goo blog サービス終了のお知らせ 

チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

12音音楽とベルクのヴァイオリン協奏曲

2014-06-24 22:34:56 | 何様クラシック

西村朗と吉村隆の『クラシック大作曲家診断』(学研)の中で一番衝撃的なのは吉松氏による「十二音以後の無調音楽の最大の革命は何かというと、音楽の才能がまったくないひとでも、1から12まで数えられる程度の算数さえできれば、作曲ができるようになった」という発言。(いろんな人が同じことを言ってるんだとは思いますけど。)

それが本当なら、自分もその程度の算数はできるんで、8管編成のシンフォニーでも作曲してみようかな?4分33秒ぐらいの、って気にもなります。

確かに12音で書かれた音楽って何を聴いても同じっぽいし、感情に訴えてこないので泣けない(怖くて泣きそうになることはある)。

でも数少ない例外の一つがベルクのヴァイオリン協奏曲なのでは。

この曲って、最初聴いたときはひたすらモノクロームでつまんない~っていう印象しかなかったんですが、100回以上実演含めて聴いた今、決して見栄を張っているわけでなく、正直今まで聴いたヴァイオリン協奏曲の中で一番好きな曲になってしまいました。

12音技法に忠実ながら、もはやこの協奏曲は無調でなく、普通の調性音楽のようにカラフルに聞こえてしまうから不思議です。ある音楽の先生も「12音技法の側から見た調性音楽」っておっしゃっていました。

それもそのはず、この曲の12音はこうなっています。

最初の3つの音は短三和音(Gm)、3つ目の音から5番目までは長三和音(Dmaj)、5番目から7番目までは短三和音(Am)、7番目から9番目までは長三和音(Emaj)というふうに短三和音と長三和音が交互に出て、最後の4つの音は全音音階(それぞれ長2度)になってるんで、ほぼ調性音楽の響きがするのは当然なんですね。

思い返してみるに100回以上聴く気にされたのは最初の一回目で無意識に良さを感じさせられてたわけだし、それだけ聴いても飽きないというのはやはりベルクの、調性音楽と12音音楽の甘みと苦みの絶妙なブレンド比率だと勝手に思っちょります。

12音だからって数が数えられれば誰でも作曲できるどころか、ほかの誰にも作れない音楽。。天才!

 

↓ベルクからシェーンベルクに宛てた手紙の一部(ヴァイオリン協奏曲のセリーの説明。1935年8月28日付)。何て書いてあるのか知りたい。(第2楽章で引用されるバッハのコラール "Es ist genug"【BWV 60の5曲目】とその真上の旋律だけ解読)


ミャスコフスキー 交響曲第6番と「怒りの日」

2014-04-09 22:21:03 | 何様クラシック

ミャスコフスキーの交響曲って聴けばきくほど素晴らしいっすね。スヴェトラ全集を熟聴して27曲全部、口笛で吹けるレベル(?)に持っていきたいくらいです。

聴き始めの頃は、ボクのような素人の耳には、くすんだ色の、下手くそっぽいオーケストレーションにきこえてしまい、退屈だし情けないなーとか思っちゃったんですが、実はその(計算された?)不器用さこそが再び聴きたくなる理由なのではと思い改めました。聴くほどに味が出てきます。特に緩徐楽章には底知れぬ深さがありますね。

きょうはミャスコフスキーの交響曲で一番演奏時間が長いという第6番(ミャス6、合唱いらなくね?)を真剣にきいてみて、その魅力を再認識しました。

ミャスコフスキーの交響曲全般に言えることだと思いますが、全然知らない戦前の時代に持っていかれるような、なつかしい感情を引き起こしてくれます。今回も、ミャス6を真面目に集中して聴いたあとは、自分の感覚を過去から現在に引き戻すのにけっこう時間がかかりました。こういう感覚を呼び覚ます交響曲群って他にあんまり無いような気がします。音楽のタイムマシン?

