JEWEL BOX KDC!!

軽井沢学園を応援する会 会報 ストリートパズル14号より

もうすぐ カザンオールスターズのライブがあります。
1日の日曜日です!

カザンさんは軽井沢学園を応援していて、ライブはチャリティライブになります。

KDCからもまいう先生、リオン先生、きょんきょん、亜由美先生がダンサーズで参加します。

まずは知ることから。たかねっちの記事を紹介します!

‐園の庭をはきながら‐
            キミの明日が

たかねっち☆

 数年前の話です。知的に障がいを持った母親と、アルコール依存症を抱える無職の父親の元に生まれたダイスケ(仮名)は出生後、退院すると同時に乳児院へ預けられ、2歳になる頃措置変更によってこの軽井沢学園へやってきました。15年前私が就職した当時ダイスケは小学5年生でしたが、低学年と見間違えるくらいに体の小さなこどもでした。そんな小さな彼はいつも女性保育士の後ろをちょこちょこと付いて歩き「なにか手伝うことある?」そう尋ねては掃除や洗濯、幼児のお世話などを一緒にやってくれる心優しいこどもでした。
「なにか手伝うことある?」が口癖の彼が中学生になると、粗大ごみの分別や壁のペンキ塗り、更には屋根の雨漏り修理など、男職員の仕事も率先して手伝ってくれるようになり、今とは違い男手が2人しかいなかった当時、彼は実に頼もしい存在でした。
 ダイスケは高校生になっても一向に反抗期を迎えることなく、休日は遊びにも行かずに職員の手伝いに明け暮れます。そんな彼に一抹の不安を抱きながらも、優しさに加え、高校は皆勤という真面目さも持ち合わせた彼は、高3の秋口には地元では名のとおった製造会社への就職も決まり、誰しもが「ダイスケなら社会へ出ても大丈夫」そう思っていました。
また、ダイスケは入所当初から定期的に帰省もできており、病気の父親も数年前から働けるようになったため、そして、何より本人の希望によって卒業後は家庭に引き取られていきました。社会人として順風満帆なスタートを切ることが出来たダイスケ。しかし、その後の彼を待ち受けていたものは大変過酷な状況でした。
 
 地元で就職したこどもの多くが休日には、暇つぶしなのか淋しさなのか学園に来てくれますが、ダイスケも同じく顔を出してくれました。施設職員というのは巣立ったこどものことが色々と気になるもので、横柄な私は事務室でダイスケにコーヒーを入れさせ、どんな部署に配属されたのか、家族や上司同僚とはうまくやれているのか、初任給はどうだったかなど色々聞きました。しかし、出て来る問題といえば仕事の呑み込みが悪くてよく先輩に叱られる程度の話しくらいで至って順調な様子です。
あのダイスケだから問題ない。そう信じ込んでいた私でしたが、学園を去って10か月が経った頃異変が起こります。彼が最近ぱったり学園に来なくなったことも、きっと新しい生活に慣れてきた証拠なのだろうと気にも留めていなかった私でしたが、職員の一人が町内で見かけたというのです。青白くてひどくやつれたダイスケの姿を。
そんな報告を受け、私は早速連絡を取りました。「最近来ないけど元気?飯食いに来なよ」そう尋ねると、ダイスケはしばらく沈黙の後「・・・うん」と小さく答えました。その弱々しい返答によって「ヤツめ、絶対何かあるな」そう直感した私は一方的に日時を指定して会う約束を取り付けました。数日後、約束どおりダイスケは来てくれました。元々小柄であったため一見わかりませんが、よく見ると確かに以前よりも痩せています。そして何より顔色が良くない。

「なあダイスケ、困っていることがあるなら遠慮しないで話してみなよ」私がそう尋ねてもなかなか口を開こうとしない彼でしたが、ゆっくりと聴いた結果、問題は大きく分けて2つありました。一つは仕事のこと、もう一つは家族のことです。まず仕事ですが、入所中あれだけ勤労意欲の高かった彼が、仕事を全く覚えることができない、上司の指示どおりに動けない。そんな理由で毎日叱られ、挙句の果てには製造ラインからもはずされ、毎日倉庫の中でたった一人製品を納める通函(かよいばこ)の洗浄しかやらせてもらえないというのです。心配ではあるけれど、これだけ聞くと、まあ良くある話、危機的状況ではないと思うのですが、問題なのはその次です。
親思いのダイスケは、その優しさから自分の預金通帳とカードを父親に言われるがまま渡しました。その結果、父親はダイスケの稼ぎをあてにして元の“飲んだくれ”に戻ってしまい、更にはダイスケ名義の借金までして、本人はもちろん会社にまで督促の電話が来ているというのです。ダイスケはわずかな小遣いで生活しなければならず、毎日スーパーのひと袋40円のうどんを食べてここ数か月間暮らしてきたとのこと。私は、彼の口から出てくるTVドラマの脚本のような話に耳を疑いましたが、その身なりとやつれた姿を見れば、事実であることは容易に想像が付きました。
「なんとかしなければ、このままではダイスケが死んでしまう!」当時の私はそのように思いました。通帳を取り戻せないのなら新規に口座を開設して給料の振込先を替えてみたらどうかとたずねるも、飲んで暴力を振るわれたこともあるらしく、振込先を替えたところで一緒に住んでいる限りまた盗られるに決まっている。ダイスケは諦め口調で言います。もうじき二十歳の彼は法的には児童ではないため児童相談所に相談することもできないし、警察に相談してよい内容かどうかもわからない。私は悩んだ末、ダイスケに提案しました。
「ダイスケ、もうあの家を出よう・・・」
ダイスケはうつむいていました。金も無いし家を出て一体どこへ行けって言うんだ。きっとそう思ったに違いありません。「これはダイスケ自身の問題だから、どうしたいのかよく考えてからまたおいで。力になるから必ずおいで」そう念押しして夕飯を食べさせてから家に帰しました。

