JEWEL BOX KDC!!

軽井沢学園を応援する会のストリートパズルより

毎度毎度涙の原稿です。たくさんの人に読んでもらいたいです。

‐園の庭をはきながら‐

嘘つきの涙

たかねっち☆

  毎年、忘れた頃にある人物から電話がかかってきます。ある人物とは、現在東京都在住の裕二(仮名)君といって、私が駆け出しの指導員だった時代に担当していたこどもです。こどもと言っても、かれこれ15年は経っていますので、裕二は既に30過ぎの大人です。
 そして今年の春先も裕二から電話がありました。
「高根先生、オレ善光寺御開帳のライブイベントに招待されてさ」嬉しそうに話す裕二。
「うそっ、すごいじゃん!どんなイベントなの?」私は尋ねます。
「えーとね、これこれこうで・・・ソロで唄うことになったんだ↗」裕二は詳しく説明します。
「へえーそうなんだ~」などと相槌を打ちながら30分位のやり取りが続きます。
その前の電話はこんな内容でした。
「高根先生、今、池袋のライブハウスにいるんだけど、ステージが終わって打ち上げまで時間あったから電話しました。今日は○○さんと共演したよ!」得意気に話す裕二。
「マジでっ?○○っていったら有名人じゃん!スゲーな裕二!!」私はこんな感じで返します。
 更に数年前はこうでした。「高根先生、ちょっと聞いてよ!この前、首都高運転してて事故っちゃってさ、オレのベンツ修理代が80万もかかっちゃって大変だったよ↘」
こんな報告をするために裕二は時々私に電話をかけて来るのです。

裕二(仮名)は、中学2年の夏休み前この学園にやって来ました。母は重い精神疾患を患って入退院を繰り返す生活。父は元々いません。そのため、ここ数か月の間、裕二は兄と二人暮らしをしていました。21歳会社勤めの兄との二人暮らしです。家はゴミ屋敷、生活は乱れ放題。ついには学校へも行かなくなったため、中学校からの通告によって保護となったのです。
 施設へ入所するというのは、こどもにとって心身共に大きな負担となりますが、中学生になってからの入所ともなれば尚更です。自分の居場所や新たな人間関係を一から築いていかなければならないからです。裕二は、初日から皆にナメられないよう必死でした。オレはここに来るまでは暴走族に入っていたとか、この傷は暴走族同士の乱闘で出来た傷だとか、誰も聞いてもいないのに虚勢を張ります。また、当時の男子には珍しく、奇抜なピンク色のズボンや派手な服装を好んで着ていたため、入所早々浮いた存在となり、集団の中でも孤立していました。

 それでも裕二の虚言は相変わらずで、別につかなくても良いような嘘までつくため、担当の私も彼の話はどこまでが本当の話なのか分からず、彼の声は話半分で聴くようにしていました。そんな嘘の多い裕二は、いつしかこどもたちから“ぱち野郎”とか“ピンク”などとあだ名されるようになります。パチの語源は、嘘っぱちのパチからきたのでしょうか。私にもわかりません。こんな虚言癖を疑われるような裕二でしたが、決して悪い奴ではありませんでした。年下児童からバカにされても笑って受け流したり、暴力を振るうこともありません。毎年行われる施設対抗の野球大会では、キャッチャーとして積極的に練習にも参加してくれ、勉強こそ苦手でしたが、何事もなく中学を卒業しました。

しかし、高校生になってからは少しずつ問題を起こし始めます。高校の集金を使い込んでしまったり、喫煙で自宅謹慎処分を受けたり、兄と富士急ハイランドに遊びに行くと言って、実際は中山競馬場に行っていたりと、裕二を叱る頻度も段々と増えていきました。挙句の果てには自転車の窃盗罪により家庭裁判所で少年審判を受けるまでとなります。高校卒業も危ぶまれる状況の中、それでも嘘ばかりでなかなか本当のことを言わない裕二に対し「いいかっ!俺の前で嘘はつくなよ。嘘だけは絶対に許さないからな!!」などと事あるごとに言い続け、私は裕二の嘘を見抜くことに躍起になっていました。

