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チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

リヒャルト・シュトラウスと息子兼秘書のフランツの写真(1926年頃)

2016-04-01 21:11:22 | メモ

国際情報社発行『国際写真情報』1926(大正15)年5月号に、リヒャルト・シュトラウスと息子のフランツ(Franz Alexander Strauss, 1897-1980)とが自宅で一緒に写っている画像がありました。

↑ ばらの騎士みたいな家?撮影者はだれ

この写真誌の日本語解説は「ベルペタ公園」、「リカノド・ストラウス」などと破綻寸前なので英文を転記すると

Dr. Richard Strauss, Austrian King of Operas, with Dr. Franz Strauss, his son, who acts as secretary to his father, photographed at the new home in Belvedere Park, Vianna.

ウィーンのベルヴェデーレ庭園の新しい住まいで息子であり秘書のフランツとともに撮影されたもののようです。ちなみにシュトラウスの父の名前もフランツ(Franz Joseph Strauss,1822-1905 ホルン奏者)でした。



上の写真を見る限り、60歳を過ぎた父は一人息子のことを愛情をもって、しいて言えばちょっと心配そうに見守っているふうに感じられます。ワンコも。

Wikipediaにはこうあります。「シュトラウスの息子の嫁(Alice Strauss, 1904-1991)がユダヤ人であり、その結果シュトラウスの孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった。」


↑ サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch, 1923-2013)とフランツ・シュトラウス。1977年、ミュンヘンにて。フランツは父親にそっくりですね(『フィルハーモニー』1979年7・8月号より)


ベートーヴェンが書いた最後の音符?

2016-03-25 19:18:15 | メモ

新時代社『ベートーヴェン 偉大な創造の生涯』という気合の入った本を買いました。

「限定2000部のうち第674号」ということで値打ちもん!? 1500円も出費してしまいました。



中身を見ると「第10交響曲の自筆スケッチ」が目を引きました。



下に記されているのはアントン・シンドラー(Anton Schindler, 1795-1864)による覚え書きです。

Dies hier auf dieser Seite sind die letzten Noten,
die Beethoven ungefähr zehn bis zwölf Tage
vor seinem Tode in meinem Beiseyn geschrieben.
A. Schindler.

「このページの音符は、ベートーヴェンの死のおよそ10日から12日前、私の面前で書かれた最後の音符である。A.シンドラー」

ただし、いまではシンドラーは嘘つき呼ばわりされており、彼によるベートーヴェンの伝記もまったく信用されていないようなので、この記述も本当かどうかわかりませんけど。。

そもそもベートーヴェンの貴重な自筆譜に文字を直接書き込んじゃうっていう神経が理解できないです。


土佐・日曜市のレコード屋さん(1954年)

2016-02-20 22:19:03 | メモ

『アサヒカメラ』1954年8月号より高知市内の日曜市のレコード屋さんです。1954年4月11日の朝撮影。

おばちゃんがまわす立派な蓄音器は日本蓄音器商会(のちの日本コロムビア)の「ニッポノホン第50号」です。(「時代屋ちとせあめ」さんのブログでわかりました。)

無造作に並べられているレコードの中にクラシック音楽のものもあったんでしょうか?宝の山!? 時空を越えて一枚一枚見たくなる~


エイドリアン・ボールトの指揮棒コレクション

2016-02-12 21:16:58 | メモ

イギリスの指揮者、エイドリアン・ボールト(Sir Adrian Boult, 1889-1983)です。

 

ボールトの指揮棒コレクションの写真がヘレナ・マテオプーロス(Helena Matheopoulos)著、"Maestro"(1982年)という本に載っていました。

元・持ち主は、上から

・サー・ヘンリー・ウッド(Sir Henry Wood, 1869-1944)

・アルトゥル・ニキシュ(Arthur Nikisch, 1855-1922)

・ボールト自身(上の写真と同じものか?)

・アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867-1957)


。。。ハリー・ポッターの魔法の杖のような雰囲気ですね。やたら長いしトガってる。。凶器になりそう!?

