ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

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コロナ自粛エッセイ(その六)極私的 「六甲古本市」全?記録

2020-09-20 16:46:08 | コロナ自粛エッセイ
飛田雄一
コロナ自粛エッセイ(その六) 
極私的 「六甲古本市」全?記録

●一

 それは、平田哲牧師の言葉から始まった。
「飛田君、友人が高槻で古本屋をはじめたんだ。けっこうどんな本でもダンボールひと箱千円ぐらいで引き取ってくれるよ。」
 これはいい。神戸学生青年センター(以下、センター)で古本市を開き、残った本はそこに引き取ってもらったらいい。一九九七年秋のことだ。ちょうど、阪神淡路大震災(九五年一月一七日)の被災留学生支援活動を契機にスタートした六甲奨学基金の原資が少なくなってきたので、なんとか資金、を考えなくてはと思っていたときだった。そして、やった。九八年三月一五日、第一回目がスタートした。
 センターの職員・ボランティアで、どのくらい売れるか?賭けをした。少ない人は二〇万円、多い人(私)で五〇万円ではなかったかと思う。終了した。なんと八〇万円だった。私が賭けにかったことになるが、賞品はうけとっていない。古本市、これはいける。
 さて、終了後、残った本の引き取りをお願いすべく、平田先生に連絡をとった。すると、その古本屋はつぶれたとのこと。仕方なく、古紙回収業者に依頼した。こちらがお金を払うのだ。一トン三千円、確か三トン、九千円を支払ったと思う。ショックだった。
 翌年からは、アジア図書館(アジアセンター21)にガソリン代一万円を払うので引き取りに来てくれないかと依頼した。OKとなった。うれしかった。環境問題にとりくむセンターとしては、古本とはいえ、「融解」処分(おそらく)することに心が痛んでいたのである。古本市の第一の問題は残った本をどうするかなのである。

●二

 第二回古本市は、一九九九年三月~五月、それ以降、ほぼその時期に開催している。
 古本は、集まる。本好きな人は多くいるが、古本屋にもっていったらまさに「二束三文」。私もブックオフに二、三〇冊ほどもっていったことがある。二つの山に分けて、こちらはいりません、こちらは一〇冊で四〇〇円という感じだった。「きれいな新本は定価の二、三〇%で買い取ります」はウソだった。残りの本は持って帰りますか、いりません。他に行くところがあった。これで終わった。もう二度と、ブックオフにはいかない。
 こんなことなら、留学生支援のセンター古本市に寄付しようという方がおられるのである。ありがいことだ。
 センター古本市では、それぞれの本に値段をつけない。量があまりにも多いのでそれは不可能だ。一律に単行本三〇〇円、文庫新書雑誌児童書は一〇〇円だ。でも‥‥、三〇〇円で販売するにはあまりにももったいない本もある。実際に古本屋にもっていって二、三千円で売って売り上げとしたこともある。また、はじめてヤフーオークションにもチャレンジして、四、五千円で売ったこともある。が、やめた。そのまま出すことにした。そんな本は、だしたら即売れる。新版の広辞苑がでてきたこともある。掘り出し物をもとめて毎日のようにきてくださる方もいるので、そのままだしている
 初日は、すごいのだ。開店と同時に列ができる。プロがくるのだ。一日で、四〇万円ほど売れたときもある。週に一回程度くるプロもいる。スマホより小さい、バーコード読み取り機をもって、ものすごいスピードでバーコードを読み込んでいる。瞬時に価格がでるようだ。おそらく五〇〇円から一〇〇〇円で売れそうな本を、一〇〇円、三〇〇円で買っていくのだ。プロでもお客様はお客様、大歓迎だ。ある時、初日にあらわれて、岩波新書を大量に買い込む人がいた。大きな山をふたつ作っている。聞いてみると、それらが絶版本とのことだ。プロはすごい。

