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コロナ自粛エッセイ(その五)極私的 「青丘文庫」実録

2020-09-09 14:39:35 | コロナ自粛エッセイ
飛田雄一
コロナ自粛エッセイ(その五) 
極私的 「青丘文庫」実録

●一

 現在、入口に次のような掲示がある。
「大韓民国済州島出身故韓皙曦博士収集の朝鮮史資料三万点のコレクション。平成八年(一九九六年-飛田)、神戸市立中央図書館に寄贈されたもの。/政治、思想、民族運動、社会経済、在日朝鮮人の五分野に分け系統的に収集されており、「国内最大級のコレクション」との評価を得ている。/「青丘」とは中国書「續山考古録」の「青丘國、海東三百里ニ在リ」から名づけられた朝鮮半島の雅称」。

●二

 青丘文庫は一九六九年にスタートした。
 韓皙曦(ハン・ソッキ)さんが、実業人としての仕事のかたわら、朝鮮史、特にキリスト教史を研究するのにまとまった文献がないことを痛感されたのだ。「青丘文庫」、命名は、韓さんがいつも語っていたように姜在彦さん、著名な歴史学者だ。
 青丘文庫が須磨区のご自宅からエバグリーンビルに移転したのが、一九七二年。このあたりから私も出入りしている。当時大学三年目(どういうわけか三年生ではない)。ビルの四階、階段を上がっていくと、各階からシンナーの刺激臭がしてくる。ケミカルシューズの工場なのだ。
 『青丘文庫月報』一号(一九八五年一月五日)巻頭言に韓さんは次のように書いている。

「新しい年となりました。青丘文庫の遅々とした歩みでありますが、いつのまにやら、始めてから一五年、現在地に移ってからでも一三年にもなり、蔵書の二万点を越えるに至りました。/(中略)一五周年記念という訳でもありませんが、できれば阪神間(西宮北口―阪急六甲)のもう少し交通の便利な処へ移転させたい、またこの機会に財団法人か社団法人にしたいものと計画し、いろいろ研究しております」

 先走るようであるが、この財団法人化について、故金英達さんと私が兵庫県教育委員会に相談にいったことがある。八〇年代後半だと思う。
 担当者曰く、神戸学生青年センターは一九七二年設立で、当時は建物だけでお金がなくても財団法人となることができたが、今は無理ですよ、建物と別に一億円?のお金(基本財産)が必要です、利息で職員をひとり雇える保障があってこそ幽霊財団にならないのです、ということであった。すでにその当時からいかがわしい財団法人が問題となっていた。二〇〇六年に法律が改正され、財団法人は公益財団法人か一般財団法人、あるいは自然消滅となったのだ。学生センターは無事、二〇一三年に公益財団法人となった。いかがわしい財団法人が跋扈していた?ためえらい迷惑を受け、複雑な公益財団法人への移行を強いられたのである。財団法人青丘文庫の定款(寄付行為)まで金英達さんと考えたのだが、徒労であった。実業人とはいえ韓さんには一憶円のお金を出すことができなかったのだ。

●三

 エバグリーンビルの青丘文庫は、その後、須磨寺近くの自宅建て直しのときに、青丘文庫のスペースも用意され、そこに移転した。ご自宅のビルの名前は、「メソン・ド・青丘」、一九八六年のことだ。
 余談だが、エバグリーンビルでの研究会後の懇親会は、焼肉「かんてき」が定番で、その後は兵庫駅西の「栄ちゃん」(小泉製麻西側)だった。そこの味が忘れられず、ご自宅の青丘文庫に移ってからも、遠路タクシーに乗って栄ちゃんにくりだしていた。その迫力たるや、普通の家のような座敷に入ると注文も聞いてくれないが人数分の肉がバケツで提供されるのだ。現在の青丘文庫(神戸市立中央図書館内)に移ってのちにも、なつかしくて行ったことがあるような気もする。

