ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

阪神淡路大震災、そのとき私たちは? そして今

2024-03-03 18:41:13 | コロナ自粛エッセイ

「兵庫県南部大地震 記念の日」 追悼礼拝
二〇二四年一月一七日(水)午後六時 
兵庫教区クリスチャンセンター礼拝堂 および YouTubeによるライブ配信
説教 『そのとき私たちは? そして今』
飛田雄一(神戸多聞教会・神戸学生青年センター理事長)

聖書
ルカによる福音書 一〇・二五〜三七
「平和を求めて」(讃美歌21 五六一)
「あなたも見ていたのか」(讃美歌二編 一七七)
「さあ共に生きよう」(讃美歌21 四一九)

 こんばんは。
 二九年が経ちましたけれども、この日になったらいろんなことを思い出します。特に今年は石川県で地震が起こったので、よけいに思い出すことが多いと思います。
 二九年前、確か火曜日だったと思うのですけれども、たまたまわたしは仕事が休みの日で、けっこう遅くまで前の日は起きていました。その数日前にテレビで映画を観まして、サンテレビか何かだったんでしょうけれども、アメリカの砂漠で人々が生活をしていて、地面の上や屋根の上で動くものがあったら、タコの足のようなものが出てきて引っ張り込むという、本当につまらない映画なんです。地震が起こった時、寝ぼけてそんな夢を十秒か二〇秒の間に見ました。それで足を引っかけられて、引っ張り込まれて、胸まで砂の中に入ったというので目が覚めたという。そういうことを思い出しました。実際に何秒だったのかわからないのですけれども…。
 わたしは鶴甲団地という、阪急六甲の上のほうに住んでいたのです。この団地が震源地やと思ったんですね。こんなに揺れたことはないですから。それで、しばらくして、阪急六甲に神戸学生青年センター(以下学生センター)がありますから、そこへ降りて行きました。鶴甲団地は昔の山を削ってつくった団地ですから、相対的にましやったんですね。中には犬の散歩をしておった人もいたんですよ。
 そのあと阪急六甲へ行ったら、もう塀という塀が壊れているんですよね。学生センターも入れない部屋があったりして、管理人をしていた中国人の留学生が、毛布を被って外にいました。震源地はわたしの住んでいた団地じゃなくて、阪急六甲の辺りなんだということを思いました。それで片付けるものは片付けて、すでに学生センターの赤い電話、公衆電話をかけに来る人がいたりしましたので、ありったけの十円玉を並べておき、それをけっこう利用されたということがありました。
 ですから、阪急六甲辺りが一番ひどいんだと思いました。夕方になってやっとJRの辺りに行ったんですね。そしたら、JR六甲道の辺りはまさに震度七地帯ですから、ひどかったですね。一番印象的なのはJR六甲道から西のほうに行ったところの木造住宅のところですけれども、ことごとく倒れていて、牛乳瓶と年賀状とそこに花がさしてあるところがあり、そこだけで五本か十本ぐらいあるんですね。そこは、本当の震度七地帯で、多くの方が亡くなったところです。とても写真なんか撮れなかったですけど、そういう地域が下のほうにありました。
 それで、人間の想像力なんか知れてるんやなと思いました。団地から阪急六甲まで行って、夕方になってようやくJRの辺りに行って、そういう姿を見たのです。それからJRの架橋を見て一番びっくりしたのですけども、普通なら七、八メートル上にある架橋が、もう手が届くようなところまでズレているという、そういうのを見て力が抜けました。そういうことを覚えています。ですから、人間の想像力というのは、体験というものをなかなか超えられないのだなということを思いました。
 学生センターはひびは入ってましたですけど、使うことはできました。韓国人の留学生がフロント業務でアルバイトをしてたんですが、彼が一番先に逃げてきて、学生センターの最初の避難者みたいになっていました。
