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🌸🌸知られざる日本の偉人🌸🌸④

2018-04-10 18:51:25 | お話
🌸🌸知られざる日本の偉人🌸🌸④
(松沢フミさん)


🔹岡田、もちろん歴史上の偉人🌸も大事なんですが、

日本🇯🇵には「名もなき一庶民」が、歴史に残るような偉業🌸をなした例が数多くあります。😊

例えば、日本政府🏤と日本国民が力を合わせ、多数のポーランド孤児👦👧を救った話などは、

ほとんど知られていないと思います。😵

🔸服部、知られていませんね。

🔹岡田、これはどういう話かというと、

第一次世界大戦💣やロシア革命🇷🇺⚡️の混乱🌀の中、

シベリア⛄️にいたポーランド人が、数多く亡くなり😇、両親を失った😵孤児が何千人🗻と出たのです。

そこで、その悲惨な😵状況を見るに見かねて、ウラジオストック在住のポーランド人たちが立ち上がり✊、

大正8年に「ポーランド救済委員会🌸」がつくられました。

ところが、救済委員会が欧米各国🌍に「孤児たちを助けてほしい🙏」と訴えても、

同じキリスト教国にもかかわらず、ことごとく断る✋んです。

🔸服部、欧米諸国は断った⚡️と。😵

🔹岡田、それで「もう頼れるのは日本🇯🇵しかいない」と、救済委員会🌸の会長が日本にやって来て、

当時の原敬内閣🏤に

「孤児を何とかしてもらえませんか🙏」

と嘆願します。

日本政府🇯🇵は、その救済の申し出を快諾🌟。

日本赤十字社🏥が救援活動🍀を中心に担い、

早くも翌月7月には、375人のポーランド孤児👦👧を
陸軍輸送船🚢に乗せ、敦賀経由で東京🗼まで運びました。

🔸服部、本当に迅速⚡️な対応でした。


🔹岡田、それで子供たちは、もう飢えて体はガリガリ😱、半病人😨もいっぱいいたのですが、

それを全員治療🌸して健康🍀にし、着物👚も与えてあげて、

祖国ポーランドまで送り返して↩️あげました。🎵

さらに大正11年には、

第二回救済事業🌸として、大阪で390人の子供たちを受け入れ、

同じく1人の死者を出すこともなく祖国🌍まで送り返しました。😊

また、大正天皇のお妃🌸である貞明皇后様も、ポーランドの子供たちに深く同情💓され、

現在の価値👑で約5000万円の御手元金💰を出されていますし、

ポーランドの子供たちの元には、

全国🗾から、子供用の衣服👚や義援金💰などが殺到⚡️しました。


🔸服部、困っている人の力✊になりたいという日本人🇯🇵の優しい💕心根が伝わってきます。😊🎵

🔹岡田、この第一回救済事業の時には、日本国内で腸チフスが流行し、二十数人のポーランドの子供たちが腸チフス👿に罹ってしまいます。😵

日赤の医師🏥や看護師🌸たちが

「ここで死者を出したら申し訳ない」

と、全力✊をあげて治療💉したことで、
全員元気🍀にすることができたのですが、

その時に、看護🌸をしていた
23歳の松沢フミという女性🌸が腸チフスに罹るんです。😵

ところが、フミは腸チフスになっても、
昼夜問わず献身的に子供たちを看護🌸し続け、

心配する同僚🌸たちには、こう言ったといいます。

「人は誰でも、自分の子👶や弟👦や妹👧が病に倒れたら、

己が身を犠牲⚡️にしても助けようとします。😊

けれども、この子たちは、両親も兄弟🍀、姉妹🌸もいないのです。✊

誰かが、その代わりにならなければなりません。✊

私は、決めた🌟のです。

この子たちの、姉🌸になると☀️」


そしてフミは、殉職😇。

ポーランドの子供たちは、その死を悼み😭、声が嗄れるほど泣いた😭といいます。


🔸服部、胸を打つ😭お話です。

フミは、医師が

「もうこの子は助からないかもしれない😰」

という女の子👧を、

「どうせ死ぬなら、私の手の中で死なせてあげよう😊」

と言って、毎晩🌌、就寝の時に抱き寄せて☀️添い寝💤したそうですね。

それで、腸チフスが、うつってしまった。😵

そうしたフミが示した思いやり💕の心❤️は、

私たちが子供たちに、ずっと語り継い☁️でいかなくてはなりません。✊

🔹岡田、フミは名もなき一庶民🌸ですが、

歴史📚に残されるべき偉人🌸です。😊☀️


(つづく)

(「致知」4月号 岡田幹彦さん服部剛さん対談より)

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