今日、夕方バンキシャの番組を見ていたところ、エホバの証人の特集をしていた。
一番の関心は、宗教上の理由から、子供に輸血をさせなかったことである。
エホバの証人といえば、30年位前に、福岡高裁民事部2部に勤務した時に、他の2か部にエホバの証人の事件が係属していた。裁判の内容は、いずれも「輸血拒否」の問題であった。2か部の判決が分かれていたのを思い出す。
バンキシャの報道では、自分の子供が交通事故に会い病院で輸血を準備していたところ、子供の両親(エホバの証人信者)が輸血を拒否したのである。
可哀そうなことに、子供は、10日位後に死亡した。輸血していれば助かる可能性はあっただろう。
宗教上の教義と自分の子供の死とを比較すると、明らかに、子供の命である。子供を死亡させた親の責任は重い。
エホバの証人の教団幹部は、文書で、子供は自分の意志で輸血を拒否した英雄であると讃えている。大人なら輸血を拒否できるが、子供には拒否のうんぬんはない。
新約聖書には、教義に「血を避ける」と書いてあるらしい。
新約聖書は、紀元1世紀から2世紀に教徒が書いたものらしい。当時は、病人の治療に輸血するという概念はなかったはずだ。
エホバの証人の宗教は、19世紀にアメリカのチャールズ・テイズ・ラッセルが創設した。
教義の「血を避ける」は、エホバの証人の宗教ができてからの勝手な解釈だろう。
全世界に、キリスト教の信者は何億人といるが、その人たちが輸血をしないということは聞いたことがない。
他人の血を受け入れないということは、エホバの証人の信者達が、他の人達とは別格、別の世界にいるという過剰意識である。
先日、私のブログに遺伝子の本の記事を書いた。
本の著者は、生物の先祖をたどると、一遺伝子から次々に進化して現在に至っている。生物全部は、95%遺伝子が同じと述べている。
すなわち、地球上の生物は、すべて同じ仲間なのである。
同じ仲間の人の血を貰うことに何の問題はない。
エホバの証人の信者は、それに逆行する教義を盲信しているのだ。
オーム真理教などの異端宗教と、同じレベルと言っても過言でない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます