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信じるものは、なにか?

2019-11-29 11:16:00 | 新しい考え方
③🍀信じるものは、何か?🍀

メディアの言うことを信じて世界の姿を決めつけるなんて、

私の足の写真を見ただけで、わたしのすべてを理解した気になるようなものだ。

もちろん足だってわたしの一部には違いないけれど、自慢できるようなものじゃない。

わたしにはもっといいところがある。

腕は人並みだけど、ちゃんと動く。
顔はまま。

足の写真が特にわたしらしくないわけではない。

でも、それでわたしのすべてがわかるわけではない。

メディアに頼れないとしたら、どこから情報を手に入れたらいいだろう?

誰を信じたらいい?

専門家はどうだろう?

狭い分野の研究に人生を捧げている人なら信じられる?

いや、そうとも限らない。

シンプルなものの見方に、わたしたちは惹かれる。

賢い考えがパッとひらめくと興奮するし、わかった!

理解できた!と感じられるとうれしい。

パッとひらめいたシンプルな解が、ほかのたくさんのことにもピタリと当てはまると思い込んでしまうのは、よくあることだ。

すると、世界がシンプルに見えてくる。

すべての問題はひとつの原因から生まれているに違いない。

だから、なにがなんでもその元凶を取り除かなければならないと思ってしまう。

すべての問題がひとつのやり方で解決できると思い込むこともある。

すると、異論は許されない。

そう考えれば、なにもかもシンプルになる。

でもここに、ひとつちょっとした問題がある。

それでは世界をとんでもなく誤解してしまうということだ。

そんなふうに、世の中のさまざまな問題のひとつの原因とひとつの解答を当てはめてしまう傾向を、わたしは「単純化本能」と呼んでいる。

例えば、「自由市場」と言えばシンプルで美しい概念に思えるけれど、

それだけを信じ込めば、世界をひとつの切り口でしか見られなくなってしまう。

すべての問題の元凶は政府の介入にある、と考えてしまうのだ。

だから、政府の介入にはなにがなんでも反対したくなるし、

市場の力を自由に発揮させれば万事うまくいくと思ってしまう。

減税も規制緩和もかならず支持しなければならない、と決めつけ決めつけることになる。

それと同じように、「平等」というシンプルで美しい概念もまた、「格差」があらゆる問題の元凶だという、単純すぎる考え方につながる。

すると、どんな場合にも格差はよくないし、資源の再分配によってなんでも解決できると思い込んでしまう。

だからなにがなんでも再分配に賛成したくなる。

そんなふうに世界をただひとつの切り口で見れば、

あれこれ悩まずにすむし、時間の節約になる。

問題の本質をいちから学ばなくても、はなから答えは出ているし、その分ほかのことに頭を使える。

でも、世界を本当に理解しようと思ったら、このやり方は役に立たない。

ただひとつの解にやみくもに賛成したり、

どんなときでも必ず反対したりしていると、

自分の見方に合わない情報から目を背けることになる。

それでは現実を理解できない。

むしろ、自分が肩入れしている考え方の弱みをいつも探したほうがいい。

これは自分の専門分野でも当てはまる。

自分の意見に合わない新しい情報や、専門以外の情報を進んで仕入れよう。

自分に賛成してくれる人ばかりと話したり、

自分の考えを裏付ける例を集めたりするより、

意見が合わない人や反対してくれる人に会い、自分と違う考えを取り入れよう。

それが世界を理解するすばらしいヒントになる。

わたしも何度となく世界について誤解してきた。

現実を知ることで自分の間違いに気づくこともたまにはある。

でも、たいていは意見の違う人と話し、理解しようとするうちに自分の間違いに気づくほうが多い。

そんないろいろな意見を聞きまわってるほどヒマじゃないって?

