辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

ソルボンヌ大学博士号審査会

2007-06-06 00:02:31 | Weblog
私の転換期

パリ、ローマ、開発途上国ー世界の人との連帯


仕事は、国際機関で開発途上国の再建にかかわることがしたいとおもってきた、この11年。
しかし今はどん底だ。精神的には、夢を実現したかとおもったが、スリランカ、コロンボで、国連食糧農業機関、FAOでの津波災害後のミッションの途中で入院。2005年3月22日から26日まで、長い6日間だった。

国連の仕事は、華やかな仕事をおもってきたが、語学(英語)と体力と現地での適応力。これが大事な3つの条件だとローマの日本大使館の一等書記官から電話でいわれた。

専門性と語学力。私がもっていたと信じていた国連へのパスポートは、フランスのパリ大学でとった博士号だった。国際関係論をフランスで1994年から学び、研究し、博士課程では、政治学博士というタイトルになる。

フランス語力があれば、そして、専門知識があれば、とおもってきたが、そう簡単にフランスではみつからない。事故にあい手術して松葉杖をついて半年。。

旅先で出会った多くの人たち。
ジュネーブのコンゴ女性。スイスでであった、モロッコの家族と友人。
旅でいやされ、旅でであった人たちにはげまされ、その後、またフランスにもどった。博士号から1年半たって、FAOから電話があり、イタリアローマへ出発したのが2003年11月上旬だった。

その後アフリカのコンゴへいった。内乱にまきこまれ、緊急避難をキンシャサ空港から国連軍の護衛が20人くらいついて、UNDPの国連の安全を管理する事務所までいくまでの30分ほどの時間が、半日にもおもえた。

その後第2回目のミッションでは、スリランカ、インドネシアへいった。震源地である、スマトラ沖の近くのバンダアチェまでいき、ジャカルタから飛行機で3時間。

スリランカでは緊急入院となった。気管支喘息の発作がつよくでて呼吸困難、せきがとまらず、病院へいったら、即刻入院だといわれた。検査、SARSかと疑われた。
SARSではなかったが、6日間集中治療室へはいり治療をうけた。インド系のアポロ病院というところだ。インド人医師のグプタ先生は、せきが1ヶ月もとまらないのは異常ですよ。といわれていそがしかったので、自分の健康はあまり考えている時間もなく準備、暑さでまいってしまった。

入院中は、24時間、インドからきた17-18歳から20代までの看護婦がベッドの備え付けのボタンをおすときてくれる。バングラデッシュからかえってきたのが、1998年5月。
最初の6ヶ月の、研究フェローとしての調査研究中に、クルナというところで、38度か39度の熱が続き、その後も1ヶ月半くらいはアシスタントとともに、バングラデッシュの6つのうち4つの州はホームステイと、現地のNGO(グラミンバンク、ASHA(希望))の現地オフィスで寝泊りをしながらの調査だったので、健康をかなり害した。結核になったのではいわれて、現地ではいい医師がいないし、いい病院もないので、パリへもどったほうがいいといわれた。それでUNESCO本部へ電話で事情をつたえ、その後、いったんパリへ1997年10月末にもどった。中間報告もおくれたが、提出した。最終報告は、1998年になったが、パリでの病院での治療後、UNESCO本部へ提出した。このときは、アフリカでの、日本のNGOから依頼をうけていった、南アフリカと、モザンビークでみたNGO,現地でのアフリカ女性や、モザンビークで内戦30年後に再建にかかわる白人、黒人とであって、(元大臣、あるいは、NGOのスタッフなど、NGOのヘルプをうけて自立をめざす黒人女性たち)南アジアとは違うおおらかさに心惹かれた。
マイクロクレジットについての、比較報告にちかいものになった。

したいことをすべてはできない。今はパリで、のどのポリープのスピーチセラピストの治療を継続し、気管支ぜんそくの発作をおさえ、管理する努力をしながら、今までしてきた国際開発の仕事、交際協力とはなにか、ということをかんがえながら、開発途上国にいかずにできる形でかかわっていけるか、その問いをさがすために、今かでしてきたことをまとめることにした。若いひとたち、あるいは、シルバーのひとたちにむけた11年情熱をかたむけて取り組んだ開発途上国の発展、特に紛争後の国の再建、教育、農業、漁業、マイクロクレジットの重要性を感じ、国連、UNESCO,FAO,あるいは、日本のNGOと仕事をしてきたまとめとして、現場からのメッセージとしてほそぼそと書き出した。

ただひとついえるのは、スリランカの緊急入院で、人生はかわった。退院後、1週間の休養のため、FAO本部の上司へ電話をし、モルデーブいきは中止し、インドネシア、ジャカルタへ直行することはできると交渉しOkがでて、健康問題のため、計画を変更、飛行機変更、ホテル変更で大変だったが、スリランカのFAOオフィスの助けで、インドネシアへ向けて出発することができた。

入院中にであった、インド人看護婦、医師をはじめとする多くのひとたちからまなんだのは、健康がなくては開発途上国での仕事は困難なこと、寛容な態度、おだやかな物腰、はなしぶり、ユーモアの大切さなど、どこからきているのかとおもったが、仏教のおしえから来ていることが理解できた。

自分の健康問題で、苦悩していたとき、瞑想したらどうかと、スリランカでであったひとたちにいわれ、パリへかえってから、仏教の寺院をさがしていたら、バンセンヌの森にある、チベット寺院がみつかり、たずねてみた。早速、瞑想、祈りに参加し、音楽をつかったもので、心はおちついた。今は国際開発との関わり方をかんがえつつできることからはじめた。今までは現地主義だったが、健康問題で現地には今しばらくはいけなくなった。今までのことを報告書、本として刊行し、自費出版になるが、ひとつの区切りとしたい。

この本出版にあたって、パリで最近新しくであった友人たちに、お世話になった。なかでもアパートの水漏れ問題で執筆に集中できない私の窮地をたすけてくれたのは、フィリップ、写真の編集で助けてくれたのは、フィリップと、グラフィックデザイナーのジャン、ピエールと、ピエール、イヴだ。今日、ピエールイヴと話をしたときに、昼間はどこで仕事をしているのかときいたら、石油会社で人事管理の仕事をサラリーマンとしてしながら、夜は、本業の仕事をしてから自宅へ帰るときいた。私は、理想主義者だったと、おもった。現地へいけないなら、開発途上国援助はもうできないというわたしに、新しい友人たちは、励ます。本をかいて、経験をかきながら、あふれてくる感情もかき、内部にあるおもいをつたえるには、ある程度の距離が必要だから、今病気の治療中で、現場へいけないからこそかけるのではないかと、はげまされながら、まだあってもいない読者に向けて、書いている。
パリの親友の美知子さんは、日仏の混血で、彼女は、定期的に電話してくれる。原稿ができたら、お祝いをしようかといってくれる。今は、本を書く時期だからがんばってと励ましの電話があった。現地へ行って病気でかえってきたのだから、治療して、よくなるまで、本を書く時期で、世界から取り残されたような気がしている私だが、一人ではないと気づく。

1994年、9月23日。世界にむかっていいたいことがあるなら、行って来い。才能がなくてつぶれるようなら、2年たってもだめなら福井へかえってくればいい。まだ若い。父にこういわれて、留学し、11年たとうとしている。一区切りだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。