福島県いわき市の植田公民館で公民館まつりが催され、その一環として「平和のための勿来の戦争展」が開かれました。
昨日の戦争展では戦争体験者の証言もあったのでなんとしても聞きたいと思い、開始時間までに到着しようと思っえしんぶん赤旗の配達などしていたのですけど意外に時間をとられ、おまけに、鮫川堤防のかさ上げ工事のために河川敷駐車場が公民館からだいぶ離れたところに仮設でもうけられていたために、15分程遅れての参加となりました。すでにお話は始まっていました。
戦争体験を語ったのは1929(昭和4)年生まれの佐々木政保さん。私が会場に入った時には、郡山市での体験を語っている時でした。佐々木さんが体験を書き留めた体験談を読むと、磐城中学校の同級生300人が学徒動員され、まず神奈川県藤沢市で滑走路作りに投入され、完成後に郡山に転属となったとしていますので、おそらく聞けなかった15分間程はこの時の体験を語っていたものと思います。
郡山市では松根油をとるための松の根っこ堀りの任務が与えられたといいます。戦闘機を飛ばす燃料に事欠き、松の根っこから油を製造し、戦闘機等の燃料にしていたわけです。
郡山では保土谷化学が爆撃されていますが、この爆撃も目撃したといいます。
B29が4列編隊で飛行し、爆弾を投下していったといいます。ただ事ではない。そんな思いがあったといいます。「いざとなったら神風が吹くというが、そんなことはない」。意欲を持って任務をこなしていた気持ちが、この頃になると「ぼんやりと日々生活する」ようになっていたといいます。
やがて8月15日、広場に集められラジオ放送を聞いたそうです。何を言っているか分からない。「ポツダム宣言を受託した」。先生が敗戦の事実を教えてくれたときには、1年間学徒動員の厳しい暮らしを体験してきただけに茫然自失の状況だったといいます。
そんな時に恩師がこう励ましてくれたそうです。
「日本は戦争に負けた。今後どうなるか分からないが、米英ソのうちソ連の政治体制は違うから、将来かならず衝突が起こる。その時まで我慢していかなければならない。お前たちは学生だから学問をしろ」
佐々木さんは、同級生300人が経験したこと、体で感じたことを話しているといいます。すでに3分の1の仲間は亡くなり、ガンに侵された友人に「思いを伝えてくれ」と言われてきたそうです。「その思いを伝える機会に恵まれてうれしい」と話を締めくくりました。
佐々木さんの話から、軍国教育で育てられた軍国少年が、学徒動員で体験した現実から目を覚ましていった経過を知ることができました。
佐々木さんの体験談は、戦争展を企画・運営している「サークル 平和を語る集い」が定期的に発行している記録集「戦争と勿来-第32回戦争と若者」に収録されています。
さて体験を聞いた後に、展示物を拝見しました。
二つ程発見がありました(自分にとってですが)。
1つは「保険証書」。
証書には2種類あります。一つは、徴兵後、生存して帰ってきた際に保険金を支払う「出生生存保険」。もう一つは、徴兵された際などに保険金を支払う「徴兵保険」。前者は戦死した際には掛け捨てになるのでしょうかね。保険といえば死亡時に保険金を支払う物という思い込みがあるため、ちょっと信じられない思い。後者は出生の際の支度金的な物のようです。
いずれにせよ、こうして集められた保険の掛け金は、社会保険が戦費調達のために作られたのと同じく、おそらく戦費に使われていったのでしょう。保険も戦争遂行の道具立ての一つということだと思います。
2つめに「保育必携」。「東部第六十三部隊」が発行した物のようです。
これにはとんでもないことが書いてある。第一項にこうある。
「保育は頑健な身体を作り戦場においてお役に立たんがためなり(実際の表記はカナ表記で「保育ハ頑健ナ身体ヲ作リ戦争ニ於テ御役ニ立タンガ為ナリ」)」
現代ならば必要な子に提供し健やかな成長を保障するための保育も、戦争の時代には戦争に動員するために必要な道具として使われた。その事実をこの「保育必携」に見ることができます。
現代社会においても、秘密保護法、武器輸出の解禁、そして安全保障関連法制(戦争法)が作られ、戦場での自衛隊の戦闘を可能にして戦場に飛び込ませる体制も整えた。そして今、東京オリンピックなどを口実にしてテロを防止するとしながら何もしていない段階で一般市民をも犯罪者として取り締まることが可能となる「共謀罪」も国会に提出されようとしる現実があります。戦前の治安維持法を彷彿とさせる法律ですが、こうして戦争をする日本の政治体制が着々と作られているということを考えたとき、これらの展示物は戦争をする日本への警告を発している。そんな思いで拝見してきました。
こんな社会を作らせてはならない。展示会が広く警告の場になっていることを願います。
暖かった昨日、自宅庭にオオイヌノフグリがハナを開いていました。
