ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

青春18きっぷの旅<宮田村、そして新潟>(その2)

2022-09-03 22:47:16 | 旅生活
青春18きっぷの旅<宮田村、そして新潟>(その2)


 8月26日(2022年、金)朝、7:27宮田(長野県飯田線)を出発した。
 ヤフー路線検索で、宮田―新潟を調べた。すぐでてきたが、そのルートが分からない。松本経由、長野経由である。が、諏訪湖あたりの中央線がややこしいのだ。
 岡谷―塩尻は、直線的なみどり湖経由と、辰野、小野等経由の路線がある。時刻表をみても分からないのだ。実際に乗って分かった。伊藤一幸さんの説明によると、中央線はこのあたりで伊那に近づけるために南に蛇行し、塩尻に行くようにした。が、その後、直線的な岡谷、みどり湖、塩尻の新しい中央線ができたとのことだ。
 このあたり、マニアックすぎる話だが、「実録」は以下のとおりだ。一挙に糸魚川まで書く。
 宮田7:27、辰野8:23、松本9:20、信濃大町10:18、南小谷12:07、糸魚川13:05。ここまでが、5時間半だ。そして、糸魚川から、直江津14:19、長岡16:16、新潟17:34。宮田、新潟、約10時間の青春18きっぷの旅だ。


 宮田駅、そのすぐ前が宮田小学校。伊藤一幸はそこに通った。当時一学年150人、今は90人とのこと。でも、まだ多い方だと思った。
 飯田線を北上。右には、南アルプス連山が、みえる。はずだが、手前の低山しかみえない。白馬大池以北の後立山連峰は、見えるかな?


 塩尻8:47。ここは、スキーのときに何度も通っている。有名なのは駅弁の塩尻丼。陶器のいれものがすてきなのだ。でも、3つ、4つとたまるとじゃまになる。そのご、捨てた。
 塩尻峠、車でスキーに行ったとき、そこが難所だった。学生センターのライトバンだったが、チェーンをつけて走った。前の車に離されると逆に吹雪のなかの運転はこわいので、テイルランプのあとを一生懸命追った。登り切った。うれしかった。
 休憩した。片方のチェエーンがなぜか、ない。こわくなったが、そのままスキー場まで行った。帰りはどうしたのか、記憶にない。


 松本9:20。ここで強烈な「暗黒の体験」のことを書いておこうと思う。それは、長野善光寺の話だが、せっかく思い出したので書く。
 善光寺の地下に暗黒の通路がある。入場料(参観料)をとられた。高かったけれど入ってみた。しばらくいくと、暗黒の世界になる。暗黒の世界では、まったく何も見えない、ということを体験したのだ。
 そこでは、何も見えないので、左手で壁をずっと触って前に進むのだ。それしか方法がない。自分の手を目の前にかざしても、その手が見えない。むかし、理科で習ったように、光がなければ、みえないのだ。沖縄の「ガマ」でも同じ体験をした。フィールドワークで奥にすすみ、明かりを消した。ほんとに、なにもみえない。西宮甲陽園のトンセルに学生を案内したときにもやってきた。学生たちは感動した?
 松本といえば「信濃毎日新聞」。故梁泰昊からこの新聞社の話を聞いた。
 彼が朝鮮人強制連行調査のために松本に行くことになった。松本の人が、「シンマイの記者」を同行させます、とのこと。ふむ、シンマイ? それは、新米ではなく信濃毎日新聞のことだった。

 松本まで、一両の列車。車内ワンマン(ワンウーマンのいるのかな?)のアナウンスがおもしろい。
「次は○○、降りられる方は一番前のドアより、ボタンを押してドアを開けて、お降りください。それ以外のドアは開きません。切符は、運賃箱にお入れください。定期券の方は運転手にお見せください。」
 なんとなく、おもしろい。意味を考えながら聞いた。
 塩尻、松本では、「すべてのドアが開きます」だった。それはそうだろうな。
 また、「IC乗車券は松本までしかご利用いただけません。IC乗車券の方はいったん松本駅で下車して改札をでられて、紙のチケットをご購入してください」とのアナウンスもあった。私は18切符だ、問題はない。
 松本9:20、そして南小谷には11:26。これから大糸線2時間の列車だ。ここはスキーでよく来たなじみの路線。2時間ぐらい、かんたんだ。


