晴耕シ 雨読書ク

農業と文章、大事にしたいです。この2つで友達できるのがうれしい。

堀干しとごみ堀、そして刺し針

2022-12-25 03:58:20 | 日記

どちらも「ほい」と読む。「ほいほし」と「ごみほい」だ。



一応匿名で描いているので、出がわかりそうだが、仕方ない。

これも冬の農業行事というか文化というか作業というか。


堀干しはクンチで客をもてなすための鮒ということでもあるが、私の集落ではこれはなかったので、もっぱら自給自足のためのものだった。とった魚は串にさし、焼き陽干していわゆるヒボカシ(というらしい)にして、副食の味付けを兼ねた乾物魚として、食べた。わが家では、焼きふなごと呼んでいた。

また、祖父や父は酒のつまみとしていた。子供の頃は生臭いのと、鮒は骨ばかり多かったので、苦手であったが、この年になってくるとうまそうだったなあと、妙に懐かしい。



ごみほいは堀(クリーク)のごみ泥を田んぼに上げて、クリーク掃除と田んぼの肥料にする一石二鳥の作業だった。とった魚は食用にしたので一石三鳥かな。


このときの魚も前の焼きふなごにしていと思うが、自信はない。ただこの時の魚はごみとともに、堀の底から上げるので鯉や雷魚などの大型魚が多いのが特徴だった。また、タニシやドジョウなどもたくさんとれた。


揚げたごみ泥は、栄養分をたくさん含んだ有機肥料になったので、農家はその順番が来るのを待ちに待っていたと思う。

子供たちはタニシや雷魚などを隣町の業者さんに売りに行って小遣いにしていた。



これ以外でも刺し針(さしばい)といって、前日の夕方までにドジョウなどを餌に、堀に仕掛けた置き針でウナギを捕る漁法を子供たちは、やっていた。もちろんこれも隣町に売りに行ってお金を稼いだので、昔の子供たちはたくましかったなあと思う。


ただ、先日書いたホンゲンギョウも今日の刺し針なども私が小学校低学年ごろまでが盛んで、私が高学年になった頃はすたれていた。坊ちゃま育ちの私が引き継げなかったのもあるが、いわゆる高度成長期だったのもあると思う。ちょうど減反政策が始まった頃でもあった。



今書いていて、ほんとに懐かしくなった。惜しいことを引き継げなかった無念さもある。これだけは昔に戻ってやり直したいなと思う。

今だったら率先してがんばる、と思うのだが…。


12.24 青春の門+No.5

2022-12-24 03:02:15 | 日記

Yさん物語No.5

聴きまちがい、強調しすぎているところ、フィクションもあります。 

はじまり、はじまり。

そろそろ本気のところに行こう。

その第一は嫁さんの話。まず、最初の奥さん。

今の奥さんには怒られるかもしれない、いや怒られることはないけど、結論から言うと最初の奥さんはがんで亡くなった。実はかなりの大物でした。私より、はるかに。

彼女とは、M印刷会社で知り合った、つもりだった。

ところが後でわかったのだけど、中学、高校が同じだったらしい。

中学校の時にある女の子からラブレターをもらった。その子と付き合うことなかったけれど、その子の友達が嫁さんだったという。だから僕は彼女のことは知らなかったのだが、高校まで一緒だった彼女はずっと、私のことを知っていた。

それが東京から帰ってきた、最初の就職先で一緒になった。高校卒業後、彼女はバスガイドになって、だから、歌はとてもうまいよ。その後M社に来たらしい。

同じ中高出身だと聞かされて始まった付き合いで、結婚した。

結婚後は彼女に助けられた。

全国のデザインコンペで賞を取ったり、五木寛之さんの本の表紙募集で採用されたことで、全国トップクラスの会社から誘いがあった時も、「いっていいよ、行った方がいい」とすすめてくれたし、K広告社に移った私が2度目の転勤で以前から考えていた独立を促してくれたのも彼女だった。この独立のとき、ちゃんと食っていけるだろうかと心配していた私に彼女が言った。「うまくいかなくても、私の写植で生活できるよ。あなたは好きなデザインを好きなだけすればいい」…私が金だけのためにやりたくない仕事までしなくていいよ、と言わんばかりだった。よく私を知ってる奥さんに感謝した。

顔も広かった。県庁や大きな会社の重役さんたちと一緒に会う機会があると、みんなに挨拶している「こんにちわ」と。なんでそんなに顔が広いのと聞くと、バスガイド時代に知り合った皆さんだという。

また私に彼女がいることがばれた時、彼女は私の大事なところを、完全消毒して、両手をついて謝らせた。私は完全に奥さんの掌の上で踊らされていた。悪い意味でなく。

その奥さんが癌で亡くなってしまった。小さい子供を二人残して。

忙しかった私は子供を見てやれないだけじゃなく、会う時間さえまともになかったので、小学生の子供とは絵日記の交換みたいなことをした。でもこれが楽しかった。

子供たちの世話は同居していた母(子供のばあちゃん)が見てくれたが、その頃子供たちの習い事の先生だった女性が、2番目の奥さんになってくれた。

私は都合3人の奥さんを持ったが、最初の子供たちとも今でも付き合いがあるし、子供たちもお互いを知っている。

実は最初の最初の子供が、ここに掲載されているイラストをインスタグラムでも紹介してくれている。


ドリアン助川さん 「ゆっくり行こうぜ」

2022-12-22 18:24:15 | 日記

この人ほんとに面白い。

エッセイ「ゆっくり行こうぜ」を読んでいるけど。

この人自身は全然ゆっくりじゃない。大忙しである。猛烈な人生だ。

だから自戒も含めてと言おうか、理想も含めてこういうタイトルにしたのではないか。

中身は超面白い。少しだけ拾うと。

 