●四

 ご自宅に移転したのが一九八六年、阪神淡路大震災が一九九五年だ。その震災で、以前に青丘文庫の入っていたエバグリーンビルは全焼した。ケミカルシューズ業界ではシンナーをよく使用しており、それが火の勢いを強いものにしたといわれている。この移転がなければ文庫の蔵書はすべて焼失していたことになる。
 そして、その後の話だ。以前、財団法人化の話もあったが、韓さんは文庫をなんとか恒久的なものにしたいという希望を持たれていた。震災後に、神戸市立中央図書館に復興支援金を得て別館建設の話がでてきた。その一角に特別コレクションとして青丘文庫の話があがった(ようである)。
 韓さんの友人で神戸YMCA名誉総主事の今井鎮雄さんが助力された。今井さんは、兵庫県教育長なども歴任された方で、行政にも太いパイプをもたれていた。今井さんの働きかけもあってその特別コレクションとして青丘文庫が迎えられることになった。移管したのが翌一九九六年、その後、一九九八年に韓さんは亡くなれた。韓さんが文庫の神戸市への移管を見とどけることができてよかったと思う。月報一号の巻頭言に交通の便のいい阪急六甲‥‥、というのを読んだとき、韓さんは学生センターへの移譲を考えているのかな、スペースはないなあ、などと思っていたのだ。韓さんは、センターの設母体のひとつ日本キリスト教団の役員であり、センターの理事でもあった。私は青丘文庫の神戸市への移譲によって、センターの責任者としても、肩の荷をおろすことができたのである。

●五

 青丘文庫では二つの研究会が開かれている。在日朝鮮人運動史研究会関西部会と朝鮮近現代史研究会だ。代表はそれぞれ飛田と水野直樹さんだ。
 それともう一つ「青丘文庫研究会」がある。が、これは、もともとなかったのだが、便宜的に作られた。青丘文庫が神戸市に移管されてからその研究室をお借りしてこのふたつの研究会が開かれることになった。そこで、神戸市との事務協定締結の必要があった。二つの研究会との協定は面倒だ、ひとつの名前でいこう、そして青丘文庫研究会ができた。代表は飛田ということになった(した)。以降、研究室使用届、会員証発行などの業務はこの青丘文庫研究会の名前でなされている。
 会員証、ちょっと便利だ。ここで青丘文庫の利用方法を紹介してみる。図書館別館三階の事務室にいって登録する。それには身分証明書が必要だ。青丘文庫の鍵を受けとり、荷物をロッカーに入れ筆記用具等をもって、四階の文庫に入るのである。あとは自由だ、ひとりでゆっくりと勉強できる。会員証あればこれらの手続き一切省略できる。毎年年度初めに青丘文庫研究会の名簿を提出して会員証を発行してもらう。この会員証、とくに資格はいらないが、お金がいる。学生会員は無料だが、それ以外は、年三千円を払う。対価としては入館手続きの簡素化と月報購読だけだが、これが月報発行などの費用にあてられている。学生会員は、月報郵送はなしで、メールでの案内受信のみとしている。
 在日の研究会の方は、別途年五千円の会費が必要である。これには『在日朝鮮人史研究』三冊の代金込みだ。お徳だが、これで雑誌発行を支えている。以上、ぜひ、入会をお願いする。実は、三年前まで別途二千円を図書購入カンパとして集めていた。神戸市には新規図書を購入する予算がなかった。私たちが本を寄付したり、カンパで必要な本を購入したりしていたのである。これも、青丘文庫のスペースがいっぱいとなり新規図書受け入れを停止によって(継続雑誌はOK)、停止した。
 文庫入館をめぐるトラブルが一度あった。研究会の日、会員証をもたない韓国からの留学生が受付にいったとき、係の人が身分証明書提示を求めた。持っていなかった。すでに私を含めて他のメンバーは研究室に入っているので呼んでくれたらいいのに、それをせず証明書提示の一点張りだった。そして、その留学生は帰ってしまった。後日、そのことを聞いて、みんな立腹。その日の係の人が特に「公務」に忠実すぎたのだ。その後、その方が担当を外れて?、このようなことはなくなった。安心してきていただきたい。