だったら、間違った意見をたくさん溜め込むのをやめて、

少しでいいから正しい意見を集めよう。

世界をひとつだけの切り口で見てしまうのには、大きく2つの理由があると思う。

ひとつは、みなさんもおわかりのように政治思想だ。

これについては、あとで話すことにしよう。

もうひとつは専門知識だ。


わたしは「その道のプロ」を心から尊敬している。

専門家の知識に頼らなければ世界を理解できないし、みんなが専門家に話を聞くべきだと思っている。

たとえば、人口調査のプロは例外なく、

世界人口が100億人から120億人のあいだで天井を打つと言っている。

私はそのデータを信頼している。

歴史家と先史人口学者と考古学者が口を揃えて、

1800年代まで女性一人当たりの子供の数は平均5人以上で、

そのうち2人しか生き延びられなかったと言えば、そのデータも信じる。

経済成長の要因について、経済学者の中でも意見が食い違っていたら、

ここは注意したほうがいいとわかる。

役立つデータが十分に揃っていないか、
単純な説明がつかないのだろうと考えられるからだ。

とはいえ、その道のプロにも限界はある。

まず当たり前だが、その道のプロは自分の専門以外のことについてはプロではない。

本物のプロでも自称プロでも、なかなかそう自覚できないものだ。

誰でも自分を物知りだと思いたいし、

人から頼りにされたい。

何かに飛び抜けて優れていれば、「だいたいのことは普通の人よりできるだろう」と考えてしまう。

その気持ちはわかる。
だけど…

ものすごく数字に強い人たち(科学好きの集まる「アメイジング・ミーティング」に参加した超頭のいい人たち)でも、私のクイズには普通の人並みに間違っていた。

教育レベルの高い(世界有数の科学専門誌「ネイチャー」を購読しているような)人でも、普通の人並みか、普通の人より間違いが多い。

ひとつの分野を深く極めた専門家たちもまた、みんなと同じようにクイズに間違っている。

リンダウ・ノーベル賞受賞者会議というノーベル賞受賞者と研究者との交流の場が、ドイツのリンダウ島で毎年開かれる。

私は2014年にこの会議に招かれ、大勢の若手研究者やノーベル物理学賞と医学賞受賞者を前に講演することになった。

参加者はそれぞれの分野で名の知れた学者ばかりだったが、

子供の予防接種についてのクイズは、それまでで最悪の正解率だった。

正解したのはわずか8%。

この結果を見てからは、頭のいい専門家でも自分の研究領域から一歩外に出ると何も知らないのだと心をするようになった。

頭がいいからと言って、世界の事実を知っているわけではない。

数字に強くても、教育レベルが高くても、たとえノーベル賞受賞者でも、

例外ではない。

その道のプロは、その道のことしか知らない。

それに「プロ」とは言っても、自分の専門領域のことさえ知らない人もいる。

活動家の多くは、その道のプロを自称する。

私はこれまでにありとあらゆる活動家の会合で講演してきた。

世界をよくするには、正しい知識を備えた活動家の存在が欠かせないと思っているからだ。

たとえば、私は女性の権利を熱烈に支援している。

このあいだ、女性の権利についての会議に招かれて講演した。

ストックホルムで行われたこの会議には、292人の勇敢な若いフェミニストが世界中から集まった。

みんな、女性がもっといい教育を受けられるようにと考える人たちばかりだ。

それなのに、世界の30歳女性が受けている学校教育の期間は、同じ歳の男性より1年短いだけだと知っていたのは、わずか8%だった。

女子の教育が今のままでいいなどと言うつもりは全くない。

レベル1の国、特にいくつかの国では、小学校に通えない女の子は多いし、

中等教育と高等教育になると女子には手が届かない。

とはいえ、60億人が生活するレベル2と3と4の国では、女子の就学率は男子並みか、男子より高い。

すごいじゃないか!

