チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

チェリビダッケ来日記者会見・カラヤンの悪口(1977)

2014-09-22 18:40:17 | 来日した演奏家

チェリビダッケ(Sergiu Celibidache, 1912-1996)の、遅めのブルックナーとかチャイコフスキーのCDが結構好きで、ときどき聴いています。

他の方のブログで、チェリビダッケがカラヤンは耳が不自由だみたいなことを言ったことを知り、犬猿の仲とはいえ、どういう意味で言ったのか確かめたくなりました。

その記事が「音楽の友」1977年12月号にありました。読売日響を指揮するために来日したチェリビダッケの10月11日(火)の記者会見です。チェリビダッケは現象論、現象学を演奏の基礎に置いているということで、10回読んだけど自分にはちょっと難しかったです。簡単そうなところを抜き出します。(もっと難しくなったりして?)




〈なぜレコード録音しないのか〉

チェリビダッケ 最初に基本的な私の考えを述べますと、音楽をつくる人間にとっては、空間という問題が非常に大きな問題です。この空間というものが一つのフォームを形づくる役割をしているわけです。

聴衆にとってはその一定の空間がすべてを規定しているわけです。その規定された空間の中でつくり出した音を吸収する、理解するためには、非常に多くの努力、時間が必要になって来るわけです。

私自身もある一つの空間の中で音をつくり出そうと思えば、その与えられた空間の条件に合致した形で音を作り出すために、非常に多くの努力を要求されております。

さて、私がある一つの特定の条件を持っている空間の中で、ある音をつくり出したとします。ところがその音を、それとは全く別の条件(たとえば居間とか、お風呂場)の空間で聴くことになると、私が本来、音をつくり出した条件が全く無視された条件で聴かれるということになるわけです。そこに私が本来レコードというものを好まない根本的な理由があるわけです。(中略)

で、録音でもいいじゃないかとおっしゃる音楽家の方は、音楽というものに対して本来つんぼであるか、あるいは響きというものが持っている一種の自律性というか、音には自らを律する性格があるわけですけれども、そういうものに対して、全然理解を持っていない人だと申し上げるほかないと思います。

質問者 最近、演奏会そのものが、例えばレコード・ファンなどが演奏会に出かけ、今おっしゃった大切な空間というものよりも、むしろ技術的な完璧さを求めるという傾向になるつつあると思うのですが。

チェリビダッケ 今のご質問の、最近の傾向に現れているものというのは、本来音楽というものの本質とは全く関係のないことではないでしょうか。トランペットが正しく吹かれたか吹かれないか、音程が狂ったとかいうことと、音楽の本質というものと一体どういう関係があるのかと疑わずにはいられないわけです。いわゆる技術的な完璧さというものと、音楽としての本質というものと、はっきりと分けて考えなければならないのではないかというのが私の考えです。

技術的な完璧さというのが、いかにも技術が進歩しているかのような印象を与える場合があるわけですが、私に言わせればそれは退歩であって、いわゆる表面的な技術というものが括弧付きで進歩すればするほど、それは芸術の本質というものから、むしろ人間を遠ざけてしまうんじゃないでしょうか。

そういう意味で私はむしろ技術の退歩だということを申し上げたいのです。

質問者 チェリビダッケさんとは正反対に、カラヤンはずいぶんレコーディングとか、ヴィデオとか、そういう方向で活躍しておられますが、カラヤンさんに対してはどういうふうにお考えになりますか。

チェリビダッケ まず、カラヤンさん、ないし私が有名であるかどうかという話をまず忘れますと、一言で申し上げますと、カラヤンという方はつんぼです

カラヤンは、今ご指摘の通りたくさんレコードをつくっておられるわけですが、それは別にあの方が音楽に対する耳がないからというわけではなくて、全く別のことを、つまりお金という面からレコードをたくさんつくっておられるわけです。

質問者 つんぼであるとは?

チェリビダッケ つんぼという言葉を説明するためには、まずお互いが音楽というものに対して共通の認識を持っていないといけないと思うんですが、どうもその点皆さんのお考えになっておられる音楽というものと、私の考えている音楽というものが、必ずしも同じでないような気がするんです。

音楽というものは一般には聴覚の遊びといいますか、あるいは感覚だと考えられていると思いますが、単なる音を耳でつかまえるというのが音楽ではなくて、それを更に超えたものがなければ音楽にはならない。音楽というものはいかなる存在形態にも対応するものではありません。音楽が既に何ものかであるのではなくて、何ものかが音楽になるのだというふうにご理解いただきたいのです。もちろんある音を聴いて、聴覚だけでそれを感じとって、自分は非常に幸せだ、楽しいというのであれば、それは皆さんの勝手ですが。

