キャンパスノート

大学4年生の私が、大学生活、恋愛、サークル、バイト、就活
と、毎日の日常をきりとって語るキャンパスノート。

二つの舞台~初!お笑いライブと祭り~

2005年02月14日 01時58分48秒 | Weblog

今日は二つの舞台を見てきた。
一つはお笑いライブ、もう一つはお祭り。

お笑いライブを見に行ったのは始めてだった。
笑いライブにはちょっとした知り合いがでていたので、
誘われたのだ。

そんなことでもなければ、なかあか踏み入るきっかけは少なかった。

やっぱり生で見ると全然違う。
生で伝わる、人の呼吸、息遣い、周りの空気、は
ブラウン管ではとても伝えきれない。
その瞬間、その場にいなければ
わからない臨場感って絶対にある!

どんなに高画質の双方向性をもったテレビが出てきたとしても、
きっと永遠にこの生の迫力にはかなわないと思う。

5感全てで感じ取る情報って絶対的だもの。

テレビでお笑い番組を見ると、
どうしても「何?この芸人つまんないじゃん」とか
しらけちゃったりするけれども、
生で見てみたら違ったりするのかもしれないなぁ。

今日見たのは、全員アマの人たちだけれど
すごく面白かったもの。

お笑いって笑いを「伝える」ってことだから、
ニュースなんかと同じなのかもしれないって
思った。


見ず知らずの大勢の人を笑わせるには「理解」が必要だと思うの。
わたし「笑う」っていう行為は、情報を「理解」をして安心をうけいれることから始まる行為
だと思うの。
笑いはゆとりができたその隙間にふっとあわられる行為だと思うの。

人は理解できないものには「笑う」ことなんて出来ないはず。
理解して、自分が安心できたときに、そのひずみに
ひょろひょろっと入ってくるのが「笑い」

「伝える」こと。そして「理解」してもらわないと
「笑い」って成り立たないと思う。


だからこそ、表現の方法の違いはあるとすれ、
笑いは「伝える」行為。しかも高度な。

一瞬で、大勢の人に理解してもらうためには、
一度に沢山の人に「感覚の再現」をしてもらうことが必要。

人は空想だけで笑えない。自分のどこかしらの実体験と重なるリアリティーが
あって、その感覚の再現があってこそ、「深い理解」となるの。
「深い理解」こそ、心を寛容にし、ゆとりを生み出し、
笑いを創り出す。

そのためにはやっぱり「感覚の再現」
実体験を伴ったリアリティーある感覚を自由に出し入れさせることこそ、
こういった人たちの力の見せ所なんじゃないかな。

笑いには、大勢の人たちから一瞬で理解をしてもらうことが必要。
そこには大前提として、大勢の人たちの感覚の再現が必要。
そういったのって、やっぱりface to faceの現場の
コミュニケーションでしか出来ないんじゃないかな。

リアルがバーチャル絶対勝てない理由ってそこにあると思う。


笑いも伝えるっていう表現を駆使したパフォーマーだなって感じました。


そして、祭り。

お笑いライブが「個」であったのに対して、祭りは完全に「集団」

わたしはあるお笑いの人に
「祭りをやっている彼らは、一人になったとき何もできない。大勢の中にいないと
何もできないんだ」って指摘されたことがある。

確かに、お笑いは集団じゃなく、個としてのパフォーマーだ。
でもね、でも誰もが一人で何かできるわけじゃない。
集団の力を借りて、集団の中夢を見たっていいじゃないと思う。
集団の力で、異空間を作り出して、その中で何かやり遂げようとしたって
いいじゃない!?ってわたしは思う。

誰もが個で表現できるわけではない。
わたしは日本の「集団の中でこそ個人は成長することができるのだ」
っていう教育は大嫌いだし、集団の怖さも知っているし、
日本人の性質に合う分集団はたちが悪いものだとも思っている。

でも、だからといって、何かを成し遂げるときに、
集団で何かをやるっていう方法を否定しなくてもいいんじゃないかと思う。
集団の中で、その力を借りて、
夢をみたこと、やったことを、出来ると思ったことを
個になったときにも出来る「錯覚」を癖にして
やればいいのだ。

今日、久しぶりに見て思った。
あの頃わたしが集団の中でできていたこと、
やろうとしていたこと、見ていたもの、

それらを個になってからもやろうとしていたか?

