ひまわり日記 2

名古屋駅前のフリー雀荘スタッフと店の成長日記
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よーこです

2010-06-12 08:03:41 | Weblog
さてさて、そろそろむわっとむしっとな夏が近づいて参りました。

屋内から外へいくと、湿気を含んだ風が押し寄せてきて、ああ、夏がくるんだなあとしみじみと感じさせます。

季節が移り変わるときの空気は、とても好きです。
これから何があるんだろうと、ちょっとうきうきしてしまう。

もっとも、あと1ヶ月もすれば、暑さのあまりにくだまいていると思いますが。
だってのどもとすぎるから。
空調に慣れた現代っ子ですから。


さて。

世間話で和んだところで、以前ちらっと書いた、中国、ラオスの旅の続きの日記を書き繕ってみます。
ラオスの街、ルアンパパーンで、ちょっと体調を崩したところからの話です。


思えば旅をしていたのは、2月。あれから、4ヵ月が経とうとしています。
日記を書きながら、なんだかひどくなつかしく感じる今日このごろ。

今日はいい天気で、旅をしている人たちみんな、この空のどこかにいるんだなあと、ちょっと思ったりしました。





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体調が芳しくない。
というより、お腹がゆるい。
一昨日、ビールを6本(瓶で。でも小さめ)飲んだせいか、それとも冷え込んだ夜にふらふらと出歩いていたせいだろうか。



食欲がなかったので、朝ご飯は、宿の近くのお粥を食べることにした。
揚げパンを浸して食べるという、ちょっと変わったお粥なのだが、さっぱりとしていて、美味しい。
これで体調が万全ならば、おかわりしていただろうなと思いながら、わたしはプーシーの丘へと向かった。

このプーシーの丘は、ルアンパパーンの町の中央に位置する山で、プーシーというのは、「聖なる」という意味だそうだ。
つまり、「聖なる山」だ。

まだ日が頂点を指す前。
暑さがピークを迎える前に、わたしは丘の入り口にたどり着いた。




約400段の石段を登ると、町全体が見渡せる。
鳥の鳴き声、虫の声。涼しい風。
木々の間からのぞくメコン川。
町並み。



その上には、小さな寺院があり、中腹のいたるところに、隠れるようにいくつもの仏像があった。



昼間は日向にいると、冗談でなく倒れそうなほど暑いのだが、木陰にはいると、これもまた冗談のように涼しい。
石段に座って、本日の日記などを書き記していると、下のほうで、なにかを売っているおばさんたちがいた。

よくよく見てみると、小さなかごの中にいれた鳥を売っていた。

飼うためというわけでもなく、食用というわけでもなさそうだ。
しばらくじっと見ていると、他の外国人観光客が、「これは何のためだい?」と聞いていた。

「for run away」

おばさんは言った。

逃げるため・・・逃がすため。
あ、「功徳」、かな?

と、気づいた。

閉じ込められている鳥を逃がす。
それが功徳に、善行を積むということになるのではないだろうか。

半分推測だが、たぶん、そんなようなことではないかと思う。

なるほどなるほど、と思いながら、喉をさする。
ちょっと、喉が痛い。
気のせいか、咳と鼻水が。
あれ、もしかして、風邪・・・?

てっきり酒を飲みすぎた後遺症かと思ったが・・・これははやく休んだほうがよいかもしれない。

そう思いながら、わたしは宿に戻った。

その夜。

ひとり、ベッドの上で寝返りをうつ。

喉が痛くて眠れない。
寝汗がすごい。
実際部屋が暑いのか、熱があるのか、それすらわからないまま、朝を迎えた。

今日は、ラオスから、中国に戻る日なのだ。

朝5時起床。

スリーピングバス(寝台バス)に乗って、わたしたちは中国の昆明へと向かう。約24時間の旅だ。
この体調でスリーピングバスで移動というのは、ちょうどいいのか悪いのか。
とりあえず寝ていればいいので、楽といえば楽なのだが、何せ道が悪路。
がたがたとバスはゆれ、体がときおりバウンドする。
おまけに中国人で埋まった車内では、煙草の煙がもくもくとあがる。

でっかくはられた車内禁煙のマークは何のためにあるのか。
飾りか。ただの模様なのか。
いっそはがしてしまえ。

・・・などと文句を言う気力もなく、 バスは進む。

国境間際では、バスを止められて、突然軍人らしき数人の男がやってきた。
手荷物検査があるという。
バックパックから、小さな鞄まで、すべて中を開けられて、調べられていく。
中国からラオスに行く時はなかったのに、逆の場合は厳しいらしい。

彼らはにこりともせずにチェックを終えると、いっていいぞとばかりに、首を振った。

乗客全員がパスをして、バスは中国へと入った。

そういえば、国境近くのミンラーという町で小休憩があった。
ふらふらと町を歩き、ごはんを食べる。

その途中で、街医者らしき小さな診療所を発見した。


「・・・ちょっと、熱、はからせてもらっていい?」


旅の相棒、Iに言うと、彼は通訳してくれた。
どうやらオーケーらしい。
なつかしの水銀体温計を貸してもらい、測る。

その間、簡単な問診。

いつから気分悪いの?
薬は?
持っている? どれどれ・・・ああ、この薬は、熱が高くないと飲んじゃだめだよ。まず熱を測って、その結果次第で・・・そろそろいいね。ちょっと体温計見せて。えーと・・・