「お前みたいにバカ丸出しでやってる奴でも落ち込むことあるんだな」

言葉のとげは昔のままだ。友人はきっと今も嫌われ者に違いない。

「誰がお前にバンドやってくれと頼んだわけじゃないし辞めたかったら辞めればいいんじゃないの」

 

何か事件が起きるたびに私は犯人にされた。やってもいないことで。

そんな時、乳をもませてくれた彼女たちはいつも私を守ってくれた。

職員室に集団で抗議しに行ってくれたのだ。

 

小心者だろうかと思うことがある。ステージを前にした楽屋での心境だ。

 

看護婦は驚くべきことに、先っちょをアルコール消毒し始めた。なんといきなり最初から息子の本質である亀の頭に太い麻酔針を打つのである。麻酔のための麻酔はないのだ。そして魔の前にギラリと光る電気メス。私は手術を終えた時、有森裕子の「自分で自分をほめたい」という言葉を思い出していた。

 

超正直者ですね。不安も自分を褒めることもすべてさらけ出して…、声をあげて笑ったのでした。

転記はひょっとしたら間違っているところもあるかもしれませんが、ごめんなさい。

 

小心者だと思うことがある…これはいいねえ。私は完全に小心者だと思うから。うらやましい。

亀の頭の話は、ほんとに抱腹絶倒とはこういうものかと思う。

 

 

少しだけの切り抜きでわかりにくい、と思う方は。ぜひ、この本読んで。

 


12月のお祭り

2022-12-19 21:03:25 | 日記

12月は各集落でそれぞれの氏神に対する最たる行事「お祭り」がある。私の集落は12月の第2日曜日、集落によっては、第1日曜日もあるが、以前はどうだったかは知らない。

私が小学校の頃は、当番の家で、来年当番の家の加勢を受けて、集落全員分の朝食を準備した。内容は赤飯に塩いわし。漬物もあったかな。文字通り、老若男女、子供から年寄りまで全員が当番の家で塩いわしと赤飯をごちそうになった。そして夕方は白いご飯と、なんだったかなおかずがあったような。忘れた。昼飯はなかった。私の時にはそうでなかったが、それ以前は平日にあったのだろう。学校へも朝食の赤飯を弁当に持っていったという話も聞いた。さらにそれ以前は夕食にうどんがあったとも聞いたような。

わが集落のように小さな13件集落でも家族全員分のいわしを焼いたり、赤飯を蒸したりするのは大変で、たぶん夜中の2時過ぎくらいから準備していたのではないか。私も成人して一度だけ、当番の手伝いをした。まだ父が十分元気な時だったので良かったが。

前日はお宮のしめ縄づくりや、子供のための太鼓の準備もした。子供たちは小学校の高学年を中心にホンゲンギョウといって、刈ほし(堀岸のヨシを切ったもの)や、干してあった藁を失敬したり、枯れた木の幹や枝を集めて丸く立てかけ燃やしたり、餅を焼いたりして食べたそうな。私も一度参加させてもらったが、低学年だったのでよくは覚えていない。隣部落も同じことやっていたので、どちらから始めるのか知らないが、よく集落同士のけんか(泥投げ合戦)になった、という話も聞いたが、よくわからない。

でも今は時代が変わり、加勢も含めて2軒でこれだけのことをするのは難しいので、前日は省略、当日の朝8時から集落の各戸代表者のみの全員参加でお宮のしめ縄づくり、宮座(宮内で神事と竹輪の半割を肴にお神酒を戴く)そして公民館で酒宴。塩いわしはなくて、お店からとったお弁当と赤飯、という内容に変わった。そういえば子供がたたく太鼓も出さなくなったなあ。実は私も正式なたたき方は知らない。

おかげで、その準備を心配していた私はする必要がなくなりほっとしているが、やっぱりあの塩いわしはうまかったなあ。これだけが心残りだ。


お日待ち 11月の集落(農村)行事

2022-12-18 23:49:04 | 日記

わが町、わが集落にはお日待ちという行事がある


よその地域ではどうかわからないが。もともとは1114日から翌日15日まで。当番の家で簡単な料理を食べ、あんこ餅を供え、全員が通夜をし、翌日の日の出を拝み、朝食時に、供えたあんこ餅を食べる習わしであったらしい。


らしい、というのは私が体験している今はだいぶ様子が違うから。

まず、実施日は11月の第3土曜日になっている。勤め人が多くなったためですよね。たぶん。そして通夜(泊)はなし。当番の人が弁当(けっこう豪華ですよ)を買ってきて、みんなでお酒を呑んで、あんこ餅を持ち帰る、もちろんその場で食べてもいいけど、に代わった。



ところが世代が変わるごとに連絡が行き届かず、間違いも起こる。

今年の場合はあんこ餅がおはぎになってしまった。

みんな、持ち帰ったのでその後不満の声を聴いた。来年は我が家が当番なので注意するようにと。



ここら辺がひょっとしたら、田舎が嫌われる理由かなとも思うけど…。

この行事は太陽とともに生きる農民の太陽に感謝するお祭りで特に精進料理で陽を迎える行事、意義深いことは間違いないし、しきたりを守る意味もあると思うけど。

時代とともに変わること、伝達の勘違いもあると思うので、あんまりがちがちにしなくてもいいのかな?


現に私もあんこ餅かおはぎであるかは知らなかった(忘れてた)。

こういう風に書いたら、私も怒られるかもしれないので、ごめんなさい。謝ります。

でも太陽に感謝する…これだけは忘れてはいけない。太陽と水これに代わるものはない。農家のはしくれとして、実感する。

伝統を守りつつ、少しづつ時代に対応する、そういう農業環境になってきているかな?


来年は間違いないように、わが家が当番勤められますように。