●三

 なかには悪い客もいる。ボランティアが注目していた客が、チャリンと料金箱にお金をいれて出ていった。追いかけた。そして本代を計算した。足りない。料金箱をそのために?、空にしていたのである。観念して代金を払った。その人はその後来ていない(と、思う)。
 古本屋を開業するのに「古物商」の許可がいると聞いて警察に行った。趣旨を説明すると、そのような目的の古本市には許可は不要です、大いにやってくださいとのこと。せっかくきたので許可証が欲しかったが、くれなかった。
 古本市は年に一回、三月一五日から二か月間。本棚を保管する場所も問題となる。新しい本棚購入も躊躇しる。毎年分解すると、組み立てもまた大変だ。そこで考えついたのが「ダンボール本棚」。ダンボールをガムテープで貼り合わせ作るのである。年々そのダンボール本棚が多くなった。当初、同じ大きさのミカン箱を集めるのも大変だったが、全国各地から送られてくるものを毎年毎年集めてだんだん大きいものを作った。なぜか、ミカン箱でも大きさにばらつきがあるので同じ大きさのダンボールを集めるのも苦労なのだ。
 一番大きいダンボール本棚は、横八箱、縦六箱、計四八箱という巨大?なものだ。ダンボールは、穴をあけて紐をとおすのも容易だ。固定するのにも都合がいい。元センター朝鮮語講座生徒の森崎和夫さんは、海外引越の専門家、ダンボールのプロだ。本職の家具を梱包することに比べたら、四八箱の本棚なんて朝飯前だ(への河童という言葉もあったな、死語か)。そして終了後、翌年にそなえて二五〇から三〇〇ほどのダンボールを要領よく、セットにして保存してくれる。飛田および森崎さんのブログにダンボール本棚作成の奥義が掲載されている。
 文庫新書はロビーの一角で常設している。手製の文庫本専用本棚は林榮太郎さんの作品だ、私の自転車の師匠でもあり、元東急ハンズの木工担当、隙間家具専門?職人。この本棚をまじまじと見つめる客もいる。
 二〇〇九年、札幌の古本屋で書棚が倒れて客が死亡するという事故があった。センターにも緊張が走った。確かに、こわい。その時、更に鉄パイプを増やして増強した。

●四

 売上の記最高記録は、四四〇万円、二〇一一年だ。東日本大震災がおこり、被災留学生支援のために一〇〇万円を送ると宣言し、更に本を集め、更に売った。この記録はいまだに破られていない。
 年々売り上げを伸ばした古本市だが、その理由のひとつは、新聞折り込み広告だ。センター関係者が買いに来てくれるだけでは売り上げが伸びない。いろんな人がいろんな本を買いに来てくれるから、たくさんの本が売れるのだ。二〇〇〇年、新聞折り込み広告をしてみようということになった。「折込チラシ三千(朝日)一万(読売)」という記録がある。折り込み広告の費用は、一枚、二円八〇銭(おお、「銭」久しぶりだ、縦書きだから使ってみた)。それに印刷代が必要だ。
 効果はあった。それまでセンターに来たことのない人が来てくれた。三月初めに折り込み広告を入れて、古本市のスタートは三月一五日。古本の回収は三月末までなので、古本持参で本を買いに来てくれる人もいる。折り込み広告が少し遅れると、今年もするのですかと電話をしてくださる方もけっこういる。
 ここ六、七年枚数を増やし六万枚となっている。だいたい神戸市の東部、灘区東灘区のJR以北にはほぼ配布している。神戸、朝日、毎日、読売、産経だ。最初はそれぞれの新聞配達所にもっていった。が、各新聞社は広告に関して(は?)、連携がとれていて、ひとつの新聞社にまとめて納品し、地域を指定すればOKだ。センターの場合は、神戸新聞に一括納品している。二万枚レベルのときには、ボランティアに依頼してセンターの印刷機でやっていた。今はセンターご用達の印刷屋(ミウラ印刷)に印刷・納品を依頼している。自分のところで大量のチラシを印刷するのは、いくら最新鋭の印刷機でも大変だ。
 古本市の、最高の近所のお客さまがいる。毎年、一、二〇〇冊の文庫本を購入し、翌年その文庫本を寄付してくれる。一年分の本を買ってくれているのか?、うれしい。
 折り込み広告と、もうひとつ効果があったと思うのは、「旗」だ。街でみかける「ラーメン」あるいは、選挙のときの「のぼり」だ。これはよく「桃太郎作戦」と言われている。そういえば絵本でみた。センターの最初の旗は、鹿嶋節子さん手作りのものだ。大きな目立つ文字の入ったもので、センターの入り口にひるがえっていた。翌年、インターネットで業者に頼み、七、八本作った。センターの周囲に三、四本、それに、阪急六甲駅前にも建てた。すぐに自治会の方から?クレームがきた。ふむ、あたりには不動産屋の旗がたくさんあるのに、センターのだけがだめなのか?
 だので、歩道のポールに直接針金でつけるのではなく、コーナンで買ってきた塩ビ管をまず取り付け、その塩ビ管に旗をさしこんだ。夜になると旗を外した。そのうち、夜も外さなくなった。そして、それは、ずっと、あった。

