🍰🍰エーデルワイス🍰🍰②
🔸牧野、会長のもとには約20年させてもらいましたけど、私はその間、会社で働いたという意識はありませんでした。
会社員としてひと月働いて給料もらうとか、そんなことは1度も思ったことがない。
ですから、仮に給料がよその半分しかなくても、気にもならなかったでしょう。
もう気持ちは会長にベッタリで、会長が長期間ヨーロッパに出張に行かれたりして不在になると、
どうも調子が狂うんですわ(笑)。
もっとも、海外には他のスタッフよりもたくさん連れて行ってもらいましたけども。
🔹比屋根、あなたからその話を聞くのは初めてだ(笑)。
🔸牧野、とにかく、きょうもまた会長に会える、きょうは会長からどんなことを言っていただけるんやろうかと、
それが、楽しみで毎日お店に出ていました。
もちろん叱られるかも分からんけど、
それも含めて、楽しみだったんです。
だけどいま振り返ると、
会長がおっしゃることは滅茶苦茶でしたね。
普通の人だったら「えっ?」て顔をしかめるようなことを平気でおっしゃる(笑)。
でも弟子の私らとしては、会長が白いものを「これ、黒だよな」とおっしゃったら、
明日の朝までに黒にしたければあかんわけでしょう。
会長はどういうことを求めていらっしゃるんだろう、と自分自身で懸命に考える。
そこからいい知恵が出たり、創意工夫が生まれたりしてくるんですね。
だから私はいまだに、会長から
「これ、黒だよな」
と言われて
「いや会長、これは白ですよ」
ということはありません。
会長があえて黒とおっしゃるからには、
意味があるに違いないと考えるんです。
こちらからは
「いつまでにご用意すればよろしいですか?」
と確認するだけ。
「2、3日中にな」
と言われれば、それまでに何としても黒にする。
グレーでは、決して許していただけないでしょう。
会長がいまもそういう妥協を絶対許されないのは、すごいことだと思います。
🔹比屋根、牧野君が一回り大きくなったと感じたのは、
やっぱりヴィタメール(ベルギー発祥の洋菓子ブランド)に研修に行ってからだったと思う。
ヴィタメールと業務提携が決まり、あなたを10ヶ月ほどヨーロッパに派遣して、
ヴィタメールやヨーロッパ各地の洋菓子店で勉強してもらったけど、
向こうの空気に触れて一皮むけたし、
人間としてもさらに大きくなり、
ずいぶん自信をつけて帰って来たね。
🔸牧野、ベルギーに行った時はもう衝撃で、
人生もお菓子に対する見方も随分変わりました。
30代に入った頃でしたけれども、
会長から指名されて海外へ行くのは初めてでしたし、
「向こうのすべてを持ち帰って来い」
と指示をいただきましたから、とにかく真剣でした。
レシピはもちろん、作業台の高さとか、
引き出しがどこにいくつあって、どんなものを入れているかまで確認しましたし、
厨房の什器の寸法を紐で測って、
仕事が終わってから部屋でそれをまとめたりもしました。
とにかく3日に1回は会長に報告しなければいけませんでしたから、
とても向こうの名所を観光する余裕なんかありませんでした(笑)。
🔹比屋根、せめてお店が休みの日にはということで、
息抜きも兼ねてドイツやスイスの工場にも行ってもらったけれども、
本当によく頑張ってくれました。
ヴィタメールには、牧野君を最高責任者に何人も技術者を送り込んだけれども、
あなたのように根性もあり、
本物の腕を持っているいる技術者たちが、向こうでさらに自分の腕を磨きながら、
ヨーロッパでも負けないという自信をつけて帰って来たのは、
本当に大きな収穫だった。
だから我われが日本で立ち上げたのは、中途半端なヴィタメールじゃないんだね。
おかげでいまヴィタメールだけで年商55億円に達しているけども、
そうやって海外ブランドの導入に成功したことで、
いまはヨーロッパ中の有名ブランドが、うちとジョイントしたいと言ってきてるんです。
🔸牧野、ヴィタメールの立ち上げに携わっらせていただいた頃、周りの同世代の人間はもう自分の店を持ち始めていました。
正直焦りもありましたけど、ヴィタメールという新しいブランドにすごく興味があったので、
自分の独立もそっちのけで夢中になって取り組んでいました。
会長から「もうええぞ」と独立を認めていただいたのは、
ヴィタメールを無事軌道に乗せることができてからでした。
🔹比屋根、確か40を過ぎた頃だったね。
🔸牧野、42歳でした。
それまで約20年間、会長のもとで修業させていただいた間には、