●六

 時代をもどして、エバグリーンビル時代の文庫について記録しておこうと思う。
 初代の事務長さんは金慶浩さん。戦後、韓皙曦さんに朝鮮語の手ほどきをされた方でもある。文庫のいろいろな世話をしてくださった。初期の月報の手書きの字は金さんの字である。温厚な人柄で人気があった。平日に文庫にいくと、なぜか金慶海さんと囲碁をしていた。どちらが強かったがしらないが、とびきりのスピード碁であることは分かった。一冊目の文庫目録も金慶浩さんのガリ版である。在日研究会で、金慶浩さんから体験談を伺ったこともある。一九八四年三月の例会だ。堀内さんによる簡単な記録が、月報三四号(一九八八年五月、金慶浩さんは八七年四月に逝去)にある。
 また、初期の文庫には研究員がいた。宮嶋博史さんと宋連玉さんだ。資料収集の作業をし、入手不可能な資料はコピー、製本した。今も文庫にそのコピー製本の資料が多くある。図書館的には、その扱いがむつかしいそうだが、私的にはコピー本でも利用できればいい。先輩の努力に感謝している。
 一九八二年一二月二五日、NHKのニュースで取り上げられたこともある。司馬遼太郎の「街道をゆく」で青丘文庫が取り上げられたことがあった(『週刊朝日』八二年一一月一九日号)。そして、そのテレビ版があった。出演者はもちろん韓さん、そして若き日の水野直樹さん、山根俊郎さん、若生みすずさんだ。みんなそれなりにいい発言をしている。映像を見たい方は連絡ください。
 文庫に須田剋太のすてきな書があったことを覚えている方がいるかもしれない。須田さんは「街道をゆく」の挿絵を描かれていたが、韓さんの娘さんの絵の師匠でもあったと伺った。その縁で書があったのかもしれない。「飛翔」という大きな、伸びのあるすてきな書だった。「飛」の字が苦手な私はその字にあこがれている。あの額はいまどこにあるのだろうか?(ほしい‥‥)

●七

 青丘文庫ではすでに述べたようにふたつの研究会がもたれている。在日朝鮮人運動史研究会関西部会(以後、在日、代表・飛田雄一)と朝鮮近現代史研究会(以後、近現代史、代表・水野直樹)だ。
 在日の方がスタートは早い。一九七九年二月一一日に第一回研究会が開かれている。朴慶植さんが約二年間、東京から参加してくださった。研究会も充実していたし、朴さんを囲む二次会、三次会も毎回盛り上がった。
 関西部会というのは先輩の関東部会があったからである。関東部会は、朴慶植さんを中心に、一九七六年六月にスタートしたもので、研究誌として『在日朝鮮人史研究』を刊行している。関西部会発足後は、共同刊行となっている。
 関西部会は、毎月一回、研究会を開いている。当初は、朴慶植さんの書かれた『在日朝鮮人運動史』をテキストに朴さんのコメントを聞きながら進められた。朴さんのコメントも貴重だったが、それ以上に貴重だったのが、研究会および終了後の懇親会での雑談だ。朴さんはまさに在日朝鮮人史研究の生き字引で、資料のありか、捜索方法、現地調査の方法などなどほんとうに勉強になった。
 研究会は、徐々に各自の研究レポートが主になっていったが、在日朝鮮人一世の話を聞く機会も多くもった。先の金慶浩さんの他に、韓皙曦さん、朴憲行さん、徐元洙さん、鄭承博さん、それぞれの体験のお話は興味深いものだった。
 関東部会と関西部会の合同プログラムもあった。第一回目は一九九一年九月、愛知県の長篠で開かれた。梶村秀樹さんの墓参り、三信鉄道フィールドワークののち、勉強会などがあった。
 二回目は九三年九月、宇奈月温泉で開かれた。各部会からの報告、フィールドワークがあった。合同合宿がいいのは、なにより会員が一同に会して交流できることだった。互いに名前だけしか知らないというメンバーもいたのである。私は、その後、朴慶植さん、崔碩義さん、神戸大学留学生鄭燦珪さんと四人で更に奥の祖母谷温泉まででかけた。川沿いに、温泉があった。熱ければホースで水を入れるという温泉で、ゆっくりとつかり、大いに飲んだ。夜中、朴さんが、背中が痛いと大騒ぎになった。よく見ると背骨の一部が飛び出ている。大変だ。私がそっとそこに触れると朴さんは大声を出して飛び上がった。そして、治った。私がなおした?
 学生センターで操体法の講座(講師・金井聖徳)を受けたとき、人間は痛みに反応して痛みから逃れる動きをするが、それにより体の変形が治ることがあると聞いたことがある。それだったのではないかと思っている。そのでっぱった背骨は見えなくなっていたのである。
 翌朝、鄭燦珪さんと私は、お二人をのこして白馬岳に登った。けっこうハードなコースで今なら登れないと思う。

