伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

フォーラム90講演会「フウセン爆弾と気象」を聞く

2020年07月23日 | 平和・戦争
 会場はいわき市文化センターで、同会は1,000回の講演会開催をめざし、この回で509回目の講演会となったという。

 講師は福島県いわき海浜自然の家に務め、気象予報士の資格を梛良(なぎら)幸広さん。1979年というから、私が就職した年になるが、この年の台風19号の最中に山に登っており、荒天の中過ごさざるを得なかった。自然の猛威を体験したことが、後に気象予報士の資格取得のきっかけになったという。

 ちなみに、この日、話題になった風船爆弾には、和紙を利用したものがあった。和紙をコンニャクノリでコーティングして風船を作り、爆弾をぶら下げて飛ばし、アメリカ本土の爆撃を試みた。遠野は和紙の産地でもあったので、風船爆弾の基地がいわき市の勿来や茨城県の大津に作られたのも、納得できようというもの。もっとも、ジェット気流とアメリカ大陸の位置関係が最大の理由だったようだけれど。

 赤道以北の高層では、地球の自転の関係で、常に西に向く風が吹いている。この風のうち、特に強く吹く風をジェット気流というらしい。このジェット気流を館野=現つくば市の上空8Kmで発見したのが、日本人の大石和三郎氏で1926(昭和元)年に発表されたという。

 このジェット気流に風船を乗せるために勿来や大津の位置関係が都合が良かったらしく、基地は他に千葉県一宮にもあったという。

 風船爆弾は、女子挺身隊などに作らせたようで、「ふ号作戦」と名付けられた風船爆弾による爆撃作戦では、9,300発の風船爆弾が放球され、アメリカ本土では285発が発見され、1,000発程度が到達したのではないか、と推定されているという。この爆撃では、ピクニックに来た子どもたちが不発弾の爆発で犠牲になり、6名が犠牲になっているという。アメリカなどは、この爆弾に科学・生物兵器を取り付けられることを非常に恐れていたようだ。

 行き詰る戦局の中で生み出されたのが風船爆弾という兵器。その兵器の記録をとどめる基地跡は、市川と大津は比較的保存されているようだ。しかし、勿来では、終戦直後にだいぶ撤去されており、さらに、近年、6号国道バイパス工事が入るため、その跡地が跡形もなくなってしまう可能性があるという。講師の梛良さんは、風船爆弾基地の考古学的な調査で記録を残すことが必要と主張していた。また、戦争史直後に関連施設の解体と資料の廃棄がおこなわれ、関係者も存命者が少なくなっている現実を踏まえると、継続した調査を進めていくことが大切と語った。これからの日本を考えるためにも大切なことだと思う。


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