そんな裕二にも進路決定の時期がやって来ました。当時は、就職氷河期という言葉に表されるように、高校求人倍率が1.0倍を割るのが普通で、進路指導でも就職より進学を進められた時代です。それに、問題行動を繰り返してきた裕二を引き受けてくれそうな就職先も見つかりそうにないため、彼の進路は大きな悩みの種でした。しかし、裕二には中学の頃からの夢がありました。それは、ミュージシャンになることです。多くの人が夢見る華やかでかっこいい職業ではありますが、でも現実的ではありません。そのことは時折話していたことですが、裕二はこの時期になっても尚、本格的に音楽の勉強がしたいと言って音楽系の専門学校への進学を希望しています。私は大いに迷いました。きっと普通の親なら反対するはず。才能があるかどうかもわからないし、進学させるならもっと将来的に役立つような専門知識を学ばせるべきじゃないか。でも、自分は施設職員だから“施設利用者”の意向に添った援助をすべきなのか・・・
そんな私の迷いとは裏腹に裕二は着々と専門学校の資料や入学案内を取り寄せて来ます。困った・・・しかし、それ以前に大きな問題があります。お金の問題です。裕二が第一希望としている都内の専門学校は、入学金、授業料、施設設備費、教材費など合わせて130万はかかります。それが2年間続くのです。アルバイトで得た貯蓄も多少はありましたが、到底追いつく額ではありません。しかも場所が都内のため別途生活費も必要です。私は児童相談所のケースワーカーに相談し、可愛そうではあるけれど現実を突き付けて諦めさせることに決めました。そして、児相に裕二を連れて行き、ケースワーカーと3人で電卓をたたきながら、専門学校進学がどれだけ大変で非現実的なことかを淡々と説いてもらいました。裕二は諦めました。

ところが、数週間後、裕二はあるチラシを学校から持ち帰って来ました。それは、既に募集期限が過ぎている讀賣新聞奨学生のチラシでした。どうしても諦めきれず高校の先生に相談していたのです。「高根先生何とかなりませんか?」裕二は言います。しかし、私は児相で話し合った時のことを持ち出して突き放しました。裕二には絶対無理だと思ったからです。それでも裕二は「頼むよ、せんせい、、、」執拗に食い下がってきます。薄っすら涙まで浮かべて。私はその嘘つきの涙を一度だけ信じてみようと思い、ダメ元で応援することに決めました。そして、讀賣新聞長野支社に直接事情を説明に行き、担当者のご厚意によって特別に補欠として面接を受けさせてもらうことになりました。その後は話がトントン拍子で進みます。第一希望の専門学校にも合格し、2年間お世話になる讀賣新聞の販売店も決定し高校卒業後、裕二は夢への第一歩を踏み出したのです。

上京当日、裕二と私はわずかな手荷物を持って新幹線に乗り込みました。地下鉄半蔵門線で九段下を降り、すっかり春めいた皇居のお堀沿いを歩きながら、遠くに日本武道館の三角屋根が見え隠れする裏通りに目的の販売店はありました。店の前には原付バイクが何台も置かれ、築30年はゆうに超えていると思われる木造の2階建て。裕二が暮らす場所はこの販売店の2階にあり、彼のために3畳ほどの部屋が用意されていました。もちろんトイレ共同、風呂無しです。
販売店のご主人と各種事務手続きを行って丁重に挨拶をした後、二人で近くの喫茶店で早い夕食を済ませ、裕二に見送られながら私は東京を後にしました。嘘をついて皆に迷惑をかけないか、嘘をついて職場仲間から孤立してしまわないか。そんな不安を抱えながらも、裕二自身が覚悟をもって決めた道だからあとは頑張ってもらうしかない。そんな風に考えながら、まだ所々に雪の残る軽井沢に戻ってきたことを覚えています。