●八

 合同研究会は、その後、「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」(一九九〇年~九九年)があったので、まあそこで会うからいいかということで開催されなかった。
 その後、二〇〇四年、滋賀県立大学で、両部会と韓日民族問題学会(韓国)との共催で第一回「合同研究会」が開かれた。一九九八年二月に亡くなられた朴慶植さんの蔵書が同大学に移管されたので、その見学も目的のひとつだった。韓日民族問題学会は日本に留学した韓国人留学生らが帰国後に作った在日研究のための学会だ。彼ら彼女らはそれぞれの大学に属していたが、朴慶植さんのお弟子さんともいえるかもしれない。
 合同研究会は、基本的に関東、関西、韓国が二年に一度持ちまわりで開催している。二〇〇五年韓国(釜山)、〇七年東京、〇九年神戸、一一年韓国(仁川)、一三年川崎、一五年神戸・高槻、一七年韓国(群山)、一九年東京という具合である。それぞれにレポートもフィールドワークもすばらしい。もちろん懇親会もすてきだ。記録を散在しないようにしなければならない‥‥

●九

 朝鮮近現代史研究会は、関西部会より遅れてスタートしたが、前史がある。
 一九七〇年代の話だ。当時京都大学人文科学研究所で、飯沼二郎さんが、一九七六年四月、「近代朝鮮研究班」をスタートさせた。理論的リーダーは姜在彦さんだ。韓皙曦さん、小野信爾さん、松尾尊充さん、安秉珆さん、井口和起さん、樋口謹一さんらもいた。そこに若手の研究者が集まった。私もいちおうそのうちのひとりだ。宮嶋博史、金森襄作、原田環、宋連玉、金静美、水野直樹、羽鳥敬彦、堀和生、李景珉、兪澄子、黒岩直樹、孔裕己、リングホーファ・マンフレンド(忘れている人はいないかな?)。毎月、人文研で研究会が開かれ、研究報告書として『近代朝鮮の社会と思想』(未来社、一九八一年三月)、『植民地期朝鮮の社会と抵抗』(未来社、一九八二年一月)を刊行している。
 一九八一年四月の飯沼さんの退職後、その研究会がテーマを民族運動史にしぼって青丘文庫に引き継がれたのである。研究会の名前は、「朝鮮民族運動史研究会」、代表は姜在彦さん。
 毎月一回、青丘文庫で開かれた。研究誌として、『朝鮮史叢』と『朝鮮民族運動史研究』があった。『史叢』は、一号(一九七九年六月)から七号(八三年六月)、『研究』は、一号(一九八四年六月)から一〇号(九四年一二月)が刊行された。
 一九八七年四月、代表が姜在彦さんから水野直樹さんにかわった。
 二〇〇一年一月、研究会の名称も「朝鮮近現代史研究会」に変更した。月報一五六号に、水野直樹さんの次のような巻頭言がある。
「朝鮮の近現代をさまざまな側面から考察することを趣旨として専門研究者だけでなく市民・学生など、関心を持つ人々なら誰でも参加できる研究会として運営していくつもりです。多くの方々のご参加とご声援をお願いする次第です」。
 この研究会は現在も続いている。