この時代からくだっていくと指揮棒はどんどん短くなる傾向にあるんでしょうか。果てはゲルギエフの爪楊枝か。


ストラヴィンスキー:指揮と指揮者について(1966年)

2016-02-11 17:21:05 | メモ

再びストラヴィンスキーと弟子のロバート・クラフトの"Themes and Episodes"(1966)から、今度は指揮と指揮者についてです。(『藝術新潮』1967年3月号の抄訳より)

ストラヴィンスキーが指揮者という職業に対してイヤミを述べています。大指揮者とのエピソードも楽しいです。

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【指揮について】

指揮という仕事は、政治と同じように、あまり独創的精神の持主の心をひかないものだ。出世をしたり、人を発掘したりするにはよい分野だが、――これも政治と似ている――正確で標準化された鍛錬の適用の場とは言いがたい。実際のところ指揮者は彼が指揮する演奏者たちよりその資格において劣ることもありうる。だがそれは演奏者にしかわからないことだろうし、いずれにせよ、彼の名声は演奏者の評価のいかんによってきめられるのではなく(彼らが指揮者に関してのもっとも信頼できる審査者だとはいわない)、社交界のご婦人がた(批評家も含めて)によって決められるし、彼女たちにとっては指揮者の音楽的才能は第二義的な重要性をもつにすぎないのだ。指揮者として成功するには必ずしも完全な音楽家を要しない。ただし彼は「完璧な釣師」でなければだめなのだ。まず第一に指揮者の資格として要請されるものは権力政治における才能である。

この種の人びとにとっては、自己顕示欲という病気がはじめからつきまとっている率が高いのはいうまでもないが、この病気は悪いことに、大衆のおだてという太陽の下では熱帯の雑草のように成長する。その結果は、とかく指揮者は自己中心の、まちがった、独断的な権威をふりまわすことになり、彼自身の音楽界における価値とはけたはずれの高い地位をあたえられてしまうのだ。彼はすぐ「偉大な」指揮者にされてしまい(こういう指揮者の報道係の一人は最近私にあてた手紙で、「指揮台上の巨人」という言葉を使ってきた)、純粋な演奏にとって最悪の障害物にさえなってしまいかねない。「偉大な」俳優と同じく「偉大な」指揮者というものは、「彼自身」のほかには何を演じることもできない。自分をある曲に適応させることができないから、その曲を自分に、自分の「スタイル」に、自分のマンネリズムを適応させてしまうのである。

「偉大な」指揮者崇拝という傾向は、また「聞く」ことより「見る」ことに重きをおきがちである。その結果、指揮者にとっても聴衆にとっても、音楽会での重要な眼目は、彼が指揮するときのゼスチュアだということになる。評論家たちですらこの陥穽におちこんで、指揮者がどのような音をださせたかよりも彼がどんな様子をしていたかということを描写し、音楽の意味と指揮者のゼスチュアとをとりちがえている。(最近の『ニューヨーク・タイムズ』のある評をみよう。「この青年はピアノの鍵盤に指を走らせてないときは、強くタクトをふっている。彼の美しい指は演奏者の一人一人に正確な合図を与え、タクトは逞しく迫力にみち、目は鋭くあちらこちらへとくばられていた」)。だから映画俳優型の指揮者は、「彼の」《エロイカ》を指揮しながらナポレオンの生涯を演じてみせるであろう。もしあなたが音楽をきくことができないのなら、酒宴と乱舞のマリバント僧の儀式をみた方がよい。だが、もし本当に音楽をきく耳をもっているのならコンサートには行かないことだ。

現在の指揮者崇拝熱についてはまだいろいろ文句もあるが二つだけあげよう。第一に、レパートリーを台なしにしてしまう。指揮者は、各自スタンダードの曲目、つまりR.シュトラウスの交響詩とかドビュッシーの《ラ・メール》などに自分の特徴を示すべきである。そして、数ヶ月前にシュネル(速い)教授の版をもっていたにしても、いまは常軌を逸したラングザム(遅い)博士版を耐え忍ばなくてはならないのである。主として、同じ作品ばかりくりかえし演奏しているようなタイプの指揮者が、容易に音楽に対する無関心におちいってゆくのは当然である。

第二に、類型的な指揮者は義務を怠り、たちまち追放され、彼の時代の新しい音楽的思考を感じることができない。すなわち「立身出世主義者」という言葉がふさわしかろう。向上心に欠けるのだ。進歩向上することは、相当な配当金のついた株を売ることを意味するからである。ブルーノ・ワルターを考えてみよう。彼はシェーンベルクと同時代人であり、論理的には彼の擁護者であるべきだった。