38度。



「薬、飲んでいいよ」



あ、どもー。
な~んだ。やっぱり熱あったんじゃん。
ふらふらになってておかしくないじゃん。よかったよかった。

よくわからない感情でへらへらと笑いながら、お医者さんにお礼をいって、再びバスに乗り込む。
寒いような暑いような夜を迎え、そうして朝6時。

わたしたちは、再び昆明へと足を踏み入れた。

今までの旅路としては、

北京→昆明→景洪→ラオスだ。

マイナスの気温だった北京を出発し、昆明についたときは、なんて暖かい町なんだろうと感動したものだが・・・。

昼はタンクトップで蒸し上がるようなラオスから、昆明に戻った今。

ひたすら、寒い。

朝着、ということもあるだろう。
しかし何しろ体調が悪い。

がたがたと震えながら、宿に到着。
北京でもらっていた薬を飲んでいるものの、効いているとはいいがたい。ただの風邪じゃないんじゃないか、何かに感染したんじゃないかともちらっと思いながら、わたしはちょっと泣きそうになっていた。

これからまだ旅があるというのに・・・。
一人旅ならともかく、相方がいる旅だ。

迷惑かけてしまうのかな、わたしが足止めさせちゃうのかな、と、泣きたくなった。
体調が悪いせいで、たぶんいろいろと弱っていたのだろう。

日が昇り、少し暖かくなったころ、わたしはふらふらと病院に向かった。
宿のおねーさんに書いてもらった地図を見れば、その立地は、宿の裏に位置するといっていいぐらいの近さだったのだが、さすが中国。

広大な土地。

縮尺の仕方も半端ではない。

路地を通りぬけ、ビルを通りぬけ、道行く人にさんざん道をたずね、おじちゃんにはあっちだといわれ、おばちゃんにはこっちだといわれ、日本語なんて毛ほどにも通じない。
ナケナシの英語も通じないわ、中国語はわからんわ、身振り手振りと筆談で、がんがんと痛む頭を抱えて、ふらふらと病院にたどり着く。

仮にもAIUと提携している病院。
キャッシュレスサービスが通じると、AIUガイドにも書いてある。
さぞかしインターナショナルな病院だろうと思って中にはいってみると、英語案内がほぼない。
なんだか、ローカル色が強い様子。

あれ・・・と思いながら受付のおねーさんに声をかける。



「えくすきゅーずみー」
「*****(中国語)」
「わかんなーい(日本語」

ぎゃーっと思っていると、受付のおねーさんが、ひとりの看護婦をつれてきた。
どうやら英語がしゃべれる人のようだ。
一通りわたしの体調を聞いた後、彼女はのたもうた。

「ええとね、外国人向けの医師がくるのが、2時からなの。だからもし体調がテリブルじゃなかったら、また2時にきてちょうだい」


けっこーてりぶるです。

思いながらも、NOといえない日本人。
だいたい、体調悪いときには、日本語以外はなしたくない。

中国語ははなから分かるわけもなく、ただでさえ乏しい英語能力も、痛む頭のせいで、まっしろ。
「熱がある」ということを言いたくても、文章が思い浮かず、ひたすらおねーさんに向かって「フィーバーフィーバー(熱、熱)」といい続けていた。

自分、楽しそうだなあとぼんやりと思ったものだ。


結局いったん帰って、宿で寝ていたら、いつの間にか時計は15時半を指していた。
今度はIについてきてもらって受付にいくと・・・


「もう遅いです。医師は帰りました」


はやいよ医者ー!


でもつらいんだよー。なんとかしてよー。
・・・てなことをIに言ってもらって、とりあえず熱を測らせてもらったら、やはり38度近くある。

急患扱いで診てくれることになったのだが、案内された部屋で、わたしを見た医者はいったものです。

「日本人? だめ。言葉わからないから」
「いえ、この子には通訳(Iのこと)がいるから大丈夫です。熱もあるので、診てあげてください」


なんてことを、医者と看護婦が話していた気がする。
もちろんわからないけれど、なんとなく、そんなこと言われたんじゃないかな、という雰囲気だったのだ。

結局簡単に問診をしてもらって、薬をもらった。

そして会計。
キャッシュレスを受けれるはずが、保険証をみせても「なにそれ」状態で、受けれず。
といっても薬代いれて25元(300、400円くらい)だったけれど・・・。

宿に戻って、一晩寝ると、熱はまだある気はするが、まだましになっていた。

何より、同室の子たちがとても優しかった。

昆明に戻ったとき、わたしたちは「茶花」というYHA(ユースホステル)に泊まることにした。
ホテルを改装してつくられたその部屋は、中国では珍しく(というより、今回の旅では珍しく)男女別のドミトリーで、ひとりひとりにベッドがある(二段ベッドではなく)、とても快適な部屋だった。

同室になったのは、中国人のかわいい女の子2人、韓国人の女の子ひとり。言葉はまったく通じなかったのだけれど、わたしが体調が悪いことを知ると、みかんやお煎餅をくれた。

ドライヤー使ってね、シャワーの使い方は、こうだよ・・・。
言葉はわからないけれど、優しくしてくれた。
まだ日も暮れていないうちにベッドに入ったわたしを見て、彼女たちはお互いに顔を見合わせて、それから話をやめて、静かにしてくれた。

道端に痰を吐く中国人、車内禁煙のマークの下で、もくもくと煙はく中国人。
話しかけると嫌そうな顔をする人、怒涛のごとくしゃべる人、笑顔で話しかけてくれる人、眉をひそめる人。

でもやっぱり国籍じゃなくて、Personalityなのかな、と、思ったものだ。


この日。
2月8日。

日記には、へろへろの文字で、こんなことが書いてある。


「今は心細い。ガマンだ。いけ! やれる! しっかりしろ自分! 病は気から! がんばれー!」



翌日は、朝6時半に起きて、大理という街に行く。
標高は軽く1000メートルを越える。

白族と呼ばれる、小数民俗が住まう街。
楽しみにしていた街なのだ。



なんでわたし、体調悪いんだろう。

ちょっと泣きてえなあと思いながら、眠りについた夜だった。