●一〇

 実は、青丘文庫にもうひとつ研究会があった。「日韓・在日キリスト教関係史研究会」(以下、韓キ研)だ。代表が韓皙曦さん、事務局長が蔵田雅彦さんだ。第一回が一九八九年九月三〇日、会場はもちろん青丘文庫。クリスチャンのメンバーがいて、他の研究会のように日曜日開催ではよくないだろうと、第四土曜日の開催となった。
 韓キ研は毎月の研究会と並行して、翻訳作業も進めた。完成したのが、『韓国キリスト教の受難と抵抗―韓国キリスト教史 一九一九~四五』(新教出版社、一九九五年二月)。韓国基督教歴史研究所が発行した三部作の三冊目の翻訳だ。あと二冊も刊行の予定であると書いてあったような気もするが、そんなつもりはなかった? 日本で売れるのはこの本だけだろうと翻訳・出版したのである。そのほかにも、韓国で出版されたメンバーの徐正敏さんの『民族を愛したキリスト者たち』(教文館、一九九一年一月)もこの韓キ研のメンバーで翻訳した。
 『月報』で韓キ研の発表記録をみると、金哲顕「私とキリスト教」(一九九〇年七月)がある。同志社大学卒業後韓国に留学中、スパイとして捕らえられ獄中生活を送った人だ。そういえば、そういう発表があったと、記録をみて思い出した次第だ。
 韓キ研の最後の例会は、一九九四年一二月一〇日、杉本加代子「日韓のキリスト教受容比較」だ。会場はなぜか当時後藤聡さんが牧師をしていた曽根教会、忘年会でキムチチゲを食べた記憶が残っている。ちなみにこの研究会案内の掲載されたのが月報一〇〇号(一九九四年一二月)。同号には「『月報』もいつのまにか一〇〇号になりました。青丘文庫も設立して四半世紀になりました。民族と在日の両研究会終了後、恒例の忘年会」を開くとの案内がある。日時は一二月一八日、会場はオリエンタルホテル、飲み食べ放題三千円とのことだ。

●一一

 一九九四年一二月、前述のように韓キ研が曽根教会で、在日と近現代史がオリエンタルホテルでの忘年会が開かれ、年が明けて翌九五年一月一七日に阪神淡路大震災がおこった。月報の案内によると一月二二日に民族、李卓、在日、金英達、二八日に韓キ研、金信龍の発表となっている。もちろん開催はできなかった。
 震災後、月報一〇一号が発行されたのが、同年五月、韓皙曦さんが巻頭言に次のようにかかれている。

「以前に青丘文庫が在りましたエバグリーンビルは全焼して終いましたが、幸い須磨寺の青丘ビルは軽微な損壊で済みましたが、文庫は書棚が全部倒壊し、書籍は四方に散乱して足の踏み場も無いくらいで途方にくれていましたが、桃山学院大学の杉本さんが、学生・OB八人のボランティアをつれてきて下さり、半日掛りで書棚を立て直し、書物を一応入れてくださいました。その後、民族、在日・韓キ研の人たちが二回にわたって分類整理して頂き、どうにか復旧致しました。まだ休館中ですが、ゴールデンウイーク後には開館しようとおもっております」。

 そして、「嬉しいこともあった」と、二月一六日に尹東柱の詩碑が同志社大学にできたことを報告されている。再開後の研究会は、一月に開催予定の李卓、金英達のレポートが、五月二一日に開催された。一月から四月まで、四回の研究会を休会にしたことになる。再開した研究会のあと、再会を祝して飲んだであろうが、それがどんな会であったのか記憶にない。
 在日、近現代史ふたつの研究会は、別の日に開かれていたが、震災後、同じ日に開かれることになった。両方に参加するメンバーが多く、月に二回も文庫にくるのはしんどいとうことだったと思う。私は、韓キ研の方にも参加していたので、それぞれが別の日に開かれていた時には、月三回、文庫に行っていたことになる。これは、やりすぎだ‥‥
 韓キ研は、一九九七年一月には韓国より金興洙さんら四名を招いて「一九八〇年光州事件と韓国キリスト教」をテーマに、韓国キリスト教史研究所と共催で研究会を開催している。
 事務局長で韓キ研の推進役であった蔵田雅彦さんが一九九七年に亡くなられて、その後、研究会は休会となった。この研究会をひとつの流れとして、メンバーであった徐正敏、李省展、後藤聡らが作った「東アジアキリスト教交流史研究会」(二〇一三年一月発足、会長は李省展から徐正敏)に受け継がれている。