 呆然としますわね。何をしたらいいかわからないんです。彼が言うには、日本人の大学生がお金持ちだとは言わないけれども、留学生はお金がない、何とかしたい。それで、しばらくして落ち着いたら、コンビニかどこかに携帯のコンロを買いに行ったんちゃいますかね。当時やったら五、六千円ですね。ですけど、そういうのもきつい留学生もおるかもわからない。だから、生活一時金を何とかしてつくろうということで、一人三万円の生活一時金、まさに一時金ですけど、そういうのを渡そうということを言い出した留学生がいたのです。それなら準備をしようかという話になりました。
 今の新しい学生センターは宿泊施設はありませんけど、当時は宿泊施設がありましたから、避難所としては抜群でした。普通の避難所に行くよりは絶対いいんです。何人かの被災者が入っている部屋以外は、留学生の専門の避難所にしました。それで、いろんな口コミで人が集まってきました。当時、留学生が特別に小学校の避難所でいじめられたということはなかったようですけれども、来ていた人の話を聞いたら、「はっ」と思うようなことがありました。たとえば、ある中国人の留学生ですけど、夫のほうは日本語がけっこうできて、妻と子どもは日本語ができなくて、避難所におったと言うんですね。それで学生センターが留学生専用の避難所をオープンしたというので、家族で引っ越してきたんですけど、何て言うのかと思ったら、避難所で弁当を何時にどこで配りますとか、そういうアナウンスがあり、夫がおったらわかるけども、本人たちはそれがわからなかった。そういう不安があったと言うんですね。それで、学生センターに来たら、みんな中国語と韓国語の世界ですから、「安心した」と言ってました。大事件のときは、そういうのは特に大事なんでしょうね。
 変わったとこで言えば、神戸大の留学生で、関西に一人しかいない国の人がいて、あるとき電話がかかってきました。もう恐いので関東に移りますと。それで何月何日の何時から何時まで、マンションを開けていますので、他の留学生に連絡をとって、どうぞあるものは使ってくださいというようなことを言ったりしておりました。ですから、やはりそういう追い込まれたときには、同郷というのか、仲間が必要なんだろうと思います。
 学生センターとしては、生活一時金を集めて渡す。あるいは避難所として運営する。それで、限りがありますから、次の、今で言ったら二次避難所ですかね、そういうボランティアの提供しているところを探すとか、そんなことを考えました。
 そのときも、これは韓国人の留学生ですけれども、長田から学生センターに逃げてきました。当時交通が遮断していましたから、神戸大の留学生には尼崎なんかでも遠いんですね。近くの下宿がほしかったんですね。それで、近くの人で、そういうボランティアの人を探して、Aさんをテレビ局と一緒に、そこの家に行って生活してもらおうということで、そういうのを募集しているんだ、というテレビのニュースを流してもらったんです。でも、すぐに帰ってきたんですね。良くしてくれたけども、そういうときは同じ仲間と学生センターでしゃべっていたほうがいいんだ、しゃべりたかったというので、家族の人には悪かったというようなことを言うんですけれども、そういうことがあったりしました。
 また当時、京都の障がい者支援グループの関係で、最初、神戸雲内教会に拠点を置いて、お風呂サービス、障がい者入浴サービスをする人々がありました。後に、そのグループが学生センターに移ってきました。最初、仲本幸哉牧師のおられた神戸雲内教会にいて、平田義という人が中心で、学生センターに拠点を置いて、車を調達したりして、そういうサービスをしたりしてました。
 当時、それなりにみんな元気に暮らしておったというところがあると思います。学生センターに水が来たのが二月四日、ガスが来たのがそれから三週間ぐらい遅れましたですれけども、学生センターは重油ボイラーでしたから、水さえ来たら入ることができました。二月四日、五日から、近所の人と避難している留学生に利用してもらうというようなこともありました。