昨日の戦争展では戦争体験者の証言もあったのでなんとしても聞きたいと思い、開始時間までに到着しようと思っえしんぶん赤旗の配達などしていたのですけど意外に時間をとられ、おまけに、鮫川堤防のかさ上げ工事のために河川敷駐車場が公民館からだいぶ離れたところに仮設でもうけられていたために、15分程遅れての参加となりました。すでにお話は始まっていました。
戦争体験を語ったのは1929(昭和4)年生まれの佐々木政保さん。私が会場に入った時には、郡山市での体験を語っている時でした。佐々木さんが体験を書き留めた体験談を読むと、磐城中学校の同級生300人が学徒動員され、まず神奈川県藤沢市で滑走路作りに投入され、完成後に郡山に転属となったとしていますので、おそらく聞けなかった15分間程はこの時の体験を語っていたものと思います。
郡山市では松根油をとるための松の根っこ堀りの任務が与えられたといいます。戦闘機を飛ばす燃料に事欠き、松の根っこから油を製造し、戦闘機等の燃料にしていたわけです。
郡山では保土谷化学が爆撃されていますが、この爆撃も目撃したといいます。
B29が4列編隊で飛行し、爆弾を投下していったといいます。ただ事ではない。そんな思いがあったといいます。「いざとなったら神風が吹くというが、そんなことはない」。意欲を持って任務をこなしていた気持ちが、この頃になると「ぼんやりと日々生活する」ようになっていたといいます。
やがて8月15日、広場に集められラジオ放送を聞いたそうです。何を言っているか分からない。「ポツダム宣言を受託した」。先生が敗戦の事実を教えてくれたときには、1年間学徒動員の厳しい暮らしを体験してきただけに茫然自失の状況だったといいます。
そんな時に恩師がこう励ましてくれたそうです。
「日本は戦争に負けた。今後どうなるか分からないが、米英ソのうちソ連の政治体制は違うから、将来かならず衝突が起こる。その時まで我慢していかなければならない。お前たちは学生だから学問をしろ」
佐々木さんは、同級生300人が経験したこと、体で感じたことを話しているといいます。すでに3分の1の仲間は亡くなり、ガンに侵された友人に「思いを伝えてくれ」と言われてきたそうです。「その思いを伝える機会に恵まれてうれしい」と話を締めくくりました。
佐々木さんの話から、軍国教育で育てられた軍国少年が、学徒動員で体験した現実から目を覚ましていった経過を知ることができました。
佐々木さんの体験談は、戦争展を企画・運営している「サークル 平和を語る集い」が定期的に発行している記録集「戦争と勿来-第32回戦争と若者」に収録されています。
さて体験を聞いた後に、展示物を拝見しました。
二つ程発見がありました(自分にとってですが)。
1つは「保険証書」。
証書には2種類あります。一つは、徴兵後、生存して帰ってきた際に保険金を支払う「出生生存保険」。もう一つは、徴兵された際などに保険金を支払う「徴兵保険」。前者は戦死した際には掛け捨てになるのでしょうかね。保険といえば死亡時に保険金を支払う物という思い込みがあるため、ちょっと信じられない思い。後者は出生の際の支度金的な物のようです。
いずれにせよ、こうして集められた保険の掛け金は、社会保険が戦費調達のために作られたのと同じく、おそらく戦費に使われていったのでしょう。保険も戦争遂行の道具立ての一つということだと思います。
2つめに「保育必携」。「東部第六十三部隊」が発行した物のようです。
これにはとんでもないことが書いてある。第一項にこうある。
「保育は頑健な身体を作り戦場においてお役に立たんがためなり(実際の表記はカナ表記で「保育ハ頑健ナ身体ヲ作リ戦争ニ於テ御役ニ立タンガ為ナリ」)」
現代ならば必要な子に提供し健やかな成長を保障するための保育も、戦争の時代には戦争に動員するために必要な道具として使われた。その事実をこの「保育必携」に見ることができます。
現代社会においても、秘密保護法、武器輸出の解禁、そして安全保障関連法制(戦争法)が作られ、戦場での自衛隊の戦闘を可能にして戦場に飛び込ませる体制も整えた。そして今、東京オリンピックなどを口実にしてテロを防止するとしながら何もしていない段階で一般市民をも犯罪者として取り締まることが可能となる「共謀罪」も国会に提出されようとしる現実があります。戦前の治安維持法を彷彿とさせる法律ですが、こうして戦争をする日本の政治体制が着々と作られているということを考えたとき、これらの展示物は戦争をする日本への警告を発している。そんな思いで拝見してきました。
こんな社会を作らせてはならない。展示会が広く警告の場になっていることを願います。
暖かった昨日、自宅庭にオオイヌノフグリがハナを開いていました。
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