全曲で一番感動したのは「怒りの日」が引用されている第2楽章中間部(これは第3楽章にもあらわれます)。「怒りの日」は第4楽章にもオリジナル的な怖さをもって登場しますが、第2楽章では「怒りの日」のくせに印象派(or マラ6)っぽくて癒されます。どうしてこんな穏やかなアレンジを施したんでしょうか(このままチェレスタにあっちの世界に連れて行かれそうで危険)。


以下、三浦淳史氏によるこの曲の解説を付け加えます。

 交響曲第6番変ホ短調作品23の作曲動機が、きわめて個人的であると同時に、できあがった作品もまた個人的な訴えをもっている。ミャスコフスキーはモスクワで、フランスから来た歌手がフランス革命の歌を歌うのをきいた。それは、パリで労働者が多く住んでいる地区で実際に歌われているとおりに歌ったのであるが、ミャスコフスキーは「ラ・カルマニョール」という歌にことのほか感動したのだった。この歌はフランス革命当時流行したもので、超過激なジャコバン党員によって創唱されたという。ミャスコフスキーはさっそくそれを採譜した。彼はその激しいリズムに魅了されたと語っているが、彼の採譜の仕方はこの曲の楽譜とは違うことも認めている。ミャスコフスキーはこれを第6番の主題の一つにとりあげた。
 ミャスコフスキーは西欧の詩、なかでも現代詩に対して、共鳴するものがあった。ベルギーの生んだ偉大な詩人エミール・ヴェルハーレン(1855-1916)の名詩「夜明け」(1898)は愛唱してやまない詩の一つとして、この詩の影響が認められている。第6番には、さらに個人的な影響がある。それは、ミャスコフスキーがとりわけ心に触れ合った人を二人亡くしたことである。
 ミャスコフスキーは、後年第6番について、反省と郷愁をこめて回顧している。
 「当時の私の世界観は混乱していてた。現在の私には、それは異様にさえ思われる。この曲には、「犠牲者」のモティーフとか、「魂と肉体の分離」のモティーフがあって、最後に「祝福された生涯」を象徴する短い賛歌で結ばれるのです。しかしながら、当時の創作に対する情熱は今でもなつかしい」

音楽之友社「名曲レコード全集1」(昭和39年初版)より

。。。何しろ「おそロシア」なので、どこに本音があるのかわかりませんが、ミャス6を聴いて情熱的であるのはハッキリわかります。あと、亡くなった「心を触れ合った二人」というのは誰なんでしょうね。(調べます)


幻想交響曲の一番恐ろしい箇所!?

2014-04-08 00:02:37 | 何様クラシック

幻想交響曲を聴くたび、怖すぎ&スゴい!って感心するのが第1楽章終盤、開始後10-11分ぐらいからのオーボエ・ソロです。

↑ 12音全てが使われています

別に自分で「怖さ」に気付いたわけではなく、"Young People's Concert"というテレビ番組で、バーンスタインがこの部分を「ベルリオーズ、チョ~天才っ!100年後に書かれたとしても不思議でない」とか絶賛していたのを見たからです。

それまでは単に聞き流していましたが、本当に1830年に書かれたとは思えないほど良い意味でゲンダイオンガクっぽいです!

恋で気が狂っちゃうってこんな感じなのかも。


運命のクラリネット

2014-04-07 20:57:22 | 何様クラシック

「運命」の冒頭で弦と一緒にクラリネットが音を出しているのは有名な話ですよね。

CDでは恥ずかしながら弦楽器だけに聞こえて、クラリネットはきこえてきませんでした。

 

しかし、これがあるとないとじゃ響きの奥行きが全然違うらしいです。弦だけの場合と比較して聴いてみたい。

 

。。。ベートーヴェンって本当に耳が悪かったんでしょうか?


ショスタコーヴィチ55年前の悪評 ~ 音楽評論家なんていらない

2014-04-04 22:08:20 | 何様クラシック

この前、昭和27年の『音楽芸術』において高名な音楽評論家・木村重雄氏ですらショスタコーヴィチに関して「音楽的にはプロコフィエフのほうがはるかに高級」とか「(音楽を)安易な態度でつくる」という散々な評価を下していたことを書いたのですが、同じ雑誌の昭和33年12月号にも評論家先生たちのショスタコーヴィチへの悪口が書いてありました。なぜか評論家には嫌われていた!?