●五

 古本の販売促進、それにはいくつかの「法則」がある。
 その一、「分類すればそれなりに売れる」。センターの環境プログラム関係者らしいひとが、たくさんの環境関連図書をだしてくれた。本棚に入れずに、箱に入れてそのままだした。ある客人が、その箱から本を抜いている。その本を買うのかと思ったら、残っている本を箱ごと買ってくれた。自分のもっていない本を買ってくれたのだ。うれしい。
 神戸大学の留学生の爆買いもあった。インドからの留学生で、インドの名のつく本は、旅行でも料理でもなんでも全部ほしいという。日本学専攻の留学生だったが、日本で、インドがどのように紹介されているかも研究している。あるいは、帰国後に紹介するためのものかもしれない。留学生は、半額で購入することできる。文庫等五〇円、単行本一五〇円だ。よろこんでたくさん買ってくれた。こちらも、うれしい。
 ボランティアには本好きのメンバーが多い。最近は一般書店なみの分類がされている。文庫本の作家名五〇音順にならんでいる。その文庫本コーナーでは、司馬遼太郎コーナーからの買い占めなどもある。ごそっとなくなると、うれしい。
 第二の法則、それは、たくさん陳列することだ。本がたくさんあるから売れる。選んで買う快感があるようだ。ボランティア団体の小さな古本市で、売れないという悩みをよく聞くが、やはり「量」がものをいうみたいだ。センターは、古本市で資金を稼ぎたいというボランティア団体から、羨望の目でみられている。それにも答えなければと、古本市の終盤に、本を贈呈寄付することもある。自分たちの古本市のためにダンボール五箱とか、もっていくことになるのだ。その逆に、毎年自分たちの開いた古本市の残りを、どさっと持ってきて下さる団体もある。
 海外の大学に贈呈することもある。韓国のふたつの大学に、各ダンボール五〇箱程度を送った。送料が問題となるが、海外に安く送る方法も発見した。コンテナの二分の一、あるいは三分の一を購入するという方法だ。専門業者が書類を作成してくれる。あとは、ポートアイランドの事務所にもっていくのだ。釜山港預かりで、向こうの大学がそれをとりに来る。値段は覚えていないが、ダンボールひと箱あたりでは、国内宅急便より安かったような記憶がある。
 中国の大学にも送ったが、それは大変だった。中国は、本の名前を目録化して、当局の許可を得る必要があるのだ。そのために頑張った方は本当に大変そうだった。ごくろうさまでした。
 最初のころ、たくさん残る本をすこしでも現金化したいと、最後に古本業者にきてもらったことがあった。雑本ばかりだ、とさんざん文句をいいながら、大量の文庫本を詰め込んだ。全部で千円ということだった。それから、業者に声をかけるのをやめた。お金にならないし、その後引き取ってくれるアジア図書館に申し訳ないからだ。
 古本市を支援してくれる古本屋さんもいた。二〇〇九年、本の集まりがよくなかった。大阪の日之出書房の郭日出さんが約五千冊寄付してくれた。本当に助かった。
 第三の法則、あえてつくるなら、ときどき本を総入れ替えすることだろう。バックヤードから本が売れる度に新しい在庫を補充するが、時には、総入れ替えが必要だ。常連客を時々に、あっ!といわせる必要があるのだ。
 また、ここでは書きにくいことだが、毎年、新品の辞書がけっこう集まっていた。中学高校には毎年、辞書出版社からサンプルが届くらしい。某学校の某先生が、毎年それを持ってきてくれた。ボランティアはそこに貼られた出版社のラベルを丁寧にはがす。ほんとに新品だ。辞書コーナーに展示すると、すぐにうれる。三〇〇円なのだから‥‥。その某教師が退職した。それがなくなった。さびしい。