 人間、けっこう風呂に入らんでももつんですね。わたしは一月一七日に地震に遭って、入ったのが二月五日ですね。学生センターの風呂ができて、おもしろかったのは、それまで平気でおったのが、脱衣所に入った瞬間、なんかもう耐えられなくなって、お風呂に飛び込んだ経験があります。
 いずれにしても助け合いながら生活しておりました。給水車が来たら、泊まっている留学生とみんなで、トイレを一斉に掃除して、給水車に走ったり、そんなことがありました。
 あるときテレビを見ていたら、今はありませんけど、ニュースステーションで、学生センターの口座番号が載ったんですよ。何かなと思ったら、被災者に三万円ずつを渡しているということが紹介されて、「おっ」と思って、びっくりしたことがあります。三万円送ってくる人が多かったんですよ。別に学生センターを知らない人たちですよ。三万円ずつ送ってくる人もおったし、中には三〇万円送ってくる人もいた。一〇人分でしょうね。そういうふうな助け合い精神というんでしょうかね、そういうものがあったと思います。
 地震は自然現象ですから、いろいろなことが起きますけど、外国人だから困ったということも、先ほどの避難所の話のように、それなりにあったんですよね。当時、神戸NGO協議会というのがあって、草地賢一さんが代表をしておられたんですけど、その辺が中心になって、被災地NGO連絡会議というのを作って、ボランティアの調整とかをしてたんですね。そこのメンバーで外国人関係のことをしようということで、外国人支援グループが集まって、そのグループが今も継続しています。
 それで、ひどいことがあったんですよ。いくつかあったんでしょうけど。一つは、義援金というのがありまして、日赤が配った義援金が当時、第一次が一五万円ぐらいでしたですかね。あのとき義援金を受けとるのに住民票はいらなかったでしょ。「どこそこに住んでいる」と言ったらもらえたんですよね。それで、留学生ももちろんもらったんですけども、当時の外国人登録をしていない人はもらえないとかいうことになったわけですね。
 区役所で断られて、日赤へ回されたんですね。そしたら日赤へ回ったそういう外国人から、「お金をくれない」と、そういう訴えがあったんですよ。ですから、おそらく市役所、区役所の窓口は、「はい、あなた誰それさんと住んでました」ということでお金を渡したんです。日赤は、住んでいたと言ったら「契約書を持ってきなさい」とか、かなりひどいことを言うたんですよ。そのときに、私たちは日赤へ行って、それはおかしいでしょうと言ったら、日赤のほうは、そうですね、ということで渡すことになりました。わりと前哨戦としては、うまいこといったというふうに思います。
 あと、弔慰金というのはご存知でしょうかね。弔慰金というのは、世帯主が死んだら五〇〇万円もらえる。そうでなかったら二五〇万円もらえるんですね。けれども、もらえなかったという情報が四件、五件と入ってきたんですね。
 弔慰金というのは、本人が死んでますから、受けとる人さえいたら、親戚さえいたら出すべきものなんですけど、出さなかったんですね。それで、支援グループに入ってきたのは、一人はペルー人で、地震の二日ほど前にビザが切れていてオーバーステイだったという人。YMCA日本語学校におった韓国人留学生。それから中国人と、あともう一人。四人ほど連絡が入ったんですよ。
 留学生の場合は、年末に韓国で結婚されて、それで夫のほうが先に日本に来て、妻が地震の二日前に来られたんです。もちろん観光ビザの短期滞在で来られたのですが、夫は助かったんですけど、妻は亡くなってしまうんです。それで、弔慰金が出ないというんですよ。それは短期ビザだから、出ないというんですよ。ですから、短期ビザ、オーバーステイ等で、出ないという人がいて、それで外国人支援グループは、亡くなったことが確認できて、受取人がいたらいいはずではないか、ということで交渉しました。厚生省に行ったりもしたんですよ。これはダメやったんですよ、最後まで。
