頑張るノンちゃん

脳梗塞闘病記 

マイスターダストレガシー

2017-08-14 08:47:01 | 日記
函館旅行の時に書いた、松前城門横にあっただろう小さな看板の話。

それはその看板に携わった関係者では日立火気厳禁ボードと呼ばれていました。
昭和52年に私が勤めていた会社が日立製作所から依頼され全国の国宝重要文化財の神社仏閣城等に火気注意を喚起する目的で設置しました。

約1300本北海道から九州まで・・・・70パーセントは近畿地方ですが。

もともとは個人的に日立にアイデア商品や企画を売り込んでいた有名人が実現させていたもので
昭和40年代から設置していたらしく実態は日立でも不明だったらしいです。

ある年、日立の役員が、それもかなり上のかたが京都に行かれ、「あちこちで訳の分からない自分の会社の看板が立っているが錆びているのもあるし倒れているのもあるしいったいどうなっているのだ」と激怒し東京に戻るとすぐに宣伝部長に現状把握と、今後どうすべきかまとめろということになりました。
それで一応屋外広告で全国に支社がありネットワークを持ち、小回りが利くとかで我が社に指名がきまして、私の担当になりました。
それは入社7年目の私にとって初めての大仕事でした。

まづはそれを請け負ってた、個人でやっている業界でも有名な会社の社長に面会しましたが、資料の引き渡し交渉から権利を買い取ってくれとか面倒なことになりました。

その件は日立の法務部で解決してくれ、結局は金で解決し資料を引き取りました。
しかしそれは、設置の寺社名リストだけの殆ど無いに等しい資料で、それを頼りに半年で現状調査結果を出すことになりました。

パソコンもない時代、横罫のグラフ用紙を何冊も買い込んで計画表やら全て手書きで悪戦苦闘しました。
なにしろ契約書は和文タイプライターで打っていた時代ですから、、、、。

このころになると日立の担当から「多分新規にやり直す雰囲気だぞ」という情報を貰い「文化庁の後ろ盾でもあれば嬉しいです。」とか言う話になる。

「こうなればお任せください」と、とある政治力であっという間に担当課長にアポが取れ私も文部省に付いていきました。
当然のことながら相手にしてくれませんでしたが粘ったすえ”文化財愛護のシンボルマークの使用は容認する”という課長名入りの文書をもらいました。
今なら国会で使用を認めたのですか?と追及され黒塗りの書類が出てくるかも???です。

会社にはカーボン紙を挟んで書かれた右肩上がりの楷書の原本がしっかりファイリングして保管してあったはずですが、今でもあるのかどうか?

これで一挙に新設ムードになり発注をもらいました。
昭和51年の事です。
取付完了は52年中の契約でした。
この2年間は京都だけでも10回は行きました。

このプロジェクトで如何に人を動かすかのむずかしさを学びました

設置されて40年!たまにテレビでブラタモリで見たり、神社仏閣が出てくると見たりしますがその後どう管理されてるのか情報は知りません。

入社した会社の初日の新人研修の最初は、30代後半の、やる気十分の、上昇志向の、薩摩隼人の、理科系の
横文字が出てくる営業本部長の講義でした。

男が社会に出たら何か作品を残さなければなと言いました。

その言葉が何十年も引っかかっていました。私にはレガシーはあったのだろーか?と

30代から土日の午前中は家内とテニスクラブに行って友達と一緒に時間を過ごしていましたが
その中の一人が数年夏になると来なくなる。
後年訳を聞くとその数年は大井町の飯場にいて東京湾の地下でトンネルを作っていたという。アクアラインですね!
ゼネコン大手に勤めていれば、孫にこれはじーじの作品だと言えます。広告屋にはあるのだろうか?

先日夕刊に和服のウッディ・アレンの懐かしいいい匂いがしますの写真が出ていた。
堤清二や田中一光・糸井重里の仕事の紹介でした。80年代初頭です。

ですから広告も40年保つレガシーだなんて思いました。
デイサービスで昼にカレーが出ると必ず「ハヤシもあるでよっ」と声がかかる。
これも50年の歴史はあると思う。

去年の4月の中頃いつものように朝7時にNHKにテレビをつけた。
画面がおかしい。
銀行員風の男の顔のアップでしかも泣いている。何処かを見上げている。カメラはそれを追う。
ズームすると壊れた天守閣!そうです昨晩熊本地震だったのです。
おはよう日本は熊本からの中継で始まったのでした。
カメラは熊本城天守閣から下りてきて泣いている男のいる地上まで引きます。その間に天守閣に行く観光道路に沿って引いていきましたが、その間火気厳禁ボードがアップされました。
私は思わず「建っていた!」とさけんでしまいました。
地震なのに何が火気厳禁だと?
でも昨日まで熊本の誇り、国宝熊本城と記されたボードを見学の人は見て歩いて行ったのです。

震度5の揺れにも耐えこの小さな看板が立っていたのが嬉しかったです。
泣いていた男は大西熊本市長でした。

その時火気厳禁ボードはわたしのほんの星屑のような
レガシーと思いました。