、随分お転婆な娘さんだったらしく「屋敷内で海舟の馬に乗って庭を散歩していたら突然馬が疾走を始め、通りにまで出て暴走」なんてエピソードもあったり、一緒にカップケーキ作りをしていて、逸子が指についたバターを拭き取りながら「カーッ」と叫んだりとか、汽車内で喫煙する人々を見つつ「お逸に煙草を吸うかと聞くと、お逸は『まだ』と答えた」なんて切り返しがあったりと、日記には二人の親密振りが綴られています。
ちなみに二人とも当初は互いの言葉を理解しているわけではないので、女の子の友情と云うのは言葉の壁を簡単に越えるんだな、とそういう意味でも読んでいて微笑ましく思えたりします。
さて、ここで今回のクエスチョン。クララの日記を読む限り、クララと逸子が初めて出会ったと思われるのは明治8年のクリスマスイブ。
木挽町のクララの自宅で行われたパーティーであり、このパーティーには福沢諭吉や大鳥圭介、箕作秋坪なども参加し、個人宅に日本人・外国人を問わず招いて開かれた、当時の日本としては非常に珍しいクリスマスパーティーだということで、新聞にも取り上げられています。
この際、クララは勝家のお嬢さん(次女の孝子と逸子)達に「kittens(子猫)」と名付けて興に入っていますが、さて、クララは何故この愛称を思いついたのでしょう? 
ヒントとしては、落語的と云うか、駄洒落と云うべきか、そんな感じです(笑)。

【異文化交流クイズ】【4-1回答】14歳のアメリカ人少女の父が(実質的な)所長を務めることになった商法講習所の現在の名前は?

2021-03-06 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。新シリーズ「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花」第1回の問題は『今シリーズの主人公あるクララ・ホイットニーの父親ウイリアムが(実質的な)初代所長を勤めた商法講習所は、現在何大学となっているでしょうか?』という問題でした。
今回の正解は・・・『一橋大学』でした。
但し「今日の一般的な一橋大学の設立経緯」としては「森有礼が渋沢栄一の協力を得て設立した」とされており、何故かクララの日記で記された勝海舟の資金援助には触れられていません。詳細は少しだけ後述しますが、実は商法講習所から東京商業学校、そして一橋大学に至るまでは波瀾万丈の展開があり、先程から何故『(実質的な)初代所長』などという変な書き方をしているかと云えば、クララの父は所長として迎えるという約束で招聘された筈ですが、正式には所長になっていないからです。
実際「現在の一橋大学」の見解によると初代所長は矢野二郎という人物とされており、そしてこの矢野二郎という人物の「実際の人となり」については、クララの日記に何度も繰り返して登場しています。
具体的エピソードは長くなるので簡潔に説明すると、要はこの矢野二郎、クララの父親をいびり倒して最終的に商法講習所を追放して実権を握ってしまった人物なのです。
それに対して勝海舟が激怒。商法講習所設立のために出資した資金を引き揚げ、その一部をクララ一家の生活支援に当てたことがクララの日記に記されており、要するにこういう事情のため今日では「一橋大学を設立したのは渋沢栄一」ということになっているようです。
なおこの矢野二郎、その後何度も訪れた廃校の危機を乗り越えるために私財を投げ出しており、そこは美談として描かれることもあるようですが、大学の私物化を年々強め、最終的には誰一人諫めることができないとんでもない独裁者と化し、そのあまりの横暴ぶりに遂に堪忍袋の尾を切らした教員・学生たちに追放されることになります・・・がそれはずっと後のお話。
ちなみにこの商法講習所、最初の仮説校舎の場所が凄くて、銀座尾張町二丁目の「鯛みそ屋の二階」というトンデモなさでしたw。もっともこの場所は現在だと銀座松坂屋のある場所であり、現在の感覚で云えば立地として悪くはなかったのですが、初期の銀座も当時の人々には随分評判の悪い町であり・・・というのはまた別の機会に解説予定。