私はきき手としての長い生涯のなかで多くの指揮者たちの演奏を尊敬してきた。しかしいまもその評価に変りないかといわれるとそうとはいいきれない。例えば若い日の私にとってワインガルトナーはほとんど偶像であった。1900年にベルリンで彼がベートーヴェンを指揮するのをきいて夢中になったものである。しかし一貫して高いスタンダードを保った指揮者としてはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーをあげよう。プラハで彼がタクトを振った《フィガロの結婚》は私の一生で最も感激をおぼえたオペラであった。

今日の指揮者の中でいえば、ご承知のように私はよい審判官とはいえないが、私が技能も並以上でより良識的な音楽家だと思う人びとをあげれば、クラシックのスタンダードのレパートリーの防御者であるセル、「シカゴ交響楽団」を世界一精密でしかも柔軟なオーケストラにしたライナー、もっとも良心的な音楽家で、数少ない義務を怠らない指揮者の一人であるロスバウド、「フィラデルフィア・オーケストラ」に最高級のひびきを与え、チャイコフスキーの遺作の《第七交響曲》(これはウェーベルンの《夏風の中で》のようなユーモア以前の音楽)のスペシャリストとして、あるいはそれと同じようにヨハン・シュトラウスの理想的な指揮者として「フィルハーモニア・オーケストラ」をチンチラの毛皮のようにひびかせるオーマンディ、中年の指揮者の中では最も才能があり幼少のときからもてはやされてもそれで駄目にならかったのはロリン・マゼール、だがしかし、私が最近「メトロポリタン」できいた《ドン・ジョヴァンニ》を、彼はまるで軍楽隊長のように指揮していた。そしてエキセントリックではあるがハイドンを清潔にいかにも指揮者らしく演奏するヘルマン・シェルヘンなどをあげよう。

しかしそのシェルヘンも得心のゆくバッハができなかった。バッハスタイルへの糸口はもっていないのにこの点を非難するために、彼だけをもち出すのは片手落ちである。というのは、「偉大」な指揮者たちのバッハの演奏は異様なほど時代錯誤であるから。というのも、バッハは立派な指揮者の立ち入る余地がないからである。

若い世代の天才児たち、クラシック畑の「ビートルズ」たちはまだきいたことがない。だが聴衆というものはたとえばロスバウドのようなおとなの職人の価値や経験は捨て去って、なんであれ売出し中のグラマー的観念に飛びつくものらしい。しかし私が思うには、よりすぐれた指揮者というものは弾力的な拍子の世界――オペラ――で育って行くと思う。そして彼らは昔ながらの中部ヨーロッパの工場で、まだ徒弟のうちに十指をこえる傑作の修練をさせられる過程で育ってゆくと期待することができる。オペラのレパートリーはシンフォニーのよりずっと広く――素材としてのヴェルディとブラームスを比べてみればわかる――、オペラの復活は現代の一つの特徴ともいえよう。



【指揮者たちとの思い出】

さてフルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886-1954)で思い出すことは1920年代にライプツィヒとベルリンで彼の指揮のもとに私の《ピアノ・コンチェルト》が奏された時のことだ。彼は名声が最高潮にあった。それなのにその指揮ぶりはひどいものだったのである。クーセヴィツキーのそれよりも。彼より年上の指揮者ですらもっとしっかりタクトを振るのを見慣れていた私にこれは驚きだった。それから数年後コモで休暇中の私に彼から電報がきた。私の《カプリッチョ》の初演権を求めてきたのである。1931年のことだった。私はあの曲はもう二十ぺんも演奏されているがご希望なら二十一回目の初演権をさしあげると返電を打った。その時私は少々飲んでいたせいでもあるが、その夜散歩してヴィラの庭園の「ギリシャ」彫刻の間をめぐっていた私は大理石像にさまざまなツーリストの名が書かれているのを見るとついペンを取り出して、ヴィルヘルム・フォン・デア・フルトヴェングラーとサインしてしまったものである。それ以来私はずっと良心の呵責にさいなまされているが、もとはといえば彼の電報のせいである。