女性の教育を支援する活動家なら、このことを知っておくべきだし、盛大に喜んでいいはずだ。

そんな例は他にもたくさんある。

女性の権利を支援する活動家だけの話じゃない。

私がこれまでに出会った活動家は、ほとんど皆、自分が力を注いできた社会問題を、実際より大げさに語っていた。

わざとやっている人もいるかもしれないが、

おそらくほとんどは自分でも気づかずに大げさに語っているのだろう。


人間は地球上のいたるところで天然資源を荒らしてきた。

自然は破壊され、多くの動物が絶滅の危機に追いやられた。

そのことは間違いない。

しかし、絶滅しそうな生き物とその生息環境を必死に守ろうとする活動家もまた、

さっき話した女性教育の活動家と同じ間違いを犯しがちだ。

人々に自分たちの主張を訴えようとするあまり、進歩に目が行かなくなってしまうのだ。

深刻な問題こそ、正確なデータをもとに議論すべきだ。

世界中の全ての絶滅危惧種が載ったレッドリストを見るといい。

世界中の優れた研究者が力を合わせてさまざまな野生動物の数を記録し、

トレンドを観測して、このリストを更新している。

レッドリストと世界自然保護基金のデータを見れば、一部の地域や分類によっては数が減っているケースもあるが、

野生のトラとジャイアントパンダとクロサイの数はいずれもこの数年で増えている。

ストックホルムの人たちは寄付をして買ったパンダ保護のシールを家のドアに貼っている。

それはいいことだと思う。

でも、自分たちの支援に効果があったことを知っているスウェーデン人は6%しかいない。

人権も、動物保護も、女性の教育も、環境への認識も、災害援助も、そのほか多くの分野も進歩してきた。

どの分野でも、状況が悪化していると活動家が訴えてきたからこそ、人々の意識が高まった。

だから、手を差し伸べてくる人たちと積極的にわかり合おうとしていたならば、はるかに多くのことが成し遂げられていたかもしれない。

いまだに問題は山積みだと言われるより、前に進んでいると聞くほうが元気が出る。

ユニセフ、セーブ・ザ・チルドレン、アムネスティ、人権と環境保護団体は、

そんな協力のチャンスをみすみす逃している。


「子供にトンカチを持たせると、なんでもクギに見える」といことわざがある。

貴重な専門知識を持っていたら、それを使いたくなるのは当たり前だ。

努力して身につけた知識やスキルを専門分野以外のことにも使いたいと考える専門家もいる。

たとえば、数学の専門家は数字にこだわってしまうことがある。

気候変動の活動家は太陽光発電に関することなら何にでも口を出したがる。

医師は、予防に力を注いだほうがいい場合にも治療を勧めてしまうことがある。

専門知識が邪魔をすると、実際の効果のある解決法が見えなくなる。

その知識が問題解決の一部に役立つことがあっても、

すべての問題が彼らの専門知識で解決できるわけはない。

さまざまな角度から世界を見たほうがいい。


私は数字が好きだが、数字に取りつかれているわけではない。

データは超がつくほど大好物だけど、それだけを頼りにしているわけでもない。

数字の裏にある現実、たとえば人々の生活を見せてくれるデータなら喜んで取り入れるというだけだ。

仮説を検証するためにデータは必要だが、

仮説をどこからひらめくかというと、

人と話したり、話を聞いたり、観察したりすることからだ。

世界を理解するにのに数字は欠かせないけれど、

数字いじりだけで引き出された結論は疑ってかかったほうがいい。

1994年から2004年までモザンビークの首相を務めたパスコアル・モクンビは、

2002年にストックホルムを訪れ、モザンビークが急激な経済発展を遂げていると私に教えてくれた。

どうしてそう断言できるんですかと尋ねてみた。

モザンビークの経済統計はあまりあてにならなかったからだ。

一人当たりのGDPが分かるんだろうか?

「もちろん、数字は見ているよ」

と首相は言う。

「でも、数字が間違っていることもある。

だから毎年メイデーのお祭りをしっかり観察することにしたのさ。

モザンビーク最大のお祭りだからね。

市民の足元を見て、どんな靴を履いているかを観察するんだ。

お祭りの日には、みんな、めかし込んで出かける。

友達の靴を借りたりできない。

友達もおしゃれして祭りに繰り出すからね。

だからいつも、じっと足元を見ているんだ。

裸足か、ボロ靴か、それともいい靴を履いているか。

それで前の年と比べてみる」

「国中を回るときも、建築現場を見る。

新しい土台に雑草が生えていたら、よくないしるしだ。

どんどんレンガが積み上がっていたら、カネを投資に回す余裕があるとわかる。

日々の暮らしに使う以上のカネがあるってことだ」

賢い首相は数字も見るけれど、それ以外のことも観察している。

人類の進歩の中でも、いちばん価値のある大切なものは、

もちろん数字だけでは測れない。

病に苦しむ人の数は推測できる。

暮らしがどれほど豊かになっているかも、数字で測ることができる。

だが、経済発展の最終的な目的は、個人の自由だし、それはなかなか数字で表せない。

人類の進歩を数字で表すという考え方そのものが変だと感じる人も多い。

私もそう思う。

この世の人生の全ての機微を数字に表すことなんて絶対にできない。

数字がなければ、世界は理解できない。

でも、数字だけでは世界はわからない。


(「ファクトフルネス」(日経BP社)オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング、ロンランド著 上杉周作、関美和訳より)


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