 ですから、韓国人の生き残った留学生には、民間弔慰金と称して、我々が、二五〇万円とか五〇〇万円とかには足りませんでしたが、一〇〇万円を渡しました。元日本語学校の学生の中国人。オーバーステイですね。その人は、トアロードの中国料理店で働いていました。おじさんに一〇〇万円をわたしました。ペルーの人は、カトリックのルートで、もう遺族が帰られてましたからお送りしたりですね、そんなことをやりました。ですから、我々は日赤には勝って、弔慰金には負けたとか言ったりしていたことがありました。
 もう一つは、医療費ですよ。皆さん、当時お医者さんに行きましたかね。わたしも震災後オートバイに乗っておって、目が痛くなって、眼医者さんへ行ったら、お金は無料やったんですよ。そのとき二割三割の負担もいらん時期があったんですかね。そういうこともありました。ですけども、クラッシュ症候群って知ってますかね。地震のときよく言われましたけど、瓦礫に埋まって、二時間か三時間そのままの状態であれば人間の筋肉が防衛反応を起して、毒のようなものを出します。その後人工透析をある時間の間にスタートしたら助かるが、しなかったら死んでしまう。そういうのをクラッシュ症候群と言うんですね。わたしも、そのとき初めて知りましたですけど。それで亡くなった日本人も、亡くなった外国人もおりました。それで助かった外国人が、治療の途中で病院を追い出されるとか、そんなことがあったんですよ。あれだけの大事件、大震災のあとの治療費ですから、私の眼医者の場合にお金がただになったように、問題ないと思ったんですけど、これはなかなか出さなかったんですね。
 クラッシュ症候群で一週間ほど入院すると、二〇〇万円ぐらいかかるんですかね。当時は無料なんですけれども、保険を持っていない外国人は、二〇〇万円そのまま請求されたというんですね。誰が考えてもひどいですよね。それでも、それはその病院が二〇〇万円を回収できなかったということで、ほうっておいたらいいと思いました。しかし、妻がクラッシュ症候群で助かって入院中、夫のほうは、同じように保険がないから、週一回病院に行ったら四万円ぐらいかかるのでつらいとかいう、そういう話もあったんですよ。
 それのほうが問題でしょ。それで我々はお金は三万円でも五万円でも、外国人救援ネットで渡しますから、病院へ行って領収証をもらってきてください。その領収証を我々最後に回収して行政に払わせますからという対応をしたんです。「治療費肩代わり基金」というふうに、ちょっと仰々しい題をつけたんですけどね。そういうこともありました。それもあかんかったんですよ。最終的に県のほうは、まあ仕方がないだろうということで、いろいろな県の救済施策の順番を上げて、病院の未収金とか、そういうものを補填しました。けっこう引き分け的な状態で終わったという記憶があります。これ、おかしいでしょ。人間、死にそうなときに病院へ行って、治療されないという。けっこう根本的な問題なんですよ。それが地震のときにも起ってしまったんですよね。
実は、地震の五年ぐらい前、これも草地賢一さんが出てきますけれども、神戸でゴドウィン裁判というのがありました。
 スリランカ人留学生がくも膜下出血になりました。彼はYWCAの日本語学院に行っておったんですけど、命はとりとめて退院したんですね。最後はどうしたかというと、生活保護の治療費で支払ったんでね。たかが一六〇万円ですよ。それで、万々歳やったんですけども、ちょうどその一九九〇年ごろというのは、ニューカマーというか、日系のペルー人とかブラジル人が多く来だした時期なんです。それで日本の法務省はちょっと考えを変えたんですね。永住、定住とか、そういう人に最終的に生活保護を与えて、治療費をみるというのはいいけれども、宣教師であるとか留学生であるとか、それなりの用事をもって、ビザをもって日本に来る人は、そういう生活保護を適用してはいけないというふうに、方針転換をしたんですね。それでゴドウィンさんは引っかかってしまったんですよ。ちょっとえらいことでした。