語り尽くせないほど思い出がありますけれども、
世界洋菓子コンクールで会長とダブル受賞できたのは嬉しかったです。
🔹比屋根、自分の優勝よりも、教えた弟子が優勝したことのはうが嬉しいものです。
厳しく厳しく鍛えたけれども、期待に応えて優勝してくれたんだなと。
🔸牧野、本音を言いますとね、それはもうきつかった(笑)。
勉強させていただけるのはありがたいけれども、その結果は絶対に求められますから。
🔹比屋根、優勝しないとダメだというのがわ 、僕の条件だからね。
🔸牧野、2位から50位までは一緒やと。
だから、今回は2位でした、3位でしたといって帰って来たら、しばらくは口も聞いてもらえない(笑)。
駆け出しの子が一所懸命練習して、やっと5位に入賞して喜んでいるのをご覧になって、
「あいつは、もう伸びん」
とため息をついていらっしゃったこともありましたね。
「入賞しただけで喜んどるやつはもうダメや」
と。
そういう会長の姿からは、エーデルワイスを創業されて以来、
ずっと積み重ねてきた歴史を絶やしてしまうことが、我慢ならないというお気持ちが、
ひしひしと伝わってきました。
だからなおさら優勝しなければならない。
それは、ものすごくきつかったです。
🔹比屋根、そうやってこれまでに800以上も賞をいただいて、うちから次々と日本を代表する職人たちが育っていきました。
だからエーデルワイスのいまがあると思う。
🔸牧野、エーデルワイスが東京へ初めて進出した時は、まるでドラマみたいでしたね。
🔹比屋根、あれからもう35年か。
いまの本社の横にあった研究所に、牧野君をキャップに10人ほど技術者を集めたんだったな。
全体に鉢巻をさせて、
「これから東京に行きなさい」
といって、夜中の12時に杯を交わした。
🔸牧野、私も含めて家族を待っている人もいるのに、その1週間後には東京ですよ(笑)。
🔹比屋根、君たちは特攻隊だから、帰ってくるな。
命を懸けろと。
命を懸けてやれば絶対成功すると信じて行かせた。
だからいまの東京の店があるんです。
東京進出は、銀座三越様からぜひ出店してほしいという強い要請があって決断したわけだけれども、
銀行はどこも大反対で全部手を引いてしまった。
もしこれに失敗したら会社もダメになるから、
会社を潰すか潰さないかは君らの頑張り次第だ。
君らが発った翌日に僕も上京したけれども、
皆目の色を変えて頑張ってくれていたね。
🔸牧野、事情を伺って、もう家族がどうかと、それどころじゃなかったですよ。
最初に寝泊まりしていたのが、門前仲町に立ち上げた工場の向かいの3 LDKでしたね。
そこへ現地採用のスタッフと一緒に16人で押しかけたものですから、
毎日ジャンケンで横になる場所を決めていましたけど(笑)、
まぁ、寝る時間なんかほとんどなかった。
そういう中でも、会長に言われて毎朝近くの八幡神社を皆で掃除してから厨房に入っていました。
🔹比屋根、きっとご利益があると考えてね(笑)。
🔸牧野、いい所でしたね、いま思えば。
ちょうどいまの祥行社長が東京の大学に在学なさっていて、よく手伝いに来てくださいましたね。
結局東京にはそのまま8年いましたけど、
頑張った甲斐があって、多い時には年間で一気に4、5号店オープンするくらいの勢いでした。
🔹比屋根、君たちには随分苦労をかけたけれども、去っていった者が誰1人なかったのは本当にありがたかった。
あの時は、皆でゼロから出発するんだというロマンがあったね。
当時のスタッフたちと分かち合ったあの経験は、間違いなく今日に生きているし、
創業から50年、そうしたいろんな節を乗り越えて、
しっかり基礎、土台を積み重ねてきたから、
エーデルワイスは強い企業になることができました。
おかげさまで先日の決算でも計画以上の利益が出たので、契約社員も含めて全社員560名に決算一時金を支給したんです。
🔸牧野、あぁ560名の社員さん全員に一時金を。
それは素晴らしいですね。
🔹比屋根、皆とても喜んでくれて、しばらくは社員からのお礼の電話が鳴りっぱなしだったよ。
今期は利益目標を1億円オーバーしたら、
その1億円を全員に分配すると宣言してるけれども、
そうやって社員に夢を与えることが大事だと僕は思う。
創業から50年で会社に揺るぎない基礎ができたのも、支えてくれた社員のおかげ。
やっぱり何より大事なのは人だからね。
(つづく)
(「致知」7月号、比屋根 毅さん牧野眞一さん対談より)