 大糸線沿いの白馬、栂池、コルチナ(わらび平)、岩岳などのスキー場に何回もいった。
 高校1年のとき、伊藤先生(伊藤一幸ではない、担任でもあったのに名前が思い出せない。申し訳ありません。)らに栂池スキー場に連れてきてもらったのが初スキーだ。鐘の鳴る丘ゲレンデで手ほどきを受けた。まずはボーゲンの練習。なんで最初からこんな急なところで練習するのだと憤慨したが、ほんとはもっともなだらかなコースでした。すみません。あとで、分かりました。
 当時、スキーは全盛期で、リフト乗り場に200~300人ならぶこともある。きれいに2列に並ぶということもなく、10列ぐらいが徐々に2列になるのだ。私は人を押しのけて前に進む人間ではないのに、どういうわけか、いっしょに並んだ友だちより先にリフトに乗っていた。
 列車は「ちくま」。大阪から直接大糸線に入るのだ。それゆえ?、大糸線のスキー場は関西弁が優勢だった? 一方、長野志賀高原方面は、関東弁が優勢だったそうだ。
 帰路早朝、伊藤先生は、京都まで来たら快速電車に乗り換えるように指示した。そして、網棚にストックを指して荷台を大きくし、スキーをどっと積んだ。感心した。大阪で神戸行きに乗り換えるときの混雑をさけたのだ。
 往路も夜行。寝る場所はジャンケンにまけると床だった。山小屋のように通路側に頭をてれこてれこ(これは神戸弁か?交互交互の意味)に並べて寝た。よく寝ることができた。たぶん。
 大学の友人・故近藤富男と槍ヶ岳に登ったことがある。正確に言うと登ろうとしたのだ。大阪駅でちくまに乗るべく待ち合わせたが、来なかった。当時携帯電話はない。遅い方のちくままで待ったが来なかった。一人で行った。松本、新島々、上高地だ。天気もよく。頂上にたった。肩のところにカメラをおき忘れてきた。おかげで、長時間山頂で、目に360度の山々を焼き付けた。ひとりだと次にどの山に登るかも自由だ。双六岳方面に進んだ。
 別のとき、上高地にひとりでおりてきて、「ヒダの宿」をみつけてと泊った。「飛騨」だろう。「私もヒダです」といったが、まったく、反応がなかった。旅館業としては失格だ。


 細野10:01。待ち時間があったのでホームにおりてパンフレットを数冊ゲットした。天気がよければ後立山連峰の山々がみえるのに、ダメ。手前の1000M級?の山だけが見える。
 ここには、いわさきちひろ記念館がある。ここにもいったことがある。レンタサイクルで行ったが、いつ、どの駅から行ったのか。どの山のついでか、なにか信州で集会でもあったのか、まったく思い出せない。
 信濃大町10:18。駅そばがある。「学生さんは大盛無料」。いいなと思ったが「改札をでて券売機でご購入ください」とのこと。これは、もうひとつだ。
 ここでもパンフレットをゲット。「SLばんえつ物語」がある。新潟の手前・新津から会津若松までSLが走っているという。残念ながら、18切符では乗れないらしい。
 私の初めての長距離列車は、東京行き。小学校2年のときだ。急に話が古くなって恐縮だ。
 当時住んでいた石井幼稚園(その中に住んでいた)の建て替えのため、夏休みほぼ40日間、東京の親戚に預けられたのだ。3つ上の姉とふたり。心細かった。
 列車がスタートしてすぐ、この席は私の席だという人があらわれた。こどもふたりで、切符を2枚もっているのか? 「もっとるわい」とは言わなかったが、こまった。
 車掌がきてくれた。その男の間違いだった。号車をまちがっていたのだ。「ざまーみろ」とも言わなかった。
 米原でそばを食べた。母からおいしいから必ず食べるように言われていた。食べた。
 そして、トンネルに入った。
 電化されているのは米原までで、その後は蒸気機関車だ。トンネルに入る前に窓を閉めなくてはならない。知らなかった。ゴホンゴホンとした。近くのおじさんが閉めてくれた。うれしかった。
 また思い出した。当時のトイレ、穴からまくら木が見えるのだ。正確には、飛んでいくまくら木が見えるのだ。線路工事の人はたいへんだ。インクをたらしてどのように飛んでいくのかを実験したひとがいた。そうとう飛ぶらしい。でも当時、みんな、窓をあけて景色をながめていた。「汽車のまどからハンケチふれば」という歌もあったような気がする。関連は、ない。
 40日後、東京から帰ってきた。東京弁になっていた。最初、鬼ごっこに参加したいと「よして」と言ったら、笑われた。よして、は、やめてほしい、の意味だった。40日で完全に洗脳された。学校で笑われた。