新聞奨学生の生活は本当に大変です。早朝3時に起きて折込みの準備、その後数百件のお宅へ配達。8時前には配達を終え、朝食を摂り学校に行きます。授業が終わると、夕方4時頃から購読料の集金にまわり、翌日の折込の準備などを行って、完全に仕事から解放されるのは毎晩8時過ぎだそうです。当時、裕二から直接聞いた話で、今はどうかわかりませんが、余程強い意志を持って挑まなければ続けることは難しいと思います。しかし、裕二は立派でした。私の心配をよそに、新聞配達の仕事を続けながら専門学校を無事卒業したのです。たいした根性です。その後、裕二は人一倍努力してメジャーデビューを果たし、ミュージシャンになるという夢を見事叶えたのでした・・・なんて、結末ならば美しいのですが、実際は違います。世の中そんなに甘くはありません。
裕二は苦労して専門学校を卒業した後、コンサート会場の照明設備を扱う仕事に就いたのですが、数年で退職。その後は、職を転々としながらミュージシャンを夢見て今でも東京で一人暮らしをしています。彼の暮らしぶりについて詳しいことはわかりませんが、きっと生活は楽ではないでしょう。ただ、あの2年間の頑張りを糧にして、元気で前向きにやっていることは確かです。

10数年前、こどもたちの嘘にいちいち反応して「俺の前で嘘は絶対に許さないぞ」と躍起になっていた当時の自分は本当に未熟だったと反省します。何故嘘をつくのか?答えは簡単です。その先にメリットがあるからです。裕二の嘘は、周囲から注目されたいという欲求から出たもの。皆からすごいと思われたかった、褒められたかった。ピンクの派手な服装を好んだのもきっとそんな気持ちによるものかもしれません。
入退院を繰り返す母のもとで育った裕二は、大人の手がほとんど入らないネグレクト(保護の放任怠惰)家庭でした。幼い頃から母と共に過ごし大切にされた経験、認められた経験に乏しく、裕二は「ボクはここにいるよ。みんなボクを見てよ。もっともっと認めてよ」そんな満たされぬ想いを抱き、嘘をつく術を身に付けながら今まで生き抜いてきたのです。そう考えれば、裕二の数々の虚言にも納得のいく説明が付きます。
私の失敗は、裕二の嘘を暴き、問い正し、叱っていたことにありました。そうではなく、彼にとって一番身近な存在であった私は、裕二を様々な機会や場面で大いに褒め、認めてあげなければいけなかったのです。そのような積み重ねにより、もしかしたら裕二は無駄に嘘をつく必要がなくなっていたかもしれません。

今も昔もこどもはよく嘘をつきます。こどもとはそういうものです。私は、あの時の反省のもと、今では必死に嘘をつき通そうとするこどもの姿が微笑ましくも思え「そうか、そうか」と騙されたふりをして聞いてあげます。そのほうが何倍もこどもとの関係作りには有効だと思うからです。それに、嘘を暴くのは警察の仕事であって、私の仕事ではないからです。

そんなわけで、つい先日も裕二から電話がありました。内容はこうです。
「高根先生久しぶり!この前さあ、高級車専門のレンタカー屋から一日だけフェラーリ借りて第三京浜かっ飛ばしてきたんだけど、これが最高でさあ~」
(ハア~、裕二の奴、よくもまあ次から次へと・・・汗)
心の中でつぶやきます。そして、裕二にこたえます。
「うそっ、マジで?フェラーリの車種は?テスタロッサ?F40?まさかF50?超うらやましいじゃん!!フェラーリって一日いくらで借りられるの!?」

もちろん嘘はいけません。嘘つきは信用されませんし、そんな人間は社会では通用しません。裕二も30歳を過ぎ、そんなことくらいは身を持って知っていることでしょう。ですから私は思います。厳しい世の中、たったひとりで必死に生きている裕二なのだから、世の中に一人くらいは彼の夢物語に付き合ってあげるお人好しがいてもいいんじゃないかと。次はどんな話しが出てくるのか少しだけ楽しみです。
おわり
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