 詳しい経過は省きますけども、草地賢一さんと藤原一二三さん、YWCAの寺内真子さん、矯風会の竹本睦子さんと、わたしが住民監査請求をして、生活保護適用は正しいと。一六〇万円の一部を国が払って、一部を神戸市が払うんですけれども、国が払わないというのはおかしい。神戸市がその部分を払っているのはおかしいということで、住民監査請求をしました。ダメだと言われて、本裁判をするという、そんなことがありました。
 それはもう随分前の事件ですけれども、外国人を支援しているグループの間では、けっこう深刻な問題だったんですよ。それまでは大変な病気になったときは、最後は生活保護で治療費をまかなっていたんですよ。ですから、当時エンターテイナーで仙台かなんかで入院して、集中治療室に入り続けていた人がおるんですね。それで救ってたんですよ。厚生省はそういうことも知ってるんですけども、ゴドウィンに関してはダメだと、こういうふうに言い始めたんですね。それで我々はその五人で裁判をするということになりました。
 その裁判は負けたんですね。ですから、その裁判に勝ってたら、地震のときにこんな問題は起こらない。地震のときに外国人在留資格などで分けて、この外国人は治療費を出しませんとか、そんなことは起こらないんですけども、起こってしまったんですね。ゴドウィン裁判の経験があるので、地震のときは理屈を考えないとしようがないということで、災害救助法を利用しました。
 わたしの眼医者さんのお金がただになったのもそれですよ。災害救助法でただになるんですよ。でも最後のほうに厚生省は、野戦病院のような、カルテも書けないものは無料だけれども、入院治療というか、病院に移ったら一〇〇%を保険がなかったら請求するんだと、そんなことを言うようになったんですよ。ですから我々は、災害救助法がある。災害救助法というのは、避難所は七日間運営する、一日四五〇円からご飯を提供する、行方不明の捜索は三日間する、そういうのが災害救助法に書いてあるんですよね。行方不明の捜索、三日以上するでしょ。三日間で行方不明の捜索をやめたらえらいことですから、三日ごとに県知事が国へ延長申請するんですよ。それで、一週間の避難所運営も一週間ごとに国へ延長申請するんですよ。治療費は三週間と書いてあるんですよ。ですから、我々は三週間と書いてある治療費を延長してくれたらそれでいいんだという、そういう理屈でいろいろ県とやりとりしました。それから先ほどのNGO側からの「治療費肩代わり基金」についても、ちょっと県としては格好悪いというので、我々が記者発表する一日前に県はOKを出しますという、そういうことを言ったことがあります。
 我々自身も想像がつかなかったことですけれども、ああいう大震災のときに、そんなことが起こったということです。本当に大きな反省です。ですから我々は、たとえば、「小学校の避難所の七日間で終わりましたので、あとご飯は出しませんとか、そんなこと言えるか」と行政に言って、三週間の治療費も当然のように延長しなさいとかと言って、低次元と言えば低次元ですけれども、そんな話をしたこともあります。
 わたしはそういう弱者と言うんですか、そういう立場に置かれている人は、大事件、大震災が起ったときに、急に良くも悪くもならないと思いました。地震前に置かれている状況が、そのまま地震後に反映するんですよ。ですから、地震前の弱者が優遇されたりすることはないということですね。当たり前のことですけど。
 たとえば淡路の北部の瓦の地域の話とか、聞いておられますかね。あそこは立派な家があって、崩れたら瓦が重いですから、生き埋めになった人もおるんですよ。あの淡路の瓦地帯は、即死の人は仕方がなかったんですが、救出が遅れて死んだ人はいないんですよ。コミュニティがありますから、誰それさんがおる。誰それさんがどの部屋に寝ているとか、わかっているんですよね。ですから、目的意識的に救出しているんですよね。そういうコミュニティのありようが、救出率に反映してるんですよね。
 もう一つ聞いた話は、宝塚の山本地区なんかは、植木の町ですけども、各一軒に一個はトラックと重機があるっていうんですよね。ですから、あそこも女子高生がお一人即死したんですけど、それ以外の人は全部救出したと聞きました。目的意識的に、どの部屋に誰がおるかということでした。