●一二

 阪神淡路大震災を契機に、文庫移転の話がスタートする。月報一〇二号(九五年六月)に再録された産経新聞に、少々微妙な韓皙曦さんの発言が掲載されている。(九五年五月二一日付)
「公的機関への寄贈について、韓さんは「まだ公表する段階ではない」とはっきりとはいわないが、「工場なら建て直せる。しかし、文庫には金で買えない入手困難な資料も多く、燃えてしまえば取り返しがつかなかった。今度の大震災で、個人の維持・管理には限界を感じた」という。」
 そして、翌九六年六月、青丘文庫の蔵書は神戸市立中央図書館に寄贈された。中央図書館に移った蔵書をみると、スペースが広い分だけ、少なくなったような気がするが、もちろんこれでいいのである。

●一三

 青丘文庫研究会では、長い間にいろんな人がいろんな報告をしている。それぞれに興味深い内容で、それらすべてを記録しておきたい。が、このエッセイではスペースの都合で無理だ。
 そこで、月報の巻頭言を書いたひとのお名前をすべて紹介することにする。複数回書いた人も一回だけ名前が登場する。あれ、私の名前がないという方は、大いに反省していただきたい。

 韓皙曦、金森襄作、森川展昭、三輪嘉男、金静美、宋連玉、梁永厚、飛田雄一、谷合佳代子、堀内稔、伊藤悦子、李景珉、水野直樹、中島智子、飯沼二郎、姜在彦、鹿嶋節子、藤井幸之助、金英達、金慶海、鄭良二、原田環、蔵田雅彦、柳東植、中西智子、高木伸夫、松田利彦、藤永壮、浅野良純、金河元、佐野通夫、金基旺、伊地知紀子、横山篤夫、廣岡浄進、金景南、坂本悠一、林茂、福井譲、高正子、渡辺直紀、藤井たけし、張允植、出水薫、浅田朋子、田部美知雄、本間千景、河かおる、宇野田尚哉、梁相鎮、塚崎昌之、堀添伸一郎、山田寛人、青木正明、太田修、金隆明、山地久美子、稲継靖之、金誠、足立龍枝、斉藤正樹、高野昭雄、中川健一、玄善允、三宅美千子、吉川絢子、安致源、梶居佳広、砂上昌一、全淑美、鈴木常勝、本岡拓哉、李裕淑、小野容照、黒川伊織、渡辺正恵、池貞姫、川口祥子。

 月報は、最初は『青丘文庫月報』、それが、一九六号(二〇〇五年五月)から『青丘文庫研究会月報』に変わった。これには、それなりの理由がある。
 月報には右のように多くのエッセイが掲載されている。そのどれとは言わないが、在特会的グループからクレームがついたのである。神戸市に月報エッセイの主張は神戸市の主張か、という具合であったらしい。そのグループは、だいたい公的機関にかみつく。神戸市は、ちがいます、勝手に彼ら彼女らが書いているのですと回答したのではない。
 神戸市の機関の青丘文庫の月報だから、彼ら彼女らもかみつくのだ。こまったものだ。では、青丘文庫研究会という民間団体が月報を出していることを明記しようと、『青丘文庫研究会月報』となったのである。

