今思うのだが、なぜカップスが好きだったんだろう?近所にあった星電社のレコード売り場にぼーずを可愛がってくれたお姉さんがいたのだが、彼女が熱烈なファンだった。彼女から影響を受けた事が一因とは言えるだろう。ただ、他のバンドがかすむほどにカッコいいメンバー達だったことは間違いないと思う。
当時は初期のビートルズの影響か、グループ全員が同じ服を着ているのが普通だったのに、アルバムジャケットの彼らは全員私服。それも『どこで買うんや』と言いたくなるようなユニオンジャック柄とか(笑)。兎に角、個性的なメンバーだった。
アルバムも独特だった。当時はシングル盤を数枚出した時点でアルバムにする事が多く、ほとんどがAB面の寄せ集めだったが、カップスのファーストに彼らのヒット曲は3曲だけ(笑)。あとは全てオリジナルとカバー曲だった。新しい曲を取り入れるのが非常に速く、それが流行り出す前にレパートリーにしていた。ぼーずは元歌より先に“スプーキー”“ホールド・オン”等をカップスで聴いたのだ。
特筆すべきはR&B(リズム&ブルース)ですら先端だったのに、マディー=ウォーターズのMojo Workingがファーストアルバムに入っており、他のバンドがR&Bと騒ぎ出した頃、カップスはブルースをやると宣言したのだ。
ワンモアタイムというカップスのドキュメンタリー映画があるのだが、メンバーでブッチと呼ばれていた日系米人のケネス伊東の親はPX(酒保、軍隊の売店)を仕切っていたと言っていた。輸入盤のレコードを仕入れるのはお手の物だったのだろう。余談だがワイルドターキーの販売価格が1万だった頃、ぼーずは軍属の知人を通して2千円(手数料にもう5百円よこせと言われ、最終的には2500円)で買っていた。あれで一般人に売ってくれていりゃなぁ。
残念ながらその1に書いた通り、カップスの演奏を生で聴くことはなかった。高校の何年生だったろうか、彼等は沖縄ツアー中に火事にあい、当時のベースだった柳ジョージ以外は楽器を持ち出せず、これがきっかけとなり彼等は解散したという。
この映画は大手の配給ではなかったので、新宿伊勢丹のそばにある小さな映画館へ見に行った。当時の本牧は、いつベトナムの前線に送られるか分からない兵士達がたむろしていたような街で、確かに中学生が遊びに行くような所ではなさそうだった。
映画の中で『Golden Cupの前まで行ったけど怖くて入れなかった』と後述していたのはビートたけし。オカンのアドバイスは当たっていたようだ。
もうちょっとここに続く。日付は縦に続けるためのダミーです。
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