 海の口10:40。むくげの会の青木湖合宿できたところだ。先のエッセイでHさんが代金を払おうとしても駅員さんがいなかったので、仕方なくそのまま降りたところだ。
 私が初めて本格的な山に挑んだのが、後立山だ。当時むくげの会会員のKさんと白馬から登った。唐松、五竜、鹿島槍、爺が岳、ハンノキと縦走した。初心者にしてはハードなコースだ。いっしょに六甲山を歩いていた二人、登山の本で調べると、コースタイムの6時間、7時間とある。これは遠い・・・と思った。朝早くから出発して、飛ばした。と、昼前には目的の山小屋に着くという感じだった。若くて元気だったので、予定タイムの80%ぐらいで歩いたのではないかと思う。今は、50%増しだ。そして、100%となるのだろうか。
 ライチョウもみた。ハトにしては小さい、スズメより大きいとなどと話していたら、それがライチョウだった。
 最後にハンノキ岳に登り、ハンノキ雪渓をスイスイと降りてきた。そして、問題のむくげの会青木湖合宿に参加した。まだ時間があると、近くの低山を歩いたら、迷った。高い山のように道標がでてないのだ。あぶない、あぶない。めっちゃ、たくさん、いろんなキノコが生えている低山だった。収穫したいが、こわいことは、できない。


 神城11:00。中年の「鉄ちゃん」2名が乗ってきた。大きなごろごろ荷物(キャリヤー)の上にパソコンがセットされている。手には、時刻表を整理したメモ。ときどき立ち上がって列車の進む方向をみている。カメラもときどき。おもしろそうで話がしたかった。が、一人旅ではこちらから話しかけないようにしているので、私はただ見守るだけ。
 白馬11:07。白馬スキー場。大きかった。何回かきている。となりの岩岳スキー場、ここにも何回かきている。栂池から岩岳をみて感動したことがある。雪面をひとりのスキーヤーが、きれいなウエイデルンで滑った跡に感動したのだ。
 3年前、スキー復活。栂池スキー場でスキー三昧をした。帰路、白馬の新井さんを訪ねた。栂池から白馬ペンション村行きの無料バスがあったのでそれに乗せてもらった。元学生センターのスタッフで、だんなさんもよく知っている。わいわいとしゃべり、わいわいと飲んだ。楽しかった。
 新井さんは陶芸もされる。大阪のデパートで展示販売があり、お椀をひとつかった。ウルシの乾燥が不充分だったのか、くちびるがはれた。私は、ウルシにめっちゃ弱いのだ。そのままおいているので、もう乾燥も充分かなと思うがそのまま乾燥させている。
 今年、9月のコンサートのために新しいオカリナをかった。神戸大学農業経済教室の後輩で、宍粟で楽器販売をしている尾崎弘一さんから買うことにした。「よりすぐりを3つ送るので、そのなかで気に入ったのを買って」という。
 いいのがあった。が、ウルシがぬってあった。心配で、3,4日、残りのオカリナもおいておいた。くちびるは、はれなかった。うれしい。のこり2本を返送した。めっちゃいい音がするのだ。めっちゃ上手に聞こえる、はずだ。


 そして白馬大池11:18。栂池スキー場への駅だ。何回来ただろう。
 高校時代、泊まったところは、「白馬ジャイアンツ」。よく名前を憶えている。そのころ、巨人ファンだったからだろうか。実は、私は父の影響でずっと巨人ファンだった。が、江川事件の影響で?、巨人ファンをやめた。が、1978年、私が学生センターに就職したとき、館長小池基信牧師、理事辻建牧師はともに阪神ファン。阪神ファンでなければ人間でないような?雰囲気。それが許せなかった。で、巨人ファンに復帰した。が、それほど続かなかった。いつやめたのか。分からないがいま巨人ファンではない。野球ファンもやめてしまった。でも、大谷ファンだ。
 その栂池の宿。野沢菜がほんとにおいしかった。ばりばり食べた。おみやげに買って帰ったがおいしくなかった。
 栂池には白樺がたくさんある。私は、白樺のペンスタンドなどをみて、ペンキを塗っているのだと思っていた。ほんとに白い木が立っていることに感動した。
 白馬大池駅でも思い出もある。雪国では、自分でボタンをおしてドアを開けることを知らなかった。ドアがあいてないのであわてた。リック、スキーをかついで開いているドアに走って降りた。顔面から落ちた。雪が深く、その跡が残っていた。