 神戸の灘なんかは、全然それがないんですよ。声を出して、おったら助けるとか。声を出してもいないようだけれども、あそこに確かにおばあさんがおったような気もするけど、親戚が助けたのかなとか、そういうことですよ。
 ですから、コミュニティの位置付けというんですかね、それがそのまま、残念なことに反映したという、そういうことになってしまうんだというふうに思いました。
 今でこそ、ヘリコプターを止めるでしょ。神戸の地震のときはヘリコプターを止めなかったんです。ですから神戸の地震のあと、あれはひどいというので、一時間のうち何分か、一〇分かなんか止める時間を作ったんです。神戸の地震のときは止めなかったので、「誰それさん」と言っても、返事が聞こえにくく、待つことしかできなかったんです。
 外国人も同じだと思いましたですね。さっきゴドウィンさんの話もしましたけれども、日本は貧乏な国とは言えないんですけども、そういう社会で、ある種の在留資格の人、あるいは在留資格のない人が、緊急入院でもしたときに、いのちの保証はない。そういうことがあるというのが、地震のときに起こってしまうんだということが言えると思います。
 「備えあれば憂いなし」という言葉がありますが、備えがなかったんですよ。ですから、もともとそういう状況に置かれている人、コミュニティの中で、老人だけじゃないと思いますけども、障がい者も含めて、それぞれの状況がそれを生んでいるということだと思います。それは本当に肝に銘じておかなければいけないというふうに思います。
 聖書はけっこう長い箇所を読んでいただきましたですけど、よく知っている「善きサマリア人」の話です。わたしは子どものころ、神戸教会の石井伝道所、石井幼稚園のところに住んでいましたから、ずっとそこの教会学校に行って、耳にタコができるとは言いませんけどよく聞きました。
 今日その聖書の箇所を読んでいただいて思い出しましたけれども、説教の上手な人がいました。道の向こうに強盗に遭った人がおったら、こっちから歩いていったというふうに書いてありますけど、レビ人がこっちからあっちへ行ったとか、なんかあたかも見てきたかのように、そういう話をする先生がいました。そういう先生の話を今でもよく思い出したりします。
 この話は、まさにその通りなんですけど、韓国で一度ここのサマリア人の説教を聞いたんですね。僕は初めて韓国へ行ったときに、朴炯圭(パク・ヒョンギュ)さんという有名な牧師で、民主化運動でもよく知られた方がおられるんですけど、その牧師から聞いたお話です。この朴牧師は、サマリア人がその被害者に「誰ですか」というふうに聞いていないというんですよ。聖書に書いてないだけで、実際に聞いたかどうかわかりませんよ。それでも、その朴牧師が言うのは、「誰ですか」というふうに聞いてないと。これが大事なんだと言うんですよ。わたしは大変感動しました。
 我々、いろいろな人間関係があるわけですけども、けっこう、別に色眼鏡をかけなくても、いろんな先入観と言うんですか、ステレオタイプがありますけど、けっこう、「誰ですかと」いうのは、聞きたくなるじゃないですか。先ほど縷縷(るる)言うたような、ある種の外国人を排除するというのは、まさにこれじゃないですか。「誰ですか」というのね。そういうことだと思うんですよね。ですから、今はもうまさに多文化共生で、いろんなことが言われていますけど、まさに我々は、そういう、おそらくサマリア人がそうであったように、そういう人を見て、「あなたは誰ですか」ということを聞かない。そういうことが、一つの大きなポイントではないのかというようなことを思いました。
 説教のようになったのかどうかわかりませんが、私のお話を終わりたいと思います。
 皆さん、どうもありがとうございました。
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