その記事とは「《アンケート》 内外の現代作曲家中、一般の評価と実力が著しく異なっている人を一人挙げて簡単にご説明下さい。」というもの。

唐突すぎて、だれか特定の作曲家を槍玉に挙げてくださいと言わんばかりです。

案の定、ショスタコーヴィチを挙げている方が11人のうち3人いらっしゃいます。

菅野浩和氏「大作曲家として定評を得ている人々が、駄作や凡作を書くことが少なくないのも見逃してはならぬ。その筆頭としてショスタコーヴィチをあげなければならぬ。ことに最近の低調さはどうしたことだろう。」

奥村一氏「ショスタコーヴィチ。一口には云い尽くせない問題であるが先般発表された『第10』『第11』シンフォニーの空虚な響きを耳にする時何故この作家がプロコフィエフ、ストラヴィンスキー等と同格に扱われているのか理解に苦しむ次第である。更にその芸術観や手法の陳腐さにはしばしば驚かされている。」

柴田南雄氏「...フィルハーモニー誌『オーケストラの社会学』で挙げている統計に明らかなように、日本ではショスタコーヴィチが異常に演られている。(東響その他の回数を加えればさらに多い筈。)これは、片やアメリカでの流行(鉄のカーテンの彼方という好奇心が大部分)への追随と、片や純粋なソ連びいきの両方から波がぶつかり、三角波の頂点に押し上げられているからであって、「実力」という意味をいかに広く解釈してもこの現象にはあてはまらないだろう。」

。。。もしかしたら、最後の柴田氏がおっしゃている「アメリカでの流行&ソ連びいきによる人気」等の先入観が、当時の評論家の、ショスタコーヴィチへの無理解、悪口につながっていたのかもしれないと思いました。

実際、ソ連が崩壊してしまってからは、先入観なしでショスタコーヴィチの音楽を聴く層が増えたと思われ、評価は上がる一方ですよね。


今から50年後がどうなってるかわかりませんが、ボクとしてはますます評価が高くなっていると思います。ショスタコーヴィチ聴いているとしばらく他の音楽ききたくなくなっちゃうし。(俗にいう「タコ中」?洗脳されないように注意しなくては)

それにしても「音楽評論家」っていったい誰のために仕事してるんでしょ?


心からヨイと思った音楽・演奏だけを褒めてもらって世間に広めてもらえばそれでいいです。

ショップやNMLでCD等の試聴はいくらでもできるので、昔と違ってクラシック・ファンに「無駄遣いさせないように悪いものは悪いという」という役割はとっくに終わっていると思います。
気に食わない演奏・録音の批評はソコソコにしてくださいよー。時おり特定の演奏会やCDを親の仇みたいにコキ下ろしている評論を見かけますが、いったい何様なんでしょうか。ショスタコーヴィチに難癖つけようがビクともしないでしょうが、自分に対する酷評読んだ演奏家が立ち直れなくなって貴重な才能が消えちゃったらどう責任とるんですかね?こういうの読むと自分には関係ないのに心が痛みます。そもそも何か月、何年も掛けて一生懸命準備されている方々に対してちょっと聴いだけで数時間(数十分?)で判断下すってまったくもって人として失礼っつーか資格なし。

好きな音楽を勝手に聴く時代だす!もう評論家の意見なんか関係ない。お気に入りのCDや演奏家の悪口をあとから読んでも気分が悪くなるだけやん。景気も悪くなる~

 

最後に、ショスタコーヴィチ自身が語った言葉を引用します(交響曲第15番スコアの解説 全音楽譜出版社。我ながら何様すぎて虫酸)

 

音楽について語るのは難しい。これが出来るのは、特別な才能をもった人だけである...。しかし音楽についてのどんな言葉も、その音楽そのものが与えるほど強く、聴衆の心に訴えることはできない。