●一四

 月報は、先に書いたようにスタート時は発行者・韓皙曦、編集者・金慶浩の発行体制だった。金慶浩さんが亡くなられたのち、三三号(一九八八年三月)から、発行編集・韓皙曦の体制が、一〇九号(九六年五月)まで続いた(なぜか三四号だけ、発行・韓皙曦、編集・飛田)。一一〇号(九六年九月)から一二六号(九八年二月)までは、発行・韓皙曦、編集・飛田。韓さんが九八年一月二三日に亡くなられたのち、一二七号(九八年三月)からは、「図書室・神戸市立中央図書館内、編集人・飛田」と記載されている。
 その後、右に書いたクレームによって、一九六号(二〇〇五年五月)から「青丘文庫研究会月報」となり、発行体制としては、「青丘文庫研究会(在日朝鮮人運動史研究関西部会・代表・飛田、朝鮮近現代史研究会・代表・水野直樹)」となり、現在にいたっている。以上、けっこうまじめに記録をみながら、まじめな記録を書いた。
 姜在彦さんがよく、「飛田さん、月報の合本があるとうれしいなあ」と言われていた。一九七〇年代から発行している「むくげ通信合本」をほめてくださっていたので、その青丘文庫版を期待されていたのだと思う。姜さんにお見せすることができなかったが、そのうち?「青丘文庫月報合本」を作成したいと思っている。
 今秋発行の『在日朝鮮人史研究』五〇号に、太田修さんが、次のように書かれている。

「研究会で一番感心させられるのは、その場がある程度の緊張感を持ちつつも、どのような発言も〈自由〉になされるという点である。もちろんその〈自由〉は、相手を傷つけないという節度があるもので、縛られることがないものとでも言おうか。報告者と発言者が、在日朝鮮人史、あるいは朝鮮近現代史を語るなかに、それぞれの体験や生き様がにじみ出ているようにも見える。そうした語りが打上げのビールの席まで続いていく。筆者もなんとかその場から学び、別の研究会にも応用したいと思うのだが、なかなかむずかしい。研究会の参加者の問題であるから、いかんともしがたいことなのだが、それでもこの研究会のような<自由>な場をめざしたいと思っている。/そうした研究会の魅力は、同時に欠点でもある。若い世代がバトンを引き継がなければ場はなくなってしまう。それはそれでよしとするという考え方もあるが、あまりにもおしい。在日朝鮮人運動史研究会という稀有で魅力的な場を開いていくために、劣等生ながらも参加を続けていきたいと思っている。それから、いつか機会があれば研究会の歴史も聞いてみたい。どうぞよろしくお願いいたします。」

 そうだ、研究会の自由な雰囲気が「欠点」でもあるのだ。そのことを自覚しているのではあるが、懇親会でビールを飲みながらワイワイしゃべっているとそのことを忘れてしまうのである。でも、「いつか機会があれば研究会の歴史も聞いてみたい」という要望には本エッセイで少しはお答えすることができたのではないかと思う。
 コロナ自粛下の研究会、本年(二〇二〇年)前半は、神戸市立中央図書館が使えなかったので、「三蜜」を避けながら学生センターで開催した。この間、自粛下でも有志による研究会後の懇親会はしぶしぶ?、しぶとく続いている。
 九月からの研究会は、図書館での再開となる。やはり、研究会も懇親会も、私たちに必要だ。それなりにつづけていくことにしたい。


■あとがき

 コロナ自粛エッセイ、五冊目となった。コロナがなかなか収束しないので、仕方がない。
 青丘文庫は、知る人ぞ知る朝鮮近代史の専門図書館だ。ということは、知らない人が多いのだ。朝鮮史、在日朝鮮人史を卒論、修論、博論で書こうという学生がよく来ている。もちろん、普通の図書館でもある。ぜひ、一度訪問していただきたい。ふたつの研究会もオープンだ。基本的に第二日曜日の午後に開催している。発表しない人は参加させない、発言させない、ということはない。青丘文庫見物をその日にあわせてされるのが、一番具合がいいのではないかと思う。
 このエッセイシリーズ、一冊目の「極私的 ベ平連神戸事件顛末の記」とは雰囲気がだいぶ変わってきたかもしれない。まあこれもコロナに慣れてきた?ということか。ある著名な学者が、「六〇を過ぎると論文を書くよりエッセイを書く方が有益だ」と言われたそうだ。私はコロナ下の五月に七〇になった。その学者の真意は分からないが、わたし的には、そうだそうだと同意している。
 ということは、飛田論文は出なくてもエッセイが続くことになる。「むくげの会」、「ゴドウィン裁判」、「大逆事件と「わたし」」、「日韓交流人脈」、「古本市の極意」、「国内フィールドワーク」、次はどれにしようか。
                        二〇二〇年九月一〇日 飛田雄一
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