今日は二つの舞台を見てきた。
一つはお笑いライブ、もう一つはお祭り。
お笑いライブを見に行ったのは始めてだった。
笑いライブにはちょっとした知り合いがでていたので、
誘われたのだ。
そんなことでもなければ、なかあか踏み入るきっかけは少なかった。
やっぱり生で見ると全然違う。
生で伝わる、人の呼吸、息遣い、周りの空気、は
ブラウン管ではとても伝えきれない。
その瞬間、その場にいなければ
わからない臨場感って絶対にある!
どんなに高画質の双方向性をもったテレビが出てきたとしても、
きっと永遠にこの生の迫力にはかなわないと思う。
5感全てで感じ取る情報って絶対的だもの。
テレビでお笑い番組を見ると、
どうしても「何?この芸人つまんないじゃん」とか
しらけちゃったりするけれども、
生で見てみたら違ったりするのかもしれないなぁ。
今日見たのは、全員アマの人たちだけれど
すごく面白かったもの。
お笑いって笑いを「伝える」ってことだから、
ニュースなんかと同じなのかもしれないって
思った。
見ず知らずの大勢の人を笑わせるには「理解」が必要だと思うの。
わたし「笑う」っていう行為は、情報を「理解」をして安心をうけいれることから始まる行為
だと思うの。
笑いはゆとりができたその隙間にふっとあわられる行為だと思うの。
人は理解できないものには「笑う」ことなんて出来ないはず。
理解して、自分が安心できたときに、そのひずみに
ひょろひょろっと入ってくるのが「笑い」
「伝える」こと。そして「理解」してもらわないと
「笑い」って成り立たないと思う。
だからこそ、表現の方法の違いはあるとすれ、
笑いは「伝える」行為。しかも高度な。
一瞬で、大勢の人に理解してもらうためには、
一度に沢山の人に「感覚の再現」をしてもらうことが必要。
人は空想だけで笑えない。自分のどこかしらの実体験と重なるリアリティーが
あって、その感覚の再現があってこそ、「深い理解」となるの。
「深い理解」こそ、心を寛容にし、ゆとりを生み出し、
笑いを創り出す。
そのためにはやっぱり「感覚の再現」
実体験を伴ったリアリティーある感覚を自由に出し入れさせることこそ、
こういった人たちの力の見せ所なんじゃないかな。
笑いには、大勢の人たちから一瞬で理解をしてもらうことが必要。
そこには大前提として、大勢の人たちの感覚の再現が必要。
そういったのって、やっぱりface to faceの現場の
コミュニケーションでしか出来ないんじゃないかな。
リアルがバーチャル絶対勝てない理由ってそこにあると思う。
笑いも伝えるっていう表現を駆使したパフォーマーだなって感じました。
そして、祭り。
お笑いライブが「個」であったのに対して、祭りは完全に「集団」
わたしはあるお笑いの人に
「祭りをやっている彼らは、一人になったとき何もできない。大勢の中にいないと
何もできないんだ」って指摘されたことがある。
確かに、お笑いは集団じゃなく、個としてのパフォーマーだ。
でもね、でも誰もが一人で何かできるわけじゃない。
集団の力を借りて、集団の中夢を見たっていいじゃないと思う。
集団の力で、異空間を作り出して、その中で何かやり遂げようとしたって
いいじゃない!?ってわたしは思う。
誰もが個で表現できるわけではない。
わたしは日本の「集団の中でこそ個人は成長することができるのだ」
っていう教育は大嫌いだし、集団の怖さも知っているし、
日本人の性質に合う分集団はたちが悪いものだとも思っている。
でも、だからといって、何かを成し遂げるときに、
集団で何かをやるっていう方法を否定しなくてもいいんじゃないかと思う。
集団の中で、その力を借りて、
夢をみたこと、やったことを、出来ると思ったことを
個になったときにも出来る「錯覚」を癖にして
やればいいのだ。
今日、久しぶりに見て思った。
あの頃わたしが集団の中でできていたこと、
やろうとしていたこと、見ていたもの、
それらを個になってからもやろうとしていたか?
集団ので体験した「感覚」を
個になったとき「感覚の再現」をしてみればよいのである。
「感覚の再現」をし、自分ひとりでできるようになればよいのである。
集団には集団でしかできないこともある。
その力を大切にしたいとも思うし、
個になったとき、その力を
自分ひとりで創造できればいい。
人の心を動かすのは、
どんな伝え方でもよいと思う。
ただ「心を動かす」その喜び、楽しみを
忘れていなければ。
誰もがパフォーマーなのだ。