サラリーマン生活も後2ヵ月を切った。昨日のことを忘れるようになったが、前の事は結構覚えてるんだな。これは老人の基本(笑)。僕が就職活動を始めたのは大学5年の秋だった。当時は企業も公式には協定を守り、会社訪問が出来るのは卒業見込み年度の前年。10月からだった。つまり普通の人なら4年生の夏休み明けから会社訪問解禁。
人より1年遅れて大学に入り、そこからまた1年遅れて大学を出た。本来、就職するはずだった1976年というのは第1次オイルショックの影響で最低の就職率だった。折角2年遅れたのだから、世の中は好転と行きたいがほとんど変わらず。余談ではあるが当時の最低と言いながらも76年はかろうじて就職率70%をキープしていた。今の大学生に比べたらまだまだ救われていたと思う。
1977年10月1日の解禁で今勤めている会社の原宿本社を訪問し、翌日は大阪に帰り日本楽器に出向いた。そのほかゼミで保険を学んだこともあり2~3社損害保険を訪れたが、やはり自分には製造業が合っていると感じた。
試験は11月1日から。当時は今のようなエントリーシートなんぞなく、履歴書ともう1枚何かを書かされた気がするが、全く覚えていない。試験会場は狭山の工場だった。前日に南大塚にあるビジネスホテルへ移動。親父の会社が狭山と商談する時に泊まるホテルであったが、入り口の看板を見てビックリ。『お二人様、ご休憩』・・・ラブホやないか!!何考えてるねん、オヤジの会社(笑)。
受付で更に驚く。『今日は混み合いますので相部屋でお願いします』ちょっと待て、ラブホで相部屋ぁ???気色ばむと相手も一人だという。今ならそこを断り、新宿辺りに泊まるだろうが、その頃は全然土地勘無し。仕方なく部屋でTVを見ていたら『失礼します』とスーツ姿の兄ちゃんが入って来た。
話をすると、同じ会社を受けるという。人がTVを見ている横で入社試験参考書を開きだした。なんちゅう堅物?これがその後、散々一緒に遊び歩くことになるS川であったのだが、当時は知る由もなかった。翌日の朝、食堂は受験らしき学生ばかりであった。どうもみな相部屋に入れられたようだ。稼いだなぁ、南大塚のラブホ(笑)
筆記試験はとにかく量が多かった。人より2年も長くやった英語なんぞ、最後まで記入出来ずにショックを受けつつ午後は面接があり、結果はその日の内に体育館に貼り出される。なんともエグイ会社でまず1日目に半分が落とされた。何とか残ったが、あの英語で良く通ったもんだ(笑)。
ここに続く
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