 そして2週間後、彼から連絡が来ました。内容は、仕事も辞めて家も出たいというものでした。それは、本人なりに悩んだ末出した結論であり、私たちは早速“家出計画”を立てることにしました。計画に先立って、まずは仕事と住む場所を同時に探さなければなりません。ハローワーク、求人雑誌、職員や知人などから無一文の彼を引き受けてくれそうな場所を探しました。すると、ある知人の尽力により、地元で塗装業を営んでいる親方が、職人見習いとして住み込みで雇ってくれるという話が舞い込んで来たのです。私は急いでダイスケにそのことを伝えると、彼は二つ返事で承諾しました。塗装の経験もないのによほど家を出たかったのでしょう。すぐに面接を受けさせ、面倒見の良さそうな親方の計らいにより、とんとん拍子で話が決まっていきました。そして、家出決行は今の会社に辞表を出したちょうど一カ月後と決まりました。
 
 決行の日、あらかじめ打合せしておいた時間と場所、父親がまだ寝ているであろう午前9時に自宅近くの公園の物陰に車を停めて私は待ちました。果たしてちゃんと来てくれるだろうか、私は時計をちらちら見ながら待ちました。しかし、約束の時間になっても彼は現れません。5分経ち、15分が経った頃私はいよいよ不安になり、車を降りてうろうろし始めました。そして30分が経過し「きっとバレたんだ、出直そう」そう思った矢先に、小さなリュックを背負った彼が小走りでやって来ました。まさに裸一貫での再スタートです。私は「よしっ!」とガッツポーズをしました。
 親方が用意してくれた8畳一間のアパートに入居し、あらかじめ公用車に積んでおいた職員皆で持ち寄った最低限の生活用品を部屋に運び込み、住民移動などの諸手続きを済ませてダイスケの一人暮らしがスタートしました。別れ際、駐車場まで見送ってくれた彼に「いいね、生活が落ち着くまでは絶対に父親に居場所を教えたり、連絡を取るんじゃないぞ」と念を押して私は帰路につきました。
 その日の晩、父親から「てめえらダイスケをどこに隠した!俺は今、新聞とライターを持っている、火を着けて死んでやる!」などと脅しめいた電話が学園に入りました。電話に出た職員は「さあ、何のことかわかりませんが」と、のらりくらりとかわしてくれたそうです。


・・・余談になりますが、毎年18となった数人のこどもたちがこの学園を巣立っていきます。まだまだ未熟で、親という後ろ盾のない不安定なこども達です。そのような施設を退所したこどもたちが、幾多の困難を乗り越え立派に自立できるように手助けすることを「アフターケア」といいます。では、一体どこまで支えていけばよいのか。職員の間でも考えは様々です。「退所後5年間」「結婚するまで」「通帳残高が100万円になるまで」「こどもがもう大丈夫と言うまで」etc...何が正解か分かりません。「期限は設けず、こどもが助けを必要としなくなるまで」というのが一番正解に近いかもしれませんが、アフターケアには相当なエネルギーが必要です。職員が勤務時間外の余力で行うものだからです。国はアフターケアも児童養護施設の役割と位置付けていますが、そのための費用までは十分に面倒みてくれません。気持ちはあるけれど不完全、いや、ほとんど出来ていないというのが現状です。ある統計では、路上生活者の何割かは児童養護施設出身者というデータも存在し、音信不通となってしまったこどもは実際に今どこで何をしているのか、生きているのかさえ分からない状況なのです。消費税増税に伴い社会保障の充実を掲げる現政権ですが、そこのところも、もう少し考えてもらいたいものです・・・


ダイスケの家出決行からおよそひと月が経ちました。その間、職員が交代でダイスケの様子を見に行ったり、おかずを作って持って行ったりしながら彼を見守りました。父親にその後動きはなく、ダイスケを頼ることはもう諦めたのだろうと私は思っていました。ところが、そうではなかったのです。計画当初から、あれ程父親と連絡を取らぬようにと念押ししたにも関わらず、ダイスケは家出決行の数日後には、自分の住所は記載せずに父親に手紙を送っていました。私は理由を尋ねましたが、その訳に言葉を詰まらせました。「お母さんがかわいそうだから...」そして、手紙には「ボクは新しい職場で頑張るから心配しないでください。それと毎月2万円の仕送りもします」そのように書いたそうです。あんな酷い目に遭わされたのに、なんてこどもなのだろう。私はダイスケの慈悲深さに敬服しました。


あれから10年近くの月日が経ちましたが、果たしてあれで本当に良かったのか。当時まだ若かった自分の行動は、ダイスケにとってプラスとなったのか正直今でも自信がありません。
ダイスケは結局、塗装の仕事も1年で辞めてしまい、その後は、社宅完備の製造会社へ就職するも、会社の都合により退社。その先は私も手助けしませんでした。しかし、その後のダイスケは、心ある人達の助けを得ながらも一人でよく頑張り、5年ほど前から地元の高齢者施設に就職し、介護職員となって現在に至ります。

~ダイスケへ、最近全く連絡してないけど、仕事が続いているようでなによりです。お年寄りのお世話をする仕事を選ぶなんて、心優しいダイスケにはぴったりの職業だと思います。あの頃は色々大変だったけど、遠回りしながらも今までよく一人で頑張って来たね。周囲の人たちにも恵まれて、今度こそ大丈夫って私は思っています。君の明日が今日よりもっと輝かしいものとなることを願って、松山三四六さんのこの言葉を贈ります~
“まわり道は多くを学ぶ近道” 
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