この前、昭和27年の『音楽芸術』において高名な音楽評論家・木村重雄氏ですらショスタコーヴィチに関して「音楽的にはプロコフィエフのほうがはるかに高級」とか「(音楽を)安易な態度でつくる」という散々な評価を下していたことを書いたのですが、同じ雑誌の昭和33年12月号にも評論家先生たちのショスタコーヴィチへの悪口が書いてありました。なぜか評論家には嫌われていた!?
その記事とは「《アンケート》 内外の現代作曲家中、一般の評価と実力が著しく異なっている人を一人挙げて簡単にご説明下さい。」というもの。
唐突すぎて、だれか特定の作曲家を槍玉に挙げてくださいと言わんばかりです。
案の定、ショスタコーヴィチを挙げている方が11人のうち3人いらっしゃいます。
菅野浩和氏「大作曲家として定評を得ている人々が、駄作や凡作を書くことが少なくないのも見逃してはならぬ。その筆頭としてショスタコーヴィチをあげなければならぬ。ことに最近の低調さはどうしたことだろう。」
奥村一氏「ショスタコーヴィチ。一口には云い尽くせない問題であるが先般発表された『第10』『第11』シンフォニーの空虚な響きを耳にする時何故この作家がプロコフィエフ、ストラヴィンスキー等と同格に扱われているのか理解に苦しむ次第である。更にその芸術観や手法の陳腐さにはしばしば驚かされている。」
柴田南雄氏「...フィルハーモニー誌『オーケストラの社会学』で挙げている統計に明らかなように、日本ではショスタコーヴィチが異常に演られている。(東響その他の回数を加えればさらに多い筈。)これは、片やアメリカでの流行(鉄のカーテンの彼方という好奇心が大部分)への追随と、片や純粋なソ連びいきの両方から波がぶつかり、三角波の頂点に押し上げられているからであって、「実力」という意味をいかに広く解釈してもこの現象にはあてはまらないだろう。」
。。。もしかしたら、最後の柴田氏がおっしゃている「アメリカでの流行&ソ連びいきによる人気」等の先入観が、当時の評論家の、ショスタコーヴィチへの無理解、悪口につながっていたのかもしれないと思いました。
実際、ソ連が崩壊してしまってからは、先入観なしでショスタコーヴィチの音楽を聴く層が増えたと思われ、評価は上がる一方ですよね。
今から50年後がどうなってるかわかりませんが、ボクとしてはますます評価が高くなっていると思います。ショスタコーヴィチ聴いているとしばらく他の音楽ききたくなくなっちゃうし。(俗にいう「タコ中」?洗脳されないように注意しなくては)
それにしても「音楽評論家」っていったい誰のために仕事してるんでしょ?
心からヨイと思った音楽・演奏だけを褒めてもらって世間に広めてもらえばそれでいいです。
ショップやNMLでCD等の試聴はいくらでもできるので、昔と違ってクラシック・ファンに「無駄遣いさせないように悪いものは悪いという」という役割はとっくに終わっていると思います。
気に食わない演奏・録音の批評はソコソコにしてくださいよー。時おり特定の演奏会やCDを親の仇みたいにコキ下ろしている評論を見かけますが、いったい何様なんでしょうか。ショスタコーヴィチに難癖つけようがビクともしないでしょうが、自分に対する酷評読んだ演奏家が立ち直れなくなって貴重な才能が消えちゃったらどう責任とるんですかね?こういうの読むと自分には関係ないのに心が痛みます。そもそも何か月、何年も掛けて一生懸命準備されている方々に対してちょっと聴いだけで数時間(数十分?)で判断下すってまったくもって人として失礼っつーか資格なし。
好きな音楽を勝手に聴く時代だす!もう評論家の意見なんか関係ない。お気に入りのCDや演奏家の悪口をあとから読んでも気分が悪くなるだけやん。景気も悪くなる~
最後に、ショスタコーヴィチ自身が語った言葉を引用します(交響曲第15番スコアの解説 全音楽譜出版社。我ながら何様すぎて虫酸)
「音楽について語るのは難しい。これが出来るのは、特別な才能をもった人だけである...。しかし音楽についてのどんな言葉も、その音楽そのものが与えるほど強く、聴衆の心に訴えることはできない。」