【異文化交流クイズ】【4-1問題】14歳のアメリカ人少女の見た明治開花期

2021-03-05 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。本日から始まるフォースシーズンのテーマは「14歳のアメリカ人少女の見た明治開花期」。
タイトル通り、14歳で家族とともに日本にやって来たアメリカ人少女が残した日記からの出題となります。
彼女の名前はクララ・ホイットニー。明治8年、彼女が家族と共に日本にやってきた時には、まだ15歳にもなっていませんでした
このホイットニー一家(父・母・兄・クララ・妹)が家族ごと日本にやってくるきっかけを作ったのは、薩摩藩出身の森有礼。森は外国との通商を増加させるためには、欧米の商法・簿記を教える学校が必要であると考え、知り合いの言語学者ウイリアム・ドワイト・ホイットニーに相談。その結果、彼の従兄弟に当たるクララの父、ウイリアム・コグスウェル・ホイットニー(なんと従弟なのに同名)が、東京に開設予定の商法学校(商法講習所)の所長兼教師として招聘されることになります。
もっとも招聘しておきながらこの商法講習所の開設は遅々として進みません。実は来日前に運営していた学校が潰れ、半ば破産状態だったとされるホイットニー家は、忽ち経済的に破綻します。クララの日記には少女らしい「率直な」森への罵倒が並んでいたりしますw。面白いのでその部分を抜粋。
『財政上の困難については事態は変わらない。まるで森氏が私達に借金で恥をかかせるか、餓死させるためにここに連れてきたみたいに思われる』
そんな状況の中、一家に救いの手を差し伸べたのが勝安芳こと勝海舟でした。
海舟は森の了承と、ホイットニー家の為に奔走していた福沢諭吉と大鳥圭介の同意も得た上で、ホイットニー家救済と商法講習所設立を条件に、千ドルという大金を寄付します。
これにより、ようやくホイットニー家は安定した暮らしを手に入れ、商法講習所も無事開校を迎えることになります。
さて、いまサラリと上で書きましたが、クララの日記には当時彼女が出会った人物達が、それこそ今日歴史の教科書に名前が載っている人々の生の姿が、赤裸々に描かれています。
日本人では勝海舟、森有礼、福沢諭吉、大山巌、大鳥圭介、津田仙、新島襄、若かりし頃の徳川家第十六代徳川家達など。
外国人ではイギリス公使ハリー・パークス、ヘボン式ローマ字のヘボン博士、法律家のボアソナード、美術評論家のフェノロサ、果てはアメリカの元大統領グラントまでと多種多彩。
なお人脈的に考えると渋沢栄一にも会っててないと本来おかしいのですが、少なくとも若い頃につけていたクララの日記に渋沢栄一は出てきません。でも「商法講習所関連の諸々」のことを考えると少なくともクララの父親と渋沢栄一が面識がある筈なのですが。
さて、この辺りの詳しい話は次回述べるとして、まずは今シリーズの最初のクエスチョン。
クララの父、ウイリアムが(実質的な)初代所長を勤めた商法講習所ですが、現在も名前を変え大学として現存しています。この商法講習所を前身とする大学の、現在の名前は何でしょう?

【異文化交流クイズ】【3-10回答】六千石の旗本に御小姓として奉公していた女性が新宿で「買ったモノ」は?

2021-03-04 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」。ラスト第10回の問題は幕末、六千石の旗本に「御小姓として」奉公していた「女性」が「女友達同士で新宿によく買い物」に出かけた際に「買ったモノ」とは一体なんでしょうか? という問題でした。
さて、今回はあっさりいきますすが、正解は・・・『女郎買い』でした。
この本によると『相方は18ばかりの花魁で、吸付煙草をして、色々世間話や身上話をして、後でその花魁に半かけなども送っていたり』だそうで。
実際何処までの「関係」だったかは分かりませんが、衆道がそれほど背徳的とされていなかったのと同様、百合もそれほど珍しいと考えられていなかったのかも知れません。
・・・しかし新宿まで出かけていって、可愛らしい女の子の元を訪れる女傑の姿を想像すると、なんだかとっても楽しいですねー。
ちなみに当時は基本的に「江戸の町の中」では吉原以外「岡場所」は認められていなかったため、新宿が格好の「そういう場」として機能していたわけで。つまり新宿≠江戸と云うことで、当時の江戸は我々が想像する以上にコンパクトな町だったこともこのことから分かりますね。


以上、10回にわたりお送りしてきた異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」の稿を終えさせて頂きます。
シーズン前半の川田龍吉とジニー・イーディーの関係、そして後半のピエール・ロティとお菊さんとの関係、と意図したものではないものの、そのいずれも「異文化間に芽生える愛情」の在り方の難しさを示す例ばかりになってしまいましたが、円満な家庭を築いた人々も勿論沢山います。
ただ「各々が各々の事情」を抱えていることを示すのに適した例として決裂例を上げた方が分かりやすかっただけで。
改めて確認ですが、彼らは「一方の、ただ一方的な事情」で別れたわけではなく、それぞれがそれぞれの「譲れない文化的背景」を背負っているが故に、決裂せざるを得なかった、と。
そしてもう一点。特に今シーズンの後半に上げたように、幕末維新期の女性達が、今日我々が教科書で教わっている程には抑圧されていなかった、ということも再確認できたかと思います。
勿論、ここ数回で取り上げてきたように、江戸期の全ての女性がこのように自由だったりしたわけではないのは云うまでもないですが、少なくとも一部の「進歩的知識人」が云う程に、幕末維新期、ひいては江戸時代の女性の権利が一方的に虐げられていたわけではない、ということの反証にはなったかと思います。
このテーマに関してはまだまだネタがありますので、いずれ稿を改めてご紹介したいと思います。