🔸牧野、会長のもとには約20年させてもらいましたけど、私はその間、会社で働いたという意識はありませんでした。
会社員としてひと月働いて給料もらうとか、そんなことは1度も思ったことがない。
ですから、仮に給料がよその半分しかなくても、気にもならなかったでしょう。
もう気持ちは会長にベッタリで、会長が長期間ヨーロッパに出張に行かれたりして不在になると、
どうも調子が狂うんですわ(笑)。
もっとも、海外には他のスタッフよりもたくさん連れて行ってもらいましたけども。
🔹比屋根、あなたからその話を聞くのは初めてだ(笑)。
🔸牧野、とにかく、きょうもまた会長に会える、きょうは会長からどんなことを言っていただけるんやろうかと、
それが、楽しみで毎日お店に出ていました。
もちろん叱られるかも分からんけど、
それも含めて、楽しみだったんです。
だけどいま振り返ると、
会長がおっしゃることは滅茶苦茶でしたね。
普通の人だったら「えっ?」て顔をしかめるようなことを平気でおっしゃる(笑)。
でも弟子の私らとしては、会長が白いものを「これ、黒だよな」とおっしゃったら、
明日の朝までに黒にしたければあかんわけでしょう。
会長はどういうことを求めていらっしゃるんだろう、と自分自身で懸命に考える。
そこからいい知恵が出たり、創意工夫が生まれたりしてくるんですね。
だから私はいまだに、会長から
「これ、黒だよな」
と言われて
「いや会長、これは白ですよ」
ということはありません。
会長があえて黒とおっしゃるからには、
意味があるに違いないと考えるんです。
こちらからは
「いつまでにご用意すればよろしいですか?」
と確認するだけ。
「2、3日中にな」
と言われれば、それまでに何としても黒にする。
グレーでは、決して許していただけないでしょう。
会長がいまもそういう妥協を絶対許されないのは、すごいことだと思います。
🔹比屋根、牧野君が一回り大きくなったと感じたのは、
やっぱりヴィタメール(ベルギー発祥の洋菓子ブランド)に研修に行ってからだったと思う。
ヴィタメールと業務提携が決まり、あなたを10ヶ月ほどヨーロッパに派遣して、
ヴィタメールやヨーロッパ各地の洋菓子店で勉強してもらったけど、
向こうの空気に触れて一皮むけたし、
人間としてもさらに大きくなり、
ずいぶん自信をつけて帰って来たね。
🔸牧野、ベルギーに行った時はもう衝撃で、
人生もお菓子に対する見方も随分変わりました。
30代に入った頃でしたけれども、
会長から指名されて海外へ行くのは初めてでしたし、
「向こうのすべてを持ち帰って来い」
と指示をいただきましたから、とにかく真剣でした。
レシピはもちろん、作業台の高さとか、
引き出しがどこにいくつあって、どんなものを入れているかまで確認しましたし、
厨房の什器の寸法を紐で測って、
仕事が終わってから部屋でそれをまとめたりもしました。
とにかく3日に1回は会長に報告しなければいけませんでしたから、
とても向こうの名所を観光する余裕なんかありませんでした(笑)。
🔹比屋根、せめてお店が休みの日にはということで、
息抜きも兼ねてドイツやスイスの工場にも行ってもらったけれども、
本当によく頑張ってくれました。
ヴィタメールには、牧野君を最高責任者に何人も技術者を送り込んだけれども、
あなたのように根性もあり、
本物の腕を持っているいる技術者たちが、向こうでさらに自分の腕を磨きながら、
ヨーロッパでも負けないという自信をつけて帰って来たのは、
本当に大きな収穫だった。
だから我われが日本で立ち上げたのは、中途半端なヴィタメールじゃないんだね。
おかげでいまヴィタメールだけで年商55億円に達しているけども、
そうやって海外ブランドの導入に成功したことで、
いまはヨーロッパ中の有名ブランドが、うちとジョイントしたいと言ってきてるんです。
🔸牧野、ヴィタメールの立ち上げに携わっらせていただいた頃、周りの同世代の人間はもう自分の店を持ち始めていました。
正直焦りもありましたけど、ヴィタメールという新しいブランドにすごく興味があったので、
自分の独立もそっちのけで夢中になって取り組んでいました。
会長から「もうええぞ」と独立を認めていただいたのは、
ヴィタメールを無事軌道に乗せることができてからでした。
🔹比屋根、確か40を過ぎた頃だったね。
🔸牧野、42歳でした。
それまで約20年間、会長のもとで修業させていただいた間には、
語り尽くせないほど思い出がありますけれども、