しかし、音楽というものは、一つの目的の手段として、自らの意識を集中しようとする、努力を重ねる人にとっては、自らを単なる聴覚、単なる感覚の世界から解き放って、音楽というものを自らの中に生み出していくことができるわけです。

今私が申し上げたことは、非常にわかりにくい、あるいはわかりやすい、いろんな考え方があると思いますが、これがわかる、わからないは、その人の知性とは全く関係ないことです。わかる人はわかる、わからない人はわからないということに尽きると思います。



〈楽譜は料理のレシピにすぎない〉

チェリビダッケ (中略)音楽というのは決して一つの存在にはなり得ないというのが私の考えです。なるほどその音楽をつくるための道具と言いますか、手段といいいますか、音というものないしは響きというものは一つの存在形態を持ち得る、一つの存在であるわけであります。しかし音楽自体は決してある存在にはなり得ない。

(中略)ですから、例えばベートーヴェンの第5交響曲というものそれ自体が存在しているわけではなくて、それが演奏されるたびに、ある一つの新しいものが発生するか、あるいは発生しないかだけだというふうにご理解いただきたいと思います。

では、ベートーヴェンが作ったものは何か。これは結局料理の指導書で、これとこの材料を合わせてこういうふうに煮ればこういう料理ができますと、その筋書きだけを作ってくれたわけです。このようにお前がやれば、お前にもできるよという素材が与えられているというふうに私は理解しております。

例えば、一体お料理の本に何が書いてあるでしょうか。音楽の総譜に何が書いてあるでしょうか。マーラーの言葉を借りますとなんでも書いてある、ただ最も本質的なものだけがそこには書いていないということになります。

(中略)問題は、われわれは音楽について何かを知っているんだと思い込んでいる人たち、こういう人たちには、相当手こずらざるを得ないのです。音楽というものは、それについて何かを知っているとか、音楽について何かが言えるというものでは本来ないはずです。音楽というものは一つの無であるわけです。にもかかわらず、それについて何かを知っていると思い込んでいる人たちの中にある障害を取り除く仕事というのは、実は何も先入観を持たない人たちに音楽を伝える仕事に比べますと、非常に難しい仕事にならざるを得ないわけです。



〈再びレコード録音について〉

質問者 あとからくる世代にレコード録音で自分の演奏を残したくはないですか。

チェリビダッケ あとから来る世代、もちろんそれは、ある一つの芸術を賛美する権利もあれば、それを無視する権利もあるわけですから、それを別にいたしまして、そもそも音楽というものは、その場にいる人だけに、それ一回限りの感銘を与えるという性格のものではないでしょうか。何か代わりのものを持ち出してきたところで、それは音楽そのものが作った本質を全く伝えていないということは言えないでしょうか。もし仮に音楽というものを言葉で実際に書き表せるんであれば、それは事情が変わってまいります。それを後代に伝える手段があるいはあるかもしれません。しかし音楽というのはそういうものじゃないんです。

どうしてあなたは将来のことばっかりお考えになるんでしょうか。現にそこに存在しておる自己自身というものものをもっと中心に据えてお考えにならないのか。

もしあなたが、ただ一つ、今後来る人にとって確信をもって言えることがあるとすれば、お前たちは、私が今持っているものを手に入れられないよと。もし欲しいならば、自分でお作りなさい、それ以外に道はない。これだけがあなたに本当に自信を持って言える唯一のことだと思います。

われわれのできるのは、後代の人々が音楽を経験するための条件を作っておく、残しておくことはできるでしょう。しかしそれ以上のことはできないにもかかわらず、あなたはいまだに、非常に小市民的な世界に拘泥しておられるんじゃないでしょうか。物質的な材料の上に音の溝を作って、何回もプレスして、それを何回も反復して、もしかしてこれが音楽だと思い込む、そんな世界にいまだにこだわり過ぎているんじゃないでしょうか。

で、今あなたが、私と同じような考えに切り替えていただければ、このクズの多い世の中からクズが一つ減ることになるわけです(笑)。



。。。ガーン、自分はどうせCD聴いてるだけでこれが音楽だと全力で思い込んでるクズですよ!
ナマじゃないとダメってことですよね。「音楽」聴くのってすごくお金かかりそう。。。(冗談ですよ)。それにしてもチェリビダッケがケージと似たようなことを言ってるって意外。

素朴な疑問として、そんな録音嫌いが晩年に何故、いろいろ悩んでるときにこそハ~トにぶっささって別世界に連れて行ってくれるミュンヘン・フィルとの一連のライブ録音を高音質で残したの?

↑やっぱり偉大な音楽家のやることはちがいますね。浴衣似合う!