 そして、その列車の終点、南小谷11:26。鉄ちゃん2名はそこまで乗っていた。私は駅をでてうろうろ。店で新聞を買おうとした。
「このあたりで新聞を売っている店はありませんよ」とのこと。横にあった新聞をチラッとみた。「1週間前の新聞を買っても仕方がないでしょう」。とりつく島もない。
 南小谷に学生センター職員旅行で来たことがある。駅の北東方向でなかったかと思う。すてきなペンションだった。乗馬場もあった。私も乗った。馬の主体性を重んじて、馬が草をはむのをみまもった。ガイドは、「乗っている人が、進むという意思をあらわさなければ、ずっとそのままですよ」
 そこで私も主体性を発揮した。馬はとぼとぼとは歩いてくれた。乗馬は苦手だ。
 済州島旅行のとき、馬に乗ることになった。私は、ツアコンでカメラマンだと言って乗らなかった。そこは本格的で、少し練習したら、みんな走っていた。カメラマンでよかった。
 南小谷駅にもどるとその鉄ちゃん2名は、次の列車で松本方面に向かった。なにをしているのだろう?
 ホームには、糸魚川行きの列車が入っている。ベテランの青春18グループらしき人がホームにうろうろしている。ワンマンの運転手がドアをあけてくれないのだろうと思った。ダメもとで、ボタンをおしてみた。開いた。入った。他のベテランたちも私の後に続いた。18切符の人はみんな控えめなのか・・・。


 糸魚川に着いた13:20。すでに宮田から6時間。が、KENWOODウオークマンを聞く時間がないくらい忙しい。昼ご飯は、伊藤一幸からもらったミニトマト、リンゴ、ミカン、バナナを食べた。自家農園のミニトマトはけっこう大量にもらってきたが、みないただいた。途中、駅弁を買う時間もなかったので助かった。
 糸魚川。娘が子どものころの貴重な思い出がある。娘と連れ合いがけっこう大きなクロスワードパズルをしていた。私はこの手のパズルは苦手だ。
 「この日本の真ん中の・・・」
 「いといがわしずおかこうぞうせん」
 私が答えた。それ以来、娘の尊敬を勝ち得ている? うれしいことだ。
 糸魚川に一度泊まったことがある。2016年12月の糸魚川火災のあとだ。その時の出火元のラーメン店の主人はどうしたのか、同情的に気になっていた。
 火事場がみたいという不謹慎な趣味ではなく、阪神淡路大震災以降、災害現場は訪問したいという気持ちがあったでので、出張のあと訪ねた。スキーの後かもしれない。出張があったのかもしれない。大火災のあとは、ほんとうにすごいものだった。
 あと、新潟まで少し?だ。糸魚川での待ち時間は15分。駅内外をうろうろし、また各種パンフレットをゲット。
 直江津に向か列車では、時間的余裕もでてきて?、パンフレットを読んだり、KENWOODのオカリナカラオケでオカリナのイメージトレーニングをしたりした。
 日本海の眺めは、それなりに荒々しくて迫力がある。でも?、神戸に住む私には、北側に海があるのには違和感がある。海は南側にないといけない。神戸では、「東西南北」は「上下左右」という。「○○駅から上に5分ほど行ってから右にまわってすぐです」という具合だ。そう言わない神戸人がいたとしたら、もぐりだ。
 神戸人はかならず北と上にした地図を書く。東京の人に地図を書いてもらって「北の方向はどっち」と聞いても分からない人が多い。また友人の家に泊めてもらって「北はどっち」と聞いても分からないという。よくそんなことで生活できているなあと思う。が、考えてみると方向音痴の私、この方向感覚が関係しているのかもしれない。子どものころときどき、商店街で店に入って、来た道を歩き出したことがあり、「おいおい」と言われた。
 直江津14:03。初めての地だ。待ち時間16分、うろうろ。そして長岡15:49。また、うろうろ。そして最終目的地の新潟17:34。宮田から10時間の旅は終わった。