メンゲルベルク(Willem Mengelberg, 1871-1951)の思い出も楽しいものばかりとはいえない。彼は大変なスピーチ屋だった。アムステルダムでレスピーギを主賓として晩餐会があったときのこと、メンゲルベルクが立って乾杯のスピーチをしたが、そのスピーチがようやく終りに近づいた頃、ちらと私を見た目が、偶然下を向いて時計を見ていた私をとらえたらしい。乾杯を、といってレスピーギの代りに私の名を呼びあげたのである。もちろん彼が意地悪だとか、心が狭いとか、音楽的素質を欠いているのだなどとはいっていない。ただ彼は病的なほどおせじ好きなのである。

オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885-1973)にあったのは1920年代のライプツィヒとかドレスデンだったと思う。彼はドイツの若手中では第一の指揮者という評判をとっていた。かれはときどきテンポを崩す癖があるが、――二十代では駆けだしていたがいまはのろのろ歩きをするようだ――彼の音楽的衝動は時に驚くべき冴えを示す。クレンペラーもやせた大男で、ちょっと信じられぬかもしれないが、すごくおどけた人間である。ただ彼のおどけは本心から出ているかどうか、どうしても見分けがつかないのだが。

1920年代の末、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876-1962)と私の《ピアノ・コンチェルト》を演奏したのはなつかしい思い出である。古い世代にぞくすあの「ロマンティカー」が私の曲をあんなに敏活に演奏してくれるとは思っていなかった。それから十年ほどのち彼と私はハリウッドで近所に住むようになり、私たちの親しい交わりは二十年も続いた。われわれは趣味も気質も――彼はいかにもソフトなウィーン人らしいし、私はまたすぐ爆発する――まったく違っていたが、何か互いにあいひかれるものがあったらしい。

ブルーノ・ワルターは彼が死ぬ数週間前に私を訪ねてくれた。そして「ウィーン・フィルハーモニック」を代表して私をザルツブルクで指揮するように招いてくれた。その時彼が病気と知っていたので、私の方から出向くからといったのだが、彼はそうはさせなかった。訪れてくれたときのブルーノは元気で、温和で、例のとおりあくまでも物静かだった。われわれはチャイコフスキーのオペラや、彼が1920年代にレニングラードへ演奏旅行した時のことや、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861-1925 オーストリアの社会思想家)のことなど語り合ったのだった。彼の棺の上の壁にベートーヴェンの葬儀への招待状が額に入って掛かっていたことを思い出す。

クーセヴィツキー(Serge Koussevitzky, 1874-1951)と初めて会ったのは、彼がロンドンで私の《管楽器のための交響曲》を銃殺刑執行の射撃隊のような具合に指揮した時だった。あとで彼は仲直りしにきて私にパリで自作の《八重奏曲》を指揮するようにと招いてくれた。それから二十年後、彼は妻のナタリーに捧げる《頌詩》を私に依頼したが、この演奏も惨憺たるものだった。トランペットが調をまちがって奏したばかりか最後のページの二つの連音符が一つに写しちがえられていて、しかもその通りに演奏されてしまったのである。しかしクーセヴィツキーはハーモニーのスタイルが突如として変化したことになんの疑念もはさまず、何年かあとになってもわざわざ私に、自分はあの「原案」のほうが好きだったと告白した。だが彼は非常に気前がよく、彼ほど若い作曲家を財政的に面倒をみた指揮者はちょっと見当らない。

1911年のある日、クラレンスの路上で自己紹介したエルネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet, 1883-1969)は、私を晩餐に招待してくれた。校長であり、アマチュア音楽家としての彼のことは聞いていたが、その風采ときたら――あご髭が不愉快だった―― 一瞬、誰かが《ペトルーシュカ》のイカサマ師に扮装しているのかと思ったほどである。

間もなく、アンセルメはモントルーの「クルサール・オーケストラ」の指揮者となり、わたしたちはヴェヴェイ近郊に隠居していた「シャンソン」作曲家で、あの気むずかしいアンリ・デュパルクの家で、まためぐり会った。

ピエルネとモントゥーが1914年にロシア・バレエ団を辞めた時、私はアンセルメを推した。オーケストラのバランスを調整する手腕をもっていたし、当時のフランコ・ロシア新音楽をよく理解していた。1920年代から30年代と、アンセルメと私は親密な間柄だった。1937年に突然彼が私のバレエ音楽《カルタ遊び》で独断的なカットを行い、やがて初期の作品の改訂版を批判するまで続いた。しかし、1919年は、《火の鳥》と《夜鳴きうぐいす》の改定版を初演しているのである。以降、私の新しい音楽を真っ先に「王様の新しい衣裳」式の方法で非難し、おまけに「対数的な良心コンシアンス・ロガリトミック」などと大げさに使ったりする。だが、これは悲しむべきことに、彼が音楽をきくことができない、つまりついてこられないことを証明するにとどまる。にもかかわらず、私はアンセルメが好きである。彼と一緒に過ごした愉快な時が忘れられない。ある時、サル・プレイエルでフランボワーズの瓶を開けた時、犬の真似をしてそこにあった私のピアノの下にもぐりこんで、吠えはじめた。それは、とても説得力のある演奏だった。

