40歳になって以降の人生など考えたこともない──ナカタの口癖であった。何も生き急ごうというわけでもなければ、人生を粗末に考えているわけでもない。十何年経ったのか考えないとわからないくらい前に、ナカタは母親を亡くした。7年にもおよぶ壮絶な癌とのたたかいの末、彼女は53歳で他界した。タバコも吸わず、ナカタのように毎日痛飲することもなく、食事に気をつけ、健康そのものだった分、癌の進行は早かった。管理職を拒み、あくまでも子供たちと現場にこだわる小学校教員だった母の、日に日に気管支に転移し、真綿を締めるように呼吸が困難になっていくことに対する恐怖を、病床の隣に腰掛けて直視していたナカタにとって、いつ人生が終わりを迎えることとなっても無念を感じない準備をすることは、必須の人生の課題だった。その一つの区切りが40歳だった。
そして去る2月の末、ナカタは40を迎えた。
毎日家を出て、ナカタの研究室へと小道を歩く。道ばたの雑草が、寒さの和らぐなかで小さな花をつけているのを見つける。猫を飼っている家をひとつ新たに発見する。孫の手を引いているのか、引かれているのかわからないような老婆とすれ違う。すべての目にすることが、代え難く貴重なそれとして、生きているこの毎日毎日を有難いと心から感謝する。
私たちは、9・11を、そしていまこの震災に続く一連の出来事を、同時代を生きる者として経験した。
「戦後」、あるいは「ポスト・モダニズム」や「ポスト・コロニアリズム」といった単語に象徴されるような、何か大きな歴史的時代の「後」でもなければ、未だ見ぬ遙か先の何かを憂い、準備をするための時代でもない、二〇世紀の終わりから二一世紀の初頭というひとつの変わりゆく世界を生きる者として、いかなる議論を私たちはしなければならないのか。
いま、ここで、目の前で。あまりにも多くの人たちが死んでいき、また、そこここで、あまりにもあからさまな不正義が、不条理が、矛盾が展開されていくのを目の当たりにして、何を問題として、何に対して「否」を発することができるのだろうか。次の時代を背負う人びとへ、この時代を生きる私たちは、何を残そうとしているのだろうか。この大切な、大切な、世界がまったく新たな何かに変わろうとしている転換点に、生まれ落ち生きたことを、本当に感謝するとともに、今一度身が引き締まる思いがする。
ロクデナシがロクデナシのまま生き延びられるような、そんな世の中を考えなければならない──ナカタの師匠が言った言葉だ。
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いま新幹線の車窓から富士山が見える。京都から東京へと向かっている。
この度、京都大学を離れ、明治学院大学に移籍することとなった。「とにかく疲れた。日本へ一度帰ろう」、とグァテマラを引き払い帰国してからのこの2010年の一年間。京都大学グローバルCOEプログラムのポスドク研究員として、本当にお世話になり、勉強をさせていただいた。まさに「忙殺」以外の何物でもない、落合先生をはじめとしたコア・メンバーの方々の背中を見ながら、億レベルの研究プロジェクトを回していくということが、いかにエネルギーを使うことなのか。申し訳ない程、この一年間、貴重な経験を積ませていただいた。これからは少しでも、もっと自立した研究者として、再び絡ませていただき貢献できればと願う。