 新潟駅は工事中で、東横イン駅前ホテルには、回り道をさせたられた。メイン通りの左右の通りに飲み屋がたくさんあるという情報を仕入れて、夜の街にでかけた。やはり、あった。
 サバ○という店に入った。大きな焼きサバ、300円。安い。店員に聞くと全品300円の店だという。サバは半身だった。おいしかった。残りの半身はどうなったのか気になったが、メニューで研究すると味噌煮にするようだ。生ビールも300円なのでそれなりに飲んだ。
 翌27日(土)は午後、強制動員真相究明ネットワーク主催の第14回強制動員全国研究集会。対面とZOOMだ。若い福岡の事務局員・有田光希さんがZOOMをすべてセットしてくれるので安心だ。学生センターでもZOOM中継をすることがあるが、時々失敗している。それはしかたがないことなのだ。
 集会のテーマは、「強制労働の否定を問う―佐渡鉱山の遺産価値を深めるために」。そして翌28日(日)は佐渡フィールドワークだ。その報告はどこかに書くことになるので省略。
 集会ののち、超忙しかった。午後5時発のジェットフォイルで佐渡に渡るのだ。それに乗れないと、午後11時に現地到着となってしまうのだ。会場(自治労会館)から港までの移動がむつかしい。大きな音楽イベントがあってタクシーがなかなか呼べない。自治労の宣伝車をお願いしてピストン運転をしていただいた。本当にありがとうございました。あと、タクシーを2台なんとかつかまえて全員セーフとなった。波はおだやかで、高速船であることを感じない。波を切る高速船でひどい船酔いをしたことがあり心配していたが、ルンルン気分で佐渡についた。うれしい。


 佐渡に2泊したので、コロナ下、少数の仲間と懇親会を開いた。新潟の酒はおいしい。
 そして帰路。29日(月)。同宿の2名が佐渡島にもう1泊しレンタカーで島を回るという。私たち3名は、バスで両津へ。この2グループは別のバスだというので、2名を見送った。が、それは、私たちも乗らなければならないバスだった。
 こまった。私は午後2時15分の新潟空港発関空行きの飛行機、ピーチに乗らなければならない。有田さんがスマホを駆使してタクシーを呼んでくれた。小林久公さん(札幌)、堀江節子さん(富山)、有田さん、飛田の4名で、タクシーに乗り込んだ。両津発佐渡行のジェットフォイルに間に合った。
 新潟港から新潟空港にバスにのり無事到着。チケット控えをみた。なんと、30日(火)の予約になっている。こまった。チケット予約会社に連絡した。
「LCCだから変更は無理です。代金の返済もありません」。こまった。ピーチのカウンターで交渉しようとしたが、だれもいない。伊丹空港行きの飛行機に乗ることもできるが、高いしピーチの飛行機代がもったいない。
 月曜夜の久しぶりの、鳥取の友人たちとの六甲での懇親会をキャンセルしてもらった。私だけが欠席でもりあがったそうだ。火曜日の約束もキャンセルしてもらった。申し訳ない。電話ではフィールドワーク関連の仕事がのびたと言ったが、真相は以上のとおり。ほんとうに申し訳ない。
 ネットで、佐渡空港から東横イン佐渡駅前を予約した。おもむろに、バスで新潟駅に向かった。なにも予定はない。うれしい。
 新潟名物の○○で一杯、へぎそばで一杯、○○でまた一杯。(名前を思い出せない)
 ゆっくり休んで、翌火曜日の午前中、新潟市立博物館で「マン・レイと女性たち」をみた。マン・レイもその女性たちもまったく知らなかったがよかった。ブリジットバルドーの写真がよかった。ソフィアローレンだったかもしれない。私は、映画俳優の名前を覚えるのが苦手だ。学生時代、三宮のたしかビッグ映劇で新作の「怪傑ゾロ」をみたことがある。この俳優は、○と○にでていたというと、友だちにばかにされた。それはアラン・ドロンだった。
 そして、また新潟駅から新潟空港。普通に手続きをして搭乗。そして、なにごともなかったかのように、ピーチに乗って関空に帰ってきた。(了)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 青春18きっぷの旅<宮田村、... | トップ | 飛田・コロナ自粛エッセイ番... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅生活」カテゴリの最新記事