レオポルド・ストコフスキー(Leopold Stokowski, 1882-1977)が私の所へ訪ねてきた最初はビアリッツで、1922年のことであった。彼は魅力的で感じやすい青年で、ロシアのおおかみ猟犬のようにスマートだった。彼が身だしなみ悪く見え出したのは映画スターになって以後で、その間おそらく彼は一日に一時間は鏡の前で、完全に両性的な髪型をつくりあげ、それを思い通りにきちっと乱す練習をしたにちがいない。彼は、私が将来作曲するものに対するアメリカの初演権を求めてかなりの金額を申し出て、実際に一回の払い込みをしてくれた。だが、あとで気が変ったらしい。《ペルセフォネ》の時まで音沙汰がなかったから。私は1935年と37年にカーネギーホールの舞台裏で彼にあったがその次にあったのは1942年で、この時は「NBC交響楽団」で私の《交響曲ハ調》を演奏するについてあらかじめ研究にきたのだった。ストコフスキーのように新作の演奏に際して綿密に準備する指揮者はめったにいないし、彼ほどよいオーケストラ・ビルダーは見当たらない。慎重な準備に支えられたアイヴズの《第4シンフォニー》の輝かしい成功は彼の八十年の栄光の頂点に立つものである。よかれあしかれ、彼のはじめた技巧は(指揮は一種の手品だというような一般的なイメージとともに)今も広くゆきわたっている。例えば《トリスタン》の前奏曲でチェロのセクションの弓がゆれながら、なめらかで一貫したクレッシェンドの効果を出すところなど、その代表的なものである。

ミトロプーロス(Dimitris Mitropoulos, 1896-1960)は《ペトルーシュカ》や《兵士の物語》を演奏したこともあるが、むしろマーラーの伝道者であり、カモシカのように着実な《アルプス交響曲》のスペシャリストであって、私の音楽には概して興味を持ち続けることができなかった。だから、1945年夏の夕べ、彼がハリウッドの私のところを訪ねてきてくれた時は驚いた。彼の落着かない身のこなしと同じようなスラヴなまりのあるフランス語のしゃべり方が、すっかり気に入ってしまった。二人はギリシャ正教について語り合い、彼は私の所有していた聖像を調べてくれた。翌日、ハリウッド・ボウルで彼のプロコフィエフの《ピアノ協奏曲第3番》を聞いたが、風格のあるすばらしい演奏だった。ミトロプーロスは温和で、謙虚で、やさしい人だった。それだけに、彼の死に私は強くうたれたのである。

レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein, 1918-1990)がニューヨークで私の所へ訪ねてきたのは1954年のことである。ほんの数分間のはずが一日中になってしまったが、バーンスタインは、はっきりとした意見をもつ好感のもてる青年で(今でもそうだ)、たしかに音楽に夢中だった(今でもそうだ)。彼はまた見たところも魅力的で、まだライオンとかイギリスの牧羊犬といったところは出てなかったが、その額の前髪をたてたのがきわめてよく似合っていた。それ以後彼はすっかり有名になってしまった。――まったくミサイルの専門家は彼のキャリアを研究して基礎的なテクニックをマスターしたのではないかと思うほどだ。近い将来、彼が一度にいくつかのオーケストラを指揮したときいても恐らく驚かないだろう。カーネギーで最初のタクトを振り下ろし、それからリンカーン・センターにかけつけてここでも最初の数小節を指揮し、そのあとは彼の門弟がとんできて最後までまとめておくといった具合に。彼はデパートのようなものになってしまったのだから。しかし、もしニューヨークにレナード・バーンスタインがいなくなったらこの町はなんとなくつまらなくなるだろう。彼と初めてあってから四、五日して私は彼が指揮する《詩篇交響曲》に出かけていった。「わぁ、すごい!」