世界洋菓子コンクールで会長とダブル受賞できたのは嬉しかったです。
🔹比屋根、自分の優勝よりも、教えた弟子が優勝したことのはうが嬉しいものです。
厳しく厳しく鍛えたけれども、期待に応えて優勝してくれたんだなと。
🔸牧野、本音を言いますとね、それはもうきつかった(笑)。
勉強させていただけるのはありがたいけれども、その結果は絶対に求められますから。
🔹比屋根、優勝しないとダメだというのがわ 、僕の条件だからね。
🔸牧野、2位から50位までは一緒やと。
だから、今回は2位でした、3位でしたといって帰って来たら、しばらくは口も聞いてもらえない(笑)。
駆け出しの子が一所懸命練習して、やっと5位に入賞して喜んでいるのをご覧になって、
「あいつは、もう伸びん」
とため息をついていらっしゃったこともありましたね。
「入賞しただけで喜んどるやつはもうダメや」
と。
そういう会長の姿からは、エーデルワイスを創業されて以来、
ずっと積み重ねてきた歴史を絶やしてしまうことが、我慢ならないというお気持ちが、
ひしひしと伝わってきました。
だからなおさら優勝しなければならない。
それは、ものすごくきつかったです。
🔹比屋根、そうやってこれまでに800以上も賞をいただいて、うちから次々と日本を代表する職人たちが育っていきました。
だからエーデルワイスのいまがあると思う。
🔸牧野、エーデルワイスが東京へ初めて進出した時は、まるでドラマみたいでしたね。
🔹比屋根、あれからもう35年か。
いまの本社の横にあった研究所に、牧野君をキャップに10人ほど技術者を集めたんだったな。
全体に鉢巻をさせて、
「これから東京に行きなさい」
といって、夜中の12時に杯を交わした。
🔸牧野、私も含めて家族を待っている人もいるのに、その1週間後には東京ですよ(笑)。
🔹比屋根、君たちは特攻隊だから、帰ってくるな。
命を懸けろと。
命を懸けてやれば絶対成功すると信じて行かせた。
だからいまの東京の店があるんです。
東京進出は、銀座三越様からぜひ出店してほしいという強い要請があって決断したわけだけれども、
銀行はどこも大反対で全部手を引いてしまった。
もしこれに失敗したら会社もダメになるから、
会社を潰すか潰さないかは君らの頑張り次第だ。
君らが発った翌日に僕も上京したけれども、
皆目の色を変えて頑張ってくれていたね。
🔸牧野、事情を伺って、もう家族がどうかと、それどころじゃなかったですよ。
最初に寝泊まりしていたのが、門前仲町に立ち上げた工場の向かいの3 LDKでしたね。
そこへ現地採用のスタッフと一緒に16人で押しかけたものですから、
毎日ジャンケンで横になる場所を決めていましたけど(笑)、
まぁ、寝る時間なんかほとんどなかった。
そういう中でも、会長に言われて毎朝近くの八幡神社を皆で掃除してから厨房に入っていました。
🔹比屋根、きっとご利益があると考えてね(笑)。
🔸牧野、いい所でしたね、いま思えば。
ちょうどいまの祥行社長が東京の大学に在学なさっていて、よく手伝いに来てくださいましたね。
結局東京にはそのまま8年いましたけど、
頑張った甲斐があって、多い時には年間で一気に4、5号店オープンするくらいの勢いでした。
🔹比屋根、君たちには随分苦労をかけたけれども、去っていった者が誰1人なかったのは本当にありがたかった。
あの時は、皆でゼロから出発するんだというロマンがあったね。
当時のスタッフたちと分かち合ったあの経験は、間違いなく今日に生きているし、
創業から50年、そうしたいろんな節を乗り越えて、
しっかり基礎、土台を積み重ねてきたから、
エーデルワイスは強い企業になることができました。
おかげさまで先日の決算でも計画以上の利益が出たので、契約社員も含めて全社員560名に決算一時金を支給したんです。
🔸牧野、あぁ560名の社員さん全員に一時金を。
それは素晴らしいですね。
🔹比屋根、皆とても喜んでくれて、しばらくは社員からのお礼の電話が鳴りっぱなしだったよ。
今期は利益目標を1億円オーバーしたら、
その1億円を全員に分配すると宣言してるけれども、
そうやって社員に夢を与えることが大事だと僕は思う。
創業から50年で会社に揺るぎない基礎ができたのも、支えてくれた社員のおかげ。
やっぱり何より大事なのは人だからね。
(つづく)
(「致知」7月号、比屋根 毅さん牧野眞一さん対談より)
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