●六

 募集していないものが集まることもある。ビデオ、CD、DVD、ときにはLPレコード。売ることのできない「パチもの」(わかるかな?)以外は、売った。けっこう売れた。すべて一〇〇円、ツタヤより安いとクラシックCDを買い占める人もいたし、LPレコードにもマニアがいるのである。CDが売れることが分かって途中から集めるようになったが、最初は集めていなかったのだ。
 コロナの最近、毎日のように通ってきて漫画を読んでいる子どもいる。昔の「貸本屋」を思い出しながら、スタッフ、ボランティアはその子たちを見ている。が、貸本屋を知っている人は私だけのようだ。いいだろう。換気には気をつけてやっている。

●七

 以上、店主として古本市をふりかえってみた。当初、売り上げを伸ばしていたときは、来年こそは、五〇〇万円突破といっていた。達成しそうな勢いがあったが、それはなかなかむつかしい。でも、毎年四〇〇万円程度販売する古本市は、それなりのものだ。
 毎年六名(一〇名の年もあった)の六甲奨学基金、月額五万円、返済は不要だ。古本市はなければ、すでに消滅していた。大震災時、留学生支援が一段落したころ、日本DECからの寄付一千万円からスタートした。支援金の残金三〇〇万円とあわせて一三〇〇万円。毎年百万円をとりくずし、一方で毎年募金二百万円を集める。一三年続く目算で始まったが、募金の方が減ってきた。どうもこのままでは四、五年で終わりそうだった。それを救ったのが古本市だった。古本市のおかげでまだ奨学金は続きそうである。
 今年は、コロナ禍での古本市、終了予定の五月一五日はそのまっただ中だった。本棚撤去のボランティアも期待できず、延長となった。八月末まで継続し、三二〇万円の売り上げがあった。上等だろう。自粛生活用に古本を買いに来た方もおられたようだ。
 来年(二〇二一年)四月からセンターは新しい場所での活動が始まる。古本市の形態は変わるだろうが、継続の予定だ。またお立ち寄りいただきたい。館長時代、仕事にならないので古本市の本を見ないことを課していたが、昨年(二〇一九年)九月、退職した。出世して?、理事長となった。時間はできた。解禁だ。いよいよ客として古本市をウロウロする。楽しみだ。

■あとがき

 満を持して?、エッセイ「古本市」です。もともと、なんでも流れに乗る方の私でしたが、阪神淡路大震災のあと、とくに、そのようになったようだ。まあ、いろんな話が入ってきて、まあそれはできそうなのでやってみよう、という感じだ。
 震災の時、センターアルバイトの韓国人留学生・鄭燦珪さんが、提案してくれた被災留学生に生活一時金三万円支給も彼の提案からだった。今も続いている日本語サロン(日本語ボランティア教室)も、最初は、彼が学んでいた神戸市の教室(三宮交通センタービル)が使えなくなったことがきっかけだ。とりあえずやってみてから考えたほうがいいようである。古本市はその最たるものだったようだ。
 コロナ自粛エッセイ、あと少し?、続きます。

二〇二〇年九月二五日 飛田雄一

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