集団ので体験した「感覚」を
個になったとき「感覚の再現」をしてみればよいのである。

「感覚の再現」をし、自分ひとりでできるようになればよいのである。


集団には集団でしかできないこともある。
その力を大切にしたいとも思うし、
個になったとき、その力を
自分ひとりで創造できればいい。

人の心を動かすのは、
どんな伝え方でもよいと思う。

ただ「心を動かす」その喜び、楽しみを
忘れていなければ。




誰もがパフォーマーなのだ。



人生で一番幸せなのは、愛する人に愛されること?

2005年02月14日 01時02分51秒 | Weblog
ムーランルージュを見ました。
友達が絶賛していた、この作品。
ミュージカルは好きだし、隠微な夜の世界は大好きなので、
映像的にはとても楽しめました。

しかし、お話がどうも好きになれない。
夜のダイヤモンドと称される高級娼婦と貧乏な才能豊かな青年
という身分違いの二人が困難に負けず愛をつらぬく作品なのですが・・・・。
死が付きまとうんですね・・。これまた。
そう、まさに今はやりの純愛!!!!純愛!!!!

だめ、わたし。
なんかだめなんですよ。
ロミオとジュリエットはいいの。だって、「ありえない」とか思いつつも
「こういうお話なんだから」って見ている。セカチューも
今会いに行きますも、見る前から純愛モノだって
わかっていて、それでも見ようと覚悟を決めてみるからいいの。

でも、でも、でも
ムーランルージュは、まさかこのベタな「純愛」で
くるとは思いもしなかったの。
だって二コールキッドマンですよ!?
ムーランルージュ、幻の一大娼館ですよ?舞台はパリですよ?
なのに、なのに
こんなわかりやすい展開なんて・・・。

と思うのでした。
純愛ブームへの抵抗(この映画は決してブームにのって放映されたわけでなはないけれど)
をしたいっていうだけじゃなく、わたしの価値観にも問題があるのかも。

人生の最大の幸せは「愛」なのだ!

っと思えない。(←こういう私はどうなんだろう)


お金や地位よりも愛を選ぶ主人公に共感できない。
お金持と地位を手に入れられるパトロンを
手放そうとする主人公に「ああ馬鹿馬鹿」
と地団太を踏んでしまう。

愛も大切だけれど、お金も地位も捨てられない・・・・・・・・



と映画を見ながら思ってしまったわたし。
幸せになれなさそう。







映像的にはすごく魅了されました。わたしもカンカンとかやりたい。

そして、ボヘミアンとか、その時代の理想に燃えてみたい。
わたし、すごく1960年代に憧れるの。学生運動とか、
大衆を熱狂させる思想に一度身を焦がしてみたい。


ムーランルージュみたいな館があったらぜひともお邪魔したいものだ。
今で言うならやっぱりラスベガスのキダムあたりになるのかな??
(キダムは難しすぎる、わからないという話もあるが是非アメリカの大舞台装置で見てみたいものだ)
う~ん、でもちょっと違うかな。男を魅了するあの視線やダンスは
やっぱり夜の街でないと。


この間、2回目のゲイバーに行ってみたのですが、その時
みたショーはムーランルージュのに近かったような。


ああ、もう一度あのゲイバーのショーが見たいよぅ。
(↑くせになった?)



ムーランルージュ、絢爛豪華でキッシュなその世界。
世界観には魅了され、またボヘミアンというその時最新の
思想に熱く思いを寄せる人々には、共感しましたが、
恋愛に生きる主人公たちには、

「人生には愛以外にも手に入れたいものがある」

と思って、反発しちゃいました。
わたしってなんて欲深いのでしょうか。