チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

オペラ作曲家&演出家・メノッティ来日(1974)

2014-09-06 00:02:32 | 来日した作曲家

メノッティ(Gian Carlo Menotti, 1911-2007)が1974年に来日し、自らの3つのオペラを演出しました。


【上演の日程】
1974年2月8日(金)
東京文化会館大ホール←会場がデカすぎたそうです。
『領事』The Consul(1950)...上演時間約2時間。マグダ:砂原美智子、秘書:桐生郁子、魔術師:山岸靖
指揮:ロベルト・ラマルキーナ(Robert LaMarchina, 1928-2003)

1974年2月26日(火)
東京郵便貯金ホール
『電話』The Telephone(1946)...約25分。ベン:立川澄人
『霊媒』The Medium(1945)...約1時間。ババ:桐生郁子、モニカ:斉藤裕子
指揮:星出豊(1941年生まれ)

 

↓ 『音楽現代』1974年2月号より

 

↑ 『電話』


以下、黒田恭一氏のメノッティに対するインタビュー記事からの抜粋です。

黒田 オペラは音楽であると同時に芝居でもあると思うんですが、日本だとヨーロッパだとかアメリカみたいにオペラの上演回数が多くなくて、そのためにレコードを聴く人が多い。オペラの楽しみ方というのはちょっと片寄っているように思うんだけれど、そのへんはご感想ありますか。

メノッティ 私自身もオペラというのは総合の舞台芸術と信じています。そして作曲家もオペラというのは総合芸術だと思って作曲するんですけれども、ただ残念なことに、聴きにいく人は、オペラというのは音楽だと思っている。この音楽を聴きにいくという現象は、もちろん日本だけじゃなくて、ヨーロッパでもそうです。
 すべての作曲家は、オペラというものがその上演される国のことばで演奏されることを願っていたと思うんです。たとえばヴェルディ、プッチーニでも、ワーグナー、Rシュトラウスでも、みんなその国のことばで上演されることを望んでいた、というのは、オペラが”舞台”であるから。ところが、実際には音楽だけが重視されて、自分の国のことばでオペラが上演されるということは少なかったわけです。私は、やっぱりオペラというのは”舞台”を重視すべきだと思う。
 事実、自分は十年か十五年ぐらい前に日本へ来るようにと招かれたことがある。だけどそのときは自分が英語で作曲したものを演奏するという条件だったのです。私の望みは、日本でやるからには日本語で上演したいということだったので、そのときは拒否しました。今回は吉田(マネージャ)のお陰でそういう機会ができたことを非常に感謝しています。

↑ 一番右が吉田マネージャー



黒田 現代オペラの作曲家で、ベンジャミン・ブリトゥン、この人は指揮もするんですけれども、ところがあなたは指揮をしないで主に演出をする。今おっしゃったこととそれとは関係がありますか。

メノッティ 作曲家というのは指揮もできるが、現在、世界中にはすぐれた指揮者がたくさんいる。だけど演出家のほうを見てみると、世界ですぐれた演出家というのはたぶん五人ぐらいしかいないだろう、だから私は演出をするのです。
(「音楽の友」昭和49年4月号より)

↑ 立川澄人に演技をつけるメノッティ

 

↑ 指揮者の星出氏に対する指示も細かい



。。。なるほど、このときは日本語での上演だったんですね。オリジナルを重視する日本のクラシック・ファンは分かりにくいのを承知の上で英語で演ってほしいと思っちゃうかも。でも字幕見ながら見るオペラってかなりバカらし~

ところでいま『領事』聴いていますが、結構メノッティの音楽って甘辛バランス良くて飽きないです。メノッティ・ルネサンス、もしかしたら、あるで~!

↑ 舞台装置を検討中のメノッティ。左は舞台美術家のサンドロ・ラフェルラ(Sandro La Ferla)。